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Limheim ―女神の目を持つ者―  作者: かや
冬の終わりに
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第4章 月夜の来訪者

 再度、扉を叩く音が玄関の広間に響いたのを聞いて、アンネリカは小走りに扉へ向かった。その後をゆったりとギルバートが歩き、すぐに追いついて彼女の隣に立った。


「はーい、どなたですか?」


 よく確認もせずに鍵を開けようとしてギルバートに肘で小突かれたので、アンネリカは念のため扉の外に声をかけた。すると今年七十歳を迎える老女の声とは似ても似つかぬ、若い男の声が返ってきた。


「旅の者だ。今晩の宿を探しているんだが、すまないがどこか紹介してもらえないだろうか」


 フィアーナではないと分かったギルバートは、アンネリカをそっと後ろに押しやって前に出た。


「僕が出よう」


 言いながら、彼は鍵を開けて扉をゆっくりと押し開いた。

 冬の身を切るような澄んだ夜風が室内に入り込む。今夜は珍しく日が暮れたあとも雪が降らず、薄絹の雲の向こうから、月が雪原をぼんやりと照らしている。

 そんな神秘的な冬の景色を背に、長身の男が一人、佇んでいた。

 この寒冷な土地では滅多に見ない浅黒い肌にまず目が行ったが、次いでその顔を見た瞬間、ギルバートは目が離せなくなった。確かにまずまず均整のとれた顔立ちではあったが、特にそれが印象的だったというわけではない。

 茶色く色の抜けた長い前髪の隙間から覗いた、鋭い金の眼に目を奪われたのである。

 男は終始無表情であったが、その金色が獲物を見付けたかのように爛々としてこちらを見つめている。ギルバートは、なぜか背筋が粟立つのを感じた。


「ギル、どうしたの? お客様は?」

「!」


 後ろから響いたアンネリカの怪訝そうな声で、ギルバートはすぐに我に返った。

 改めて眼前の男に目をやると、これまでの長い道のりを思わせる古びた旅装を身にまとった男は、先ほどと変わらぬ姿勢でこちらを見ている。だがその眼の印象はがらりと変わり、どこか無機質な表情になっていた。


「昼間にここの紹介を受けたんだが」

「ああ! イーリスが言ってた旅の方ですね! もう夜遅いし来られないんじゃないかと思ってた」


 すぐにぴんときたアンネリカが、笑顔で歓迎した。


「ああ、本当は野宿する予定だったが…どうも足をやられたようだ」


 どことなく気まずそうにそう言った男の視線をたどって、ギルバートは彼の足元を見やる。慣れない雪道に嵌ってしまったのだろうか。膝まである彼の革の長靴は、つま先からふくらはぎのあたりまで、ぐっしょりと濡れていた。そして雪が解けて濡れた部分がまた凍ったのか、ところどころ霜のようなものができ始めている。


「大変、それじゃ凍傷になってしまうわ!」


 ギルバートの横から顔を出して男の様子をうかがったアンネリカが途端に悲鳴を上げた。言うや否やギルバートを押しのけて前に出た彼女は、医療の心得のある者らしくすぐに表情を切り替えて男に向かい合った。


「もしかしたらもう凍傷になってるかもしれない。患部を見せてもらってもいいですか?」

「いや、休む場所さえ紹介してくれれば……」

「だめです。これでも私は医者の端くれなんです、黙って見過ごすわけにはいきません」

「……わかった、お願いしよう」


 アンネリカの強い求めにため息をつきながらも折れた男は、導かれるままに屋敷の中へ入ってきた。比較的しっかりとした足取りではあるが、少し左足を引きずっているのが見て取れる。ギルバートは急を要すると判断し、アンネリカを見た。目が合ったアンネリカは心得たように頷き、てきぱきと指示を飛ばした。


「ギルはみんなに伝えて、たっぷりのお湯を沸かして、お水と深めの盥を一緒に持ってきてもらって。あとは毛布と、何か体が温まる飲み物を。あ、お酒はだめよ」

「わかった」


 さっと食堂のほうへ向かっていったギルバートを横目で見送りつつ、アンネリカは男を玄関近くの応接間へ案内した。簡素な机に、布張りの大きめの椅子が向かい合ってニ脚置かれた部屋に入ると、男を椅子に座らせてから手近な燭台に火をつけた。夕食前まで誰かがこの部屋にいたのだろう、暖炉にまだ火が燻っているのを確認して、薪を継ぎ足す。

 振り返ると、男は濡れた編上げの革靴を脱ぐために椅子の上で身をかがめているところだった。アンネリカは男の前に跪くと、反対側の靴に手をかけた。ぱらぱらと氷を落としながら、凍った靴紐を手間取りながら緩めていく。

 ようやく十分に緩んだ靴から男が左足を引き抜くと、足首から先が真っ赤になった素肌が現れた。ところどころにぶよぶよとした白い水疱もできているのが見て取れる。右足はそれほどでもないが、やはり赤く冷たくなっていた。


「いけない。思ったよりひどいわ…」


 アンネリカが眉を顰めてそう呟いたとき、部屋の扉が騒々しい声とともに勢いよく開かれた。


「おう、怪我人だって? お湯と盥持ってきたぜ!」

「あったかいお茶淹れてきたぞー!」


 どたばたと物資を抱えて入ってきたのは、ヴィクトールとエルメルだった。険しい顔つきで振り返ったアンネリカはしゃがみこんだまま、二人に指示を与える。


「ヴィクトール、盥にお湯と水を混ぜて、人肌より少し暖かいくらいにしてください。凍傷を起こしているので温めます。エルメルは、悪いけれど私の部屋に行って薬箱を持ってきてくれる?」

「任せろ!」

「りょうかーい!」


 威勢の良い返事とともに、各々が任された仕事に取り掛かる。

 ヴィクトールは椅子に座った男の前に鉄製の盥を置くと、鍋から沸かしたばかりのお湯を注ぎ入れたあと、水差しの水を慎重に継ぎ足していった。


「アンネリカ、こんなもんか?」

「……うん、大丈夫です。ありがとう」


 次いでアンネリカはじっと黙って一部始終を眺めていた男に向き直ると、お湯に足を入れるのを手伝った。男は無言でそれに従い、真っ赤に腫れた両足をゆっくりと盥に浸した。


「温まってくるとじきに刺すような痛みが出てきますので、鎮痛剤を渡します。今エルメルが持ってきてくれるので少し待っていてくださいね」

「分かった」


 呟くような声でそう言った後、少しずつ温められていく足元を見つめながら、男は目を閉じた。細く息が吐かれ、ぽつりと微かな声が漏れた。


「――やっぱり、駄目か」


 間近にいたアンネリカの耳は確かにその呟きを捉えた。温度を保つために少しずつお湯を継ぎ足しながら男の様子を窺ったが、その間男は俯いて目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。その眉間には先ほどから皺が刻まれたままだ。


「お、おい、大丈夫か?」


 動かなくなった男を見て心配になったのだろう、ヴィクトールが慌てて男とアンネリカを見比べながら言った。


「呼吸は安定しているようですし、大丈夫ですよ。疲れているようだから、眠れるなら少しでも眠ったほうがいいです」


 お湯の様子を見ながら、安心させるように微笑んでアンネリカが言ったとき、扉の向こうから賑やかな声が近づいてきて再び部屋の戸が開いた。


「アンネリカ、毛布と手拭いを持ってきたわ」

「薬箱と魔女様連れてきたぜー」

「魔女って言うな」


 二階の寝室から毛布を抱えてきたイーリスを先頭に、残りの住人が様々な物資を手にぞろぞろと入ってきた。


「やっぱり凍傷になっていたんだね」


 ギルバートがそう言い、まぶたを閉じて俯いたままの男にじっと目をやりながらアンネリカに歩み寄った。穏やかな声音にも関わらず彼の茶の瞳は厳しく眇められ、何かを警戒しているようであった。男の足元に集中しているアンネリカは、それに気付かない。


「ええ、そうなの……。イーリス、この人に毛布を掛けてあげて。体温が下がると良くないから」


 頷いたイーリスは、毛布を抱えたまま男の前に立った。すると気配を察したのか、彼はゆっくりと顏を上げた。金色の眼がイーリスの姿を認め、男――マティアスはにやっと笑ってみせた。


「来てやったぞ」

「こんな怪我をして来いとは言ってないわ。もう、人のこと言えないじゃない」


 イーリスが毛布を広げながら口を尖らせて言うと、男はクッと笑い声を漏らす。


「もしかして未熟者って言ったのを根に持ってるのか? 言葉のあやだろ」

「そんなのじゃないわ」


 子供じみているとは思いながらも、イーリスはむくれた表情のまま彼に毛布を掛けてやった。そして元気そうな様子とは裏腹に、その身体が冷え切っていることに気付いて眉を寄せる。見れば顔には血の気がない。どれほど長い間雪の中にいたのだろうか。

 アンネリカに薬箱を手渡したエルメルが、好奇心を抑えきれない様子でイーリスをつついた。


「なあ、もしかしてさっき言ってた…」

「ああ、そうよ。森で助けてくれた、ええと…」

「マティアスだ」

「おれはエルメルだ、よろしくな! あんた一人で旅してるのか? 今度他の場所のことも教えてくれよ」


 口ごもったイーリスの言葉を引き継いで名乗ったマティアスに、エルメルは目を輝かせて身を乗り出した。彼は広い世界への憧れが強く、また、「強いもの」にめっぽう弱い。その二つを兼ね備えた男に興味を持たないはずがなかった。

 ヴィクトールもまた似たり寄ったりの好奇心をあからさまにして、壁に立てかけてあった旅人の得物を見ると、歯を見せて明るく笑った。


「オレと同じ槍使いか。オレはヴィクトール、この村の軍事面の責任者だ。怪我が治ったら一戦したいもんだなあ」

「ふん、言っておくが俺は負けないからな」

「おう言ったな? よし、受けて立とうじゃねえか!」

「はいはい、みんな。怪我人なんだから安静にさせてあげてください」


 戦士という共通点ゆえか、妙に盛り上がり始めた男たちを、医者の顔をしたアンネリカが制した。そうして、立ったまま怪我人の様子を眺めていたカタリーナに身体を向けた。魔術師であるカタリーナは、常人には見えない魔力の流れで大まかな身体の状態が診られるのだという。


「カタリーナ、治癒の術はかけられそうですか?」

「そうねえ。体力が落ちてるみたいだからまだ二、三日様子を見たほうがいいと思うんだけど。あなた、急ぎの用はない? 少しここで療養したほうがいいわ」


 体力が落ちているときに無理に術で身体を治そうとすると、急激な変化に身体が耐えられず拒絶反応を起こしやすい。そのため薬による治療を優先したほうがいいと判断したのだ。

 カタリーナの魅力的な微笑みにも顔色一つ変えることなく、男はため息を吐いた。


「…この家でか?」

「そうですね。ここならわたしやカタリーナがいるので経過を診るのにちょうどいいんです」


 にっこりと頷いたアンネリカに、有無を言わさぬ雰囲気を感じ取ったのか、マティアスは苦い顔をした。


「…分かった。だが、それほど手持ちはないぞ」

「とりあえずは免除してあげる。元気になったらその身体で返しなさい」

「わはは、それはいいな! うちの村は老人だらけでな、若い人手が足りねえんだ。しっかり働いてもらうぞ」


 カタリーナの提案に、男の返事も待たずに飛びついたのはヴィクトールだ。事実、春の準備に向けた肉体労働のための人手が足りていないのだ。ちょうどいいときに良い人材が入ったものだと、彼はほくそ笑む。その内心がだだ漏れのにやにや笑いを呆れた目で見てから、イーリスは椅子に腰かけた男に目を移した。身体が温まってきたのか、当初よりも幾分か顔色は良くなりつつある。


「…というわけだけど、大丈夫? と言っても、怪我人を雪原に放り出すようなことはできないんだけど」

「こうなったら仕方がない。悪いが、世話になる」

「そう、それはよかった。意地でも世話になりたくないって言われたらどうしようかと思ったわ」


 そうして小さく笑ったイーリスは、「それでは」と居住まいを正して咳払いした。


「スナール族の村へようこそ。怪我は残念だったけど、うちには頼りになる女性が二人もいるから安心して。久しぶりにお客さんを迎えられて嬉しいわ」


 にこりと笑ってイーリスが歓迎の意を示す。見れば、他の者もそれぞれ思い思いの笑顔で客人を迎えている。

 あれよあれよという間に場所を整えられ歓迎されることとなった男は、少しの間面食らった表情をしていたが、やがて口元を歪めた笑顔で応えた。

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