1.門の先
かつて、私が“角あるもの”と呼ばれる種族だったころの記憶はほとんど残っていない。いや、覚えていないのではなく、“死の騎士”として変容させられた時にかの者──恐るべき“不死の王”に奪われ、消し去られたまま戻ってはきていないということだ。
私に唯一持つことを許されたのは、“古の月”という名前だけだった。だが、その名すら、かつての私の名前だったのかどうか、記憶は定かではない。
今の私はかの者の支配を逃れた“死の騎士”の集う黒炎騎士団の一員として、その義務を果たすための任務を受け、活動している。
……恐ろしい邪悪なるかの者の支配から逃れたとはいえ、私たちは皆すでに“死の騎士”として変容してしまった。“死の騎士”は、血と死と腐敗を糧に仮初の生を得たものだ。生ある者とは本質的に相容れない存在なのだ。
ゆえに、私たちは誰も故郷に戻ることは叶わなかった。
それに、かの者の支配下にいたとはいえ、一度は罪なき人々の生命をかの者の望むままに蹂躙した我々だ。かつての己の行いを償うこと、生命を踏みにじり穢すかの者と戦うことを誓い、再び彼らとともにあることをどうにか許された結果、我らの今がある。
──我らが長たる“暁の騎士”殿が、変容する前は人族の王の血縁であったことが幸いしたことも大きいのだろうが。
そして、その義務を遂行するためにも、私の帰る場所……唯一私のあるべき場所、黒炎城へ戻る道を模索しなければならない。
そう、私はどうやら城へ戻るための転移陣の失敗により、異なる次元宇宙に来てしまったようなのだ。私の知るものは何もなく、見かける植物も魔物も、生き物すらも異なるこの世界に。使われる魔法すらも私の知るものとは大きく異なっている。
私が現れたのは森の上空だった。城は大陸の上に浮遊しているから、目標地点の座標が狂ったのだろうかと一瞬だけ考え、しかしすぐに違うと首を振った。私が使う転移陣は魔術師の使うそれとは違い、融通の利くものではない。必ず城の転移ゲートへとつながるものとなっているはずだ。
では、城に何かあったのか?
それも考えにくい。城のゲートに何かあったのであれば、そもそも転移陣が発動しない。
ならば、私が転移陣を使った時に何かが失敗し、その結果どこかわからないこの場所へと繋がってしまったのだろう。あの時、私はかの者の下僕どもに囲まれ、苦戦を強いられていた中での陣の発動だったのだ。そうと考えることが自然だろう。
思えば、私の元の種族……“角持つもの”があの世界に現れたのも、似たような事故の結果だったのだ。
幸い、骨竜に騎乗している最中であったため落下は免れた。
しかし、ほっとする間も無く、ここへ来たのが私だけでなかったことに気づく。下に広がる森の中からバキバキと木々の倒れる音に混じり、覚えのある吠え声と、それに被って小さな悲鳴が聞こえたのだ。
目をやればそこには腐竜が1匹。私を追ってきたものか私の転移に巻き込まれたのか、どちらなのかは不明だが、どうやら居合わせてしまった不運な人族に今にも襲いかかろうとしているようだった。
幸い、私を囲んでいたすべての下僕どもが追いかけてきたのではなく、やつ1匹だけであったのは、僥倖だ。やつだけであれば、私の敵ではない。
……腐竜を片付け、振り返った先に蹲っていた人族は、まだ若い男だった。私に人族の年齢は測れないが、どことなく幼い印象から子供と言ってもよい歳かもしれないと感じる。
そして……私への怯えを必死に隠そうとする様子から、恐らく我々“死の騎士”のような者を目にするのは初めてなのだろうと予想はついた。
──どれほどまでに人々のために尽くそうと、彼らから我々に対する怯えを拭い去ることは決してできない。我々と彼らは相容れない者だから。
一抹の寂しさを感じはするが、これも私たちに課せられた業なのだ。
自嘲めいた笑みが浮かぶのを抑え、どこか休める場所を教えて欲しいと述べると、彼は頷いて自分についてくるようにと示した。
名を聞かれ、“古の月”と答えれば、「えん……えんし? シェン?」と繰り返そうとして失敗する。この名は彼にとって少々発音が難しいのだろうか。「シェンで構わない」と言い直すと、彼はまた頷いて「俺は、イーラ」と名乗りを返した。
案内されたのは、森の際に建つ小屋だった。狩小屋か何かに手を入れたような、小さな小屋だ。
「ここ、俺の家」
そう、彼が指差す小屋に人気はなく……。
「親はどうした?」
「……ずいぶん前に、戦に連れて行かれたっきりだ」
少し気落ちしたように俯く彼に、「そうか」とだけ返す。戦争だけは、どこの世界にも存在するらしい。
「返り血を落としたいのだが井戸はあるか? 小川でもよいのだが」
「裏にあるから、使ってくれ」
そう言われて裏に回ると確かに井戸があった。がちゃがちゃと音を立てて鎧を外し、水を使ってきれいに汚れを落としていく。
城に戻れないということは、魔法炉が使えないということだ。今ある武具が駄目になる前に、どうにかして自力で魔法炉を組まなければならない。幸い、この世界に魔力は十分存在するようだから、魔力の供給には困らないだろう。魔法炉さえできれば剣に付与する力も変えられるし、鎧の修繕ももっと楽にできるようになる。
最後に頭から水をかぶり、自分の汚れを落とした。乱暴に衣服の水を絞り、もう一度身に纏う。
「井戸をありがとう」
裏口を開けてイーラに声を掛けると、振り向いた彼は驚いたように目を丸くして、「風邪を引くぞ!」と声を荒げた。
「大丈夫だ。私は寒さを感じない」
「……え?」
「さっきお前に触れた時に気づかなかったか? 私に奪われるような体温はない」
ぽかんとするイーラの様子がおもしろくて思わず笑むと、彼ははっと気づいたように「でも、それじゃ見てるほうが寒いからさ」ともごもごと呟き、部屋の隅にあった箱を探ると乾いた衣服を取り出した。
「とりあえず、男物で悪いけど、これを貸すから、着替えろよ」
「そこまで世話になるのは、申し訳ない」
「いいよ。……親父のだから、どうせまだ帰ってこないし」
固辞しようとする私に、へらりと笑って彼が言う。それ以上断りの言葉を口にするのは悪い気がして、結局服を借りることにした。
小屋の片隅を借り、鞍袋から取り出した油を鎧に塗りながらこの世界のことを聞いたが、彼が知ることはあまり多くはなかった。
彼の住むこの国が、少し前から北に隣接する国と戦争を始めたこと、そのため、領主に父親が徴兵されてしまったこと、親に頼れなくなった彼はどうにか日雇いの仕事を探し、日銭を稼いで毎日を凌いでいることなどをぽつぽつと語った。
「お前の歳はいくつなのだ?」
「……12」
彼の語る様子からまだ成人前なのだろうとは思ったが、たったの12で独り立ちを強いられたのか、と唖然とした。
私の元の種族であれば、12はまだまだ親の庇護を必要とする歳だったはずだ。確か人族の成人する年齢も、もっと上だったような記憶がある。
「……お前にその気があるなら、私が何か生活の糧となるような技術を教えてやるが、どうする?」
ぱっと顔を上げる彼の様子に、思わず笑んでしまう。
「何でも、というわけにはいかないが……私は戦い以外にも魔法具や呪符の作り方を教えることができる。魔術師でなくとも作れるものに限るが……こちらの世界には魔術師はいるのか?」
「魔術師……? 魔法使いなら、大きな町に行けばいると思うけど、たぶん皆戦争に連れて行かれたんじゃないかな」
「なるほどな」
「……教えてくれるなら、戦い方がいい。弱くて、怯えてるのはもう嫌だ」
複雑な思いを抱えているような言葉に、また、ふっと笑みが漏れる。
「ならば、お前には剣を教えてやろう」
そう告げると、彼はたちまち目を輝かせ、ようやく笑顔になった。




