暗い土曜日
気分が重いときには、そのための確実な解決法が必ず一つ存在するらしい。
どこかでそれは私を暖かく迎える用意をしてくれていて、逆に言えば、それ以外の事をいくらやっても、気分が晴れる事は決してない。
私はかつてなく腹立たしい気持ちで、部屋の真ん中に鎮座していた。
携帯を触っても、雑誌を流し見ても、調子外れの鼻歌を口ずさんでも、まるで元気が出て来ない。とうとう携帯を壁に投げ付け、雑誌を引き裂いてしまったけれど、気分は塞いでいく一方だ。イライラするような細かいビートを刻みながら、カバンをひっ掴んで部屋を出た。今もしCTを撮ったら、私の胸は空っぽに違いない。
玄関の鍵を掛けていると、背後に肩をいからせた男が現れた。
「この前の恨み、晴らさせてもらうぜ!」
などと叫びながら釘バットを振り下ろしてくるので、
「うっさいわね!」
すかさずアッパーを浴びせた。
こいつの友人が肋骨を折ったのは、あろう事か私を雌犬呼ばわりしたからなのだ。自業自得にも程がある。私はその男を、友人と同様に殴り付けて叩きのめした。
……しかし、私の気分はどんどん悪くなっていく。奴の骨が傷むゴキッゴキッという鈍い音も、その度にひねり出されるヒイヒイという悲鳴も……至って攻撃的で爽快な行動とは裏腹に、私は内心ですっかり塞ぎ込んでいた。惰性で男の頭を何度も平手打ちするが、頭はまるですっきりしないし、気力も湧いてこない。空っぽの胸に、ドロドロした黒いガソリンを流し込まれているようなものだ。
気が付くと私の周りには、事態を聞き付けて来たらしい男共がずらりと並んでいた。
やれやれ。これでは散歩にも行けない。いや……こいつらごときに、私の土曜日を邪魔されて堪るものか。
私は目の前の金髪を膝蹴り二発で沈めると、人気のない舗装路へ素早く走り出た。これ以上自宅の玄関前を血染めにすると、あとでまたそれを見ながら憂鬱になるに違いない。案の定、連中はまだ降参してくれそうにない。団子状になって追い掛けてくるので、私は仕方なく足を速めた。
この生活には、もう飽き飽きしていた。
……タツキがいた時には、こんな事なかったのに。
少なくともタツキは強かったし、大体の奴らに一目置かれていた。その分、人から媚びられる事に慣れていて、最初は私の事も単なる世話好きだと思ったらしい……だから、私が殴られたら倍返しにするような女だと身を持って知ったときには呆気にとられたという。だけど私は、翌朝からまた甲斐甲斐しく家事を再開した。殴られて黙っているつもりはなかったけれど、私はいつもタツキが大好きだった。
出会ったばかりの頃、タツキは憂鬱を減らす方法を喧嘩しか知らなくて、だから喧嘩では晴らせない苛立ちにいつも悩まされて、毎晩のようにバイクを飛ばしては人を襲って回っていた。私はそんなタツキを助けたくて、朝早くからタツキを叩き起こしては二人で出来る気晴らしを探した。
タツキに工務店のバイトがない日は、狭い部屋の汚れた机にジェンガを積み上げてひたすら盛り上がった。それに飽きると私がおやつを作って、タツキがそれを眺めていた。その間にときどき、タツキは穏やかな笑いを浮かべるようになった。タツキの笑顔はとろけるように優しくて、私はその度に嬉しくて、出会った頃と同じくらいドキドキさせられた。
そのうちタツキは憂鬱が晴れたのか、唐突に俺は一人前の大工になるんだと言いだして、工務店の見習いに精を出し始めた。見ていた私も久しぶりに働きたくなって、工務店の客のつてで事務所の雑用が出来ることになった。二人の稼ぎに少し余裕が出始めて、これはひょっとして本当に結婚できるんじゃないかって、私はこっそり考えていた。
可哀相なタツキ。
喧嘩はしなくなったけど面倒見はよくて、その夜は後輩の肩代わりをしてバイクの勝負に出掛けていった。危険な暗い山道を易々とこなして完勝したタツキは、明け方の大通りでバイク野郎よりずっとイカれたダンプカーに轢かれてあっけなく死んでしまった。
私が病院に着くと、初めて会ったタツキの両親が我を忘れて号泣していた。離婚してたらしいけど優しい人達で、私がタツキと珍しく一緒に料理した時の話を何度も頷きながら聞いていた。そうしているとタツキの従兄っていう人が子連れで現れて、タツキが小学生の頃クラスメイトのために中学生と喧嘩した話をしてまた皆で泣いて、すると今度は工務店の親父がやって来て、喧嘩に店の工具を持ち出そうとした後輩をタツキが殴り飛ばした話をしてまた泣いた。でも、真ん中で寝ているタツキは決して泣いても笑ってもくれなかった。
引っ越しも考えたけれど、思い出が消えるのが何より恐くて、私は一人っきりでまだあの部屋で暮らしている。仕事場の人もよくしてくれるし、タツキの家族も気にかけてくれている。
だけど……タツキは結局この街のトップで、私はその女だったらしい。
男共はタツキの後釜を狙ってなのか、次々に私の前に現れた。私はもうどこのチームにも族にも入るつもりは無かったし、恋だってしばらくしたくなかったし、ましてや「誰かの女」と呼ばれる境遇には一生戻りたくなかったから、片っ端から無礼者をはねつけた。私がほとんどの不良男を敵に回してから、どれくらいになるだろう。
私が好きだったのは、味方したかったのは、街で一番の男ではなくて笑顔が可愛いタツキだったのだという事を、奴らは決して理解しようとはしなかった。
小さな公園にたどり着いたとき、カバンの中にナイフが入っているのを思い出した。
ひょっとしたら威嚇ぐらいにはなるかもしれないと思って、その折り畳み式の小刀を取り出して構えて見せた。しかし案の定、ちょっとの威嚇にもなりそうにない……なにしろ相手の武器の中で一番小さいのが、包丁ほどあるバタフライナイフだ。
奴らは私を追い詰めたと思っているのか、退路を塞ぐように回り込みながら凶器をこちらに向けてくる。
「てこずらせやがって、このアマ」
「あいつの女だと思って手加減してやったら、調子に乗りやがって……」
歯の間から漏れるようなその声が、胸に溜まったガソリンに火をつけた。
ボス格の男がバールを振り上げるのと同時に、私はナイフ(これでも、肥後守なんていう立派な名前がついている)を強く握り、とりあえず怒鳴った。
「正当防衛!」
こいつらの相手をしたせいで罪に問われるなんて不条理にも程がある……もっとも、もし正当防衛以上のことをしても、奴らとその上にある暴力団のプライドが私を警察から守ってくれるだろう。
少々バールを持て余し気味のその男の脇へ、一息に飛び込んだ。ナイフの最初の一撃は突き技。確実に決まる一撃は、下手に切りかかるよりずっと深い衝撃になる。相手がボス格なら尚のことだ。
「うっ……」
男が漏らした本気の呻きは、見事に全員をたじろがせた。
しかし、私に許す気はさらさら無い。
全員が刺されたボスを見ている間に、私はすぐ隣にいたプラスチックハンマー男の顔面にパンチを入れた。骨にひびが入る感触があって、あっさりと目の前から男の顔が消える。一瞬あって男が地面に崩れ落ちるドサッという音がする頃には、私は背後の男が持つサバイバルナイフを避けて、右腕に切りつけていた。今度は血が飛び散る。
「ひあああああっ」
間の抜けた悲鳴が、場をさらに混乱させる。
自分の右腕を見て恐怖に駆られている男に、私は背後から飛びついた。首元に手を回して締め上げ、失神させる。力の方向を間違って肩を外してしまったのか、ボキッと派手な音がした。
血は無条件に人間を混乱させる。自分が怪我をしたわけでもないのに、臆病な男たちは吹き出る血に我を忘れていた。私はその中に突っ込んでいって、目に入る四肢を片っ端から切り裂いていく。右手が疲れると左手の拳技と蹴りに移って、男(少なくともそう見えるもの)がいなくなるまで続けた。
雨上がりの公園は元々湿っていて、踏み荒らされて更に水っぽくなっていた。そこに奴らの血でグズグズに汚れた体が倒れて、吐き気を催しそうな惨状が広がっている。
私はその上を容赦なく踏み越え、最初に突いたまま放置していたボス格の男の側に歩み寄った。先程から視界が妙にぼやけているようで、ガタガタ震えている男の顔にしか焦点が合わない。
「な、なあ、許してくれよぉ……もう関わんねえからよぉ……な?……」
男はかすれた声でそんな風に言ってくるが、
「うるさい」
私は男の額をスリップオンシューズで地面に叩き落した。
「ひいぃっ、痛えよぉ、……許してくれよぉ……」
それでも続けられる悲鳴が、足から這い登ってくるようで更に不快だ。ナイフを使う気にもなれず、そのまま男の体を踏みつける。何度も、何度も。
「うるさいっ、のよ……もうっ、放って、おいてよっ、もう……」
ガスッ。 ガスッ。 ガスッ。
そのうち悲鳴は止まり、私も疲れてしまったが、燃え尽きた胸はまた空っぽに戻ってしまった。しかも、あちこち焼け焦げて黒ずんでしまっている。煤がこびりついてしまったように息が詰まり、体が重くなる。足を上下させる一定の動作は徐々にペースを落とし、とうとう止まってしまう。荒い呼吸の音だけが耳の中でぼんやりと響く。視界は更にぼやけて、意識もどこか曖昧になる。
涙も出ない。
「……ひどい有様」
振り返ると、公園の入り口に女が立っていた。私より少々年上のようで、身なりはきっちりしているし、顔だって整っている。「正当防衛」で生じた凄惨な現場を、少々呆れたように見ている……しかし、怖がる様子もなく平然としている。
「……何」
どうにか女に焦点を定めようとするが、あまり上手くいかない。意識も、まるですっきりしない。惰性でナイフを片付けながら、私はかすれた声で言った。
女は息をついて、首をかしげた。
「あなた、何か別の気晴らしを見つけるべきね」
「……どういうつもり?」
こんなに気が立っているときに、一体何が出来るのだろう。私はそれでもその女を無視することが出来ず、突っ立ったままで聞いていた。女は微笑する。
「旅行、してみるのはどうかしら」
「……それ、冗談のつもり?」
「まさか。……そうね、一度くらいは、自分の中でも旅行してみれば?」
「……何、それ」
「難しいわよ? もう何も傷つけられないし、誰も助けてくれないから」
いつの間にか呼吸は落ち着き、私は微動だにせず女を見ていた。
「どうすれば、いいの?」
女はもう笑っていなかった。
「入り口まで案内してあげる」
私はコンクリートの廊下に座って、視力検査の順番を待っている。
静かにしなさいとあれだけ先生が吼えていたけれど、小学生が何もないのに黙って座ることなど永遠にない。男子はお決まりのゲームをして小さく盛り上がり、女子は何事かを耳打ちしあってはクスクス笑っている。
けれど私は話し相手もいない。ぼんやりと正面を向いて、膝をしっかり折って抱え込み、空想に興じている。
今この瞬間、空から円盤が降りてくる。運動場から聞こえてくる、ポートボールをしている上級生の声が、驚愕の悲鳴に変わる。それから……円盤からビームが出て、人を次々誘拐して……
いや、運動場に円盤が着陸して、妙な姿の宇宙人が降りてくる。大柄な体に、蛸のような手足がたくさん生えている。手当たりしだい人を捕まえながら、学校の中まで乗り込んでくるのだ。そして私のことも捕まえて、全員を……
保健室から友人が出てきて、私にピースした。列を詰めるために立ち上がりながら、私は自分がいかに下劣なことを考えていたのか気が付いた。
友人は私にくっついて歩きながら話し始める。
「この前の大会で準決勝止まりだったの、先輩があんたのせいだって言ってるよ。あのときの髪型もひどかったし……あ、あたしはそんな事思わないけどね? で、…………」
ぼんやりとそれを聞きながら保健室に入ると、浜辺だった。
砂地の中に岩の地面が盛り上がっている、整備もまるでされていない本物の海だ。黄色っぽい岩には夏の太陽が照りつけ、蒸した空気に塩気が混じってべっとりと重苦しいほどに暑い。
岩の上を歩いていた私は、急に足を滑らせて磯に落ちてしまった。派手な水しぶきがあがって、生暖かい海水が胸と腹を濡らす。
清楚なセーラー服を着た中学校のクラスメイトたちが、私を指差して大笑いしていた。ギャハハハハ、バッカみたい。私も自分でそう思うけれど、何故だか私は笑えない。分厚い海藻の切れ端が、ふくらはぎに絡みつく。
気がつくと、私は街で一番お洒落なカフェの前に立っていた。
つい最近オープンしたばかりの店だけれど、アンティークなイメージで外装は古いレンガ模様。表に吊り下げられた焦げ茶色の看板は、支えの針金まで美しいカーブになっていて、均等に並んだ窓からはフリルが何段にもなったレースカーテンが透けて見える。
時間があれば、一度タツキと行ってみたいと思っていた店だった。二人でサイフォンコーヒーを飲んで……タツキはブラックで、私はクリームを入れて。そして、評判のベリータルトを丸ごと頼んで、二人で食べる。イチゴにスグリ、ラズベリーにクランベリー。赤と紫の果物は、甘酸っぱくて優しい味に違いない。
カフェの小さな扉を開けると、重めのカウベルがカラン、と鳴った。店内は薄暗く、オレンジ色の洒落たライトがぽつぽつと吊り下げられている。
黒エプロンのウェイターが、軽やかな動きで奥へ行くように示す。壁全体が外側に向けて開いて、パラソルが並ぶテラスが現れる。
陽光が溢れて、丸いテーブルを輝かせて見せていた。テーブルクロスの可愛いフリルがはっきりとシルエットになっている。向かい合わせに置かれた椅子の左側にタツキが座って、パフェを食べていた。今日も、破れた服が痩せた体に似合っている。
「……タツキ?」
「遅かったな」
座る私を見ながら、タツキは笑いをこらえているようないつもの仏頂面を作ってみせた。
見ると、タツキが食べているパフェはなんとも奇妙なものだった。どこもかしこも真っ白で、他の色はまるでない。生クリームにサワークリーム、フローズンヨーグルトに薄荷細工……頂上に控えめに乗せられた洋梨の飾りが、ひどく黄色に見えるほどに白い。
「お前の分も注文してあるから」
タツキがクリームを口に入れながら言う。
そしてあっという間に、先程のウェイターが私のためのパフェをお盆に載せて現れた。よく見るとウェイターは白い仮面をつけている……しかし、次の瞬間には私のパフェに目を奪われていた。
こちらは見事に真っ黒だ。ビターチョコレートのクリームにファッジ。黒ゴマがたっぷりのアイスクリームに、ブラックベリーとカシスが飾られている。
「……赤いベリータルトが食べたかったんだけどな」
私が言うと、
「仕方ないだろ、俺は喪中なんだから」
タツキは肩をすくめて、にやにや笑っている。私はブラックベリーをつまんで口に放り込んだ。おいしい。
「……タツキ?」
パフェから顔を上げて話しかけると、タツキはフォークをくわえたまま首をかしげた。ほんの少し、その甘えた動作がいらつく。
「あたし、タツキが先にいなくなっちゃったせいで、すごく苦労してるんだよ?」
「そうなのか?」
「ヤンキーには付きまとわれるし、喧嘩にもなるし……」
「うーん……」
「結局それって、元タツキの女っていう肩書きがついた女が欲しいだけじゃん。それで、あたしがどれだけ苦労してるか……」
タツキは私の詰問調の言葉を、くわえたフォークを上下させながら聞いていたが、不意にじっと私を見た。それだけで鼓動が高まり、私の不平は引っ込んでしまうのだ。
「……俺が思うに、さ。どこのヤンキーでもチーマーでも、お前みたいにいい女がフリーになったら、普通に欲しがると思うぜ?」
「はっ?」
「俺がどうとか、そういうの関係なくさ」
諭されるようにそう言われて、私は次の言葉が思い浮かばない。ガラスの器から溢れそうなチョコソースを指ですくって舐め、私はタツキに向き直った。
「……ねえ。あたし、これからどうしたらいい?」
「どう、って?」
「ほんとはもう、喧嘩なんてしたくないの。普通に仕事して、普通に、楽しくしたいんだけど……どうしたらいいと思う?」
「それは、さ」
タツキはまた、微笑する。
「大丈夫。すぐに出来るよ」
「ほんとに?」
「俺が、ついててやるからさ」
タツキは私を真似るような仕草で、指についたサワークリームを舐めた。
「俺はいつもここにいるから。だからお前も大丈夫だよ」
「うん……」
「だから、ほら」
ふと気がつくと、私はパフェをすっかり食べてしまっていた。タツキの器にもあと一口分くらいしか残っていない。タツキはそれを丸ごとすくい上げると、私の前に突き出した。私は顔を伸ばして、真っ白いクリームを口に入れる。爽やかな香りが広がった。
タツキは、これ以上ないくらい優しく笑った。
「お前の喪中は、これで終わりな」
ふっと気がつくと、私はまだ公園に立っていた。
足元の惨状も元のままで、時間が経った様子もなければ、誰かが来た様子もない。
ただ、意識は妙なくらい明快で、視界も不思議に明るくなっていた。大きく息を吐いて、涙を拭うと、私は倒れた男の背中を踏みながら家路を急いだ。
とりあえず、服と体を洗うくらいの気力はありそうだ。
ハッピーエンドになってよかった……




