第8話 「彼女しか不可能です」と告げられた日
王都。
空が、歪んでいた。
都市上空を覆う結界に、細かな亀裂の光が走っている。
まるでガラスが割れる直前のように。
「維持率、六十二%!」
「魔力供給が追いつきません!」
宮廷魔導塔は混乱の極みにあった。
魔導士たちが走り回り、命令が飛び交う。
だが状況は悪化する一方だった。
「解析はまだか!」
魔導士長グレインが怒鳴る。
「不可能です!」
「何?」
「術式が多層化しすぎています。意味構造が解読できません!」
机に叩きつけられる報告書。
そこには無数の修正跡。
そして――空白。
理解不能部分。
「三日前まで安定していたんだぞ!」
若い魔導士が震える声で言った。
「安定させていた“何か”が消えたんです」
沈黙。
誰も名前を言わない。
だが全員、分かっていた。
◇
王城・緊急会議室。
重苦しい空気が漂う。
レオンハルト王太子の前に、魔導士長が跪いた。
「結論を申し上げます」
「言え」
「現行結界は、あと三日持ちません」
部屋が凍りついた。
「……冗談だろう」
「事実です」
「再構築しろ」
「不可能です」
即答だった。
「術式の根幹翻訳が欠落しています」
王太子の顔色が変わる。
「翻訳……」
「はい。現在、王国には解読可能な人材が存在しません」
その言葉は、刃だった。
沈黙の後。
魔導士長が、覚悟を決めたように続ける。
「ただ一人を除いて」
全員が顔を上げた。
「……誰だ」
答えは分かっていた。
それでも聞かずにはいられない。
「リリア・フォン・エルセイド伯爵令嬢です」
空気が完全に止まった。
レオンハルトの手が震える。
「……彼女は、無能だったはずだ」
誰も肯定しない。
魔導士長は静かに言った。
「殿下。過去の術式記録を調査しました」
書類が差し出される。
「過去五年間の重大魔法事故。その八割が、発生前に修正されています」
「……それが?」
「すべて、彼女の筆跡でした」
言葉が失われる。
「公式記録には残っていません。補助作業として処理されていました」
つまり。
誰も気づかないまま。
王国は守られていた。
一人の令嬢によって。
レオンハルトの視界に、記憶が蘇る。
会議室の隅。
静かに資料を読む姿。
『ここ、少し意味が違うと思います』
軽く流した声。
笑われていた姿。
そして。
自分が突きつけた言葉。
『君の魔法は無能だ』
胃の奥が冷たくなる。
「……呼び戻せ」
かすれた声だった。
「直ちに」
だが魔導士長は動かなかった。
「殿下」
「なぜ動かん!」
「問題があります」
「何だ」
静かな一言。
「彼女は、追放されています」
言葉が重く落ちる。
そうだ。
自分が。
公の場で。
捨てた。
◇
北方魔導研究所。
観測水晶が強く光っていた。
「王都結界、危険域ですね」
研究員が呟く。
リリアは心配そうに空を見る。
「崩れるんでしょうか」
「可能性は高い」
アルヴィンが答えた。
「……助けられますか?」
彼は少しだけ考えた。
そして言う。
「君なら可能だ」
「私なら?」
「だが」
視線が柔らかくなる。
「助ける義務はない」
リリアは息を止めた。
「君はあの国に切り捨てられた」
静かな声。
「選ぶのは君だ」
初めてだった。
“役割”ではなく、“意思”を問われたのは。
その時。
研究所の門で鐘が鳴った。
来訪者。
緊急使者の合図。
研究員が駆け込んでくる。
「王都から使者です!」
全員が動きを止めた。
アルヴィンは小さく息を吐く。
「……来たか」
リリアの胸が強く鳴る。
運命が。
再び動き出そうとしていた。




