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bird of passage. ー渡り鳥ー  作者: 宝積 佐知
⑼魔王城突入。奪還と代償。
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27,脱出


27,脱出







 酷い血の臭いだった。

 瘴気に耐性があっても、血の臭いに慣れることは無い。気休めのような蝋燭の灯は、百五十年前と同じ場所に点在している。頭で解っていても、まるで自分が過去に戻って来てしまったのではないかと錯覚してしまう。

 魔王城地下牢。地上からどれ程深い場所に位置しているのか、ダイヤは知らない。天空を羽ばたくことは出来ても、地中へ潜る術をダイヤは持たない。けれど、其処はダイヤの生まれた場所だった。そして、大きな転機を迎えるに当たって重要な場所でもあった。

 此処は、ダイヤが最後にあの頃のガーネットと逢った場所だった。

 翼を持たず無力だった当時の自分は、碌に抵抗も出来ず、闇の中に潜む得体の知れない触手に引き摺られるばかりだった。届かないガーネットを呼び手を伸ばすばかりだった。けれど、今はもう、違う。



「ガーネット」



 呼び掛ける先は、闇に沈んだ牢獄だった。強固な格子は、百五十年の時を経て尚、錆び付くことも無く存在している。

 嘗てこの中に閉じ込められた自分は、翼を手に入れ、自由になった。――けれど、其処には大きな代償があった。

 闇の中、僅かに身じろぐ黒い塊。血塗れ、瀕死。その足は立ち上がれるのか。その腕は弓を引けるのか。その目は前を見られるのか。そんなことは、如何だって良かった。ダイヤは、彼が生きてさえいればそれで良かった。



「ガーネット」



 そっと触れる格子は、氷のように冷たかった。黒い塊が身を起こす。

 掠れるような声が、微かにした。



「……ダイヤ?」



 闇の中、血のように紅い双眸が煌めいている。

 不思議そうに目を丸めるガーネットは、まるで嘗ての親友のようで、在りもしない幻想に縋りたくなってしまう。見っとも無く泣き叫んで縋り付きたい思いを寸でで堪え、ダイヤは完璧に笑って見せた。



「久しぶりだな」



 血塗れのガーネットと対峙するダイヤは、同胞である筈の魔族の返り血を全身に浴びている。生臭い姿でありながら、吐き出される言葉は自身が思う以上に穏やかだった。

 だが、ダイヤと対照的にガーネットは目を吊り上げ、今にも噛み付きそうに叫んだ。



「何故、此処に来た!」



 激昂し怒鳴り付けるガーネットは、重傷を負っていても尚、猛獣と呼ぶに相応しい獰猛さだった。

 それでも、ダイヤは微塵も臆することなく微笑んでいる。



「決まってるだろ。お前を、助けに来た」



 一言一句聞き間違うことの無いように、ダイヤははっきりと言った。呆気に取られたように、ガーネットが肩を落とす。



「何故……」



 信じられないものを見るような目で、ガーネットが問い掛ける。ダイヤは答えを探し、首を捻った。

 目の前にいるガーネットは、嘗て共に過ごした親友ではない。記憶を失くし、兄の命を受けて自分を捕えようとする魔王四将軍の一人だ。あの紅い瞳に映るのは親しみや慈しみではない。憎悪や敵意だ。――だけど、それでも。



「お前に、生きていて欲しいんだよ。お前が、大切だから」



 ガーネットが何時か記憶を取り戻すのではないかなんて、馬鹿な期待はしない。叶わなかった時に傷付くのは自分だ。

 親友はもう二度と戻らない。それでもいいと、ダイヤは択んだのだ。親友の存在ではなく、ガーネットの命を選択したのだ。

 訝しげに目を細めるガーネットに、ダイヤは苦笑する。どうせ、何も解らない。それでも良かった。



「行こうぜ、ガーネット」



 傍に掛けられた鍵を手に取り、扉を開ける。軋みながら開いた闇の出口を、ガーネットは茫然と見詰めている。



「こんなところに、何時までもいる必要は無いだろ」

「出る訳には、行かない」

「何故? サファイヤが怖いか」

「サファイヤ様を恐れない魔族等、存在しないだろう。大体、お前だって、右腕を切り落とされた癖に」



 其処まで言って、ガーネットは口を噤んだ。ダイヤは、その言葉を拾い上げ、驚愕に目を見開いた。

 右腕を切り落とされたのは、百五十年前だった。当時のことを、ガーネットが知っている筈が無い。――記憶が戻ってでもいない限り。



「ガーネット、お前、まさか」



 何時からだ。ダイヤは過去を振り返る。

 歓喜か、驚愕か。震える足取りのまま、ダイヤは扉を越え、ガーネットに肩を貸す。ばつが悪そうに目を逸らすガーネットを無理に立ち上がらせるが、その足元に作られた大きな血溜まりにダイヤは目を奪われる。暗闇で気付かなかったが、傍目に見る以上の重傷だ。すぐに手当てが必要だった。

 自力で立つこともままならないガーネットを背負い、ダイヤは歩き出す。



「……何時からだ」



 問い掛ければ、背中でガーネットが微かに笑ったようだった。



「お前が知る必要は無いな。まあ、一つ言うなら、トパーズのお蔭だ」

「トパーズ?」



 この地下牢へ向かう途中に出会った、魔王四将軍の一人。日輪のような金髪に、蕩けるような蜜色の瞳をした青年。

 傍目には武闘派に見えなかった。けれど、目に見えるものが全てではないと、ダイヤは知っている。

 不思議そうに問い掛けるダイヤに、ガーネットは息絶え絶えながら言った。



「何だ、忘れちまったのか? あいつの魔法は」



 その、瞬間だった。

 目の前が真っ白に塗り潰された。強烈な爆風に身体は壁に叩き付けられた。耳を劈く爆風に眩暈。立ち上がることどころか、何が起きたのかも解らない衝撃の中でダイヤは嘔吐しそうに咳き込んだ。

 強烈な爆発によってあの強固な格子は拉げ、熱風によって蝋燭は瞬時に溶けた。明暗の激しさに視界は真っ黒に塗り潰され、酷い耳鳴りに平衡感覚さえ失われ立つことも儘ならない。臓腑を焼くような激痛にダイヤが喘ぐ。けれど、その手は確かに親友の手を掴んでいた。



「ガーネット、」



 懐かしい掌は、長い戦乱で武器を振るって来た為か固くなっている。けれど、確かに温かい生きた掌だった。

 この手は、何が起きても離してはならない。掌に力を込めるダイヤの耳に、乾いた足音が届いた。

 かつん、かつん。着実に距離を縮めるその足音は急がれることなく、独自のリズムを刻んでいる。百五十年前、確かに聞いた足音だった。

 それが誰なのか、ダイヤは知っている。途端、全身が粟立った。突如現れた灯火に、闇が僅かに払われる。橙に照らされたのは、群青の髪と銀色の瞳を持つ美しい魔族だ。百五十年前から、何も変わらない。



「ダイヤ、逢いたかったよ」



 魔王の後継者、最有力候補。否、事実上、次期魔王。それがダイヤの腹違いの兄、サファイヤだった。

 この魔族は、何者なんだ。底知れぬ強大な力を感じ、ダイヤは思わず後ずさった。得体の知れない魔法という力も、百五十年の時を経て変わらない容姿も、自分への異常な執着も、何もかもが恐怖の対象でしかなかった。

 殺そうと思えばいつでも殺せたのに、奪おうと思えば何もかも奪えたのに、消そうと思えば何もかも消せたのに、愉悦の為に百五十年もの間泳がせ、長く続く戦乱すら興味を示さず自分を玩具にして来た。

 怖い。――純粋に、ダイヤは思った。それは守るべき対象であるガーネットに、無意識に縋る程の恐怖だった。



「やっと、帰って来たのか。待ち草臥れたぞ」

「違う。奪われたものを、取り返しに来たんだ」



 声を震わせながら、ダイヤがやっとのことで答える。背中に庇ったガーネットは壁に叩き付けられ意識を失ったのか、反応が無い。

 この地上深くで、翼が何の役に立つだろう。意識の無い重傷のガーネットを庇って、剣を振るえるだろうか。

 平静を装いながら、震えて立つことも儘ならないダイヤは問い掛ける。



「何で、ガーネットにこんな真似をした。お前の従順な部下だっただろう」

「従順だったよ、記憶が戻るまでは」



 三日月のように口角を釣り上げ、サファイヤが言った。



「百五十年前と同じだよ。お前の為に反抗し、結果敗れたんだ」



 想像はしていた。そうでなければ、ガーネットが此処にいる理由は無かった。

 右手に炎を浮かべながら、サファイヤが左手を構えた。その瞬間、灯った小さな光は弓矢のようにダイヤの右肩を鋭く射抜いた。

 悲鳴を上げる間も無かった。血液がぼたぼたと零れ落ちても、ダイヤはその場から動かない。肩を射抜かれても、その手は離さない。自分の為に貧乏籤を引いて来たガーネットが、これ以上傷付く必要なんて無い。



「ダイヤ。お前は俺の大切な大切な、愛玩動物なんだよ」



 うっとりと、サファイヤが言った。

 弟どころか、同胞とすら見ていない。それが当然のことであると疑わないサファイヤ。解り合えることは永遠にないと確信する。



「俺は誰のものにもならない!」



 叫んだと同時、サファイヤが陰湿な笑みを浮かべる。同時に放たれた光の矢は、ダイヤの左脛を撃ち抜いた。呻き声すら噛み殺し、ダイヤが蹲る。周囲に血液を飛び散らせ、ダイヤはサファイヤを睨んだ。

 美しい相貌であるにも関わらず、その笑みは常軌を逸して恐ろしく不気味だった。



「躾が足りないみたいだな。その死にぞこないを殺せば、多少は大人しくなるか?」



 サファイヤの掌は、ダイヤの奥、ガーネットを捉えている。上がらない右手はそのままに、左手を広げて庇おうとする。けれど、同時に気付く、サファイヤは、ダイヤを貫通させ、ガーネットを殺そうとしているのだ。

 何だ、この魔族は。何者なんだ。

 高い知能、高い技能。けれど、理性は何も無い。己の本能のままに行動している。彼を突き動かすのは闘争本能ではない。――苛烈な嗜虐性のみだ。



「止めろおおお!」



 悲鳴のような、ダイヤの声が地下に響き渡った。

 翳された掌から放たれたのは、目が眩むような光だった。網膜すら焼き尽くすような光にダイヤは思わず目を閉ざす。例えこの場所で死んでも、ガーネットの手だけは離さないと誓った。

 爆音――。

 爆風が周囲を吹き飛ばし、強烈な熱気が物質を溶解させる。身を丸めたダイヤは、自分の身体が無事であることに気付いた。



「何だ、お前」



 訝しげなサファイヤの声に、ダイヤはそっと瞼を上げた。白く霞む視界に、太陽のような金色が映った。

 地下に太陽がある筈が無かった。闇に慣れた目に映るのは、先程擦れ違った敵の筈の、魔族だった。



「お前」



 サファイヤの魔法を受けて無傷でいられる筈も無く、美しかったその出で立ちは見る影も無い。一瞬にして崩れたぼさぼさの金髪は、それでも尚美しかった。ダイヤは、その魔族の名を呼んだ。



「トパーズ?」



 ダイヤは、彼を知らない。

 けれど、彼は知っているようだった。トパーズは苦痛に顔を歪ませ、言った。



「何を、諦めてやがる。此処まで来て引き下がったら、この百五十年全てが無駄だろうが!」



 振り絞るように叫んだトパーズの真意は解らない。だが、ダイヤはその言葉に身体に力が戻るのを感じた。

 右腕は上がらない。左足は動かない。けれど、大丈夫。この背中には、翼がある。大空を羽ばたく為でも、此処から逃げ出す為でもなく、友達を救う為に得たダイヤだけの力だった。



「諦めてなんか、ねーよ!」



 ばさりと広げられた白亜の翼は、まるでそれ自体が光源であるかのように輝いて見えた。眩しげに目を細めるサファイヤの口元は恍惚に釣り上がっている。けれど、ダイヤには興味も無いことだった。

 動かないガーネットを左腕に抱え直し、ダイヤが大きく羽ばたいた。それはサファイヤの巻き起こした爆風を打ち消す程の気流を生み出し、腐った空気を一掃する。

 闇に舞う羽根は光を反射し輝いている。ダイヤの身体は僅かに浮かび上がっていた。



「お前、敵じゃないんだな」

「この状況で、敵に見えるのかよ」

「それもそうか」



 ダイヤは、そっと笑った。左脇に抱えたガーネットは動かない。出血が激しい。早く、速く。



「この場を、任せていいか?」

「断ったら、代わってくれるのかよ」

「それでもいい。お前がガーネットを守ってくれるなら」



 はっきりと答えたダイヤへ、トパーズは信じられないものを見るような目を向ける。

 何だ、こいつは。サファイヤとは異なる得体の知れないものに、トパーズはぞっとした。腹違いとはいえ、魔王の実子だ。理解出来るものではない。

 トパーズはダイヤに目も向けず、言った。



「お前が逃げる一瞬を、作ってやる。俺も逃げる必要があるからな、それ以上は無理だ」

「十分だ。一瞬あれば、何処へでも行ける」



 大きく羽ばたきながら、ダイヤはタイミングを計る。愉悦に笑みを浮かべるサファイヤに聞こえぬよう声を潜めながら、二人はその瞬間を待っている。

 ばさり、ばさり。

 ダイヤの羽ばたきが聞こえている。

 ゆらり、ゆらり。

 サファイヤの掌で炎が揺れる。

 ぽたり、ぽたり。

 ダイヤから、ガーネットから血液が滴り落ちる。



「――行くぞ!」



 サファイヤの向けられた掌から、光が溢れる。それが放射状に鋭く伸びると同時、トパーズの翳した手の前に、目に見えない壁が現れた。それはサファイヤの打ち放った光を跳ね返すことは出来ずとも、動きを止めるように壁へ呑み込む。

 一瞬、サファイヤが驚いたように目を見開いた。その一瞬を、針で突くようにダイヤは翔け抜けた。突風のようにダイヤはその脇を抜け、地上へ続く階段を翔け上がって行った。

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