40 たった二人の世界
「孝樹さん、大好きだよ!」
柔らかい笑みを浮かべて、さくらちゃんが言い放った。
暖かくて、甘味のある表情。真っ直ぐで、真剣で。思わず言葉に詰まる。
「孝樹さんが私を子供としか見ていないとしても、あなたが好き。大好き」
回された手のひらが、シャツを握っていた。
穏やかで、優しい笑顔のさくらちゃんが俺を見上げている。……その肩は、微かに震えていた。
魔法少女だったとしてもまだ子供なんだ。さくらちゃんは普通の女の子なんだよ。
怪物と戦うのが怖くたって、何もおかしなことはない。けど、それでも。彼女は俺が止めたって行くと言うのだろう。
だったら無責任に引き留めるなんてできない。
「最初は生まれ育った街が壊されて、誰かの悲しむ顔が見たくなかったからだった。でもあなたに出会って、あなたが身を挺して誰かを守る姿を見て、優しいあなたを、あなたが守る人たちごと守りたくなった」
優しい大人は、十六歳の女の子に世界の命運を任せたりしないんだよ。
ちゃんと、見極めなさいって言ったはずなんだけどなぁ。それがなければ。は、それがあるから悪い人なんだよ。
もっといい人いるんだからとか、言いたいことはいっぱいあるはずなのに。思ったように言葉が出てこない。
「こういうところが子供だって言われるのかもしれないけど、今この時だけは、大好きなあなたを守るために戦わせてほしい」
俺は決して正しい大人なんかじゃない。そういうフリをしているだけ。結局自分が一番かわいくて、いつだって逃げの一手で。
何をどう頑張ってもヒーローにはなれなくて。でも、そこで誰かを見捨てていけるほど、嫌なやつにもなりたくなくて。
何もかもかもが中途半端で。その癖にプライドだけは高くて。
「俺にとってさくらちゃんはまだ子供で、守るべき存在なんだ。危ないことはしてほしくない」
手の届く範囲にいてくれる内は、守ってあげたかった。守っているつもりだった。そうやって、自分が価値のある人間だと思いたかった。
本当はずっと守られていた。
ゆっくりと両手を持ち上げて、……空を握る。
一時の気の迷いと言うには、何もせず下ろした握り拳に力が入りすぎていた。
俺は、さくらちゃんの方を抱いてはいけない。
それをする資格がない。今の俺では。俺は、今の俺には何ができる? 俺は彼女に何を差し出せる?
「でもさくらちゃんは魔法少女で、俺や他の市民はさくらちゃんに頼る他なくて」
困ったように眉を下げて見上げるさくらちゃんに視線を落とす。
せめて、誠実に。
「それでも」
はっきり言って今の状況で俺は役立たずだ。怪物に対抗する手段を持たないただの一般人。急に空が暗くなって裂け目ができた理由すらわからない。
そんな俺にできることと言えば、彼女の気持ちを受け止めることだけ。
今更「その気持ちは一時の迷いだ」なんて常識人ぶるつもりもない。
俺は自分が可愛い。いい大人のフリが得意で、その癖後ろ指をさされたくもない卑怯者だ。
だったら、せいぜい悪い大人になってやる。魔法少女に世界の命運を背負わせるために、年若いお嬢さんの恋心だって利用してやる。
地獄に落ちたってかまわない。乙女の純情な恋心を弄んだ罰ぐらいいくらでも受けてやる。
固く握った手のひらを解いて、今度こそさくらちゃんの華奢な肩に触れた。
「それでも、ちゃんと帰ってくるのなら。これで終わりに出来るのなら、好きなだけ俺を好きになっていいよ」
そう答えることでさくらちゃんが無事に帰ってきてくれるなら。
責任だろうが何だろうが、受けて立ってやる!
年若いお嬢さんを頼るしかない不甲斐なさとか、俺がさくらちゃんをどう思っているかなんてこの際どうだっていい。
今一番重要なのは、さくらちゃんが、このわけのわからない状況を打破した後無事に帰って来られるかだ。世界がどうなろうが、この子が帰って来られなきゃ、意味がないんだよ。
怖いのを我慢して、ずっと戦い続けたさくらちゃんが、普通の女の子に戻れなきゃ本当に世界が平和になったとは言えないんだ。
「……うん! うん! 私、絶対帰ってくる! だから待ってて!」
ぱっと表情が明るくなるさくらちゃんが、ゆっくりと体を離す。ぬくもりが少しだけ名残惜しいがそんなこと言っていられない。
にっと、勝気な笑みを浮かべてさくらちゃんが「行ってきます」と言った。
これでよかったんだろうか。答えはない。
駆け出していく背中を見送る。軽々と屋根の上までジャンプしたさくらちゃんに、今更ながらに本当に魔法少女だったんだなと思った。
彼女が帰ってくるまでに、ちゃんと気持ちを切り替えよう。彼女が望んでくれたように、大人になれるように。きちんと、さくらちゃんの言葉の返事を考えよう。
俺が大切だと思ったあの子が、また笑いかけてくれるように。さくらちゃんがただの女の子として無邪気に笑えるように。
それが、今俺にできる精一杯の責任の取り方だろう。
「いってらっしゃい」
小さくなった背中に、誰もいない街で一人呟いた。
恋愛も成立していないし、世界も救われていない。でも二人の関係はようやく完成した。




