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Limheim ―女神の目を持つ者―  作者: かや
冬の終わりに
12/14

第10章 赤い眼

 そこは、暗い山道だった。

 鬱蒼と茂る木々の合間を縫って、追っ手から逃れる。背後からは、複数の人物のものと思しき草木を踏む音が聞こえてくる。


 もはや帰る場所などない。――それでも、ようやく足枷が外れたのだ。


 毎日を浪費する中でじっと息をひそめて窺っていた機会は、思わぬところで訪れた。大声で笑い出したいのを堪えながら、枝葉に肌が切り裂かれるのにも構わずに、ひたすら前へ進む。

 風を身で切る感覚が、地を足で踏みしめる感覚が、どこまでも快感だった。


 ……幼い足で逃げ切れると信じていた自分は、ただただ幼かったのであろう。


 眼前で低木に見えた影が突然動き出したのを見て、とっさに踵を返す。だがその先にも、自身の倍近い高さの影が立ちはだかっていた。

 直前までの高揚感が、一度に冷え切っていく。

 待ち構えていた大柄な影に、ろくに抗うことのできない小さな体は簡単に捕らえられてしまう。肩に担ぎ上げられ、手足をばたつかせるが相手はびくともしない。


「ふん、一人前に逆らいやがって」


 大柄な男は、言葉とは裏腹にひどく楽しそうな響きでそう言うと、口元を歪めたのだった。



*



 何かにたゆたうような感覚だったのが一転、突然意識が形を成していく。

 イーリスは勢いよく瞼を押し上げた。

 目の前に広がるのは灰色の世界。自分の置かれている状況がすぐには分からず少しの間その灰色を見つめ、それが岩肌だと気づく。


「私…………」

「……起きたか」


 真横から響いた声にゆるりと視線を巡らすと、マティアスが岩壁に背を預けて座っていた。彼はイーリスを見下ろし、心底呆れた様子で息を吐いた。

 

「足元には気をつけろよ。ああやっていつも怪我してるんだな?」

「そうだ、私――!」


 直前の記憶が一度によみがえり、慌てて体を起こした。途端、側頭部に鈍い痛みを感じて呻く。


「……頭を打って気絶してたんだ。じっとしてろ」


 追い打ちをかけるような呆れたため息が、やけに反響する。

 今度はゆっくりとあたりを見回せば、そこは岩壁に囲まれた洞窟だと分かった。円形に近いその場所は思ったよりも広さがある。視線を動かしていくと、少し先には人一人がちょうど入れるほどの大きさの穴が。外界からの白い光が漏れて、この空洞を照らしていた。そして今いる位置は入ってすぐの場所だが、洞窟はこの先もまだ続いているらしい。徐々にその幅を狭めながら、先の見えない暗闇を湛えていた。

 一通り状況を確認したイーリスは、見覚えのない場所に首をかしげた。


「……ここは?」

「あんたが落ちた谷にあった洞窟だ。雪が酷くなってきたから待機している」

「降ってきたの?」


 言われて洞の出口に眼を凝らせば、単なる白い光に見えた外の景色に横殴りの雪が見えてくる。この山に慣れていないマティアスが、雪の中、気絶したイーリスを連れて一人で下山をしなかったのは賢明だったと言える。


「……迷惑掛けてしまってごめんなさい」


 本来であれば人を救うためにここにいるというのに、本末転倒だ。

 そう言って俯いたイーリスは、自分の身体の下に布が敷かれていたことに気付いて目を開いた。よくよく見るとそれはマティアスの外套であった。慌てて体をずらしてそれを拾い上げると、砂埃を払って差し出す。


「これ、ありがとう。寒かったでしょう?」

「別に。大したことない」


 表情を変えずに返ってきた言葉に、思わずイーリスは笑った。


「……ふふ、言うと思ったわ」


 エルメル曰く「偏屈男」であるマティアスは、確かに天邪鬼なところがある。今だって、素直に「どういたしまして」と言えば済むことなのに。気付けばイーリスは、この男の妙な不器用さが分かるようになっていた。

 微かな笑い声の共鳴が終わると、洞窟の中はしんと静まり返った。


 洞窟内は風が入ってこないため、それほど寒くはない。しかし先ほどは明るく見えた外も、目が慣れてくると、すでに薄暗くなり始めているのだとわかる。もう夕刻なのだ。それなのに、吹きすさぶ風雪はその勢いを刻一刻と増していく。

 いくら身近な山だとは言え、この中に飛び込むのは自殺行為に近いと思われた。

 イーリスはなすすべもなく外を見つめながら、ぽつりと呟く。


「シモン、大丈夫かしら。……それに、他のみんなも」

「……あんたが言ったんだろ、山に慣れてるから一晩くらい平気だって。他の奴らも同じだ」


 無表情で紡ぐ言葉は、その様子とは裏腹に暖かい。

 そのほのかな暖かさを感じながら、イーリスはこくりと頷いた。不思議と、沈みこんだ気持ちが励まされたような気がする。


「……うん。そうね。ありがとう」


 そうして再び、静けさが根を下ろした。

 時折、びゅうという音を響かせて風が谷を駆け抜ける。

 まるでこの冬の終わりを惜しむかのように、雪は降り続けた。



「暗くなってきたな」


 ふいにマティアスが沈黙を割った。

 イーリスがぼんやりと外を眺めていた目を内へ戻すと、すでに外からの光は弱まり、洞窟内は暗闇に近づきつつある。


「待って、今明かりをつけるわ」


 そう言ったイーリスは、手荷物からあらかじめ用意しておいたランプを取り出した。不測の事態に備えて、食料などの必需品をそれぞれ準備してきたのだ。

 石を使って火をおこすイーリスを眺めながら、マティアスが口を開く。


「あんたは、魔術を使わないのか?」

「うーん、カタリーナに教わったことはあるんだけど……才能、ないみたい」


 そう言って苦笑したイーリスは、布に移した火をランプの中へ入れた。薄暗い洞窟内が、一気に暖かな色に染まる。

 簡単な魔術くらい覚えておいて損はない、と言うカタリーナから魔術の指導を受けたのは、いつのことだったか。しかし初めは熱心に教えていたカタリーナの意気が萎れるほどに、イーリスは魔力の扱いが下手だったのだ。魔力量はそれなりにあるようなのだが、魔術師として重要な要素である「成形」が不出来だとなると致命的だった。


 彼女は、この「魔力の成形」がどうにも苦手だった。

 まだ幼かった頃、自分は未来視の力を扱えるはずなのだと信じて、必死に【女神の目】の鍵の成形をしようとしていたこと。試金石でもあるスルトの石が、輝くことなく沈黙を保ち続けていたこと。それを、思い出してしまうからかもしれない。

 未来を手繰り寄せようと無我夢中になるほどに、自分の未来が遠のいていくような気がした、あの日々を。


「……本当は、こういうときに使えたらいいんだけど。また練習してみようかしら」


 ゆらゆらと揺れる炎を見つめて呟く。隣で片膝を立てて座っているマティアスが、肩をすくめた。


「この村は、魔術に対して寛大なんだな」

「そうね。きっとスナールには【女神の目】があるから、不思議な力に嫌悪感がないの。やっぱり外の人から見ると変かしら?」

「他の集落では魔術は畏怖の対象だからな」


 イーリスは知識でしかそのような現状を知らないが、以前一度だけ、カタリーナから話を聞いたことがある。本人は言わなかったが、おそらくカタリーナ自身の経験なのだと察せられた。……それは、集団になったときの人間の残酷さを感じる話だった。


「あなたの村でも、そうだったの?」

「いや……俺の村はそうでもなかった。俺が個人的に好かないだけだ」


 それは珍しい話だ、とイーリスは思った。


「あれ、そういえば出身はどこ?」

「……南の乾燥地域だ」

「クリヴァスの出身なの? ああ……だから旅慣れしているのね」


 この地から南に位置する、クリヴァスと呼ばれる乾燥地帯には、緑の少ない荒野が広がっている。自然の影響を受けやすく、干ばつが起こるたび、そこに息づく集落は水を求めて旅をするという。そうした厳しい環境で暮らしているからか、この地域の民は闘争心が旺盛である。

 そこまで考えて、かのアルド族もまた、クリヴァス地方が発祥ではなかったか――と思い至った。


「クリヴァスの出身だったら……あなたの村は、アルド族の侵攻は受けなかったの?」

「俺の村は、もうない。だからこんな身の上なんだろ」


 何てこともないように言った男に対して、イーリスは少し眉を下げた。


「そう……悪いことを聞いたわ」

「別に。大した愛着もなかったし――」


 そこまで言って、男は口をつぐんだ。

 また、あの表情だ――。イーリスは、遠くを見たまま動かないマティアスを見つめながら、そう思った。

 やがて視線を感じたのか、マティアスがイーリスの方へと顔を向ける。そして彼女が見ていることに気が付くと、不快そうに眉を顰めた。


「そんな風に見るな。同情なんて煩わしいだけだ」


 思わぬ反応が返されたことに驚き、慌てて首を振る。


「違うの、そうじゃない。……そうじゃないんだけど……」


 言い募ったとき、視界の隅に暖かな光が見えた気がしてイーリスは言葉を切った。

 今二人で囲んでいるランプの光ではない。洞窟の奥から、わずかに漏れる光だ。橙色のそれは、炎の光に見えた。


「――誰か、いる……?」

「なに?」

「炎の光が……」


 だが言い終わる前に光は萎むように弱まり、あっという間に暗闇に戻ってしまう。イーリスが指差した方向を見やったマティアスは、眉を顰めたまま言った。


「……気のせいじゃないのか?」

「ううん、気のせいじゃない。……この奥、何があるのかしら」

「行き止まりだろ」


 はあ、と息を吐いたマティアスの言葉を聞かなかったわけではない。それでもなぜか諦めきれず、イーリスは立ち上がった。


「私、ちょっと見てくる」

「おい」


 幅が徐々に狭まっていく洞窟は、左手へ向かってゆるやかに曲がっているようだった。ランプをかざしてみても、岩壁が照らされるばかりで先は見えない。

 いざ先へ進もうとすると、背後に足音が重なった。


「……ついてくるの?」


 振り返って見上げると、マティアスが面倒くさそうにランプを指差した。


「あんたにそれを持って行かれると、こっちは真っ暗なんだよ」

「あ、そっか。ごめんなさい」


 イーリスは苦笑しながら謝る。だが、マティアスも一緒ならば心強い。気を引き締め直すと、イーリスは暗闇の広がる前方へと視線を戻した。


 ランプの光は心もとないもので、数歩先までしか照らしてくれない。岩肌に手を這わせながら、ゆっくりと奥を目指した。

 風が吹き抜けていく感覚はない。マティアスの言うとおり、確かに行き止まりではあるのだろう。

 では、先ほどの光の正体は?

 まさか野盗だろうか。イーリスは知らず、険しい表情になった。今回はシモンの捜索が目的だったこともあり、イーリスもマティアスも、護身用程度の武器しか持ち合わせていない。マティアスはともかくとして、イーリスは自分が足を引っ張ることにならないか不安を覚えた。


 突然、空間が開けた。

 ほんの十数歩進んだところで、岩壁に這わせた右手が空を掴んだのだ。

 イーリスは、手に持ったランプを大きく掲げて周囲を見渡した。心配していたような人間の気配はない。


「ここは……」


 そこは入口近くの空間とよく似た、円形の広場になっていた。中央に立って照らせば、ランプの光がかろうじて広間の隅にまで届くだろうというほどの広さだ。

 しかしそこは、入口の広場とは明らかに異質だった。

 ランプの光を反射して、岩肌がきらきらと輝く。あたりを取り囲む岩肌全体に光の粒がちりばめられた様子は、まるで星空のようだった。

 一面の岩肌が、大量の透き通った赤い石を抱いているのだ。


「すごい。スルトが……こんなにたくさん」

「原石だな」


 呆然と周囲を見上げるイーリスの背後で、同じように岩肌を見上げているだろうマティアスが呟いた。

 そう、一面に広がるのはスルトの原石。


 無数の赤い鉱石が、静かに訪問者を見下ろしていた。

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