第3話 研究所が静まり返った日
北方魔導研究所の朝は早い。
夜通し実験をする者も多く、時間の概念が曖昧だからだ。
――そして今。
「……本当に最高等級研究員待遇なんですか?」
私は用意された部屋を見渡して、固まっていた。
広い。
広すぎる。
暖炉、書棚、研究机、魔力遮断カーテン付きの窓。
王都の自室より快適だった。
「公爵閣下の指示ですので」
案内してくれた女性研究員が苦笑する。
「閣下、人材を見る目だけは異常なんですよ」
“だけは”が少し気になったけれど、聞かないことにした。
ノックの音。
「リリア嬢、起きているか」
低く落ち着いた声。
アルヴィンだった。
扉を開けると、彼はすでに仕事着の黒衣姿だった。
「早速だが、手を借りたい」
「はい」
迷いなく答えた自分に、少し驚く。
王都では、呼ばれるたびに身構えていたのに。
◇
案内されたのは研究所中央ホール。
巨大な魔導具が鎮座していた。
円環状の装置。
複雑に絡み合う魔法陣。
不安定に揺れる光。
「転移補助装置だ」
アルヴィンが言う。
「三年前から停止している」
「停止……?」
「誰も“起動条件”を理解できない」
周囲には研究員が十数人。
全員、疲れた顔をしていた。
「王都の魔導士団も匙を投げた案件だ」
つまり――。
(失敗前提で呼ばれた?)
胸が少しだけ冷える。
「触れていい」
許可が出る。
私は装置へ近づいた。
魔力が、ざわめく。
まるで話しかけてくるみたいに。
そっと手を置く。
瞬間。
言葉が流れ込んだ。
古代語。
契約文。
制御命令。
(……違う)
私は目を見開いた。
「これ、起動しないんじゃなくて……」
振り返る。
「起動“できないように書き換えられています”」
ざわっ、と空気が揺れた。
「は?」
「改竄だと?」
研究員たちが騒ぐ。
私は術式を指差した。
「この部分、本来は『資格保持者のみ許可』です。でも――」
指で空中をなぞる。
魔力が文字として浮かび上がる。
「『王家血統限定』に変更されています」
沈黙。
「……それは」
一人の研究員が呟く。
「王族しか使えない設定ってことか?」
「はい。しかも鍵情報が削除されています」
つまり。
「永遠に起動しません」
完全な欠陥。
研究所が凍りついた。
アルヴィンだけが静かに聞いた。
「修正できるか」
私は少し迷った。
王都では、能力を見せるほど否定された。
でも。
(ここでは……違う)
期待されている。
それが分かる。
「……やってみます」
深呼吸。
魔力を流す。
文字を読む。
意味をほどく。
構造を戻す。
一文ずつ、正しい言葉へ。
まるで壊れた本を修復するみたいに。
最後の一節を書き換えた瞬間――
ゴォン。
低い音が響いた。
装置が光る。
魔法陣が回転を始めた。
「……起動した」
誰かが呟いた。
次の瞬間。
研究所中に歓声が爆発した。
「三年止まってたんだぞ!?」
「王都でも無理だったのに!」
「五分もかかってない!」
私は呆然と立っていた。
ただ、読んで直しただけなのに。
アルヴィンが隣に立つ。
「確認だが」
「はい」
「君は今、“意味を理解して”修正したな」
「……はい」
彼は小さく息を吐いた。
そして、はっきりと言った。
「やはり唯一だ」
「え?」
「魔力翻訳者」
その言葉に、周囲が静まり返る。
「失われた職種だ。文献でしか存在を確認されていない」
視線が一斉に集まる。
驚きと、敬意と、興奮。
王都では向けられなかった目。
「本日付で正式任命する」
アルヴィンは告げた。
「北方魔導研究所・特別解析官、リリア」
胸が震えた。
役立たずと呼ばれた私に。
役割が与えられた。
「歓迎する」
短い言葉。
けれどそれは――
これまで聞いたどんな賞賛より、温かかった。
私は初めて、自然に笑った。
「……よろしくお願いします」
その日。
北方魔導研究所は知ることになる。
王都が手放した令嬢が、
どれほど規格外だったのかを。




