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Limheim ―女神の目を持つ者―  作者: かや
冬の終わりに
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第8章 ある日の剣術教室

 足の自由がきくようになったマティアスは、もう文句を言われる筋合いはないとばかりにおおっぴらに槍術の訓練を再開した。時折裏庭でにぎやかな声が聞こえるのは、ヴィクトールやエルメルが一緒になって稽古に励んでいるからだろう。

 マティアスは自信家だが、確かにその腕は群を抜いていた。この村で一、二を争う戦士であるヴィクトールとも互角に渡り合っているという。まだ足が全快したわけでないことを考えれば、もしかしたらそれ以上の実力を持っているのかもしれない。



「おいあんた、ちょっと付き合えよ」


 昼食の席で、唐突にマティアスはにやっと笑って言った。

 ちょうど煮込んだ野菜を頬張ったところだったイーリスは、怪訝な表情で彼を見返した。前置きもなくそう言われても、何の話だか見当がつかない。


「世話になった礼に、稽古をつけてやる」


 礼という割には、有無を言わせぬ強引さをたっぷり含んだ、この男らしい言葉だ。眉を寄せたイーリスの隣で、食事を終えてふんぞり返って座っていたヴィクトールがそれを聞いて体を起こした。


「おー、そりゃいい。お前最近動いてなかっただろ? 族長として情けない腕になってるんじゃねえか」

「…もともとあなたたちほど強くもないもの。でも、そこまで腕は落ちてないわ」


 ようやく口の中のものを飲み込んだイーリスは不服そうに言った。

 ヴィクトールが自分を鍛えることに余念がないことはもちろんだが、蓋を開けてみればこのマティアスという男も負けず劣らずの武術馬鹿であった。この武術馬鹿の二人に敵うはずもないが、それでも基礎的な能力はあるほうだと思う。

 そう言ったイーリスに対して、男たちは非情だ。


「どうだかな。前に森で見た様子だと、素早い動きだけに頼り切っている節があるな」

「そうなんだよ。それはオレも前々から注意してることなんだけどな。なにぶんオレの専門は槍だから、うまく教えてやれねえんだ」

「確か、剣だったな? 俺もある程度なら扱える。それを食ったら裏へ出ろ」


 もはや脅しのような台詞である。

 稽古というのは建前で、身体を動かしたいだけに違いない。いつも相手をしているヴィクトールがやればいいのに、彼は観戦を決め込むつもりのようだ。

 本人の意思を無視して進められる会話に、イーリスは心底げんなりとした表情をした。


(私だって、やることがあるんだけど)


 だがもう何を言っても彼は聞く耳を持たないだろう。

 イーリスは返事も待たずに食堂を出て行く男の姿を半眼で追いながら、様々な言葉を芋と一緒に飲み込んだ。



*



 きれいに雪掻きされた屋敷の裏庭は、広い。

 もともとヴィクトールが村の若者たちを相手に、定期的に武術の指導を行っている場所でもある。成人男性数人が長い得物を振り回すことができるほどの広さを有していた。

 そんな庭の片隅。イーリスは植え込みに設置してある弓矢の的に手をつき、上がりきった息をどうにか整えようとしていた。


「もうへばったのか? もっと効率よく動かないからだ」


 その背後から笑いを含んだ声がかけられたので、彼女はきっと振り返り、その乱れ一つない憎たらしい顔を見た。


「実力の差がありすぎるの! 認めるわよ、あなたは強い。私はまだまだ未熟だって」

「わかっているなら結構。だからこその稽古だろう?」

「だから…もう…ちょっと待ってってば」


 イーリスとしても正直悔しくて仕方がないのだが、身体がちっとも言うことを聞いてくれない。

 心臓が、足りない空気を体中に運ぼうと暴れまわっているのを感じる。息を吸っても吸っても、とても間に合わないのだ。

 そんな彼女の様子を気にも留めていないのか、何やら思案顔で腕を組んていたマティアスはぼそりと呟いた。


「だが…腕力のなさを考えれば、素早さに任せて短期決戦に持ち込むのも、間違いではないのか」

「…もっと、早く言って」


 男がくっくと笑う声に、金髪を額に貼りつかせたイーリスは肩を落とした。


 この男は槍だけでなく、なんと剣の実力までも平均以上のものだった。

 とは言えイーリスも、マティアスの自信ありげな様子からある程度の覚悟はしていたのだ。だが、とりあえず手始めに、と練習用の剣を交わした瞬間、その実力の差に愕然とした。腕力だけの問題ではない。彼は剣を、まるで自分の腕の延長のように自在に操るのだ。数回の打ち合いの末、あっという間にイーリスの剣は宙を舞った。

 それからマティアスの言うままに打ち合いを続けているのだが、一向に彼に近づける気がしない。それどころか回数を重ねるごとに消耗し、今や剣を振ることさえ怪しい。


「そうやってすぐへばるのは、効率的に動かないからだ」

「さっき、聞いたわ…」

「小手先の力で剣に振り回されるな。身体全体で剣の動きについて行け」


 肩で息をしながら、イーリスは男に目を向けた。


「…どういうこと?」

「あんたは女だ、その分剣の重みに身体を持って行かれやすい。そこを無理やり腕の力で自分に引き寄せようとするから、結局振り回されて、無駄な体力を使う。もっと身体全体を使え。切り込むときは、腰を使って捻るような感覚だ」


 確かに、とイーリスは自分の剣さばきを思い描いた。

 先手必勝を信条とするあまり、力任せな動きをしすぎている節は多少なりとも自覚していた。そして、全ての戦いで短期決戦に持ち込めるのかと言うと、もちろん決してそうではないのだ。

 マティアスの的確な指示をゆっくり飲み込んだイーリスは、頷いた。


「…分かったわ、意識してみる」

「まてまて、ここらで休憩しとけ。ヘロッヘロじゃねえか」


 そうしてイーリスが剣を構えたのを見て、それまで屋敷の壁にもたれて様子を眺めていたヴィクトールがすかさず口を挟んだ。

 水を差されたイーリスは、少し唇を尖らせる。


「大丈夫よ」

「いーや、ここで無理する道理はねえだろ」

「…カタリーナが過保護、って言ってたわよ」

「な!? あいつめ…。…とにかく、水でも飲んで休め」


 イーリスの小さな反抗にヴィクトールは顔をしかめたが、前言を撤回する気はないようだ。そのまま用意してあった水筒をイーリスへ差し出した。

 それを見たマティアスがふっと笑って剣を下したので、イーリスは水を受け取って休憩することにした。



 庭に備え付けられた大きな長椅子に並んで腰掛け、一息つく。

 まだ夕刻とまではいかないものの、日は傾き影が伸び始めている。裏庭に一本だけ植えられた樹が、淡い太陽の光を受けて、足元に複雑な模様を描き出していた。


 喉を潤し、人心地ついたイーリスは、ふと右手に座ったマティアスが練習用の剣で何かをしているのに気が付いた。相変わらず奔放な行動を取るものだと思いながら、観察する。

 座ったまま上半身をやや屈めた彼は、ざりざりと音を立て、剣先で土をひっかいて――いや、絵と思われるものを描いているようだった。イーリスの左に座っていたヴィクトールも目に入ったのか、訝しげにその足元を見やってから、尋ねた。


「……何描いてんだ?」

「犬」

「うそでしょ?」


 真顔での返答に、思わず問い返してしまう。というのも、彼の足元にある不可思議な紋様はとても犬には――もっと言うなら生き物には見えなかった。確かに、数ある曲線の中から頭部と思われる部分を見付ければ、獣に見えないことも、ないかもしれないが。


「文句あるか」

「文句、っていうか…」

「へったくそだな! わはははは!」


 なんとか言葉を濁そうとした努力をこともなく無碍むげにしたヴィクトールに、イーリスはじっとりとした視線を寄こす。それに対して当のマティアスは自覚があるのか、ふんと鼻を鳴らして「ほっとけ」と言っただけだった。その表情が柄にもなくふてくされたように見えて、イーリスはつい笑ってしまった。


「何だよ」

「ううん…それにしても本当にあなた、強いわよね。独学なの?」


 彼は長らく旅をしていると聞いた。危険の多い外の世界で生き残るための力を、その生活の中で自然と身に着けたとしても不思議はない。

 だがマティアスは、小さく否定の言葉を紡いだのだった。


「いや…師匠、のようなものがいた。ガキが相手だろうと容赦なく打ち負かす人でなしだ」


 あんまりな言いようだが、それでもヴィクトールは興味津々な様子で目を見開く。どうやら好意的に捉えたようだった。


「へえ。そりゃあ優秀なお師匠さんなんだな。結果的にお前をそれだけ強く鍛えたんだ。信頼関係がないとそこまでできねえよ」


 そこでマティアスは、一瞬虚を突かれたような表情になった。その無防備な表情に、イーリスもまた驚いて動きを止めた。


「…どうしたの?」

「……いや。そう、だな。そうかもしれないな」


 独り言のように声を落とした男はなぜか、眉を寄せ、複雑な表情をしていた。何かを抱え込んでいるような様子に、心配になる。余計なお世話だと言われるだろうが、何かに突き動かされるようにイーリスは言葉を重ねようとした。


 しかし、突然割り込んできた幼い声にそれは阻まれた。


「ぞくちょー!」


 焦りを多分に含んだ声でイーリスを呼んだのは、先日旧屋敷の倉庫で遊んでいた少年、アベルであった。

 常ならばいたずらに目を輝かせている少年は、今日は何かに追い詰められたような表情で駆け寄ってくる。そのただならぬ様子に、イーリスは息を切らしているアベルの前に跪いて目を合わせた。


「アベル? どうしたの」

「大変なんだ、雪崩が、父さんがっ」

「アベル、落ち着いて。お父さんがどうしたの?」


 拾い聞いた単語から嫌な予感がしつつも、根気よく問い直す。一緒になって焦ってはだめだ。ここは自分がしっかりしなくてはとイーリスは自分に言い聞かせる。


「父さんが、朝に狩りに出てから帰ってこないんだ…それで、それで、心配になって山の近くまで様子を見に行ったら、さっき山で雪崩が」

「なんだって!」


 イーリスの後ろに立って話を聞いていたヴィクトールが声を上げた。最初に予感した通り、やはり事態は深刻であるようだった。


「お父さんは、いつ帰ってくるって言ってたの?」

「お昼には帰るって。今日はおれがお昼ご飯を作るから、絶対に帰ってくるって言ってたのに…」


 言いながら、アベルの瞳はみるみる潤んでいく。

 アベルの家は、父子家庭だ。母親が早くに亡くなっているため、父親が一人でアベルを育ててきた。そしてこの親子の仲睦まじい様子はよく知られている。確かに約束をしておきながらこの時間になっても戻らないとは、常にないことだろうと思われた。

 目にいっぱいの涙を浮かべた少年の頭を優しく撫で、イーリスは努めて冷静にアベルへと言い含めた。


「わかった、落ち着いて。私たちがすぐに山へ見に行くから。アベルは診療所でアンネリカとカタリーナと一緒にいて。いいわね?」

「わ、わかった…」


 こくりと頷いたアベルを安心させるように微笑んだイーリスは、立ち上がって後ろに控えていたヴィクトールに向かい合った。


「おう、どうする? うかうかしてると日が暮れる。さっさと人手を集めて探しに行こうぜ」

「そうね。まずは農場に行って、声をかけましょう。捜索には私も行くわ」


 この村で若い者の手が借りられる場所と言えば限られてくる。この時間であれば農場ではまだ多くの者が働いているだろう。彼らに声をかけ、手分けして捜索すればいい。

 と、それまで黙って話を聞いていたマティアスがゆっくりと椅子から立ち上がった。


「…俺も行こう」

「助かるわ。ありがとう」

「別に。治療費の一部にでも入れておいてくれ」


 そう言いながら彼は、一人で診療所へ向かって歩き出していたアベルの方へと数歩近づくと、おもむろに声をかけた。


「おい、坊主」

「!」


 背を向けたマティアスの表情は見えないが、突然見知らぬ男に呼び止められて振り返ったアベルは一瞬顔をひきつらせたように見えた。

 だが、間を置いて続けられた言葉にすぐにぽかんとした表情になる。


「…大丈夫だ、お前の親父は無事に見つかる」

「えっ…」

「分かったら、さっさと行け。余計なことしようとしないで、大人しく待ってろ」

「う、うん」


 犬にするようにアベルへ追い払う仕草をすると、マティアスはもうそちらに興味がなくなったかのように身を翻して戻ってきた。

 その先ではマティアスが思いがけず励ましの言葉をかけたのに対して、ヴィクトールが目を丸くしている。


「なんだお前、意外に子供に優しいんだな」

「何のことだ?」

「照れんなって、わはは」


 その緊張感に欠ける様子に呆れて眉を寄せたイーリスは、ひと際大きな声を出して男たちの会話に割り込んだのだった。


「二人とも! 無駄話は後にして、急いで農場に行くわよ」

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