長編版 雨宿り
「透くんのわからずや!」
顔を真っ赤にした早希さんが台所を飛びだしていった。部屋に取り残されたのは、まだ温かいカフェオレが二つと、困ったようにうろうろと動き回るミケ。そして頭を抱えて椅子に座りこむ僕だった。下宿仲間の和樹先輩が騒ぎを聞きつけ、心配げに様子を聞いてくる。
「早希ちゃんがすごい勢いで出ていったけど?」
「……ちょっと口論になって」
「そっか、でもさばさばした子だから、すぐに帰って来るさ。気を落とすなって。で、何が原因だい?」
「そ、それは――」
言い淀んでいると、和樹先輩は笑って、いいよ、とばかりに手を振った。
「壁が薄いから喧嘩もほどほどにしてくれよ。俺はこれからバイトだから、帰ってくるまでに仲直りしときな」
そう言い残して先輩は外に出ていった。優一郎先輩も早朝から出ていったようで、広い下宿で一人、何もすることもないまま時間が過ぎる。本来、こういう環境は好きだったはずだけど、もやもやしたままではそれも辛いだけだ。
相棒を探して部屋を見わたせば、玄関にいるミケが前脚でしきりに顔をこすっている。猫が顔を洗うと雨が降ると言うけれど、天気は大丈夫だろうか。
「みゃおん」
ミケは外に出たいのか、玄関の前から動かない。
何かを探しているのかと思い、戸を開けるとあっという間に外へ駆けだしていった。ミケがボス猫として商店街のみんなにも認知されていることもあり、最近は勝手に出歩いているので心配はしていないが、何を探しに行ったのだろう。……いや、決まっているか。
僕も出かけようと、玄関でスニーカーを履いていたら、小雨が降り始めた。慌てて折りたたみ傘を手に取って外に出た。
気が急いて、傘を差さずに商店街を走り回る。
体を打ちつける雨の音は、重い振動となって記憶を揺らし、今朝の喧嘩の光景を浮かび上がらせる。
――原因は些細なことだった。
「だから、どういう失恋で中学の時に引きこもったのよ。お姉さんに教えてごらんなさい」
「すみません、言いたくないんです」
「言えば楽になると思うよ。溜めこんだらまた部屋に籠っちゃうでしょ?」
僕が沈黙したのは、すこし苛ついてしまったからだ。
「……言いすぎたのならごめん。でも私は――お姉さんとして」
「家族じゃないあなたに、相談する理由なんてないです」
突き放した言い方は大人げなかったと思う。それと同時に、あの失恋の影響をまだ引き摺っている自分に気づいてショックを受けた。早希さんが何か言いたそうに口を動かしたのだけど、僕は緊張に耐えられず目を逸らしてしまう。
――そして早希さんは家から出ていった。
思い返しているうちに雨が強くなり、僕は慌てて近くの喫茶店の軒下に避難した。その時、いつも聞いている鳴き声を耳にしたのだ。
「みゃおん」
「ミケ?」
振り返れば、喫茶店の窓ガラス越しにミケがいた。首にはメモ用紙が括りつけられ、雨宿り中と書かれている。こいつめ、のうのうと店の中で雨宿りをしていたらしい。さすがに店の人に悪いので、謝罪とお礼をするために店内へ入る。
「すみません、うちの猫が――」
「お、透じゃないか。傘もささずに何をしているんだ?」
「和樹先輩?」
そこにはバイトに行った先輩がいた。そうか、ここで働いていたのか。
「ミケが雨の中で困っていたからな。店長もいないことだし、こっそり中に入れたんだ。一応、言い訳できるように雨宿り中って書いた紙を貼りはしたけど」
和樹先輩は、もし店長が怒ったら一緒に謝ってくれよな、と言って笑う。
「早希ちゃんを探していたんだろ? 見つかったかい」
「まだなんです。先輩、ミケをもう少し預かってくれますか? 心配なので僕はこのまま――」
「早希ちゃんも子供じゃないんだから慌てるなって。もうじき小雨になると思うし、しばらく休んで行けよ」
先輩はそう言って、僕にタオルを放り投げ、空いた席に案内してくれた。珈琲も出してくれて、冷えた体には本当にありがたい。でも、言ってはならないことだけど、この珈琲は――。
「あっはっは、表情に出てるぞ。そりゃ透や早希ちゃんみたいには淹れられないって。珈琲はこの道数十年の店長が担当で。俺は料理担当なんだ」
恐縮で肩を小さくしながら雨が止むのを待つ。
ミケの方は窓ガラスを伝う水滴を追いかけ、遊んでいるようだ。窓の外には、強くなった雨を避けようと多くの人が走っている。彼らは窓越しにミケを発見し、次々に店内に避難してきた。そしてミケに近い席に座ると、珈琲やカフェオレ、サンドイッチやホットドッグなどを注文し始める。
「こんなに混むとは予想外だ。透、お前は珈琲担当な。おれは厨房に入って大急ぎで調理するから」
雨宿りをさせてもらったり、気を遣わせてもらっている手前、僕はカウンターに入って珈琲を淹れていく。ミケがカフェオレの匂いに引き寄せられて、お客さんのところに甘えに行くもんだから、最後にはカフェオレの注文だらけになった。
そんなミケが窓の外を見ながら背を伸ばす。何かが外にあるのかと、ミケの視線の先を追ってみれば、早希さんの姿があった。彼女も雨に追いたてられ、この喫茶店に向かって走ってくるのだ。
「和樹君いるよね? ごめん、雨宿りさせて!」
「い、いらっしゃいませ」
予想していなかった出来事に僕は引きつった営業スマイルで出迎えてしまう。
「へっ、なんで透くんが? それにミケちゃんまで」
「……いろいろとありまして」
気まずい沈黙が続き、またテーブル席もいっぱいなので早希さんはカウンター越しに座る。ミケがとりなすように早希さんの膝に座るが、じと目で睨んでくる彼女の表情は変わらない。
「ふーん、喫茶店でバイトしてたんだ。知らなかったな」
「なりゆきというか、何というか――」
「注文は?」
「え?」
「バイトならお客に注文を取るでしょ」
「……お客様、注文は何でしょうか」
「とびっきり美味しいカフェオレをひとつ」
僕が珈琲を淹れはじめると、厨房から和樹先輩が出てきた。早希さんがカウンターにいるのを見て、安心したように僕の肩を叩く。
「なんだ、仲直りできたのか。雨の中、傘もささずに追いかけてきたかいがあったな」
その言葉に早希さんは猫のように、ぴくん、と急に背筋を伸ばして目を見開く。
「ん? 透くん、追いかけてきてくれたの?」
「それは――」
「こいつ、ずぶぬれになって探していたんだぜ。よっぽど慌てていたんだな」
早希さんの表情が、いつも僕をからかう時のものに戻る。
「そうなの?」
「そりゃあ心配するじゃないですか。それに謝りたかったですし」
「ほうほう、心配で謝りたいとね。で、続きは?」
「……きつい事を言ってすみませんでした」
頭を下げようとしたら、早希さんが僕のおでこに指を当ててくる。
「そこまでしなくてもいいって。追いかけてくれただけで十分。それにわたしが不満だったのはね、きみがこっちに来てからまったく気づいてくれないこと」
「気づく?」
きょとん、とする僕に早希さんは頬をふくらませてため息をつく。
「うー、まあいいや。どうせ昔のことだもんね。さ、カフェオレをごちそうして。それで今朝のことはなかったことにしよ?」
ナチュラルに注文をおごりに変えられたけど、ここはすんなり受け入れるしかない。
早希さんはカフェオレを飲みながら、和樹先輩にスパゲティとパンケーキと食後のアイスクリームを注文する。仕事が急に増えた先輩は肩を落として厨房へ向かっていった。
……もしかして食べ物も僕がおごれってことなのか。
その時、七十歳を超えたあたりの、落ち着いた身なりの男性が入ってくる。
「すみません、いま混んでいまして、カウンター前の席でもよろしいですか?」
僕は慣れてきたこともあり、お客さんを空いている席に案内する。早希さんがその様子を見て少し驚いたようだ。接客ができないとでも思っていたのだろうか。
「透くん、きみってここでアルバイトをしてるんだよね?」
「実は雨宿り代わりに和樹先輩から手伝ってくれといわれて」
「なるほど、なるほど。ではこの人にもカフェオレを。商店街でいつもお世話になっている人なんだ」
「分かりました。がんばって作りますね」
おじいさんは珈琲に詳しい人だろうか? ミケをひとしきりなでた後は、僕の作業をずっと見て、うんうん、と頷いている。そして僕の差し出したカフェオレをゆっくりと味わって飲んでくれた。どうやらお気に召したらしい。そこに調理がひと段落した和樹先輩が戻ってきて、ばつが悪そうに頭を下げる。
「あ、店長、お早いお帰りで。ちょっと人手が足りなかったんで後輩を手伝わせています」
「えっ、店長?」
何てこった。僕は自信満々にカフェオレを専門家に出してしまった。恥ずかしいやら、また雨宿りをさせてもらって申し訳ないやらで目を伏せる。
「美味しいカフェオレを作りますね。もちろん、まだ淹れ方の勉強は必要ですが」
「あ、ありがとうございます」
「どうでしょう、君、ここでアルバイトをしませんか? 私ももう歳でね。すこしゆっくりしたいと思っていたんですよ」
そういって店長はミケを手招きし、膝の上に乗せてご満悦な表情を浮かべる。
「いいお誘いじゃない。これできみのカフェオレの腕も上がるし、ミケちゃんも大満足よね」
「みゃおん」
その鳴き声が気に入ったのか、店長はミケに、招き猫のアルバイトをしませんか、と勧誘をした。今日の繁盛ぶりがミケのおかげだと気づいたらしい。早希さんがミケのマネージャーと名乗り出て給料の交渉を始める。そして見事に高級猫缶とお店の珈琲豆を分けてもらうことに成功したのだ。ちらりと僕を見るに、もらった珈琲豆で下宿でカフェオレ作るぞ、ということだろう。
「マネージャーとしてはミケちゃんの飼い主とセットでの雇用契約を要求しますが、構いませんか?」
「もちろんだ。当面、忙しい土曜日のシフトでお願いしよう。あとはそちらの都合次第で」
こうして僕はミケの雨宿りをきっかけにアルバイトをすることになった。
なんとなく仲直りもできたようだし、小雨になったので店長にお礼を言って下宿に帰る。
「わたしは傘を持ってこなかったからさ、きみのとこに入れてよ」
僕ら二人には折りたたみ傘は小さすぎた。いや僕にしがみついているミケを入れれば三人が傘の下にいるのだから当然か。早希さんが雨に濡れないようにそちらに傘を傾けると、肩を押しつけてきて傘の角度を真っすぐに直されてしまう。ミケは僕らのおしくらまんじゅうを見ながら気持ちよく鼻を鳴らしていた。もしかしてこの雨宿りを楽しんでいるのかもしれない。でも雨宿りをさせる方としてはその重みに腕が痺れてしまう。その時、早希さんが腕を組んで手を握ってきた。
「ほら、辛いときはお姉さんに遠慮なく言うの。ミケちゃんをわたしの腕にも乗せてごらん」
少し気恥ずかしいけれど、ミケを真ん中にして僕らは小雨の商店街を歩いて家に帰った。
夕方となり、僕は実家に電話をかけた。
近況報告ついでにアルバイトのことを伝えようと思ったのだ。心配をかけさせたこともあり、少しは自立できたと喜んでくれるだろうか。
あいにく両親は不在らしく、妹の由香が受話器を取った。
「お兄ちゃん? そっちには慣れたの?」
「ああ、大家さんも優しいし、快適に過ごしているよ。それに今日は――」
「そうだ、早希お姉ちゃんは変わりない?」
変わりないとはどういうことだろう。
由香はこっちに来たこともないし、ミケを預けに来た母さんから話を聞いたとしても、まだ二か月しかたっていない。
「おばさんにもよろしく伝えといてよね。あ、私これから塾があるから、また母さん達に電話して」
そういって由香は一方的に電話を切った。
何か腑に落ちず、もやもやした僕は今日疲れもあって布団の上に突っ伏した。
眠気が襲ってきて、ちょっと仮眠を取ろうと僕はまどろみに身を委ねる。
これはきっと夢だろう。
僕は子供になって傘もささずに雨の土手を走っていた。
迷子となって泣いている辺りが僕らしいと言うべきか。
……誰かが僕を呼ぶ声がする。
振り返ると、そこには小さな女の子が傘もささずに走っていた。
きっと僕を探しだすのに必死だったのだろう。
そして僕に追いついて、傘を開いて入れてくれた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
夢の中のぼくは、確かにそう言ったのだ。