第5章 歪なほほえみ
緋色の炎が、遠くを舐めるように這い回っている。あれがここまでたどり着くのも、時間の問題だろう。がらがらと建物が燃え落ちる音が徐々に近付いてきて来ているのだ。
(あつい。ここから出たい)
そう思うが、足は縫いつけられたかのようにその場から動かない。みるみる緋色の化け物はその長い舌を伸ばし、こちらを絡め取らんとしているのに。
(いやだ)
(どうしてこんな――)
(――ゆるさない)
*
村の朝は早い。朝日が顔を出し、村で運営している農場から家畜が上げた朝一番の声が届く。それを目覚まし代わりに人々は動き出すのだ。
防寒のため分厚い木の板をはめた窓の隙間。薄暗い部屋に差し込んだ細い光が帳を作り出す。浅い眠りの中、朝日がまぶたを焦がしていくのを感じて、イーリスは目を開いた。いつもと変わらぬ、質素な寝台の上だった。
(いやな夢ね)
まだぼんやりと思い出せる炎の光に、顔をしかめた。
朝から最悪の気分だった。
イーリスはゆっくりと身を起して寝台を降りると、水差しで盥に水を張った。冬の水は、室内に置いてあったものでも凍るような冷たさだ。彼女は見たばかりの夢をも凍らせるように、顔に冷水を浴びた。
(あれはあの日の光景…?)
幼かった彼女は、あの襲撃のさなかのことをほとんど覚えていない。だが彼女の身体は、すぐ近くまで燃え広がったうねる炎の熱さだけは覚えていた。
イーリスは布で顔を拭って、薄い部屋着の上から胸元をなぞった。そこには刃物で斬り付けられた不格好な傷跡が残っている。あの襲撃でこの身に残ったのは、この傷だけ。あとは全て奪われたのだ。
視界の隅では、窓の隙間からの細い光を受けた赤い石がちらちらと光っている。寝台の枕元に引っかけた革袋の中から、赤い石のついた首飾りがぶらぶらと落ちかかっていた。昨日倉庫から子供たちが持ち出して、イーリスが取り上げたものだった。
イーリスは、この首飾りを知っていた。
あの襲撃で、彼女がきつく握りしめていたもの。そして、それゆえに彼女の出自を確定させたもの。
この赤い石は、主に強すぎる魔力を安定させるために使われる、「スルト」という魔石だ。どういう原理なのか、この石は触れた者の魔力を一定量取り込む。そしてその魔力の性質によって、色を変えるのだ。
【女神の目】の能力者が触れると、スルトはたちまち炎のような明るい色に変化して発熱するという。そのため試金石として用いられる場合もある。そして、十七年前にイーリスが発見された当初握りしめていたこの首飾りは、まさに彼女が能力者なのだと告げていた。
(――それなのに…)
今握りしめた赤い石は、ただ透き通って沈黙するだけ。もう考えないようにしていたはずなのに、再び目の前現れたこの首飾りは、現実から目を逸らすなと言っているのだろうか。
(だめ、考えたってしょうがないもの)
淵へと落ちかけた思考を、息を吐いて追い出す。イーリスは窓に歩み寄ると、つがいではめた木の板を半分だけ外した。玻璃の向こうの景色は明るい。今日も天気は良いようで、薄曇りの白い空から太陽が黄色い光を放っている。このところの気候の変化から見るに、そろそろこの長い冬も終わりが見えてきたようだ。
そのとき、遠くで山羊の鳴き声が聞こえた。農場で飼育されているものだろう。それを聞いて、彼女は何かを思い出したように動きを止めた。
(そうだ。ヨナスが牧場について相談があるって言ってたんだったわ)
ヨナスとは、この村を守る戦士の一員であり、村の農場の運営を指揮する男でもあった。妻と幼い二人の子供を持つ彼は、ヴィクトールとはまた違う包容力を持った頼れる兄貴分である。その彼から昨日の朝に相談を持ちかけられていたのを、今の今まですっかり忘れていたのだった。
(今日はまず農場に行って、…それから民会の準備もしなきゃ)
今日も忙しそうだ。自分を励ますように笑顔を作って頷く。
イーリスは手早く衣服を身に着けると、朝食の準備を手伝うために自室を後にした。
*
この村では、ある程度の交易は行っているものの自給自足の生活が主となっており、みなで協力して農場を運営している。冬場は作物が育たないため馬や羊・山羊などの家畜の世話が中心だが、雪が解けると山への斜面に広がった農地で小麦などを育てている。
村の端に位置する農場の建屋を訪れたイーリスは、そこで働く若者たちに温かく迎えられた。襲撃の後長い間支えてきた高齢者たちに替わるようにして、精力的に働いている若者たちだ。
「族長さん、お疲れ。ヨナスに用だろ?」
「ええ。本当は昨日のうちに来ようと思ってたのに、遅くなっちゃった」
干し草を運んでいる青年に声をかけられ、ここを取り仕切るヨナスの居場所を聞く。ちょうど馬の様子を見に行ったところだというので、イーリスは馬小屋へ向かった。
今ここでは五頭の馬を飼育している。そのうちの二頭は、春先に行商人が買い取りに来る予定だ。
草の匂いのする馬小屋。穏やかな顔で栗毛の馬を撫でている男を見つけ、イーリスは声をかけた。
「ヨナス!」
「ああ、イーリス。やっと来たか」
「ごめんなさい、本当は昨日来ようと思ってたんだけど」
「うそうそ。いいんだ、ついでに来てもらえればって言っただけなんだから。森で狼に襲われたんだってな? いい加減にしないとヴィクトールに怒られるぞ?」
「残念でした。もう叱られたあとよ」
「あははは、あいつも心配性だからなあ」
おどけて肩をすくめたイーリスの声に、ヨナスは朗らかな笑い声をあげた。
彼は今年で二十八歳になる、優しい風貌の剣士だ。年が近いので、ヴィクトールとも仲がいい。数年前に農場を取り仕切っていた父親から代替わりをし、今では農場運営の中心的存在を担っている。剣士としても優秀なのだが、戦の少ない今では、ここが彼の戦場となっていた。
「あいつもいい年なんだから、ふらふらしてないでいい加減嫁でも貰えって言ってるんだけどな」
「うーん、そういえばそういう話聞かないわね」
「イーリス、お前はどうなの?」
「えっ、私? 今はそんなこと考えられない。自分のことで精いっぱいよ」
ヨナスの思ってもみない切り返しに、イーリスはふるふると首を振った。
この三年でどうにか族長としての役割を果たせるようにはなってきたが、まだまだ周りの年長者に支えられている部分が大きい。確かに、この一族の後継者を残すことも責務のうちには入っているのだが――正直、まだそれどころではなかった。
「そうだ。それで、相談って?」
そこまできて、ようやくイーリスは話を切り出した。談笑を楽しみすぎて、危うくそもそもの目的を忘れるところであった。どうやらヨナスのほうも同じだったようで、あっ、という顔をしてから苦笑した。
「悪い、そうだった。相談っていうのは、今度の春の作付けのことなんだけどな。去年よりどうにか農地を広げられないかと思ってさ」
「うーん…そうね、放牧地を潰せばまだ広げられるわよね。……やっぱり、あのままでは厳しい?」
十七年間で底辺からの復興を遂げたこの村は、外からの移民も含めて年々人口が増加している。それは喜ばしいことであり、また移民者の力があったからこその復興であるのだが、備蓄の面から考えると特に冬場は少々心もとない状況が続いていた。それを憂いていたのは、やはりイーリスだけではなかったようだった。少し考え、表情を引き締めて頷いた。
「わかった。雪が解けたら作業できるように手配するわ。春には難しいかもしれないけど…せめて夏の作付けまでには間に合うようにしましょう」
「うん、頼んだ」
その後簡単に話をまとめ、まだ他の馬の世話もするというヨナスに手を振り馬小屋を出た。
見上げると、薄曇りの向こうの太陽は南天に差しかかろうとしている。イーリスは昼食をとるために屋敷に戻る道すがら、ぼんやりと空を眺めた。
(村はどんどん発展している…。この進歩を止めないために、私には何ができるんだろう……)
「あれは……、鳥?」
屋敷の目の前までたどり着いたとき。白い空に墨を落としたように、黒い小さな鳥が一羽、屋敷のほうから飛び立っていく。その軌跡をたどっていくと、一つだけ開いた窓際にマティアスの姿があった。
向こうも門のところで見上げているイーリスの姿に気が付き、すぐににやりと笑って見せた。
(ふふ、元気になったのね)
昨晩屋敷を訪れた時はやはり弱っていたのだろう、その表情は昨日森で出会ったときのものと同じだった。今のように不敵な表情をしているほうが様になっている。
今までも、彼のような旅人を世話したことは何度もある。だがなぜだろう、あの旅人は彼らとは何かが違う。イーリスは、彼をもっと知りたいと感じていた。
*
昼間の屋敷には穏やかな静けさが満ちている。居住者の殆どが出払っており、掃除などの雑用を引き受けてくれている村の女性たちも、ちょうど昼の休憩中のようだった。
食堂で作り置いてもらった簡単な昼食を二人分配膳し、イーリスは二階へと上がった。
「入っていい? 昼食を持ってきたわ」
「ああ」
返事を聞いて部屋に入ると、彼は何をするでもなく寝台に寝転び、天井を見上げていた。何をしていたのかと問えば、暇だったので天井の木目を数えていたらしい。イーリスが思わず変な表情をして見つめていると、マティアスはのっそりと半身を起こした。そうして、長めに目元にかかった前髪をうっとおしそうにかき上げながら言った。
「飯だろ? さっさと食おうぜ」
「そ、そうね」
初めて会ったときにも思ったが、彼はかなり奔放な性格のようだった。無理やり調子を合わせさせて、周囲を振り回すような空気を持っている。こちらの様子など気にも留めない態度に苦笑しつつ、イーリスは盆に載せてきた食事を小机に並べた。どういうわけか、不思議とこのやりにくさには不快感を覚えなかった。
膝元に食器を乗せて芋を中心とした食事を口に運びながら、マティアスは何かを思い出したのか、にやっと笑って言った。
「あの犬、面白いな。ちょっとからかえばすぐキャンキャン吠えやがる」
「いぬ…?」
この屋敷では、犬など飼っていないはずだが。
そう思って首を傾げた直後、イーリスの脳裏には自分とよく似たふわふわの金髪頭が浮かんでいた。素直で人懐っこい彼を子犬のようだと評していたのは、彼が村で仲良くしているお年寄りの誰であったか。
それと同時にマティアスが呆れたように首をすくめて続けた。
「あの金髪頭の坊主だよ。今朝朝食を持ってきたときの煩さったらない」
「エルメルは、良い子よ。真っ直ぐすぎておばかなところもあるけれど。森で出会ったあなたがとても強かったって話したの。そうしたらすごく興味を持っていたから……きっと懐かれたんだわ」
そう取り繕ったところで、なぜかマティアスが珍しくまっすぐな笑い声を漏らした。見慣れない笑顔にイーリスは思わず目を丸くする。
「くくく、だが犬って言っただけで誰のことか閃くあんたもあんただけどな」
「えっ?」
「顔に書いてあった。あんた、結構顔に出やすいよな」
「…言わないで。結構気にしてるのよ…」
実際、イーリスは感情が顔に出やすい。カタリーナなどには、よくそれでからかわれるのだ。努めて出さないようにはしているものの、とっさの場面ではどうしても表情が動いてしまう。
まだ会って一日しか経っていないマティアスにまで見抜かれて、イーリスはいたたまれない気持ちになった。
そんな彼女の様子を見てまた少し笑ったマティアスだったが、すぐに笑みを引っ込めて話を続ける。
「なんであんな犬が副長なんだ? あの銀髪の男のほうが適役だろう」
ギルバートのことだ。
何気なく振られたそれは、少なからず彼女の中でわだかまっている事柄であった。自然、声の調子が落ちそうになったのを、無理に微笑んでやりすごす。
「ギルバートは、……身体が弱いから。必要な時だけ頼るようにしているの」
実際、彼を副長にと推されたこともあった。そして穏やかで聡明なギルバートは、裏方で人を支える仕事が性に合っているとも思われた。だが彼は、それを辞退したのだ。
おそらくはイーリスの心中を思いやってのことだと、彼女は気付いている。彼は人の機微にも聡い。イーリスが彼に対して葛藤を抱えていることに気づかぬはずもないのだった。
「ふうん」
苦笑して漏らした言葉に対して、マティアスは大した興味もないようにそう言っただけだった。だが言いながらその目がちらりとイーリスを見たような気がした。
その視線に内心慌てて、気持ちを切り替えるようににこりと笑って言葉を続けた。
「それに、エルメルはあれでもみんなに信頼されているの。顔も広いし、村のことを誰よりも分かってるわ」
これは事実だ。ああ見えて戦闘時に村の戦士を牽引するだけの実力があることもそうだが、何より重要視されたのが彼の打ち解けやすい性格だった。若者はもとより、老人たちからもよく可愛がられる彼は、族長の目となり耳となって村のことを報告してくれる。百人程度の小さな村だが、彼の働きはありがたかった。
しかし上手く感情を切り替えて告げたはずだったのに、目の前の男はさして興味が惹かれた様子もない。それどころか、取り繕って隠した心の隙間へ鋭い言葉をねじ込まれ、イーリスは瞠目した。
「あんた、そうやって自分を押し殺して疲れないのか」
彼女の見開いた碧い眼が、真っ直ぐに向けられた金の眼とぶつかる。虚を突かれたイーリスは上手く反応できないまま、窓からの光で透き通った金色を眺めていた。
少しも経たず、マティアスは小さく息を吐き、ふいと目を逸らした。
「別にどうでもいいけどな」
そうして窓の外を見つめたまま、真横に座っていてもようやく聞き取れるかというほどの声で、呟く。
「――俺は誰にも押さえつけられたりしない」
まるで呪詛のように呟いたときの男のまなざしは、最初に恐ろしいと感じた獣のような眼で。今度は自身に向けられてはいないというのに、イーリスはあの時と同じように背筋がすっと冷えるように感じた。
そうして彼は、目を伏せてふっと口元を歪めた。
イーリスはその表情を見て、眉を顰めた。なぜかこの男は、いつも苦く歪んだ微笑み方をする。他人へ皮肉を込めたものも多いが、時折自嘲めいた苦さを感じる。そしてその笑みの裏に、少しの憎悪と、大きな悲しみが見え隠れしているような気がするのだ。
今もそうだ。この歪んだ微笑みを見ていると、苦しいような焦燥感が押し寄せてくる。
この人は一体何を抱えているのだろう? さっきのように、笑うこともできるのに――
(もっとちゃんと、笑えばいいのに)
不安と好奇心が入り混じった自分の内心を、イーリスは持て余していた。それは娘めいた感情というよりは、胸騒ぎに近かった。