その1
オオカミは自分の親を知らなかった。気付けばウサギ一家の一員として穴の中で暮らしていた。このあたりの森には彼のほかにはオオカミは一頭もいなかったので、森の生き物達はオオカミを見たことがなかった。大昔に人間たちが狩り尽くしてしまったのだ。
慈愛に満ちてはいるが少し警戒心の足りないウサギ母さんが、巣穴の前で倒れていた彼に救いの手を差し伸べてくれたときには、彼はすでに成獣だった。だが、自分がどこから来たのやら彼にはさっぱり覚えがないのだった。
唯一の手がかりは彼の首に巻かれた銀色の鎖だが、彼は誰がいつこれを彼の首に巻いたのか思い出せなかった。彼はオオカミとしての生き方すら忘れてしまっていたので、獲物の捕り方はカワウソの爺さんが教えてくれた。オオカミは爺さんが驚くほどの魚捕りの才能を見せ、一度も腹を減らさずにすんだ。
ある日、ウサギ母さんはオオカミに言った。
「フクロウに聞いたのだがね、お前はどうもオオカミという動物らしいよ」
オオカミはとても驚いた。オオカミと言えば森の動物を食い殺す悪魔のような生き物だと思っていたからだ。
「お前の嫁さんを見つけてやらなくてはならないのだけど、遠い森まで行かないとオオカミは残っていないそうだ。どうしたものかねえ」
ウサギ母さんはオオカミの将来をひどく心配していた。森の動物達にとって子孫を残すことはとても重要なことだったからだ。
ウサギ母さんは多産だったのでオオカミにはいつもたくさんの兄弟達がいたが、みんなすぐに独り立ちしていくのだった。もう春も終わろうとする頃、オオカミは旅立ちを決めた。ウサギたちとの生活は平和だったけれど、刺激が足りなかった。それに彼にはやらなければならない事がある気がして仕方がなかった。そろそろオオカミも独り立ちして嫁を探すべきだと思っていたウサギ母さんは、涙ながらではあったけどそれでも喜んで彼を送り出した。
オオカミはまず西に向かった。だが一人で森を歩いているうちにひどく退屈してきた。一週間ほど歩き続け森が不自然に途切れたところまでくると、オオカミは羊たちが集まって草を食んでいるのを見つけた。メーメーと鳴きながら草を食む様子はいかにも頭が悪そうだ。それよりもオオカミの気を惹いたのは、草地の真ん中にぽつんと生えた木の陰に座りこんでいる生き物だった。粗末な布に身を包み頭のてっぺんからくるくるした金色の毛を生やした生き物は、木の板の上に並べられた小石を見つめ真剣な面持ちで考え込んでいた。
オオカミはそれが人間という生き物の子供だと知っていた。人間も羊もウサギ母さんに拾われる前に見たことがあったのだろう。人間の子はウサギたちよりも頭がよさそうだ。彼の退屈を紛らわせてくれるかもしれない。
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ハンスは自作のチェス板から顔を上げた。どうもさっきから誰かに見つめられている気がするのだ。振り返ってみれば、森の手前の岩の陰から、大きくて真っ黒い生き物が黄色い目玉を爛々と光らせてこちらを見ているではないか。ハンスはごくりとつばを飲んだ。あれは『森の魔物』なんだろうか。いいや、『森の魔物』なら真っ赤な色をして二本の角があるはずだ。こいつは黒くて毛むくじゃらだ。死んだ親父が話してくれたオオカミって奴に違いない。村人の大切な羊を盗みに来たのだ。
ハンスは立ち上がると村に向かって一目散に駆け出した。牧草地から村まではそう遠くない。村の入り口にある水車小屋まで来ると、ハンスは声を限りに叫んだ。
「オオカミだ、オオカミが来たよ」
村人はてんでに棒切れやくわを手にして集まってきた。だが彼らが牧草地に戻ったときにはオオカミの姿はなく、羊達がのんびりと草を食んでいるだけだった。
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けれども、翌日もオオカミは現れた。そしてその翌日も。そのたびにかわいそうなハンスは村まで走り、オオカミが出たと叫ぶのだった。三回目には大人たちは牧草地まで来ようともしなかった。代わりに彼を嘘つきと呼び、みなしごのくせに恩知らずだとののしった。植え付けの最中に何度も邪魔をされて頭に来ていたのだ。
ハンスはべそをかきながら羊達のところに戻った。もうオオカミなんてどうだっていい気分だった。ところが牧草地につくとオオカミが座っていた。
「お前のせいでおいらは嘘つきだって言われたよ」
恨みがましくハンスは言った。
「それはすまなかった。人間が大勢来たので俺もおどろいたのだ」
オオカミが答えた。彼は少年を困った目にあわせようと思ったわけではなかったので、心から申し訳なく思った。
「だってお前は羊を取りにきたんだろう」
「いや。話し相手が欲しかったのだ」
そう聞いてハンスは安心した。羊を失えば大人たちはもっと怒るからだ。でも彼は村人達に嘘つきだと思われてしまった。今まで真面目に暮らしてきたハンスはそれが悔しかった。
「もう村の人はおいらのことを信用してくれないよ。どうしてくれるんだよ」
「それなら誤解を解けばいい。俺が本当にいることを分かってもらえばいいのだ」
そこでハンスとオオカミは村まで歩いていった。
「オオカミだよ。オオカミが来たよ」
いつものように大声で叫べば、怒った顔の大人たちが集まって来た。けれども彼らはそこにオオカミがいるのを見て驚いた。
実のところ、村には本物のオオカミを見たことのあるものは誰もいなかった。『森の魔物』と同じで、自分たちの祖父母から聞かされただけの漠然としたおそろしいモノでしかなかったのだ。
「こいつを殺さないと羊を襲うぞ。おれの爺様がオオカミは恐ろしいやつだと言っていたんだ」
一人の男が言った。
「襲わないよ。襲わないよ」
ハンスはオオカミの首にしがみついた。彼の無実を証明するために村まで来てくれたのに、殺されてしまっては気の毒だ。だが男はハンスを指差して言った。
「みんなも知ってるだろう。ハンスは大嘘つきだ。もう騙されないぞ」
そこでオオカミが一歩前に出て口を開いた。
「この子は一度も嘘などついていない。俺を見ろ。オオカミは本当にいたではないか」
村人たちはオオカミの言葉に納得し、そうだ、そうだとうなずきあった。こうしてハンスの名誉は回復されたのだった。
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ハンスは牧草地の近くの小さな小屋に住んでいた。死んだ彼の父母が残したものだった。 オオカミはそこでハンスと暮らしはじめた。
村人は気にしなかった。よくよく見ればオオカミは大きな犬みたいな生き物で、それほど恐ろしいものには思えなかった。それに『森の魔物』が出たときには追い払ってくれるかもしれない。
村人は『森の魔物』をひどく恐れていた。誰一人姿を見たことがなかったにもかかわらずだ。村のあちこちに魔物除けの人形や護符が置かれていた。
「『森の魔物』を見たことある?」
チェスの駒を進めながら、ハンスはオオカミに聞いた。
「いや。見たことも聞いたこともない」
オオカミは前足の爪を使って小さな石を器用に動かした。ハンスに教えられてすぐにこの遊びを覚えたのだ。オオカミはこのゲームも昔から知っていた気がした。それなのになかなかハンスには勝てない。だが、村の大人でさえ彼には勝てないのを彼は知っていたから、悔しくは思わなかった。
「『森の魔物』なんて昔の人が考え出したものだと思うんだ。でも、そんなこと言うと大人が怒るんだよ」
ハンスは魔物など信じてはいなかった。もし信じていたら村はずれの小さな小屋で一人でなんて暮らせやしない。でも月のない暗い夜にはオオカミの存在が心強いと思うのだった。
オオカミは牧草地の脇を流れる川で魚を捕まえた。オオカミが魚捕りの名人なのを知ると、ハンスは川を石で堰き止めて生簀を作った。大きなマスを干して村に持っていくと、村の人たちが買い取ってくれるので、ハンスの暮らしぶりは前よりもよくなった。
ハンスは毎週日曜日になると小さな学校で村の子供たちと一緒に勉強をした。オオカミもついて行って先生と名乗る男の話を聞いた。不思議なことにオオカミは彼の話すことをほとんど知っていた。ウサギ母さんに拾われる前も人間と暮らしていたのかもしれない。首に巻かれた銀の鎖が人間につけられたものであるのは確かだった。
オオカミが来てからというものハンスは幸せだった。寒い冬もオオカミの毛皮に包まれて眠ることができたし、何よりも話しかける相手がいるのは素敵だった。
いつしかオオカミがハンスと暮らし始めてから三年になろうとしていた。
春が近づくとオオカミはそわそわしだした。毎年この時期になると落ち着かなくなるのだが、オオカミはこの村での暮らしが気に入っていたし、なによりハンスと別れたくなかったので我慢していたのだ。
けれどもその年は特に酷かった。もう堪えられそうになかった。
「ハンス。俺は行かなくてはならない」
「どうしてさ?」
「俺にはどうしてもやらなくてはならないことがあるのだ」
「何をするの?」
「思い出せない。だがとても大切なことなのだ」
「じゃあ、おいらも一緒に行くよ」
ハンスは迷いもせずに言った。彼はもうすぐ十六歳だった。村ではもう一人前として扱われる歳だ。
村の人たちは彼を止めようとはしなかった。ハンスはよい羊番だったし、食卓に魚が並ばなくなるのも残念なことだ。だが、彼は頭のいい子だ。こんな寂れた村にいるよりはどこかで運試ししたほうがいいに決まってる。ハンスは村人に今までの礼を言うと、住み慣れた村を後にオオカミと二人で春の森に足を踏み入れた。