33,栄枯盛衰
33,栄枯盛衰
ダイヤが生命の樹と呼ばれるこの場所を訪れたのは、凡そ百年前だった。その頃は、生命の樹の周囲は魔族の集落が広がっていた。
人間を餌として、奴隷として扱っていた訳ではなかった。当時は、其処にある食物が何処から収穫されていたのか等考えたこともなかった。目の前にある食物で腹を満たし、すぐに飛び去った。それが百年の間に滅び去り、人間の集落へと変化する等、誰が想像出来ただろう。
生命の樹は百年前と変わらず、天辺が見えない程に巨大だった。それは魔王城の鋼鉄な門扉にも似ていた。
大きく羽ばたき、生い茂る巨大な葉を見詰める。一枚一枚は掌程の大きさなのに、数え切れない程に存在している。夥しい葉が生物のように風に揺らいでいる。ダイヤは腰に差した剣を引き抜いた。月光に照らされた生命の樹は、不気味に思えた。
ダイヤは嘗て、砂嵐という自然災害と対峙した。魔族の思惑も人の事情も関係無しに呑み込むそれは恐ろしい力だった。もしも神というものが存在するのならば、それこそが神の力なのだろう。時代の流れも同様だ。逆らう者は呑み込まれ、消されて行く。
だが、ダイヤに怯えは無かった。引き下がるという選択肢が無い以上、立ち向かうしか無い。
「なあ、生命の樹。お前に意思はあるのか?」
答えを期待していなかったダイヤだが、何処からか声が聞こえた。
――私に話し掛けて来たのは、お前が初めてだ
異口同音に響くその声は、若い女のようで、無邪気な子どものようで、老人の嗄れ声のようだった。
ダイヤは羽ばたき、一定の距離を保ちながら言った。
「そりゃ、そうだろう。誰も生命の樹から返事があるとは思わない」
漣のように、葉が揺れる。ダイヤは目を細める。
「この島全体がお前の身体であり、捕食場だったんだな。見事だ」
善悪を問うことはない。生命の樹は、自身の為に他の生物を捕食しているだけだ。それはダイヤも人間も同じだった。
百年前と同じように通り過ぎるだけならば、干渉等しなかった。ダイヤは剣を構える。
「お前は一体どれ程の長い時を生きて来たんだ? 人間や魔族の繁栄をどんな目で見て来た?」
茂みが揺れる。笑っているようだと、ダイヤは思った。
――お前のような若造には見当も付かないだろうな。人間や魔族の繁栄等、興味も無い。ただ、熟した頃に捕食するだけだ
それが、この生命の樹の生命活動なのだろう。咎める余地も無い。けれど、ダイヤは引き下がる訳にはいかなかった。
「価値観はそれぞれだろうが、その遣り方は素晴らしいと思う。感動すら覚えるよ」
率直な賞賛を送り、ダイヤは続ける。
「頼みがある。……今、お前が地中に引き摺り込もうとしている人間を、解放してはくれないか? 大切な仲間なんだ」
きっと、今もルビィは闇に落ちようとしていて、トパーズは必死に食い止めているのだろう。
焦る気持ちを抑えながら、ダイヤは静かに問い掛ける。生命の樹がさざめいた。
――笑止。人間一人と言えど、例外は無い。貴様等も同じく私の栄養になるがいい
交渉は、決裂した。解り切っていたことだ。
ダイヤは目を伏せる。生命の樹は変わることなく、異口同音に叫び続けた。
――熟し過ぎた実は腐り落ちるのみだ。貴様も私の栄養にしてやろう!
その瞬間、風に揺れていた無数の枝が明確な意思を持ってダイヤへと突き進んだ。槍のように鋭い枝先は、ダイヤを貫こうと蠢く。だが、ゆるりと顔を上げたダイヤは身を翻し、白亜の翼で羽ばたきながらその切っ先は一刀両断に斬り落とされた。
その程度が痛手になるとは思えない。生命の樹は攻撃の手を休めることなく、ダイヤを貫く為に動き続ける。躱しながらダイヤは、巨大な幹へ突進して行く。急所が何処にあるとも思えない。けれど、枝葉を切り落とすだけでは何の意味も無い。
幹へ鋭い剣戟を浴びせたと同時に、ダイヤは羽ばたき距離を置く。幹に残った傷は周辺の樹皮に呑み込まれて行った。
「……お前、勘違いをしているよ」
ばさりと羽ばたけば、空気が僅かに揺れ動く。ダイヤは言った。
「植物は、次の芽を出す為に実を落とすんだ」
この島で繁栄した生き物は、全て生命の樹の掌の上で踊らされていたに過ぎない。けれど、彼等にも生活があり、幸せがあった。それが無価値だったなんて言われたくない。
それは嘗てのダイヤとガーネットだった。サファイヤの掌の上で踊らされていた百五十年に、意味が無かっただなんて言われたくはない。少なくとも、自分達にとっては価値があったのだ。苦しくて悲しくて、辛くて逃げ出したかったけれど、向かい続けた結果が今ならば、其処に意味が無いなんて誰が言えるだろう。
「腐り落ちる果実を、お前が搾取し養分へ替える。そして、何も無くなった土地へ噂を聞き付けた生物が集まり、繁栄する。……見事だ。だが、其処に繁栄した生物は、お前の栄養になる為に生きている訳では無いだろう」
ダイヤは言った。
「お前の遣り方は素晴らしい。否定するつもりは無いが、俺にも譲れないものがある。邪魔をするなら、俺はお前も斃して行く」
ざわざわと、枝葉が揺れ動く。不気味な静けさは、嵐の前触れだとダイヤも気付いていた。
声がした。
――ならば、抗って見せるといい!
その瞬間。それまでの攻撃が遊びであったかのように、目にも留まらぬ鋭い斬撃がダイヤを襲った。
瞬きすら許されないような鋭い攻撃を、ダイヤは紙一重で躱して行く。近付くことすら出来ないダイヤに勝算は無かった。けれど、手を拱いていても状況は何も変わらない。近付いたところで、何が変わる――?
防戦一方のダイヤを嘲笑うように葉が揺れる。人間も魔族も関係無く呑み込む自然災害にも等しい存在だ。
勝てるか如何かを自問自答する間も無い。打ち勝つ以外の選択肢は無い。此処で負けることは、死ぬことだ。世界は常に厳しく冷たい。
その時だった。ぽつりと、ダイヤの頬へ滴が落ちた。頭上は鉛色の雨雲が埋め尽くしている。
植物にとっては恵みの雨だ。防戦一方で、天は生命の樹に味方している。万事休すか、とダイヤが目を伏せたその瞬間、稲妻のように脳裏に一つの考えが過った。
時間は無い。これは賭けだった。
ダイヤは勢い良く羽ばたき、生命の樹から大きく距離を取った。それを逃亡と捉えた樹が嗤う。ダイヤは頭上の雨雲をじっと見詰めた。
出来るか如何か、考える余裕は無い。ダイヤは大きく羽ばたいた。両翼から生まれた強い風は気流となり、上空へと巻き起こる。竜巻ではない作為的な上昇気流だった。地上より巻き取られた気流は雨雲へ突き刺さる。
雨雲はむくむくと成長し、巨大な塔のように積み重なって行く。
雨雲は積雲となり、上昇気流によって積乱雲へと変わる。それこそが、ダイヤの狙いだった。
「剣戟は、お前に届かないだろう」
ダイヤの頬を、巨大な雨粒が打ち付ける。周囲は夜の闇に紛れ不気味に湿気を帯びていた。
休む間も無く羽ばたき続けるダイヤの意図に気付かぬまま、生命の樹は槍のように枝を走らせた。ダイヤは空中を転がるように躱し、尚も空へ気流を送り続ける。
「目には目を、歯には歯を、……自然災害には自然災害を」
積乱雲は、周囲へ低く唸り始めた。
ピシャン。耳を塞ぎたくなるような轟音が、ダイヤの耳に届いた。強烈な閃光と共にそれは落下する。稲妻だ。網膜を焼く強い光に、ダイヤは思わず目を背ける。
其処でダイヤの意図を読み取った生命の樹が声を荒げた。
――落雷如きで、私が焼かれると思うのか!
ダイヤは笑った。
「さあな。だが、これ以外、俺には攻撃手段が無い」
ごろごろと唸る積乱雲。雷は高所へと落ちる。周囲に生命の樹以外は存在しない。
確率は限りなく高かった。ただし、確証は何も無い。
唸り続ける雷雲は、周囲へと稲妻を走らせる。生命の樹は一刻も早くダイヤを殺そうと枝を突き伸ばして行く。積乱雲が発生した今、上昇気流を生み出す必要の無いダイヤは生命の樹の攻撃を躱すだけだ。
時間が無い。ダイヤが駆り立てられたその瞬間だった。
視界を白く染める程の閃光が、天上より走り抜けた。それは神の裁きであるように、生命の樹へ轟音と共に突き刺さった。
悲鳴を上げる間も無い。生命の樹は雷に打たれ、その幹を貫かれた。枝葉は濡れていたにも関わらず灯火のように発火した。
――馬鹿な、何故、燃える
生樹は燃えない。当たり前のことだった。
だが、徐々に炎に呑み込まれるその様が全ての答えだった。
「永く、生き過ぎたのさ」
生命の樹は強大な力を持っている。けれど、無限ではないだろう。魔族である以上、寿命も存在する。
幹が幾ら潤おうとも、枝葉の先にまで養分は回らない。
「栄枯盛衰というだろう。お前も、終わる時が来たのさ――」
炎に呑み込まれ、生命の樹はばきばきと音を立てて燃えて行く。それはまるで悲鳴のようで、呻き声のようだった。
枝葉が燃え落ちて行く。周囲は昼間のように照らされていた。ダイヤは、生命の樹が焼け落ちて行く様をじっと見詰めていた。
やがて、燃え尽きた生命の樹は豪雨に打たれ消火されて行く。雨と雷を落とし切った雲は消え、夜空は星空へと変わった。ダイヤは炭と化した生命の樹を一瞥し、窮地の二人の元へ舞い戻った。
ルビィは、生命の樹が焼け落ちたと同時に巻き付く根より解き放たれた。トパーズは地上の亀裂よりルビィを引き上げ、ぜいぜいと呼吸を繰り返す。其処へ、白亜の羽根を舞い落しながらダイヤが降り立った。
「……終わったのか」
「ああ」
トパーズの問いに、ダイヤは静かに答えた。
長い間、強靭な根に巻き付かれたルビィは気を失い、だらりと四肢を投げ出していた。ダイヤはほっと息を漏らす。トパーズは、炭と化した生命の樹を見遣り、言った。
「意図的に雷雲を発生させて、焼いたのか」
「ああ。それ以外に、斃す術は無かった」
トパーズは苦笑した。ダイヤの中に、逃亡の選択肢は始めから存在していなかった。
愚かだと思う。馬鹿らしいと思う。けれど、美しいと思う。トパーズは苦笑交じりに言った。
「これが日常じゃ、命が幾らあっても足りないな。毎日命懸けか?」
「当たり前だろう。それが、生きると言うことだ」
きっぱりと言うダイヤを瞠目しながらトパーズが見遣る。ダイヤが訝しげに言った。
「永く生きる間に、生きるという本当の姿を忘れてしまったか?」
揶揄するように言うダイヤに、トパーズは口を尖らせる。
ダイヤはルビィの隣で、倒れ込むように四肢を投げ出した。
「生命の樹も、呆気無いものだな。死ねば皆等しく土に還る」
「後悔しているのか?」
「後悔も何も、俺にはこれ以外の選択肢は無かった」
それでも、何かを悔いるようにダイヤが言った。
何と言葉を掛けるべきかとトパーズが逡巡する。その時、トパーズの目は奪われた。
「……おい、見ろよ、ダイヤ」
トパーズの視線の先をダイヤは追う。炭と化した大木に埋もれるように、活力に満ちた苗が芽吹いている――。
「そうか……」
力無く、ダイヤが言った。
「生命の樹か。偉大だな。――勝てそうも、無い」
腕で双眸を覆いながら、ごちるようにダイヤが呟いた。トパーズはそれを微笑みながら見ていた。




