その3
森は突然に途切れ、ハンスたちは城の裏に出た。城は森を背にして建てられていたのだ。小さな門をくぐればそこはもう城内だ。
広い裏庭を横切り裏口から城に足を踏み入れたとたん、オオカミの首の毛が逆立った。
「どうしたんだい?」
「わからない」
石造りの城の淀んだ空気は彼を落ち着かなくさせた。だが彼は探しているものが近くにあるような気がしたので、不安を押し殺して城の中に入った。
王子はハンス達を豪華な来賓用の部屋に案内すると、女中達に命じて着替えを持ってこさせた。ハンスが町を見たがっていたので、町の者たちの普段着るような地味な服を選ばせたのに、女の服を着たハンスはそれでもどんな貴族の娘よりも魅力的に見えた。
オオカミを医師に預け、王子とハンスはおしのびで都見物に出かけた。新しいものを見るたびに興奮してはしゃぐハンスを王子は眩しそうに見つめた。
「都が気に入りましたか?」
「うん、凄いや」
「どうでしょう、これからここで私と一緒に暮らしませんか?」
「そうだな。オオカミに聞いてみるよ」
王子は言葉に深い意味を込めたつもりだったのに、ハンスには通じないようだった。
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午後遅く、ハンス達は城に戻った。ハンスは王子と仲良く笑い合いながらオオカミの待つ部屋に入ってくると、彼に話しかけた。
「オオカミ、楽しかったよ。足が治ったら一緒に都を見に行こうよ」
オオカミは不機嫌に、うう、と唸っただけだった。
「どうしたんだい?」
「傷が痛むのだ」
本当は傷ではなく別のところがきりきり傷んだ。でもオオカミにはそれがどこなのだか分からなかった。
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王子は怪我をしているオオカミを気遣って夕食をハンス達の部屋へと運ばせた。二人と一頭で食事を楽しんでいる最中、突然に扉が開き、王が入ってきた。
「エメリッヒが美しい娘さんをお招きしたと聞きご挨拶に参ったのだ。王子よ、そなたに女性の客人とは珍しいことじゃのう」
王の声は穏やかだったが、心のこもらぬ冷たい響きにハンスは身震いした。王はハンスに歩み寄ると彼女の身体を無遠慮に眺めまわした。
「なんと美しい姫君であろうか。王子よ。そなたにこのような宝玉がふさわしいとは思えぬのだが」
王子には王が言わんとしていることがわかった。ハンスが城に来てくれたのですっかり舞い上がってしまい、王が美しい彼女を見たらどうなるか考えもしなかったのだ。彼はハンスを城に連れてきたことを深く後悔した。
王はハンスに近付くと断りもなく彼女の腕をとった。王からは死んだ生き物のような不快な臭いがしたので、彼女は本能的に王の手を振り払った。
「父上、いけません。この方は私の客人です」
初めて父親に逆らった王子を、王は力任せに突き飛ばした。王子の身体は勢いよく宙を飛び、壁に強く打ち付けられた。それは人の力ではなかった。
力なく床に転がった王子には目もくれず、王は再びハンスに向かって手を伸ばす。ハンスは後ずさった。彼女に向けられた王の目には白目の部分がなかった。濁った黄色い眼球の中央に真っ黒い穴がぽっかりと穿たれているようだ。その奥の暗闇に吸い込まれてしまいそうな気がしてハンスの膝はがくがくと震えた。
その時、オオカミが唸り声を上げてハンスの前に飛び出した。
「下がれ。その子に触れるな」
初めてオオカミの存在に気付いた王は雄叫びを上げた。地獄の底から沸き上がって来るような不快な声にハンスは思わず耳を覆った。
王は一歩踏み込むと、人とは思えぬ速さで腰に下げた剣を抜き放った。だがオオカミの牙が一瞬早く王の喉を捕らえていた。王は甲高い悲鳴を上げて剣を投げ捨て、両手でオオカミの体を引き剥がそうとした。しかしがっしりと食い込んだオオカミの牙は離れようとしない。
人間ならばとっくに死んでいても不思議はなかった。だが王は苦痛の呻き声を上げながらも倒れようとはしない。やがて王の姿が崩れ出した。肌は泡立ちながら毒々しい赤い色へと変わり、膨れ上がる王の身体を包み切れなくなった衣装は裂けて、醜い巨体が剥き出しになった。王は再び雄叫びを上げ、二本の長い角を振り回した。
ハンスにはこの醜い生き物の正体がすぐに分かった。こいつは『森の魔物』だ。まさかこんなところに潜んでいただなんて。
鋭い牙から逃れようと魔物は長い鉤爪でオオカミを掻きむしった。オオカミの皮が裂け赤い血が流れる。それでもオオカミは魔物から離れようとはしなかった。
ハンスはこのままではオオカミが死んでしまうと思った。魔物が恐ろしくてたまらなかったけど、オオカミが死ぬのはもっと嫌だった。彼女は床に落ちていた剣を拾い上げ、魔物の腹に突き立てた。 だが魔物の腹の皮は硬く剣はなかなか刺さろうとしない。
ハンスは諦めずに満身の力を込めて剣を押し込んだ。やがて剣はゆっくりと化け物の腹の中に飲み込まれ始めた。魔物は耳が張り裂けんばかりの声をあげ、今度は鉤爪でハンスを引き裂こうとしたが、いつの間にか起き上がっていた王子が魔物を後ろから羽交い絞めにして彼女を助けてくれた。
力を使い果たした魔物はもはや王子を振り払うこともできなかった。魔物はオオカミを首にぶらさげたまま、ゆっくりと床にくずおれ、何度か痙攣して動かなくなった。
オオカミはようやく化け物からあごを離し、床にごろりと転がった。
「オオカミ、死なないで」
ハンスの呼び掛けにオオカミは答えなかった。引き裂かれた身体はぼろ布のようだ。ハンスはオオカミの身体を抱きしめて泣いた。ずっと一緒に暮らしてきた大好きなオオカミが死んでしまう。
「ハンス、お怪我はないですか?」
王子が心配そうに声をかけた。
「オオカミが死にそうなんだ」
泣きながらハンスは答えた。王子にはもうオオカミが息をしていないのが分かった。だが彼はハンスになんと告げればよいのか分からなかった。
その時、ハンスは涙で洗われた傷口の奥に何かが光っているのに気付いた。彼女はいきなり両手をオオカミの傷口につっこんだ。王子は驚いて止めようとしたけれど、ハンスはやめようとはしない。 彼女は両手でオオカミの皮を掴んで力いっぱい広げた。するとオオカミの皮がぺろりと剥げて中から裸の男が現れたのだ。
男の身体には傷一つない。引き締まった浅黒い身体と黒髪に縁取られた精悍な顔立ちはオオカミの面影を残していた。ハンスは意識のない男を獣の皮から引きずり出して床の上に横たえた。
「オオカミ、オオカミ、起きておくれよ」
でも男はぴくりとも動かない。金色の髪を乱し、涙を流して男にすがりつくハンスは美しかった。
「彼に口付けてごらんなさい」
王子は自分が失恋したことに気が付いたが、それでも人のよい彼はハンスにそう助言した。
口付けは大人の男女が納屋の裏でするものだと思っていたので、ハンスはためらった。でも王子に促されて男の唇に自分の唇を重ねると、彼はぱちりと目を開いた。
「ハンス、何をしている?」
そして身を起こして彼は自分がもうオオカミではないことに気付いた。それだけではない。オオカミは自分が何者なのか、どうしてオオカミの姿をしていたのかも思い出したのだった。
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オオカミはこの国の第一王子だった。エメリッヒの死んだと思われていた兄だったのだ。『森の魔物』が王に取り憑いた時、今よりもずいぶんと若かった王子がそれに気付いて退治しようとしたが、魔物の返り討ちに遭ってしまったのだった。
王子はまじないをかけた銀の鎖で守られていたので、魔物は彼の命を奪うことができなかった。仕方なく魔物は王子をオオカミの姿に変え山奥に捨てた。その昔、人間たちはやっきになってオオカミ共を滅ぼした。王子もすぐに害獣として人間に殺されるだろうと考えたのだ。
王の気まぐれに苦しんでいた国民は、兄王子の帰還を歓迎した。エメリッヒは失恋にもかかわらず兄との再会を喜び、また王座を継がなくてもよいことに安堵したのだった。
「俺は王様にならなくてはいけないらしい」
オオカミがハンスに言った。
「それじゃ、おいらはお妃様だな」
ハンスは答えた。
「でも、もうちょっとお前と旅がしたかったよ」
せっかくの旅があまりに早く終わってしまったので、ハンスはがっかりしていたのだ。
「心配はいらん。もう少し落ち着いたら二人で遠出をしよう」
ウサギ母さんに結婚の報告をしなくてはな。人間に戻った今、眩しいほどに輝いて見えるハンスの笑顔を横目にオオカミは思った。
- おわり -