第9話 もう遅い、と私は微笑んだ
北方魔導研究所、正門。
雪を踏みしめ、一台の王城馬車が止まっていた。
王家紋章。
緊急使者の旗。
研究員たちがざわめく。
「本当に来た……」
「王都が頭を下げに?」
扉が開く。
降りてきたのは――見覚えのある人物だった。
「……宮廷魔導士長、グレイン様」
リリアは小さく呟いた。
王都で何度も見た顔。
だが今の彼は、別人のように疲れ切っていた。
アルヴィンが一歩前へ出る。
「用件は」
冷静な声。
歓迎の色はない。
グレインは深く頭を下げた。
公爵にではなく。
リリアへ。
「……リリア嬢」
周囲が息を呑む。
宮廷魔導士長が、頭を下げている。
「王都を、救っていただきたい」
沈黙。
雪が静かに降る音だけが聞こえる。
「都市結界が崩壊寸前です。現行術式は我々には解読できません」
彼の声は震えていた。
「調査の結果、結界補助層の大半があなたによって維持されていたと判明しました」
研究員たちがざわつく。
リリアは言葉を失った。
「我々は……あなたの仕事を理解していなかった」
さらに深く頭を下げる。
「非礼を詫びます」
王都最高位魔導士の謝罪。
あり得ない光景だった。
だが。
胸の奥は、不思議なほど静かだった。
「……どうして今、分かったんですか」
自然に言葉が出た。
グレインは苦く笑う。
「あなたがいなくなったからです」
その一言が、すべてだった。
沈黙。
そして彼は続ける。
「王太子殿下も謝罪を望んでおられます。どうか王都へ――」
「お断りします」
言葉は、驚くほど穏やかだった。
周囲が凍りつく。
グレインが顔を上げる。
「……理由を、伺っても?」
怒りはなかった。
ただ確認するような声。
リリアは少し考えた。
そして正直に答える。
「私は、役立たずだったはずですから」
空気が痛いほど静まる。
「王太子殿下が、そう判断なさいました」
責める口調ではない。
事実を述べただけ。
「追放は正式決定でした。つまり王国にとって私は不要な存在です」
グレインが言葉を失う。
「今さら戻る理由がありません」
静かな結論。
怒鳴りもしない。
責めもしない。
ただ、線を引いた。
それが何より重かった。
「……では、王国は滅びます」
グレインが絞り出す。
リリアは目を伏せた。
その時。
「一つ訂正しよう」
アルヴィンが口を開いた。
全員の視線が集まる。
「彼女は王国所属ではない」
淡々とした声。
「北方魔導研究所・特別解析官だ」
そして一歩前へ。
「交渉は対等に行え」
空気が変わった。
これは“懇願”ではない。
国家間交渉。
グレインが理解する。
「……条件を、提示していただけますか」
アルヴィンはリリアを見る。
決めるのは君だ、と。
初めて。
選択権が完全に彼女の手に渡った。
リリアはゆっくり息を吸う。
怖くない。
もう、否定される場所ではないから。
「三つ、お願いがあります」
「何でも」
「まず」
彼女は真っ直ぐ言った。
「研究所への正式支援。ここで開発した術式を王国インフラに採用してください」
研究員たちが息を呑む。
「次に、研究者の地位改善。補助作業も正式記録に残すこと」
グレインが強く頷く。
「必ず」
「最後に」
少しだけ間を置く。
「私は王都へ戻りません」
はっきりと告げた。
「遠隔支援のみ行います」
それは拒絶ではない。
境界線だった。
自分を守るための。
グレインは深く頭を下げた。
「……承知しました」
交渉成立。
その瞬間。
立場は完全に逆転した。
王国が求め、
彼女が選ぶ側になったのだ。
使者が去った後。
雪の中、リリアは小さく息を吐いた。
「……これで良かったんでしょうか」
アルヴィンが隣に立つ。
「最善だ」
即答だった。
「君は誰も見捨てていない。ただ、自分を守っただけだ」
その言葉に、胸の奥の重さが溶けていく。
遠く、王都の空がわずかに光った。
救済は始まる。
だがもう――
彼女が戻ることはない。




