劣等 002
バイト帰り。
田舎ながらの所々にある電灯を頼りに、薄暗い路地を歩いてきた。バイトが始まる際に降っていた雨も今は止んで、湿っぽい空気が咲夜の肌を包み込む。
だらり、と汗がにじむ。
しばらく歩くと、高級住宅街に入った。
咲夜の父は外国などにも進出している企業らしく家にいないことがほとんどだ。母は______いない。正確には、数年前、病気で亡くなってしまった。
母は、ピアニストで、咲夜にとってはとても大切な人だった。
高級住宅街の一つの一軒家に入る。そこには、『空知』と毛筆で力強く書かれたようなデザインをしている表札があった。
敷地を隔てる柵をあけて、玄関まで歩いていく。
じゃりじゃりっ、
歩くたびに砂利の音が、響く。
家の外と中を隔てるドアを引くと、そこには_______仁王立ちをしている、厳つい己の父が立っていた。
「え____」
「今何時だと思っているんだ!」
まず、最初に一発。
頬を殴られた。ばしり、とか、そんな可愛い音ではない。下手したら、バランスを崩して壁に飛ばされるくらいの勢いで、だ。
「高校生でありながら、こんな時間まで夜遊びとは、何事だ!美夜を少しは見習ったらどうだ!」
「あ、そう。」
怒号が咲夜の耳に入る。その怒号に対し、咲夜は冷たく、冷え冷えとした態度で父をあしらう。だが、本心は違う。
酷く、怒っていた。
何かあれば、筆頭として弟と比べる。己のコンプレックスを突かれるのはとても痛い。それは父も知っているはずだ。
父は浮気をしていた。
母が病気で苦しんでいるのに対し、あろう事かこの外道は女遊びをしていたのだ。
咲夜はそれを咎めた。だが、子供のいうことなど聞かず、仕舞いには三十分以上殴ったり、蹴ったりである。
それ以来、咲夜は父の言うことは無視している。
「あ、そうだと?咲夜、貴様はいつになったら親に逆らわないいい子になるのだ。」
父の声など無視して、玄関付近にある階段を上る。
父は声を荒げるだけで、ここまで追いかけてくる気はないようだ。
「美夜のように才能溢れていれば_____この落ちこぼれの存在で!」
父はそう吐いた。
咲夜は空気をすぅっ、と吸い込む。
そして、階段を上りきったところで叫ぶ。
「うるっせぇんだよ!クソ親父!カルシウム代わりに、ラブホでも行けよ!」
ぴたり、と声が止んだ。
「うるさいのはどっちだよ。」
咲夜の部屋の隣の部屋の扉から、咲夜の弟である美夜がこちらを見ていた。
勉強中に咲夜と父の騒ぎを聞いたのだろう、顔を出したところに偶然、咲夜が居たから文句の一つや二つを零す為に咲夜に話しかけたのだろう。
弟の眼鏡が暗がりの中、光っている。
「主席様のお勉強の時間を減らしてしまって、申し訳ないなぁ_____というか、美夜。眼鏡が暗い中光って、怖いんだけど。」
「そんなの僕が知るわけないでしょ。知能定数が低い兄さんに言われたくはないな。」
「お前は一生、机に噛り付いとけよ。勉強しか能がないやつが良く言うよ。」
「ブーメラン。兄さんは僕以上に使えないよね。能無し、落ちこぼれって、まさに兄さんのことを言うんだよね。知ってる。」
「お褒めの言葉ありがとう。」
互いが互いに嫌味を乗せた言葉のやり取りをしていた。
これがこの二人の通常運転である。
「それじゃ、君みたいな能無しに使う時間が勿体無いからさ。」
「俺も、お前みたいながり勉に時間を使うくらいなら、可愛い女の子をナンパするのに時間使うわ。」
同じタイミングでドアを閉めた。
空知美夜_____それが咲夜の弟の名前である。文武両道。時雨沢学園の中でも天才児と呼ばれるほどの実力を有する。両親、特に父から熱い加護を受けている、咲夜の自慢の弟であり、コンプレックスの原因である。
「はぁぁ・・・」
先程のやりとりを思い出して、自己嫌悪に陥るのはいつものことだ。美夜ならば、絶対に陥ることなどないのだろうに。
ベッドに体を預けるようにして、倒れこむ。
一方通行の嫌悪。それが咲夜と美夜の関係だった。
咲夜は昔から、弟を憎んでなどいなかった。父のことは憎んではいたが、それは外道だから仕方ないと、割り切っている。
だが、弟は小学生の高学年あたりから、自分の最大にして、一つの欠点として咲夜を嫌うようになった。
つまり、弟の嫌悪に対して咲夜はその嫌悪に付き合っているだけだ。
まさに一方通行の嫌悪。
咲夜は弟を家族として愛している。嫌っているのは、弟である美夜だけだ。
損するのは咲夜だけ。
自己嫌悪に陥るのも咲夜だけ。
愛しているのも咲夜だけ。
「いてっ!」
目に入れたコンタクトレンズが痛み出した。朝からつけたままなので、そろそろ外さなければいけない。
元々、咲夜も美夜も視力はいいとは言えない。だが、なぜ咲夜がコンタクトレンズで、美夜が眼鏡なのだろう。と中学時代に尋ねられたことがある。
その時は曖昧に言葉を濁したが、真実は美夜は恐らく『兄と一緒』というのは嫌がるだろう、と思ったからである。
咲夜はコンタクトレンズ、美夜は眼鏡。
双子である以上、容姿も瓜二つである。
『落ちこぼれ』と一緒の容姿、眼鏡。美夜の矜持が傷つく前に、咲夜は対処したに過ぎない。
「コンタクト外しに行くか。」
咲夜はその言葉を実行することにして、再び、己の部屋から出ることになる。
♂♀
コンタクトレンズを外しに一階に戻ったものの、父と弟と遭遇することなく、自分の部屋に戻った。
父が家にいないのは、なぜだ。と考えるが、少し前の父と自分のやりとりを思い出し、合致した。
「エロ親父が・・・」
咲夜は部屋に着いた瞬間、膝をついて、四つん這いになり、頭を垂れた。
見境もないあの父親が、なぜ、自分の父親であり、美夜の父親なのか。迷宮入りの謎である。
時間は午後十一時。
これから入浴をして、夕食などを摂れば、日が変わる十二時になるだろう。だが、先程、一階に下りたばかりである。同じ事をするのは非常に面倒である。
咲夜は仕方なく、ため息を吐いた。
「勉強・・・するか。」
咲夜の部屋の本棚には、漫画類が一切ない。あるのは、参考書だけである。年頃の如何わしい本などもここには存在しない。棚の上から下まで、参考書一色である。
努力を人に見られるのは恥ずべきことであり、まず、努力したことすら感じさせないのが、咲夜のスタンスである。
本棚から参考書を取り出し、大学ノートを机の上に開く。
椅子に腰掛けると、ペン立てから適当にシャープペンシルを選び、大学ノートに参考書の問題を解く。
その参考書は_____センター試験のために使う、どれも難しい問題ばかりである。高校二年生の咲夜はそれを。
すらすらと解いたのだ。
矛盾。
そう、咲夜は矛盾だらけである。勉強が出来ない____そんなの嘘だ。彼には美夜同等の実力がある。なのに、彼は学校生活において、地に這いずるような成績しか出していない。
劣等感、彼は確かに美夜に劣等感を抱いていた。でも、それは勉強が出来ないことに対してではない。それは、思うままに実力が発揮できる美夜に劣等感を抱いていたのだ。
テストになると、手が震えるのだ。頭が真っ白になるのだ。ただただ、怖いのだ。美夜より優れるのが怖いのだ。
酷く、混乱する頭で、実力を発揮できないのだ。
それが彼が能無しで、落ちこぼれと、罵られる原因なのだ。