第7話 あなたは、最初から特別だった
北方魔導研究所の夜は静かだ。
昼間の喧騒が嘘のように、廊下には灯りだけが並んでいる。
私は一人、資料室に残っていた。
石板の翻訳記録。
生活術式の改良案。
山積みの紙。
ペンを走らせながら、ふと手が止まる。
(……楽しい)
思わず笑ってしまった。
魔法を読むことが、こんなにも心地よいなんて。
王都では義務だった。
失敗できない仕事だった。
でも今は違う。
誰かの期待に怯えなくていい。
――その時。
「まだ起きていたのか」
低い声。
振り向くと、アルヴィンが立っていた。
「閣下」
「アルヴィンでいい」
即座に訂正される。
「ここでは肩書きは意味を持たない」
少し迷って。
「……アルヴィン様?」
「様もいらない」
淡々とした顔のまま言う。
けれど、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
彼は机の資料を見た。
「休んでいないな」
「気づいたら時間が……」
「研究者の悪癖だ」
そう言いながら、湯気の立つカップを差し出す。
「温茶だ。集中力が落ちている」
「ありがとうございます」
受け取ると、じんわり温かい。
胸の奥まで染み込むようだった。
沈黙。
不思議と居心地が悪くない。
「……王都のことを考えていたか」
唐突に言われ、手が止まる。
「少しだけ」
嘘はつけなかった。
「私、本当に役に立っていたんでしょうか」
ぽつりと零れる。
「向こうでは、何もできないって言われていて」
言葉にすると、胸が少し痛んだ。
アルヴィンはすぐには答えなかった。
椅子を引き、向かいに座る。
真正面から視線が合う。
「質問を変えよう」
「?」
「ここでの君は、役に立っていると思うか」
私は周囲を見る。
動き続ける術式。
完成した装置。
研究員たちの笑顔。
「……はい」
小さく頷く。
「なら答えは出ている」
静かな声だった。
「環境が間違っていただけだ」
その言葉は、驚くほど真っ直ぐだった。
「才能は場所によって価値を変えない。理解できる者がいるかどうか、それだけだ」
私は言葉を失った。
そんな風に考えたことがなかった。
「君は王都でも同じ仕事をしていた」
アルヴィンは続ける。
「ただ、誰もそれを理解しなかった」
「……」
「無能だったのではない」
彼ははっきり言った。
「周囲が理解不能だっただけだ」
思わず笑ってしまう。
「それ、すごく失礼じゃないですか?」
「ああ」
彼は平然と頷いた。
「だが事実だ」
少しだけ沈黙。
暖かな空気。
外では雪が降り始めていた。
「リリア」
名前を呼ばれる。
優しくも命令でもない声。
「君は、自分を過小評価しすぎている」
「……癖みたいなものです」
「なら矯正しよう」
「矯正?」
「研究所責任者としての業務だ」
さらりと言う。
けれど次の言葉は、少し違った。
「それに」
わずかに視線を逸らしてから。
「君が自分を低く見るのは、気分が良くない」
心臓が跳ねた。
「え?」
「優秀な研究者が不当に扱われるのは損失だ」
理屈のようで。
でも、どこか個人的で。
私は視線を落とした。
カップの湯気が揺れる。
「……アルヴィンは」
気づけば聞いていた。
「どうして、私を信じたんですか?」
即答だった。
「最初に会った時、結界を直しただろう」
「はい」
「迷いがなかった」
彼は言う。
「理解している者の動きだった」
そして少しだけ微笑む。
「だから確信した」
静かな声で。
「君は、最初から特別だ」
胸の奥が熱くなる。
否定も、反論もできない。
ただ――嬉しかった。
こんな風に言われたのは、生まれて初めてだった。
窓の外、雪が静かに積もっていく。
王都では今も混乱が続いていることを、
この時の私はまだ知らない。
けれど。
確かに分かっていた。
ここが、自分の居場所なのだと。




