悪夢から覚めて
次の刹那、扉のすぐ横にいたはずのチェイサーは眼前に現れ、強烈な拳を繰り出した。頬に拳がめり込んで始めて脳が反応し、その一瞬がスロー再生された。指関節の出っ張りが顎骨を捉え、頬骨との接続部分と歯に食い込んだ口内から痛みが生じる。
意識が追いついたときには視線をねじ切るようにして殴られていた。
「これは……本当は君を殴るべきエドワードの分だ。どうか両親のことを忘れないでくれ。君の母親は命と引き換えに君を産んだ。君の父親は命がけで君のために戦い続けた」
分かっている。そういう事実があったということは承知の上だ。確かにチェイサーの言うことは紛れもない事実だ。だがそもそもこんな凄惨な事態に陥っているのも両親とメイザスの所為ではないか。釈然としなかった。この考えは胸の奥底にしまうべきだろうか。
「……アイラは好きで命令に従ってるのか? その、俺の父さんが与えたとかいう命令に。アベンジャーが殺されたとき、彼女は…………いや、なんでもない。ごめん。忘れてくれ」
ジェイルは憂いげにアイラを一瞥した。彼女はよほど疲れていたのか、チェイサーの殴打によってベッドに響いた振動を受けても、起きる気配はなかった。
「正直僕としては彼女が命令に従おうとも従わないともどうでもいい。それはアイラが決めるべきことさ」
「…………」
ジェイルは次に発するべき言葉に困り、黙り込んだ。部屋から音が消えると、すぅすぅとアイラの小さな寝息が聞こえ、力が抜けてしまうような暖かな安心感がした。
それはチェイサーもだったのか、彼は呆れて長息すると、近くのテーブルに脚を組んで座った。
「……はぁ。それよりもだ。ジェイル、君が既に【硬化】を使えるようになっていたというのは驚きだったよ。正直『嫉妬』したね。けれど自分の身も守れないなら身勝手な行動は控えてくれ。最低でも自衛する力が必要だろう? だから次のステップだ。才能はあるんだから、二つや三つぐらい同時にやってくれよ? ……明日から」
本当に嫉妬しているのか、嫉妬の部分だけ節が掛かった口調で、大袈裟な身振りをして言った。
「今日からじゃ駄目なのか?」
「魔素は血に最も含まれている。魔素のない状態で魔術の練習をすると、魔素が欠乏した状態で慣れるから、普通の状態のときに行使しにくくなるんだ。諦めてくれ。ま、今日は無事だったことをアイラと祝えばいいんじゃないかな?」
いたずら好きの子供のような意地悪な微笑みに、嘲るような、からかうような口調。ジェイルがきつく睨むと、何がそんなに面白いのか、彼は大笑いして部屋を去ろうと扉に手をかける。だがそのまま廊下に行く直前、チェイサーはこちらに振り向いて、懐かしむように口を開いた。
「……両親に不満があるかもしれない。確かに事の原因は僕らかもしれない。…………その件に関してはどうか謝らせて欲しい。本当に申し訳なかった」
「……全部お見通しかよ」
彼は答えなかった。バタリと、部屋の戸が閉まる音だけが響いた。代わりに、チェイサーが去るのを待っていたかのようにアイラが不意に言葉を発した。
「……怖い。…………たすけて」
アイラはいまだ眠りに落ちていた。だがその助けを呼ぶ声は本物で、彼女は酷くうなされた様子で、痛みを堪えるように顔に力が篭っていた。目を強く閉じ、口元は震えていた。
「…………守る。……命令」
今にも空気と同化してしまいそうな、消え入りそうな少女の声。少女はさきほどまで安らかに寝ていたはずが、悪夢によって全身を緊張させ、ベッドのシーツをぎゅっと掴んだ。ただの悪夢ではない。彼女が発した言葉には明確な記憶がある。
――――アイラが身を挺してジャックの前に立ち塞がったときだ。切り裂くように胸が痛んだ。生まれて始めて、神に心の底から懺悔したいと思った。だが結局、誰が許したとしても自分自身が許せない。
なんて浅はかな行動だったのだろうか。格好つけて、返り討ちにあって、本心を見せない少女を怖がらせて、最低な奴だった。
「ごめん……。アイラも怖かったんだな」
気が紛れるようにと、いや、罪悪感を拭おうとして、ジェイルは彼女の頭を撫でた。白く柔らかな、それでいて艶やかな髪は冷たく、心地よい。
「…………ジェイル・シルヴァー。誰の許可があってワタシの髪を触っているのですか?」
一瞬前までのか弱い声が嘘みたいな、抑揚のない酷く冷めた声。アイラはぐるりと顔の向きを変えてこちらをジッと睨むと、僅かに鉄面皮を崩して、穏やかで達観したような微笑を浮かべた。
「あと5分……。あと5分でいつもの態度になれるので、それまでこのままでいてください」
いままで見たこともないような人懐っこい幼げな表情で、こちらが頭に乗せていた手を握り、撫でさせた。少女の手はひんやりとしていて熱っぽい手が冷やされる。
「お、おう…………」
罵られると思っていた。だが予想とはあまりにも掛け離れた言動と行動。それが無いにしても、ジェイルは面食らい、急ブレーキをかけたような動揺が、心臓を激しく脈打ちさせた。
だが、窓から冷気が伝わるように、彼女の冷たさはすぐに回って、頭は冷静になった。
……今、目にしている儚げな少女こそ本来の彼女の姿なのだろうか。事実は分からなかった。だがいつもの感情を堪えている彼女も、今の感情を堪えきれずに半ば衝動的になっていると思われる姿も、見ていてあまりよいものではない。
「……大丈夫なのか?」
「あと4分13秒、12秒……。大丈夫ではありません。正直な話を申しますと、寝るたびにワタシはこうなのです。ですがジェイル・シルヴァー、さきほどあなたは自責して、謝罪されましたね」
「聞いてたのか」
「聞こえない謝罪に意味はないでしょう? ……確かに今見た夢は切り裂きジャックに体をバラされ、人格というものを踏み躙られるような夢でした。ですが謝る必要は決してありません。過程が違うだけでこうなってしまう結果は変わりないのですから」
沈痛な言葉を漏らすと、少女の蒼い瞳がぼんやりと霞む。白い髪が亡霊のように揺れ、華奢な腕を撫でていた。
「……滑稽でしょう。あと2分30秒……27、26。せめてこの弱い間は、そのまま手を置いてくださると助かります。もうすぐ、落ち着くので」
断る理由はなかった。ジェイルは無言のままこくこくと頷き、アイラの頭に手を置いて、彼女が落ち着くまでを見守る。
……カチコチと、時計の針が動く音が鳴り続けた。窓を開ければ賑やかな音が入ってくるのだろうか。だが動くわけにも行かず、現状維持が続く。……長い2分半だった。
途中、耐え切れなくなって窓の外に意識をやると、アイラは手を握る力を強めて、引っ張ってきたのだ。その仕草は普段とは違い、か弱い少女そのもので、なんだか恥ずかしかった。
それでも彼女は時間が経過すると、目を閉じて大きく深呼吸をして、いつもの機械みたいに固い顔つきになってしまった。だが、ジェイルにはその表情は心なしかいままでのものより凛としているように見えた。
「……いつまで手を置いているのです。離しなさい」
さきほどまでとはまるで別人だった。アイラは冷眼を向けると、乱暴に手を払い立ち上がる。
「ジェイル・シルヴァー、あなたのことは依然として嫌いです。荒んだような瞳。初めて会ったときに至っては俺より不幸な奴がいるなら見てみたいとでも言いたげな、実に気に食わないものでした。行動も稚拙で短絡的。ですが礼は言いましょうか。……ありがとう」
アイラはどこか嬉々して文句を言い連ねた後、気まずそうに頬を掻きながら礼の言葉を言った。
いつもの様子に戻りきれたわけではないようだ。
「貶すか礼を言うかどっちかにしてくれよ。反応に困る」
「ならば、貶します。そのほうがあなたにとってありがたいでしょう」
「違いねえ。けどお礼の代わりにそうだな……本を持ってきてくれると助かる」
「それはパシリではありませんか? ワタシはあなたを守るよう命令されていますが、あなたの手足になるよう命令はされていません。要求を却下します」
アイラはスッと立ち上がり、いつもの様子で、こちらを見下ろすと、微笑を浮かべて部屋を出て行ってしまった。しかし一分ほどすると彼女は数冊の本を持って戻ってきてくれた。
「なんだよ。結局持って来てくれたのか?」
からかうように聞いてみると、アイラは台本でも読むかのように流暢に、長々と言葉を発した。
「チェイサーとメイドがあなたを安静にするようにと言っていたのを思い出しました。魔力欠乏の際は余計な活動をせず、大人しく食って寝ることです。そして過去、ジェイル・シルヴァーの発言の中に『監視しなければ隙を見て、一人で切り裂きジャックを倒しに行く』というものがありました。よってワタシはあなたを監視及び提示された要求を飲み込むことによって、あなたをこの部屋に拘束をし、余計なリスクを生み出さないことが、最も命令に基づいた行動だと判断したまでです。理解できましたでしょうか?」
聞いているとどことなくこそばゆい気分になり、ジェイルは窓の外に視線を逃がした。無視されることも多かったため、なんだか少し打ち解けたような気がした。
「……よく喋るようになったな」
「うるさい」
アイラは淡々と言葉を返し、数ある本のうち一冊をこちらに投げ渡した。
本のタイトルは『世界観測録』。




