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Limheim ―女神の目を持つ者―  作者: かや
冬の終わりに
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第9章 放っておけない

 この村を半円の形で取り囲む山は、それほど高くはないものの地形が複雑である。勾配の差が激しい坂に紛れて突然深い谷が口をあけ、壁のような崖が聳えたつ。そのため慣れた者であっても、良く知る場所以外にはできるだけ深入りしないようにしている。特に雪が深いこの時期は尚更である。

 アベルの父であるシモンはもちろん山に慣れていたはずだが、何かしらの事情で山を抜け出せない状態に陥ってしまったに違いない。それに加えて先ほどの雪崩だ。村から見たところだと、さして大きなものではなさそうだが、だからと言って安心はできない。


 二十人ほどの捜索隊が、山のふもとに広がる森の入り口に集まった。この森を抜ければ、問題の小高い山にぶつかる。

 イーリスらは、事前にアベルやシモンの知り合いから聞いた情報をもとに、普段シモンが狩りをしている地帯を割り出した。そのあたりを中心にして、いくつかの組で手分けして捜索することにしたのだった。

 普段農場でシモンと顔を合わせている者たちは、特に落ち着かない様子だ。それは仕方のないことだろう。だが今にも山へ向かって飛び出していきそうな彼らを見て、イーリスは不安を覚えた。この焦りが、嫌な方向へ結びつくような気がするのだ。


「日が暮れたら、一度ここへ戻ってきて。分かっているとは思うけど、夜の山は危険だから」

「だけど、一刻を争うんだ。そんな悠長なことはしていられない!」


 案の定、方針を告げた途端に一人が声をあげた。それに同調するように、農場からやってきた数人たちから怒号が飛んでくる。

 それでもイーリスは、静かに首を振った。


「わかってる。でも、シモンはもちろん、みんなの命も大切なのよ」

「だが――!」

「みんな落ち着け。族長の言うとおりだ。お前たちが一緒になって遭難したら元も子もないんだ」


 熱くなりかけた農場の男たちを制したのは、その農場の頭であるヨナスだった。ヨナスの厳しい声音に、詰め寄っていた数人の男たちがぐっと押し黙った。


「みんなお願い、焦らないで。…大丈夫、また明日の朝捜索を再開すればいい。シモンは山には慣れてる。無事に一晩明かすくらいできるはずよ。みんなにだって家族がいるんだから、自分の命は大切にして」


 そう言いながら、いつも元気なアベルの、痛々しく憔悴した顔を思い出す。彼の家族は父親であるシモンだけだ。

 あの明るい笑顔を、絶対に守らなくてはならない。


「――必ず、助け出しましょう」


 そう、自分へと言い聞かせた。

 大きな声ではなかったが、その決意が伝播したようだった。焦りで落ち着かない様子だった周囲の者が一瞬息を詰める気配がした。彼女の言葉は少しずつ彼らへと染み込み、そして少しののち、人々は静かに頷いた。

 すでに捜索隊に蔓延っていた嫌な焦燥感は消えていた。


「いやな空だな…」


 ふいに隣でヴィクトールが呟いたのを聞いて、イーリスも空を見上げる。

 先ほどまで薄雲に覆われていた空は、いつの間にか、不吉な重たい色へと変わり始めていた。



*



「シモン! 聞こえたら返事して!」


 まだ雪深い山に入り、声を上げる。だが鬱蒼とした山は沈黙を守るばかりで、今の声も降り積もった雪に阻まれて、どこまで届いているのかさえ怪しい。


「無駄だ、このあたりには誰かがいた痕跡がない。体力の無駄遣いだな」


 そこで、同行しているマティアスが辺りを見やりながら言った。

 確かに、このところ雪が降っていないにもかかわらず、辺りは足跡のない雪に覆われたままだった。


「…そうね。もう少し先に行ってみましょうか」


 二十人余りの捜索隊は、それぞれ二人から三人ずつに分かれて散らばった。体力のあるヴィクトールが山頂付近を担当することになったため、外部の者であるマティアスは必然的にイーリスと組むことになった。


 凍りつく雪を、ざくざくと音を鳴らしながら踏みしめて歩く。このあたりは斜面も比較的緩やかで歩きやすい。ただ、突然地面に亀裂が入っている地点もあるので、穴があいていないか、よく先を見ながら歩く必要があった。


「最近、怪我の調子はどうなの?」

「まあ良好だ。少し引きつれるような感覚はあるが問題ない」

「そう、よかった。旅人のあなたにとって、足は生命線だものね」


 心からほっとしてイーリスが言うと、背後を歩くマティアスがいつものように鼻を鳴らして笑う気配がした。


「ここの連中はお節介が多いな。特にあんたがそうだ」

「私? …どうしてかしら。放っておけないの」

「余計なお世話だ」

「ふふ、そうね、言うと思ったわ」


 期待通りの返答に少し笑う。

 辺りはだんだん薄暗くなってきた。まだ日の入りの時間ではないが、天候が思わしくないのだ。先ほど他の者にはああ言ったが、このまま捜索を打ち切るのはつらい。だがこれまでに手がかりになりそうなめぼしいものは何一つ見当たらなかった。

 凍った雪を踏みしめる規則的な音だけが、響く。

 その規則的な音を聞いているうちに、なぜか、言うつもりもなかったことが口から零れ出た。


「あなたの目を見ていると――ときどき、悲しくなるのはどうしてかしら」

「――なに?」


 後ろから、訝しげな声がかかる。それはそうだろう。突拍子もないことを言っているという自覚は、イーリスにもあるのだから。


「…あなたが皮肉っぽく笑うと、ときどき悲しい気持ちが流れ込んでくるような気がして。気になって、放っておけない」


 皮肉に口元を歪める笑いは、彼の象徴的な表情でもある。しかしその中に、時折胸がざわめくような感情が見え隠れするのには、ずいぶん前に気付いていた。そしてそれに気づいてから、彼のことを意識の隅に置くようになっていた。

 恋愛感情ではないが、――言うならば、本能的なものであるような、気がする。

 確かに元来世話焼きな面を持ち合わせているイーリスではあったが、自身でもこの感情に説明は付けられなかった。

 息を飲むような気配ののち、やがてマティアスはふっと笑ったようだった。


「……それで口説いてるつもりか? 下手くそだな」

「ち…違うわよ。この非常時に」


 だが確かに、そうとしか取れない台詞であったと思い至る。

 言葉が口をついて出てくるままに喋ってしまったが、冷静になって徐々にイーリスは気まずくなってきた。


「ごめんなさい、変なこと言ったわ。忘れて――」


 言いながら前に踏み出した足元が、やけにおぼつかないことにイーリスは気付いた。一瞬眩暈でもしているのかと思ったが、すぐにその原因に思い至る。それと被さるようにマティアスの声が追いかけてくる。


「! おい、そっちの足元―――」

「っ!!」


 どうやら自分は落ちているようだ、とやけに冷静に考えているのは誰だろうか。

 踏み出した足を受け止めるはずの大地は存在せず、足元の雪の向こうには空洞が広がっていた。


 状況が呑み込めないまま目を閉じたイーリスは、襲い掛かってきた衝撃に意識を手放した。



*



「おい、起きろ。しっかりしろ」


 打ち所が悪かったのか、女は目を覚まさない。

 マティアスは小さく舌打ちして、頭上を見上げた。

 イーリスが落下したのは、成人男性二人分以上の深さの小さな谷だった。雪崩で中途半端に埋まったのか、谷に蓋をするように雪が覆いかぶさっており、その上に気付かず足を踏み入れてしまったのだろう。

 自力で崖を伝って降りて来たのはいいものの、イーリスが気絶から目を覚まさないのは誤算だった。そしてなお悪いことに、曇天から雪がちらつき始めていた。これでは彼女を担いで崖を登ったとしても、二次災害を起こしかねない。

 男は、もう一度舌打ちをした。

 やわらかな金髪を雪に散らした女を見下ろす。雪が積もっていたのが幸いしたのか、外傷はそれほど酷くない。

 そうしている間にも、先ほどのイーリスの言葉が頭をちらつく。それはひどく煩わしく思えた。


「やはり、あんたは――」


 マティアスはそこまで呟くと、眉を寄せたまま言葉を飲み込んだ。

 雪まで降ってきたとなれば、ここで座り込んでいても仕方がない。せめて風をしのげる場所へ移動するべきだと判断すると、彼は意識のないイーリスを抱き上げた。

 辺りを見回す。それほど幅のない谷は、全長はそれなりにあるようだった。もしかすると河川の名残なのかもしれない。山頂方面は雪崩でふさがっているため、ふもとの方向へと歩き出した。


 だが、十歩も歩かぬうちにマティアスは足を止めた。

 何かの力の奔流を感じて、左手を見やる。そこは他と何の変わりもない岩壁だ。


(まさか)


 彼はすっと眼を細めると、違和を感じる壁へと一歩近づいた。

 するとどうだろう。岩壁は水面が揺らぐように波打ったかと思うと、揺らぎの収束とともにぽっかりと訪問者を受け入れる口をあけていた。


「---見つけた」


 知らず、マティアスは口元を歪めて微笑んでいた。

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