第7章 女神の鍵
「飽きた」
毎朝恒例の診察の後、彼は突然そう言い放ったかと思うとあっという間に身なりを整え、きょとんとした様子のアンネリカを無視してさっさと部屋を出て行ってしまった。
「…………ちょ、っと! だ、誰か連れ戻してー!」
自らの能力に絶対の自信を持つだけあって、カタリーナの術の効果はてき面だった。
最初に術を施してから三日。マティアスの様子を見つつ重ねがけをした治癒力促進の術は確かに効果を表し、変色していた右足は皮膚があっという間に硬くなった。もう屋敷の中を足を庇ってうろつく程度であれば問題ない。この様子であれば、あと数日で新しい皮膚に生え変わるだろう。これは本来であれば数か月かかるところを、何分の一にも短縮したことになる。
日がなごろごろと寝続けるのが苦ではない様子のマティアスではあったが、さすがに長い療養生活には飽き飽きし始めていたようだった。今日診察を受けて、アンネリカから部屋の外へ出歩く許可が降りるや否や、冒頭の台詞を残して部屋を出て行った。
もちろん許可を出した以上、部屋の外を出歩くことはさして問題ではない。
問題は、彼が愛用の長槍を持って部屋を出て行ったことである。
「確かにっ、部屋を出ていいとは言いましたけど! そんなもの振り回していいとは言ってません!」
部屋から走り出たアンネリカは、階段の踊り場から玄関へ向かうマティアスの姿を認め、半ば怒鳴るように言った。怪我をした足を慣らす程度の運動を許可したつもりだったのだ。そもそも治りが早いとはいえ、まだそれ以上のことをするほど回復していないはず。
アンネリカの声に、マティアスは動きを止めた。そしてゆっくりと振り返った顔はこの上なく不機嫌そうだった。
「アンネリカ、大声出してどうしたの? って、あれ。動けるようになったのね」
そこにのんきな声で割り込んできたのはイーリスだった。玄関から右手にある応接室のほうから出てきたイーリスは、客室で療養しているはずの男の姿を見て目を見張った。
そののんきな声音に毒気を抜かれたのか、マティアスは不機嫌な表情をやや緩めてイーリスのほうをちらりと見た。
「もっと前から動けたけどな」
そう言って手に持った愛槍を肩に立てかけ、不満そうな目をアンネリカへ投げかける。その視線にも負けずにアンネリカはずんずん階段を下りて二人のもとへ来ると、男を見上げてきっぱり言い放った。
「だーめーです! 不本意でしょうが身体のためです。足が二度と元に戻らなくなってもいいんですか? ほら、イーリスからも何か言ってあげて」
両手を腰に当て、可愛らしい顔を最大限にしかめているアンネリカにそうせっつかれ、イーリスは苦笑した。彼女はふわふわしているようでいて、たまにものすごく頑固になるのだ。
マティアスを見れば、彼もこの数日診察を受ける中でそうした面を理解しつつあるのか、不満そうな目つきをしながらも観念したようだった。
「ふふ。こうなったらアンネリカには従ったほうがいいわよ。医者の顔の時のアンネリカにはみんな逆らえないの」
「…身体が鈍って死にそうだ」
「治ったらヴィクトールやエルメルと一緒に稽古してあげて。きっと喜ぶから。私も教えてもらおうかな」
心なしかげっそりした表情のマティアスを見てイーリスはくすくす笑うと、出鼻をくじかれて手持無沙汰な様子の彼に提案した。
「そうだ。せっかく部屋を出られるようになったわけだし、お茶でもどう?」
*
診療所へ行くというアンネリカと別れ、イーリスはマティアスを食堂へ案内する。短い廊下の突き当りの扉を開けると、厨房が隣接したこぢんまりとした石畳の部屋へと男を招き入れた。
「ここが食堂。食事はいつもここでとってるの。良かったら今晩は一緒に食べましょう」
説明しながらイーリスが部屋の殆どを占める木製の食卓を回り込む。そのうちの一つの椅子を男に勧めたところで、厨房のほうからギルバートが出てきた。
「あら、ギルバート」
「あ、ああイーリス。――歩けるようになったんだね。良かったね」
「ああ、どうも」
肩下まで伸びた銀髪を結わえながら出てきたギルバートは、マティアスが歩く姿を見てふっと微笑んだ。今日は比較的顔色がいい。
「お茶淹れるけど、ギルも飲む? 出かけるところ?」
「うん。でも一杯貰ってから出ようかな」
特に何かの役職を持っているわけでもないギルバートは、かといって毎日暇をしているわけではない。
彼は魔術の才が村人たちに重宝がられ、いわゆる「何でも屋」のようなことをしている。今日のように体調の良いときには、村人から事前に請け負ったちょっとした困りごとを解消するため、村をまわって歩くのだ。
イーリスは厨房で簡単にお茶を淹れ、思い思いに座っている二人に差し出した。この茶葉はカタリーナが薬効のある草などを煎じて作り置いているものだ。意外に苦味は少なく、まろやかでおいしい。
椅子に腰を落ち着けたイーリスは、ギルバートに尋ねた。
「今日はどこに行くの?」
「エディさんのところ。井戸水がここのところ妙な色に濁っているらしい。地下の水の流れがおかしくなってるかもしれないから、ちょっと見てくるよ」
暖かいお茶を一口飲んでそう言ったギルバートを、マティアスが興味深そうに見返した。
「…地学に詳しいのか?」
「まさか。僕の専門は、自然を操る魔術。自然界に流れる魔力を見るのが得意だから、この場合は僕にも役に立てるんじゃないかと思って」
「ふうん。魔術師にも得意不得意があるのか」
意外そうに少し目を見開いたマティアスに、ギルバートは頷いた。
「それはもちろん。魔力の形作り方が全く違うからね。――そうだなぁ、僕ら魔術師は魔術を発動させるための鍵を作っているんだ。自分の魔力を、粘土みたいにこねて」
「なるほど?」
「だから、それぞれ作るのが得意な形、苦手な形、っていうものがある。現に僕はカタリーナのような複雑な治癒術は苦手なんだけどね」
そう言ってギルバートは照れ臭そうに笑った。
魔術師によって魔力の成形する際に思い描くものは異なってくるが、ギルバートにとってそれは「鍵」だった。ギルバートの得意とする自然を操る魔術は、基本的には術一つに対して一つの属性―火や、水といったものだ―への成形しか必要ない。ただし材料が少ない分、その形は複雑だ。彼はそれを、鍵を思い描いて成形しているということになる。
これがカタリーナであれば、「編み物」だと答えるだろう。治癒系の術は様々な要因に対処するため、使用する属性も多岐にわたる。そのため魔力を様々な属性に成形し、それらを合わせて一つの術を完成させなければならない。これは様々な種類の糸を編み込んでいく編み物の概念に近い。
イーリスは後から聞いた話だったが、ギルバートはカタリーナから、マティアスが魔術に対して少なからず偏見を抱いているという話を聞いていたようだった。
人は「よく分からないもの」に対して嫌悪感を抱きやすい。
だから、魔術が成り立つ方法を教授しようという気になったのだろう。
どうやらマティアスのほうも、彼なりに魔術に対する理解を深めようというつもりはあるようだった。ギルバートの話を聞き流すようなことはしなかった。
その様子に満足そうな表情で頷いたギルバートは、ふと何かを思いついたように言葉を重ねた。
「――ここは【女神の目】を持つスナール族の村だってことは知っているよね? 【女神の目】も原理は同じなんだ」
不意に声音が変わったような気がしたのは気のせいだろうか。
イーリスは怪訝に思ってギルバートの表情を伺ったが、彼はいつものように穏やかな顔をしてじっとマティアスを見ていた。
「そうなのか?」
対するマティアスも、特にいつもと変わりのない無表情だ。だがどことなく興味をひかれた様子だった。最近はイーリスにも、彼の無表情の向こうにいくつかの感情が見えるようになってきたのだ。
「つまり、【女神の目】を発動させる“鍵”を成形できるのは、女神の一族の血族だけ。“目”って言っているのは便宜的なもので、別に彼らの目が特殊な構造をしているってわけじゃない。魔力の成形法が特殊なんだ。大抵みんな無意識にやってるから、気付かないことなんだけどね」
「ふうん…そういうことだったのか」
理解しているのかいないのか、相槌を打ったマティアスの表情が変わることはない。片肘で頬杖をつき、窓の外のほうへ目をやっている様子は、何かを考え込んでいるようにも見える。
ギルバートはしばらくその様子を眺めていたが、やがて肩をすくめて立ち上がった。
「イーリス、お茶美味しかったよ。じゃあ行ってくるね」
「ええ。行ってらっしゃい」
軽く手を振ってギルバートを見送ると、急に部屋が静かになった。
ことん、と茶器を置く音がやけに響いて顔を上げると、マティアスが相変わらず窓の外を眺めている。
今日も薄曇りだが、太陽が透けて見えるので明るい。この地にも春がすぐそこまで近づいているようだ。
「女神の一族、スナール族か」
ふいにマティアスの口から呟きが漏れ、イーリスは外の景色から正面に座る男に目を戻した。
マティアスは静かな表情で窓を眺めていたが、視線を感じたからかイーリスのほうへ顔を向ける。彼女が金の眼を見返すと、彼はいつものように口元を歪めて笑ってみせた。
「…族長のあんたも【女神の目】を持ってるのか? どんな気分なんだ、未来が視られるっていうのは」
今までにも、外からの人間には興味本位で聞かれることのあった問いかけだ。イーリスは肩をすくめ、いつものように言葉を紡いだ。
それは、少しだけ嘘で塗り固めた言葉。
「私には使えないの。さっきの言葉を借りるなら、【女神の目】を使うための鍵を作れない、というべきかしらね。でも、今までにも能力を持たない族長はいたし、何の不自由もないわ」
すると男は、皮肉な表情のまま肩をすくめ、思いがけない言葉を返した。
「そうだな。未来なんか視えないほうがいい」
イーリスは驚いて目を見開いた。
大抵の者はこの話を聞くと、同情からか腫物のようにその話題に触れなくなる。それは至極煩わしいものだった。【女神の目】を持っていないからといって同情される謂れはないと叫び出したくなる。
だがこの男は、この能力自体をばっさりと切り捨ててみせたのだ。
「どうしてそう思うの?」
「…それが変えられない未来なら、空しいだけだろ」
じわり、と。
血が滲んだような昏さを言葉の端に感じた。
イーリスはその原因が何なのか分からず眉を顰めるが、目の前の男はすっと視線を外して茶に口をつけた。
「スナール族は、未来視の能力を持ちながら、十七年前のアルド族の襲撃を防げなかった。有名な話だ」
「それは、未来視の力が弱かっただけで…」
「どうだろうな。未来は常に決定されていて、俺たちがどう動いたところでぴくりとも動かない。確定された未来しか見ることができないとしたら?」
畳み掛けるように言う彼のまなざしは、静かであるのに鋭い。凪いだその向こうに見えるのは、憎悪か。
イーリスはその瞳を見つめながら、その中に何かの糸口が見つかるような気がして目を凝らす。マティアスは、再びゆるく視線を外した。
「…悪いな。この話は終わりだ」
そうして立ち上がると、男は静かに部屋を出ていく。
残されたイーリスは、手に持った器の中の水面をじっと眺めながら、今の言葉の真意を考えていた。