長編版 八月の渚①
吾輩はミケという。
ご主人のバイト先が海の近くで出張カフェをするというので一緒についてきた。
無論、吾輩も招き猫という仕事があり、しっかりと労働に勤しんだ。楽しみなことに、もうすぐ休憩がもらえるとのことだ。
折よく、ご主人のとても大切な友人であり、また美味しいカフェオレを作ってくれる早希様もカフェに顔を出してくれて、吾輩と主人を誘って浜辺を散歩に行きたいとの申し出があった。もちろん賛成の意味を示し「みゃおん」と返事をする。しかし海に来てまで出不精のご主人は陽のあたらない屋内に居たいらしく、吾輩に「ミケもこっちにだよな」と薦めてくるのだ。呆れて不同意の意味を示し「なああ」と返事をしておく。
最近、御主人はホラー小説とやらにはまって部屋に引きこもりがちだ。愛らしい吾輩と可憐な早希様を放っておくとは、本当に情けないご主人だ。吾輩が防波堤をお尻を振り振りしながら歩く姿を見たくないのか。青い海と三毛猫の尻尾の組み合わせは「ばずる」写真を撮るチャンスであろうに。それに気づいていないかもしれないが、早希様はこの日のために新しい水着を買ってきたのだぞ。ご主人も大学生らしく海で遊べばよかろう。
「……早希さん、ミケの後ろに隠れて声を当てるのをやめてくれません?」
ミケの背後から前脚を掴んでいる早希さんが、えいっ、と肉球を僕に押しつけて抗議する。
「私は代弁をしただけよ。そうよね」
ミケが「みゃおん」と鳴いて、早希さんと一緒にじと目で僕を睨んでくるのだ。
――事の始まりは、八月の初旬。バイト先の店長の誘いがきっかけだった。
知人が経営している海辺のカフェがあり、その人が急用で一週間ばかりそこを離れないといけないという。お盆前のかきいれどきでもあり、店は開けておきたいとのことだった。
「急な頼みで申し訳ないのですが、その代わりバイト代は弾みます。それにそのカフェは洋館の一階なんですよ。二階は家族と招待客を泊めるための部屋があるので、リゾートだと思ってゆっくり過ごしてみては?」
条件を詳しく聞けば、なんと労働時間は昼の午後二時までという。
下宿の先輩達や、商店街のお婆ちゃんたちに囲まれた新生活は、少しだけ気疲れをもたらすものだった。みんないい人なのだけど、やっぱりひとりの時間も欲しい。最近はホラーやミステリー小説にはまっていることもあり、上質な読書の時間を確保するためにも、僕は店長の誘いをふたつ返事で受けたのだった。
ミケを連れていくわけにもいかず、早希さんに店長の頼みは断れないから、と頭を下げて預かってもらうことにした。そして翌日の早朝、店長の車に同乗して東京から移動すること三時間、伊豆半島の南西側にある洋館に到着した。時間が倍近くかかったのは、途中で沼津に寄って珈琲豆や食材を仕入れていたためだ。
洋館は観光地から少し離れている印象だった。それに近くの海といえば岩場の隙間に小さな砂浜があるくらい。おそらく観光客の多くはここを抜けて南端の景勝地や海水浴場に行くのだろう。車やバイクで来た客が、休憩がてらに立ち寄るにはちょうどいいのかもしれない。つまりはほどほどにゆっくりと過ごせるということだ。なんてすばらしい休日なんだろう、と僕は小躍りしていた。
もしこの洋館の不満をあげるとすれば、周りをうっそうとした林に囲まれているということ、そして外装のペンキが半分近くはげ落ちて、何となく世間から取り残された雰囲気が見て取れることだ。だが、まあそれも小説を読むのにちょうどいいのかもしれない。
さて、荷物を持ち、店長に続いて洋館に入るのだが、何か違和感があった。
「あれ、この扉、鍵がかかって――」
店長に尋ねようとしたとき、聞きなれた声が耳に入ったのだ。
「透くん、なに突っ立っているの。はやく食材を冷蔵庫に入れて」
「早希さん! どうしてここに?」
「どうしてって、店長の手伝いに来たのよ」
「だって、ミケを預けた時にはそんなこと一言も――そういやミケは?」
「みゃおん!」
ミケが早希さんの背後から飛び出し、僕の首に髭を押しつけてくる。
「君の話を聞いた後、店長さんのところに行ったの。人手は欲しくないですかって聞いたら、オーケーをもらってね」
早希さんが少し恨みがましい目をしているのは気のせいだろうか?
「でも、それなら一緒に来ればよかったのに」
「ん、ちょっと昨晩に寄るところがあってね。そこから今朝方、送ってもらったの。親切な人でさ、電車で行くって言ったのに車を出してくれたんだ」
「ふーん」
「こら、もっと興味を持ちなさい。かっこいい人に送ってもらったとか、いろいろと詮索をするのもマナーよ?」
「はあ、じゃ誰なんです」
「ストレートに尋ねるのはマナー違反かな。私とミケちゃんをおいて行こうとした罰として、今日の夜まで教えてあげない」
早希さんは何かを企んでいるかのような顔をした。何か不吉な予感がして背筋が寒くなったが、心の平穏のために何も聞かなかったし、聞こえなかったことにした。
――そしてこの日は初日ということもあり、営業時間を早めに切り上げたため、数人のお客を迎えただけで午後からは自由時間となった。
割り当てられた部屋でゆっくりと推理小説を読もうと思ったのだけど、早希さんとミケが部屋に押しかけ、僕は日差しの強い浜辺に連行されたという訳である。
そして今、僕は海辺で早希さんの遊びにつきあって、ひいひい、と肩で息をしている。
波打ち際で歩くぐらいのことを想像していたら、思いっきりハードなビーチバレーだった。こちらは短パンだけで水着を用意していないというのに、泳ぎまでつき合わされる。でも早希さん、これは遊びで泳ぐというより遠泳に近いと思うのですが。
疲れ果て、這うようにして穴が開いたビーチパラソルまでたどり着き、焼けるようなレジャーシートの上に倒れ込む。そんな僕をミケが心配したのか、僕に顔を近づけてきた。
「ミケ、置いて行こうとした僕なのに心配してくれるのか」
感動に手を振るわせながらミケをなでようとした時、指先が痛むのを感じた。
「痛あ! ――ってこれは蟹?」
ミケが磯で捕まえた砂蟹を僕の手に置いていったのだ。
「もしかしてミケさん、怒ってる?」
「みゃああおおん!」
その声を聞いて僕はがっくりとうなだれたのだった。これはしばらく機嫌を取らないと大変なことになる。それに機嫌を取らなければいけないのがまだひとりいるのだ。
「透くん、体力は戻った? じゃもうひと泳ぎいこうか!」
「こ、これ以上は明日の仕事にも影響がでちゃいますよ。それに明日もあるんだし、今日はゆっくりと――」
しまった、今日を逃げ切るために、明日を犠牲にしてしまった。早希さんが言質を得たり、とばかりに不敵に笑う。
「そっか、一週間もあるんだもん。ゆっくり楽しまないとね」
「……はい」
さようなら、僕の読書生活。そして、こんにちは、労働と筋肉痛の日々よ。
夜となり、早希さんが作ってくれた夕食を食べ終えて、僕はみんなにカフェオレとケーキを給仕する。
カフェオレの匂いでミケの機嫌も少しは良くなったし、早希さんも口を動かしている間はおとなしい。このまま静かな時間が続けばいいと思った時、店長のスマートフォンが鳴った。電話の相手先に短い会話をした後、店長は二時間ほど外出をすると言って車で出かけてしまう。玄関で見送った時、強風が吹き荒れていることに驚く。慌てて居間に戻り、テレビの電源をつける。
「進路を本州の南に変更したかに見えた台風七号ですが、小笠原気団が勢力を拡大し、明日の朝には伊豆半島を掠めると予想されます。不要不急の外出はお避け下さい」
雨が強くなり、窓ガラスを叩く雨音が部屋に響き渡る。古い洋館は立てつけが悪く、どこからか隙間風が入ってくる。早希さんは不安そうな表情を浮かべ、ミケを抱きかかえて僕が座っているソファに腰を下ろした。強風のせいだろうか。電圧が不安定となり、天井のシャンデリアの光が弱くなったり、元に戻ったりと明滅を繰り返していく。
ジリリリリ!
カウンター横に置いてあった古いダイヤル式の電話が鳴り、僕達はびくっと背筋を伸ばした。電話の音だと分かった後は、心の中で、もう少しおとなしい音にしてくれよ、と毒づきながら受話器を取った。
「はい、どちら様でしょう?」
「透か?」
「和樹先輩!」
同じ下宿先で、また商店街のバイト仲間である和樹先輩からの電話だった。緊張が一気に緩み、ほっと息をつく。
「店長に電話したんだけど、通じなくてな。で、こっちにかけたんだ。そっちにいないのかい?」
「所用で外出中です。多分、運転中なんで電話に出られないんじゃないですか?」
「じゃ伝言頼むわ。商店街の喫茶店はいつも通り営業終了ってね」
「そっか、先輩は商店街の方の店を担当しているから、こっちには来なかったんですね」
何気ない言葉だったのに、和樹先輩はしばらく沈黙する。
「先輩?」
「そうか、聞いていなかったか」
「何をです?」
「実は俺は幽霊が苦手でな」
「はあ」
「去年も急用とかで、そっちにアルバイトに行ったんだが――出たんだよ」
「せ、先輩、幽霊が出たなんて冗談はやめてください」
「お前がそういうのを信じないのなら大丈夫だ。なんか俺は変に霊感があるタイプでな。それで今年は断ったんだ」
「なんで言ってくれなかったんですか!」
「去年は俺一人で泊まっていたから、余計に気にしたのかもしれない。でも今年は店長も早希ちゃんも、ミケもいるんだろ。大丈夫だって」
「――どんな幽霊だったんです?」
「小さい女の子だ。俺の見間違いってこともあるから、気にするなよ」
そう言って先輩は受話器を切った。ツーツーツーという音が耳に残り、しばらく呆然とする。
その時、ギシッ、っと床が軋んだ音がした。
驚いて振り返ると早希さんが目を潤ませながら立っていた。しまった、大声を出していたせいで、会話の内容を知ってしまったらしい。
何とか落ち着かせようと、言葉をかけようとするも、とうとう停電が起き、灯りがすべて消えてしまう。早希さんが抱えたミケごと抱き着いてきて、僕はどうしようかと逡巡する。ともかくもカフェ用に広い空間が広がる一階では何か気味が悪い。二階の狭い客室に行って、停電から復旧するまで待ちましょうと提案する。
スマートフォンの灯りを頼りに二階へたどり着く。早希さんの部屋に入るのは申し訳ないので、僕の部屋に連れていき、二人で布団や毛布をかぶってベッドに座りこんだ。僕と早希さんの間に陣取ったミケの体温が今は本当に心強い。
置時計のチクタクという音が時間間隔を狂わせ、気が変になりそうだ。せめて気を紛らすために何か楽しい会話をしないと。
「……海、楽しかったですよね」
「うん」
「そ、そういやミケが僕に蟹を押しつけてきたんですよ。指を挟まれてびっくりしたなあ」
「そう」
怖がっていて反応が薄いか。何か気の利いたことを言えないものか。
「――水着。早希さんの水着、とても可愛くて似合っていましたよ」
必死に紡ぎ出した言葉だけど、早希さんは布団をかぶったままうずくまっている。時々震えているのは、会話どころではないのだろう。
だめだ、僕の会話力では早希さんを安心させることができない。頼みの綱でもあるミケの背を叩き、早希さんに甘えるよう願うのだが、当のミケはびくっと立ち上がり、何もないところを見つめたかと思うと、さっと一階の方へ降りていった。
「ミケ?」
店長が帰ってきたのだろうか?
玄関が開いて強い風が吹きこむ音が聞こえてくる。
でもおかしく思うのは廊下を歩く音が二人分あることだ。そしてそのひとつが階段を軋ませながらゆっくりと上がってきた。震えた早希さんが布団から顔を出して、僕にしがみついてきた。
やがて足音はこっちに近づいてきて、僕の部屋の前で止まる。そしてゆっくりとノブが回り始めた。
その時、僕はドアにできた隙間を見てしまった。
――そこには小さな女の子の顔があったのだ。