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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

忘れ物

作者: 飛水静


「忘れ物かな?」

 あるスーパーの一角、多目的トイレ。

流しのそばに財布があった。

 鈴木は誰もみていないのに、なんだか盗みをしているような居心地の悪さを感じつつ、桃色の小ぶりな財布を手に取った。

 マンガなんかでは、ここで脳内に天使と悪魔が登場して、自分の欲と理性とで葛藤する話に転がっていくものだが、鈴木は至極まっとうな人間だった。

「よし、店員さんに渡そう」

 そう言って鈴木は自分のカバンを手に取り、トイレを出た。ネクタイをきちんと締めた彼は、30代の会社員。昔は、憧れの人を追って警察官を目指していた。だが今は、そんな夢も追えなくなってしまった。

「…あの人、いまどうしてるかな」

憧れの人を思い出し、少し懐かしさをおぼえながら、彼は店員に話しかけた。


 この店で働くのも長そうな中年の店員から、店長に直接渡しに行ってくれと言われ、鈴木はバックヤードに足を踏み入れた。

 店員に指示された店長の部屋に近づくと、なにやら話し声が聞こえてきた。

「ね、あんたね、もうこういうことしちゃダメだよ」

 ドア越しに諭すような声。万引きだろうか。どんなに生活が苦しくとも、それはやってはいけないことだろうと、鈴木は元警察官志望として心の中で渋い顔をしていた。

 入りづらい雰囲気に困っていると、不意にドアが開き二人の人間が出てきた。

店のエプロンをつけたほうは店長だろう。

もう一方のうなだれたパーカーの人間があげた顔に、驚いた。


「…もしかして、潔子さんですか?」

伸びすぎた前髪と、あまりに濃い隈に面影はほとんどないが、その頬の傷だけははっきりと記憶に残る彼女の特徴だった。

「…ぁっ、す、鈴木くん…?」

彼女はほとんど聞き取れないほどの小さな声で僕を呼び、そして僕の足に気づくと、すぐにまた俯いてしまった。

 僕はこの偶然の出会いに驚き、さらに彼女のあまりの変わりようにも驚かされた。

 二人の訳ありげな様子に戸惑いつつも、店長は僕に向かって言った。

「あの、迎えの方とかですかね?」

 僕が店長に財布について説明すると、店長よりも先に彼女が反応した。

「っぁ、それっ、私のです」


 ことの顛末としてはこうだった。

彼女は多目的トイレに財布を置き忘れ、そのまま酒缶を手に取り、レジに向かい、財布がないことに気づいた。そしてそのまま酒缶を抱えて店を出ていこうとしたらしい。


「っぁの、払います、ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい…」

 彼女はひたすら謝罪の言葉を繰り返し、あろうことか必要な値段だけでなく財布の有り金すべてを渡そうとした。

「あんた、お金は必要な分だけでいいから、はやく役所かなんかで世話んなったほうがいいよ。もうこういうことしちゃダメだからね。」

 店長は彼女のただならぬ様子にさすがに気の毒になったのか、余分な金を返した。

 僕は彼女を放っておくことなどできず、ひとまずうちに迎え入れることにした。



 僕と潔子さんが出会ったのは高校生の時だった。

 彼女は僕よりひとつ年上だった。家は貧しく兄弟も多かったので、卒業後は自衛隊に入るのだ、それで安定した公務員の警察官になるのだ、と言っていた。

 彼女は強くて、賢くて、美しくて、そして優しかった。僕はそんな彼女に憧れていた。

 ある日、首都圏を中心に大きな地震が起こった。とっさに僕をかばった彼女は、割れた窓ガラスの破片が頬をかすって、きれいな顔に傷がついてしまった。

 でもそれは、僕にとってはむしろ彼女の勇気の結晶に見えた。まわりは彼女を可哀想だと言ったが、僕はそうは思わなかった。それが彼女の魅力をさらに強めるものに思えた。

 卒業後、彼女は一足早く自衛隊に入り、僕は普通の大学に進んで警察官をめざした。

忙しい中でも僕と彼女の交流は続いた。

 そうして僕が22歳のとき、僕は交通事故に遭った。完全な轢き逃げだった。犯人は分からなかった。僕はそのまま右足をなくした。僕はそのまま夢をなくした。

 親は就活にかぶらなくてよかったねと慰めた。まわりは優しくしてくれた。正直なところ、警官になれなかったことは大して悲しくなかった。

 僕を一番動揺させたのは、それから潔子さんと全く連絡がつかなくなったことだった。



「っ、おじゃまします」

「一人暮らしで殺風景な部屋で、ごめんね」

 彼女をアパートの自室に迎え、ちゃぶ台のそばに座らせて、僕は二人分お茶を淹れた。

 もう肌寒い季節だというのに彼女はダラダラと汗をかいて、俯いたままちゃぶ台を凝視していた。

「潔子さん、僕と会うまでに何があったんですか」

 率直に話を切り出した。

なぜ彼女がこんなにやつれて、尋常ではない様子で、なにより万引きなんてことをしたのか、問いたださずにはいられなかった。

「…っあの、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」

彼女の手はがたがたと震えていて、こちらと目を合わせようとしなかった。

 僕は彼女の顎をすくってこちらを向かせ、震える手を包み込んで、ゆっくりと、ゆっくりと話を聞いた。



 とどのつまり、事故を起こしたのは彼女だった。兄弟の受験期が重なり、その費用を工面するために自衛隊に隠れてバイトを掛け持ちしていたらしい。そんな心身ともに疲弊していたとき、あの事故が起きた。

 慰謝料も、治療費も払えない。事故を起こしたというのにやけに冷えた頭で考えた彼女は、救急車だけ呼んでそのまま逃げ出した。

 僕を轢いてしまったこと、あまりに過酷な生活が続いたこと、そして、そのとき彼女の親が要介護状態に陥ったことで、ぎりぎりで彼女を保っていた糸はぷつんと切れた。

そのまま彼女は鬱になった。

 自衛隊は辞めざるをえず、兄弟に親を任せ、彼女は自室に引きこもるようになった。ときおり部屋を出たと思えば少ない貯金で酒を買い、また部屋にこもって呑みつぶれる日々。

そうでもしないと寝ることができなかった。

食べてもすぐにもどしてしまう。酒にしか逃げ場がなかった。

 兄弟は必ず一人は彼女の部屋のそばにいて、命を絶たないように見張っていたという。

 それらなにもかもが申し訳なくて、今日は寝たふりをして、気を抜いた兄弟が居眠りをした隙に家を抜け出してきたという。

 彼女は最期に有り金で酒を買い込み、なにもわからないまま死のうとしていたらしい。


 僕は絶句した。彼女はぽつぽつと小さな声で全てを告白したあと、力ない腕をうごかして暴れ出した。

「離して、もうおわりにしたいの、もういきたくないの、なにも感じたくないの」

「わたしはあのころにすべてを忘れてきてしまったの、もう取りには戻れないの」


 あの頃の腕力も気力も失った彼女を抑え込むのはあまりに簡単だった。

彼女の瞳からは味のない涙がずっと流れ続けていた。

そのまま僕は彼女にキスをした。

 彼女の体はあまりに薄くて、腹だけが少しやわらかくて、全身がなにものをも拒むようにずっと震えていた。



 あくるひ目覚めると、彼女はもういなかった。僕はまた会社に行く日々が続いた。

前よりも少し酒を飲む量が増えて、すこし太って、国内のニュースに意味もなく名前をさがすようになった。

 そして、忘れ物をみつけても、なにもしなくなった。




 ぼくらはあの頃に何を忘れてきただろう。

 もうとどけてくれる人はいない。


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