34,ジェイド
34,ジェイド
しとしとと、啜り泣くような雨が降っている。
水面は静かに波立って、曇天の下、まるで嵐の前の静けさを思わせる。トパーズの空間隔離の魔法は、空中に光の通路を作り出した。雨も波も干渉出来ないその回廊は灯台の放つ光のように何処までも伸びている。ダイヤのように翼で宙に浮くのではなく、魔法によって空中を歩行するというのは不思議な感覚だった。
何時でも先頭を歩いて来たダイヤは、その方法が気に食わないかのように仏頂面で最後尾をだらだらと付いて行く。誰かに行先を決められていることが気に食わないのだろうと見当を付け、ルビィは微笑ましく思いながらトパーズと先を行く。
自分達が何処へ向かっているのかは知らない。トパーズだって目的は無く、ただ海を越える為の最短距離を造り上げているだけだ。
そもそも、この旅に目的は無かった。嘗てダイヤの続けた百五十年の孤独な旅は終わったのだ。彼を縛るものはもう何も無い。なら、自分達は今何をするべきなのだろうか。水中庭園に留まれば、サファイヤの侵攻は避けられないと旅立つことを決めたのはダイヤだ。それは一度は失った唯一の居場所であるガーネットを守る為だった。渡り鳥のように飛び立ち、唯一の居場所へ定期的に帰還する。これは謂わば逃亡だ。けれど、これまでのように逃げ続けるだけでなく、ダイヤは迎え撃つことも出来るようになった筈だ。
今、ダイヤは何を思うのだろう。後尾のダイヤへ視線を投げようとしたルビィは、トパーズの声に動きを止めた。
「これから、ある町へ行く」
これまでの飄々とした態度を消し去り、緊張した固い声でトパーズが言う。
「其処で、ダイヤに来て欲しい処がある」
ちらりと向けた視線の先、ダイヤは興味も無さそうに冷ややかに見遣った。
「どうせ、目的地も無い」
「そう言ってくれると思っていた」
その返答に満足したように、トパーズの歩調は解り易く早くなった。二人を置いて行きそうになる程の踊るような足取りに毒気を抜かれ、ルビィは苦笑交じりに立ち止まる。追い付いたダイヤに、ルビィは目を向けた。
「トパーズ、嬉しそうだね」
「そりゃそうさ。あいつの目的の第一歩だ」
ダイヤの言葉に、ルビィは違和感を覚えた。
「トパーズの目的って?」
問い掛けても、ダイヤは答えなかった。
やがて光の回廊は海を越え終着点に辿り付いた。到着した其処は青々とした美しい草原だった。晴天ならばどんな景色だったのだろうと想像を膨らませるルビィに構う事無く、トパーズもダイヤも淡々と歩き出す。
草生す平原、咲き誇る花々。曇天の下ではどんな景色も曇って見える。落胆しつつ後を追うルビィを、先行するダイヤが急かしていた。
草原を進んだ先、巨大な煉瓦造りの壁に囲まれた町が現れた。これがトパーズの目的地だろうかとルビィが見遣れば、彼は静かに首を振った。
「ここはフェナジンと呼ばれる人間の町だ。貿易が盛んで、魔族への偏見も無く共存している。そういう意味では、ルビィにとっての理想郷に最も近い町かも知れないな」
嫌味無く言ったトパーズは、此処で休憩を挟むつもりらしく真っ直ぐに向かって行った。
人間と魔族の共存――。ルビィの願いを、ダイヤは理想論だと切り捨てた。けれど、有り得ない未来ではないと否定はしなかった。
煉瓦のような強固な外壁は侵入者を阻もうと立ち塞がっている。この町が恐れている脅威とは何だろうか。ルビィは天高い外壁を見上げる。
「何の為の外壁なのかな。魔族と共存出来るなら、この町の人間の恐れるものは一体何?」
ダイヤが言った。
「思想、だろうな」
意味が解らず、ルビィは首を傾げる。けれど、そんなルビィを気にもせず二人は巨大な門扉へ向かう。
鋼鉄の扉は固く閉ざさているが、それは地響きと共に開かれた。
その先にあったのは、アリザリンの都を思わせる活気に満ちた街並みだった。犇めき合う人々の表情は明るい。そして、その人込みの中には異形の種族、魔族が平然と紛れていた。頭一つ分程も突出した異形の影は、街並みに溶け切っている。トパーズの言うルビィの理想郷。そうして視線を巡らせると、ダイヤが言った。
「何だ、これは」
訝しげなダイヤは、すぐさま口元に布を当てた。意味が解らず目を向けるルビィを庇うように前へ進み出ると、ダイヤが言った。
「何が理想郷だ。地獄絵図じゃないか」
ダイヤの言葉が理解出来ない。けれど、それに同調するようにトパーズが言う。
「以前来た時は、こんな状態ではなかったんだがな」
悔しげに言うトパーズと、不機嫌そうに眉間に皺を寄せるダイヤ。
活気に満ちた街並みを睨むその視線の鋭さにルビィは困惑する。人と魔族が共に生活する理想郷だ。トパーズの言う理想郷に嘘偽りは無い。そう思うのに、魔族のダイヤとトパーズには違うものが見えているようだった。
訝しげなルビィに気付いたダイヤが言った。
「お前、何が見えている?」
「……何って、」
「お前の目に何が見える?」
ルビィは視線を巡らせ、静かに答えた。
「賑わう街並みと、自然に溶け込む人間と魔族……」
その言葉に、ダイヤは溜息交じりに言った。
「幻想だ」
「どういうこと?」
「トパーズ、これも魔法か?」
トパーズが答える。
「いや。その気配は無い」
「なら、この状況は何だと言うんだ」
厳しい口調で追求ダイヤに、トパーズは困ったように眉を寄せた。
ルビィの耳には変わらぬ都の喧騒が届いている。けれど、魔族である彼等には違うものが聞こえているようだった。訝しげにルビィが見遣れば、ダイヤは口元を結び、静かに答えた。
「この町は廃墟だ。少なくとも、それが本質だ」
「そうは見えないよ。だって、其処此処に人と魔族が……」
ち、と舌打ち。ダイヤが言った。
「信じろとは言わないが、目に見えるものが全てではないぞ。強要はしないが、せめて口元は覆っておくといい」
ダイヤらしい物言いに、ルビィは素直に従った。
歩き出す二人をルビィは黙って追い掛ける。擦れ違う人を避けるルビィとは違い、二人はやはり其処には何も存在しないかのように一直線に進んで行く。ルビィは自分の視界を疑った。ダイヤの言葉の通り、この目に見えているものが幻想ならば、此処には何があるのだろうか。
進み行く二人はやがて、一つの住居の前で足を止める。有り触れた煉瓦造りの建物の一つ、玄関には瑞々しい植物が植木鉢に収まっている。それすらも幻想なのだろうか。ルビィはそっと手を伸ばすが、確かに其処には植物が存在している。少なくとも、ルビィはそう感じた。
ノックすらせず、トパーズは扉を押し開けた。簡素な室内に気配は無い。けれど、隅々まで掃除の行き届いたその部屋には確かに生活の匂いがする。竈は先程まで火が点いていたように温かく、光を取り入れた大きな窓は賑やかな街路を映し出している。これ等全てが幻想等と、ルビィには如何しても思えない。
トパーズが言った。
「ジェイド、いないのか?」
呼び掛けに応える者はいない。
周囲をぐるりと見回したダイヤが、ある一点を見詰めて言った。
「地下だ」
その視線の先は部屋の隅、何の変哲も無い板張りの床だった。
けれど、合点行ったようにトパーズが歩き出す。視線の先に辿り付くと、突然、トパーズの身体は床下に沈んだ。
目を疑うルビィの目には、下半身が床下に消えたトパーズがいる。けれど、ダイヤは何の疑問も無いように後を追う。ルビィだけが動けずに立ち止まったままだった。
ルビィに気付いたダイヤが眉を寄せる。
「何、突っ立ってんだ。其処にいたいなら、好きにしろ」
「何を言っているの? 其処には何も無いのに――」
その言葉に、ダイヤは何か気付いたように顔を上げた。視線は天上を見遣り、ルビィに向けられる。
「視覚に騙されているんだよ。仕方無ぇな」
ほら、とダイヤがルビィの手を取る。人間と変わらぬ血の通った温かい掌だった。
導くように手を引くダイヤは、迷いなくトパーズの元へ向かう。トパーズの姿は既に床下に消えていた。やがて、後を追うダイヤも床下へ沈んで行く。底無し沼を連想し、ルビィは手を引かれるまま身を固くした。けれど、踏み出した足は確かに床を叩いた。それは、階段だった。
視覚は相変わらず板張りの床を映している。けれど、触覚は固く冷たい階段を捉えていた。ちぐはぐな自分の感覚にルビィは混乱するが、ダイヤはぐいぐいと手を引いて歩いて行く。
床を越えた先には薄暗い階段があった。僅かな蝋燭の灯りが照らし出す空間は、嘗てダイヤの夢で見た魔王城の地下牢のようだった。
地上とは異なる冷気に肌が粟立つ。ルビィの手を引くダイヤの掌が微かに強張っていた。翼を持つダイヤにとって地下は相性が悪い上に、過去の惨劇を想起させる場所に他ならなかった。
トパーズの先導する階段を下った先には小部屋のような空間があった。草臥れた小さなベッドと、古びた木製のサイドテーブル。石造りの壁に囲まれた空間にあるのはそれだけだった。湿っぽいベッドは、僅かに盛り上がっている。
「……ジェイド?」
トパーズが問い掛けた先、ベッドの中で何者かが身じろぐ。煤けた布団の下から覗く春の新緑のような緑色の髪。魔族であろう何者かが顔を覗かせる。翡翠のような透き通る瞳が、此方を訝しげに見ていた。
一見すると、それは若い青年だった。胡乱な眼差しで此方を見遣るその様は、まるで何もかもに疲れ切ってしまっているようだ。
魔族の青年――ジェイドが応えた。
「久しぶりだな、トパーズ」
その顔を見て、トパーズが目を細める。
「こんな地下に引き籠って、何をしているんだ。この町の有様は何だ。一体、何があったんだ」
矢継ぎ早に詰問するトパーズに、ジェイドは皮肉そうに口角を釣り上げた。
「因果応報さ」
「何?」
「身の丈に合わない愚かな願いを抱いた結果が、この町の有様なのさ」
諦念を抱くジェイドに、トパーズは要領を得ないと尚も問い掛ける。
「どういうことだ。一から説明しろ」
やれやれというように、ジェイドが身を起こす。縒れた衣服から覗く肌には、大小様々な黒点が無数に存在していた。毒々しさすら感じるその様にルビィが思わず後ずさろうとするが、ダイヤがそれを許さない。口元に布を当てたまま、ダイヤが言った。
「病か」
その言葉が正解であるように、ジェイドが頷く。
「教えてやるよ。異種族の共生を願った憐れな魔族の末路を――」
ジェイドは語り始めた。




