第1章 音のない森で
小さな頃から、森は彼女の庭であり、愛する場所であった。
色とりどりの春、涼やかな風が通り抜ける夏、いのちの実る秋。そしてなによりも、冬のしんと凍りつく空気にまっしろな樹木が凛と立ち並ぶ今の時期が最も好きだった。
はあ、と薄い皮の手袋をした手に息を吹きかける。
冬にも群生する木の実を少しと、雪の下に埋もれていた薬草は手に入ったが、今晩のたんぱく源はまだ見当たらない。晴れてはいるものの、それゆえにいっそう刺すように冷たい空気に身を縮こまらせているのか、子ウサギ一匹姿を見せないのだ。
女は、ざくざくと雪道を踏みしめていた足を止めた。
(さて、どうしたものかな…。まだ日は高いけれど、今日は診療所に行かないといけないし)
思案しながら、もう一度あたりを見回す。三日前までの雪でまっしろな森には、真新しい獣の足跡はなさそうだった。それを確認した女は、腰に両手を当てため息をついた。
(しょうがない、今日のところは帰ろう。確かまだ塩漬け肉があったはずよね)
そう決めると、女は村のある方向へと足を向けた。
きらきらと日の光がまっしろな地上を照らし、女のふわふわとした肩までの金髪をも明るく染め上げる。だが、その明るさとは裏腹に、雪の森は静かだ。雪には音を吸い込む力があるという。彼女はその静けさを愛していた。何も考えたくないとき、あるいは、何かを考えたいとき。そんなときには決まってここに来た。…もちろん、冬でなくてもここに逃げ込んではいたが。
季節によって違った労わり方をする、このやさしい森だけが自分の味方だと思っていた時期もあったものだ。だが結局殻に閉じこもっていたのは自分であり、勝手に敵を作っていたのも自分だったのだと気づくのには、それほど時間はかからなかった。
(そう、【女神の目】がなくたって、私は私なの)
そう気づかせてくれたのは、大切な村の仲間たち。いまや彼女は、このやさしい森以上に、自身の村を愛していた。
「!」
歩きながら物思いにふけっていた足元に、突如真新しい足跡が現れ、女は足を止めた。獣、それも複数の個体のものだ。その不吉に見覚えのある形を目で追いながら女は眉を顰め、すぐに先へ進む足を速めた。幸い、足跡は村の方向へは向かっていないようだった。だがこの足跡の新しさからして、すぐにこの場を離れたほうがいいと判断した。
しかし――
「しくじった…」
思わず舌打ちした。
彼女の前方には、木々の間からのっそりと姿を現した3匹の狼。どうやら飢えているのか、目の前に現れた獲物に爛々と眼を輝かせている。ひと際ぎらぎらとした眼をこちらへ向けているのが、この群れの旗頭だろうか。目を逸らしたら負けだ。そう直感した。
先頭の狼から目を離さないまま、女は腰に下げていた愛用の長剣をすらりと抜き放った。獣の耳障りな唸り声を意識の外に追いやりながら、獣の動きに集中する。そして、手に持っていた邪魔な革袋を手近に放った。
それが合図だった。
狼たちが革袋に気を取られた一瞬の隙に女は素早く駆け出し、目の前の一匹の首筋を狙って薙払う。確かな手ごたえを感じた。その甲高い悲鳴を聞かぬまま、左隣から今にも飛び掛からんとしていた一匹に返し切りを食らわせた。前脚を抉られた狼は哀れにのた打ち回り、鮮血が白雪に咲く。致命傷を与えてはいないが、多少の時間稼ぎにはなるはずだ。
(もう少しよ)
上がる息を整え、自身を励ましながら、女は残る一匹に対峙した。
――だがおかしい。群れの首領が倒れたとなれば、素早く撤退するだろうと踏んでの行動だった。それなのに、この残った一匹はいまだ戦意を失うこともなく、唸り声を上げながら、こちらへと食らいつく機会をしたたかに狙っている。
睨み合いが続く。勝負は一瞬。相手が仕掛けてくる前に仕留めなければ明らかにこちらが不利だ。なにか、隙を生むことができれば――
「惜しいな、こっちから食いつかれるぞ」
「っ!?」
突然横から飛んできた男の声に驚き、皮肉にも女のほうに隙ができた。これを好機とばかりに目の前の狼が飛びかかってくる。そして何者かの声が言うとおり、視界の隅にも新たな狼の姿が―――
しかし女の足はとっさに動かなかった。目の前からの進撃に対して破れかぶれに剣で防御の姿勢を取るが、この状態では新手の追撃には対処できそうもない。
「つっ、このっ…」
不完全な防御の隙間を縫って、獣が女の左上腕に食らいつく。だがその牙が深く食い込む前に、右手に持った剣の柄を渾身の力で狼の脳天に叩きつけた。
キャウン、と哀れな鳴き声を残して狼は失神し、その場に倒れ伏す。女は間髪入れず、首筋を狙ってとどめを刺した。
「ふうん、悪くない反応だ。だが状況把握がまだまだだったな」
息を乱しながら右手からの声に顔を向けると、そこには狼ではなく広い男の背中があった。足元には、すでに事切れているであろう獣が白い雪に真っ赤な跡を残してうずくまっている。
男は得物である槍の穂先をさっと払い、振り返った。
若い男だ。長身に纏ったすすけた旅装が、ふわりとなびいた。
ようやく冷静になって周りを見渡せば、獣が三匹ぴくりとも動かず横たわっているばかりで、どうやら危機は去ったと見える。先ほど前脚を切りつけた一匹は脚を引きずって逃げたようだ。雪原に赤い道しるべができていた。
状況を鑑みてみると、女は少なからず恐慌に陥っていたようだった。右手からの新手には全く気が付かなかったのだ。この男が言う通りきちんと周りを見れていなかった、と彼女は唇を噛んだ。
ともあれ、礼を言おうと気を取り直して男に体を向けた。そもそも彼女の集中を途切れさせたのは紛れもなくこの男だったのだが。
「あの、ありがとう」
「別に。たまたま通りかかっただけだ」
そっけなく言った男は、形は良いが荒れた唇を皮肉げに歪ませる。目にかかるのが鬱陶しいのか、彼は顔をしかめて日に焼けた茶色の髪をかき上げた。切れ長の金色の眼が露わになる。その目があった瞬間、その金の眼に射すくめられたような気がして、女は目を見開いた。自分の深くまでを見通されているような、そんな居心地の悪い目線だった。彼女はその目線からどうにか逃れようと、目を逸らして話を紡いだ。
「…あの狼。普通は群れがあれだけ傷つけば諦めて撤退するのに、どうしてあんなに攻撃的だったのかしら」
「…今年は作物が不作だ。それだけ奴らのエサも減ってるんだろ。あんた、このあたりの人間なのにそんなことも分からないのか」
「……あなたは、旅の方? めずらしいわね、こんな辺境にまで来るなんて」
「ああ…」
「えーと…あの、私の顔に何かついている?」
「そんなことより、腕の怪我はいいのか」
「あっ」
ようやく男の不思議な目線から解放されたのは、左腕の鈍い痛みを思い出した瞬間だった。慌てて見れば狼に噛みつかれた左の上腕からは、とくとくと血が流れている。なぜ今の今まで考えが及ばなかったのか。思い出すや否や、女は先ほど放り出した革袋の近くにさっと跪くと、中から適当な布を取り出して患部に慣れた手つきで手早く巻いた。幸い、噛み切られてはいないため出血量ほど深い傷ではないようだった。
「…貸せ」
男は女の腕を取り、腕に巻かれた布をさらにきつく締めた。そこでようやく血の流れが鈍くなったことにほっと息をつく。深い傷ではないが、早めに村に帰ったほうがいいだろう。
女は手早く自分の荷物をまとめると立ち上がり、隣に立つ頭一つは大きな男を見上げて微笑んだ。
「ありがとう。何から何まで、本当に助かったわ。私はもう行かないと…。あなたはどうするの?」
見上げると男の皮肉な笑みはいつのまにかなりを潜め、仏頂面になっていた。そして先ほどは恐ろしいとさえ感じた金の眼は、今は何の感情も宿していない。この眼の何が恐ろしかったのか、冷静になった今ではもはや分からなかった。
男は何かを思案するような素振りを見せた後、再び女に目を向けた。
「村は近いのか?」
「ええ。この森をあっちに抜けて、坂を下った先よ」
そう言って彼女は森の出口となる方向を指差した。ちなみに逆に進めば、村を取り囲む小高い山にぶつかる。
「もし今夜の宿に当てがないなら、うちに来るといいわ。同居人が多いけど部屋は余っているの」
女はふふっと笑った。
こういったことは実は珍しくない。同居人はみな気のいい者たちなので、この地にふらりと現れた旅人をよく受け入れては、交流を深めていた。今回もそうなれば、きっと張り切って接待することだろう。
「村で一番大きな建物だからすぐに分かると思う。今日の食事当番は料理が上手いから、おいしいものが食べられるわよ」
「それはいいな」
本当にそう思っているのか、彼は無表情のままだ。あまりに心がこもってないので、思わず笑ってしまう。それに男が怪訝な表情を返してきたのを見て、彼女は取り繕うように言った。
「私はイーリス。あなたは?」
「…俺は、マティアス」
そう言った男は、また口元を歪めて笑う。
癖なのだろうか。笑むたびに彼の表情が暗く陰りを帯びるような気がして、不思議に思った女は思わずそのまま見つめ返してしまう。
「なんだ?」
「…なんでもないわ。それじゃ、みんなには話しておくから。遠慮しないで来てね」
「気が向いたらな」
一度言葉を切った男は、ふと何かを思い出したようにそれまでとは違った笑みを見せる。
「あんた、あの様子だとよくここで怪我してるみたいだな?」
にやり、と擬音でも聞こえてきそうな表情で言われ、女はうっと詰まった。まさにその通りで、緊急の処置がやけに手馴れていたのも、場数を踏んでいたからに他ならない。彼女自身は警戒は怠っていないつもりなのだが、要するに詰めが甘いのである。
「自分の縄張りでこれじゃあ世話ないな」
「これは、その…」
「せいぜいしっかり励めよ、未熟者」
含み笑いとともに言うと、もう話は終わりだとばかりに女の返事も待たずに背を向けて歩き出してしまう。一瞬反応が遅れた女であったが、すぐに弾かれたように声を上げた。
「ちょっ、待…」
「お大事に」
結局自分の言いたいことだけ言い置くと、そのまま男は森の奥に姿を消した。最後に形ばかりの労わりの言葉を残して。
女はその奔放さに呆気にとられて少しの間男の消えた方向を見ていた。
やがて木から雪が落ちる音にはっと我に返った女は、背を向けて村への帰路を急いだのだった。