浮気した婚約者に、別れると言ったら驚かれました。
「え? それだけで別れるの?」
二年間付き合い、三か月後には結婚する予定だった彼氏は、私が別れを告げると本気で驚いた。
「それだけって、浮気のこと?」
「いや、悪かったとは思ってるよ。でも、結婚するのはお前なんだからさ」
私は目の前の男を見つめた。
昨日、友人から一枚の写真が送られてきた。
彼が見知らぬ女性と腕を組み、ホテルに入っていく写真だった。
問い詰めると、彼はあっさり認めた。
「ちょっと遊んだだけだよ。本気じゃないって」
「じゃあ、私が別の男と遊んでもいいの?」
「は? それは違うだろ」
「何が違うの?」
「だって、俺はお前と結婚するつもりなんだぞ?」
その瞬間、私は怒りよりも先に、ぞっとした。
この人、もしかして本当にわかっていない?
結婚という重大な約束を破ったことを、ちょっとした失敗程度に考えている?
「ねえ。あなた、結婚したあとも同じことをするつもり?」
「しないって。だから謝ってるだろ」
「でも、今回だって悪いことだと思ってなかったんでしょう?」
「悪いとは思ってるよ。ただ、結婚をやめるほどのことじゃないだろって話」
ああ、駄目だ。
この人とは結婚できない。
結婚すれば、家計も住まいも将来の計画も、二人で相談して決めることになる。
その相手が、重大な約束を破っても「それほどのことじゃない」と言い出したら?
何を信用して生活すればいいのだろう。
「別れましょう。結婚も中止する」
「だから、なんでそうなるんだよ!」
「あなたを信用できないから」
彼は呆れたように笑った。
「二年だぞ? 二年も付き合って、たった一回の浮気で全部なしにするのか?」
「そうよ」
「お前、絶対後悔するぞ」
「後悔するかもしれない。でも、信用できない人と結婚するほうが怖い」
彼は最後まで納得していなかった。
「まあ、少し頭冷やせよ。どうせすぐ考え直すだろ」
その言葉を聞いて、私は結婚を中止する判断が正しかったと確信した。
◇
私たちは半年前から同棲していた。
ただし、部屋の契約者は私。彼が私の部屋に引っ越してきた形だった。
だから、荷物をまとめて出ていってもらうことになった。
結婚式場のキャンセル、両家への説明、共同で購入した家具の精算。
面倒な手続きは山ほどあった。
式場のキャンセル料は、浮気が原因であることを踏まえ、彼が負担することで合意した。
彼は不満そうだったが、最後には了承した。
一週間後、荷物を運び出した彼は、玄関で言った。
「意地張るのもいいけどさ。三十歳なんだから、結婚したいなら時間ないぞ」
「そうね。でも、あなたとは結婚しないから」
「……あとで泣きついても知らないからな」
「うん。お元気で」
扉を閉め、鍵をかけた。
これで終わり。
私は彼の連絡先を消した。
もう、あの人と関わる理由はない。
その日の夕食は、彼が嫌いだった辛いカレーにした。
思い切り辛くして、一口食べる。
「おいしい!」
久しぶりに、自分の好みだけで作った料理だった。
◇
三か月後。
大学時代からの友人と食事をしていると、元彼の話になった。
「ねえ、あいつの話、聞いた?」
「ううん。何かあった?」
「実はさ、あいつ、いろんな人に婚約を解消されたって相談してたんだよ」
「へえ」
「最初はみんな同情してたんだけどね。理由を聞いたら、浮気したって言うじゃない」
私は水を飲んだ。
「それで?」
「謝ったのに許してくれない、二年も付き合ったのにおかしいって、ずっと言ってたんだって」
友人は呆れた顔をした。
「みんな、相手が嫌だって言ってるんだから諦めろよ、って答えてたらしいよ」
「そうなんだ」
「でもね、本当はそれだけじゃないんだよ」
友人が声を落とした。
「この前、みんなで集まったときに話題になったんだけどさ」
『あいつ、ちょっとヤバくない?』
『結婚直前に浮気して婚約を壊したんだろ?』
『それを些細なことだと思ってるんだよな?』
『しかも、謝ったんだから許すべきだって。自分が約束を破ったのに、相手が悪いみたいに言ってるじゃん』
「……って感じになってた」
私は思わず頷いた。
そう。
私が怖いと思ったのも、そこだった。
「それに、浮気相手の女性も騙されてたんだって」
「えっ?」
「独身で、彼女もいないって聞かされてたらしいよ」
私は目を丸くした。
「じゃあ、その人も知らなかったの?」
「そう。婚約者がいるって知って、ものすごく怒ったらしい」
当然だろう。
普通に付き合っているつもりだった男性に、実は結婚予定の女性がいた。
冗談じゃない。
「しかも、あいつ、その女性にも『結婚する相手とは別だから問題ない』って説明したらしいの」
「……ええ?」
「相手は『問題しかないでしょ!』って怒って、その場で別れたんだって」
私は思わず額を押さえた。
彼は、私にも浮気相手にも、同じ理屈を使ったらしい。
自分が結婚相手を決めているのだから、ほかの人間は納得するべきだと。
「それで、浮気相手にも振られて、今は一人」
友人はため息をついた。
「それだけじゃないんだよ。昔からの仲間で、小さな共同事業を始める話があったでしょ?」
「ああ、彼が興味あるって言ってたやつ?」
「そう。それ、正式に動き始めたんだけど、あいつには声がかからなかったんだって」
「どうして?」
「信用できないから」
友人はあっさり言った。
「別に浮気したから仕事を任せないって話じゃないよ。でも、本人があちこちで、重大な約束を破っても謝れば許されるべきだって主張してるでしょ」
「うん」
「共同でお金を出す相手として、怖いって」
私は納得した。
仕事では、意見が食い違うこともある。
失敗することもある。
でも、約束を破ったときに、その重大さを理解できない人とは組めない。
「本人は怒ってるらしいけどね。浮気と仕事は関係ないだろって」
友人は苦笑した。
「でも、そういう話じゃないんだよね」
「そうだね」
「それに、最近は友達からも誘われなくなってるみたい」
「昔からの友達まで?」
「うん。会うたびに自分が被害者みたいな話をするから、みんな疲れちゃって」
友人はカップを置いた。
「結局、あいつ、自分で自分の信用を壊してるんだよ」
私は静かに頷いた。
彼は、私との結婚を失った。
浮気相手も失った。
友人からの信用も、仕事の機会も失った。
誰かに罰を与えられたわけではない。
自分の行動が、全部自分に返ってきただけだった。
「でも、昔からの友達まで離れていくなんて、ちょっと意外だった」
私がそう言うと、友人は真剣な顔になった。
「私含めてみんな言っているよ。嫌いだから距離をとるなんて話じゃない。怖いから距離をとったんだって」
その言葉に、私は深く頷いた。
私も、まったく同じ理由で彼と別れたのだから。
◇
それから一か月後。
私は新しいマンションに引っ越した。
日当たりのいいリビングに、広いキッチン。ずっと欲しかった大きな本棚も置いた。
今日は引っ越し祝い。友人たちが遊びに来てくれている。
「うわ、いい部屋!」
「キッチン広いね!」
「ふふん。いいでしょ!」
私は得意げに笑った。
テーブルには、朝から張り切って作った料理が並んでいる。
もちろん、私の大好きな辛いカレーも。
「おいしい! おかわりしていい?」
「もちろん!」
友人のお皿にカレーをよそっていると、別の友人が声を上げた。
「そうだ! 来月の温泉旅行、予約できたよ!」
「やった! 楽しみ!」
「帰りに有名なケーキ屋さんにも寄ろうね」
「絶対行く!」
みんなが笑った。
「ねえ、最近すごく楽しそうだね」
隣の友人が、嬉しそうに言った。
「うん。毎日楽しいよ!」
好きな家で、好きな料理を作って、大切な友人たちと笑い合う。
私が欲しかった幸せは、こんなに身近なところにあった。
「さて、デザートもあるよ!」
「やったー!」
私は笑いながら立ち上がった。
窓の外には、気持ちのいい青空が広がっていた。




