その2
王子は大きな石に腰掛けて深くため息をついた。春を迎えた森には色とりどりの花が咲き誇っていたが彼の気持ちは沈んだままだった。
父王がおかしくなってもう何年にもなる。幸い彼が政治への興味を失ったので、国は大臣達がうまく治めてくれていた。だが王は、気に入ったものがあればそれが女であれ財宝であれ、強引に取り立てて自分の物にしてしまう。その上、気に食わない者はすぐに処刑するので、国民からは酷く恐れられていた。
彼には父の野獣のような行いを正すことはできなかった。逆らえば父は迷わずに彼を殺すだろう。母も叔父たちも兄も、王を諌めようとしたばかりに消されてしまったのだ。証拠こそ残ってはいないけれど王子は知っていた。狩に行くといって一人で森に入るのが、心より安心できる唯一の時だった。
再び大きなため息をついたその時、王子はどこからか水の音が聞こえてくるのに気付いた。
木々の間からそちらの方向を望めば少し先に澄んだ泉があり、若い女性が水を浴びていた。王子の目は彼女の身体のまだ成熟しきっていない柔らかな曲線に釘付けになった。なんという美しい人なのだろう。きっとこの人は妖精の王女なのだ。木漏れ日を受けて輝く水に濡れた金色の髪は、王子の知るどんな宝物よりも尊く見えた。
彼は憑かれたように木陰から一歩踏み出した。裸の女性の前に出ていくのは憚られたが、引き止めなければ霞のように消えてしまうかもしれない。どうしても彼女を逃がしたくはなかった。
意を決して声をかけようとしたその時、彼は泉から少しはなれた岩の陰に大きな黒い獣が潜んでいるのに気づいた。あれはオオカミだ。子供の頃、本の挿絵で見たことがあった。オオカミは姫君を狙っているのだ。
王子は急いで矢をつがえ、オオカミを狙って放った。矢は後ろ足に命中し、野獣はキャンと一声鳴いて地面に倒れた。とどめを刺さねば危険だと王子はナイフを抜き、オオカミに駆け寄った。だがそれよりも早く、一糸纏わぬ妖精の王女がオオカミの隣にひざまずいていたのだった。
「姫君よ。この獣は危険です。私がとどめを刺すまで離れていてください」
王子の言葉に姫君が顔を上げた。
「お前が撃ったのかい? どうしてそんなひどいことするんだよ?」
驚いたことに美しい姫君の口から出てきたのは、平民の使うがさつな言葉だった。
「ハンス。こいつは盗賊かもしれん。気をつけろ」
オオカミがうめいて身を起こそうとする。王子は自分が間違いを犯したことに気付いた。この姫君とオオカミは知り合い同士だったのだ。
「私は盗賊ではありません。あなたが姫君を狙っているのだと思ったのです。申し訳ないことをしました」
王子は素直に謝った。
「そうか、そういうことなら仕方がない。だがこの矢をなんとかしてくれ」
王子はオオカミの矢を引き抜くと、傷に薬を塗ってしっかりと布でしばった。姫君は彼がいても気にする様子もなく、裸のままオオカミに寄り添っていたが、オオカミが無事と分かると布の袋から乾いた服を引っ張り出して身に着けた。髪の毛を首の後ろにまとめ、くたびれた服をまとった姫君はまるで羊飼いの少年のようだ。この森に住まぬはずのオオカミと美しい女性の二人連れとは、何か特別な事情があるに違いない。
「あなたはどちらの姫君でしょうか。どうぞお名前をおきかせください」
「おいらはハンスって言うんだ。国境いを越えたとこにある小さな村から来たんだよ。こいつはオオカミ。オオカミだからオオカミって呼んでるんだ」
「男装に身をやつしているのにはなにか訳があるのですか?」
オオカミが不思議そうに首をひねった。
「こいつは男だろう?」
「いえ、確かに女の方でした」
さっき、木の陰からハンスの裸をつぶさに観察した王子は顔を赤らめて言った。
「それに、これほどの美しい方が男性のはずがあるでしょうか。お見かけしたときにはてっきり妖精の姫君に違いないと思ったぐらいです」
「ハンス、お前は女なのか?」
「そうだよ」
ハンスは平然と答えた。
「おいらの村じゃ『森の魔物』に取られないように女の子が小さいうちは男のなりをさせるんだ。魔物は女をさらっていくっていうからね。名前でバレちゃ困るから、小さいうちは男の名前で呼ぶんだよ。おいらは両親が死んじまったからそのままでいたんだ」
「本当の名前はなんだ?」
「わからない。親父とお袋は知ってたと思うんだけどね」
そういえば村の子供たちはみんなハンスと同じようななりをしていた。オオカミは、子ウサギたちが雄なのか雌なのか気にしたことがなかったように、村の子供たちの性別など気に留めたことなどなかったのだ。
王子はオオカミに尋ねた。
「あなた方はどちらに向かわれているのですか?」
「分からない。俺は何かを探しているのだが、それが何なのか思い出せないのだ」
「それではわたくしの城へお立ち寄りになりませんか? 城にはよい医者もおります。念のためあなたの傷を改めさせましょう」
「君はお城に住んでるのかい?」
ハンスが驚きの声を上げた。
「ええ、名乗るのが遅れました。私はこの国の王の息子、エメリッヒです」
「へえ、王様の息子なら王子様だね」
控えめな王子は王族だからと恐縮されるのが大の苦手だったし、自分があの残虐な王の息子であることを恥ずかしく思っていた。だから、ハンスが自分の正体を知っても態度を変えないことにほっとしたのだった。
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オオカミとハンスは王子の言葉に甘えて城に立ち寄ることに決めた。旅を続ける前にオオカミの傷も治さなくてはならない。
城までは歩いて半日ほどの距離だ。ハンスはかねがね都の話を聞いてみたいと思っていたので、王子を質問攻めにした。ハンスが的をついた質問をしてくるので王子は内心舌を巻いた。正直すぎる王子は 政の駆け引きはあまり得意ではなかったのだが、彼にわかる範囲で丁寧に答えてやった。
オオカミは二人の後ろを足を引きずりながらゆっくりと歩いた。人間の男女の事など気にかけたこともなかったオオカミだが、女はよい男に嫁ぐのが一番の幸せなのだと村の婆さんが言ったのは覚えていた。彼には王子がハンスに夢中なのがよく分かった。彼はとてもよい奴のようだし、オオカミも彼が気に入った。
ハンスとこの男とならよい番になるだろう。ハンスの幸せを思えばそれはとても素晴らしい考えに思えたのに、オオカミはなんだか面白くないのだった。