長編版 猫の髭とカフェオレ
長編版となります。こちらもお楽しみください。
僕はカフェオレの匂いが好きな猫を飼っている。
もちろん、猫が珈琲を飲むわけではない。
僕の作ったカフェオレの匂いが好きな、変わった猫がいるという話だ。
その猫の名前はミケという。
高校に入学する直前、突然母さんが「猫を飼うから」と宣言したことがミケとの出会いだった。
「透、今日から家族が増えるからね」
「え、弟? それともまた妹?」
この春、中学一年生になる妹の由香が喜ぶ光景を思い描く。
「違いますっ! ほら、家族っていうのはこの子」
母さんが差し出した小さな箱には、すやすやと寝ている愛らしい三毛猫がいた。
「かわいいね」
「良かった、気に入ってくれて。じゃ、透がしっかり面倒見ておいてね」
「何で僕が!」
「仕方ないでしょ、あんたが一番暇そうなんだから。母さんも父さんも仕事で忙しいし、由香だって吹奏楽部に入るから帰りは遅くなるでしょ」
こうして母さんは僕に猫を押しつけたのだ。
ネーミングセンスのない僕はとりあえずミケと名づける。そのうち家族が適当にいい名前を決めてくれるだろう。そして母さんに言われるがまま、猫用のミルクとか、砂とか、トイレとかを買いに行くはめになった。
「ああ、そうか、もう桜の季節か」
久々の外出で季節の変化を感じながら僕は自転車をこいでペットショップに向かった。運動不足の体にむち打ち、ひいひい言いながらペダルを回すうちに、なぜ母さんが猫を飼うと言いだしたのか、分かったような気がした。中学三年生の時、ある事情で不登校になった僕に、何か目的を与えたかったのだろう。
家に帰るとミケがお腹を減らして、みいみいと鳴くので、僕は急いでスマートフォンを開いてミルクの作り方を調べる。ミケのぴちゃぴちゃという飲み音を聞いていると、僕も何か飲みたくなった。台所で珈琲を淹れてミルクを継ぎ足す。僕の唯一の趣味であるカフェオレは家族にも好評で、もしこの趣味がなかったら、家族から冷たい目で見られていたかもしれない。いつもは少し距離をおく由香も、カフェオレの匂いがすると僕の隣に座り、たまたま来たように装って「ジュースはないか。じゃ、しかたないからお兄ちゃんのカフェオレちょうだい」と要求してくるほどだ。
さて、どうやらミケはカフェオレの匂いが好きになったらしい。僕がミルクを用意する度にカフェオレを作るので、何か幸運の匂いと勘違いしたようだ。最初は僕だけにすり寄ってくるので、かわいい奴め、と嬉しかったのだけど、そのうちミケが、僕の脱ぎすてたシャツに飛びついてゴロゴロするのを見て、自意識過剰だったと肩を落とす。まあ、カフェオレを作っているかぎりは甘えてくるので良しとしよう。
まあ、ここまではいい話だ。そしてここからは困った話だ。
高校に入って中学のように不登校にならなかったのは、毎朝かならず起きるようになったからだ。それも日曜日まで含めて毎日……。
高校にもなると、深夜まで勉強に追われるので、朝はぎりぎりまで布団から出たくない。大きくなっても朝のミルクを欠かさないミケは、僕が起きないと知るや実力行使にでたのだ。大きくなった体でフライングボディアタックをかまし、長く立派な髭で僕の体中をこそばしてくる。
「ミケっ、分かったから!」
観念して起き上がり、カフェオレを作りつつ、ミケのためにミルクとキャットフードを用意する。まあおかげで学校に遅刻をすることはなくなった。リビングにカフェオレの匂いが満ち渡り、お腹いっぱいになったミケは満足そうな鳴き声を上げて、結局僕に髭を当ててくるのだ。
世話は大変だけど、それも僕が高校を卒業して都心の大学へ行くまでの間だ。そう思うと、この髭も名残惜しいと思っていた。
……この時までは。
「じゃ、盆と正月には帰るから」
春の陽気を感じる三月下旬、僕はそう言って家を出た。
大きな荷物は後で送ってくれる手筈なので、東京千駄木の下宿先でカフェオレを飲みながら日々を過ごす。大きな古民家であるこの下宿には、僕の他にも何人か住んでいるのだけど、緊張感からか、あいさつ程度で積極的に話すことはなかった。部屋に引きこもって寝ていると、荷物が届いたと、大家のおばさんが僕を呼んだので玄関に向かう。そこにはたくさんの段ボールと共に、母さんが立っていた。
「へっ? なんで母さんが来たの?」
母さんは笑って後ろに持っていたものを僕に突き出した。
「ミケ?」
ミケがすごい勢いで僕の胸に飛び込み、僕の匂いを嗅ぎまわる。そして口元から漂うカフェオレの匂いにたどり着き、満足そうな鳴き声を上げた。母さんがその様子を見てほっとしたように笑う。
「毎朝、カフェオレの匂いを求めて大暴れだったのよ。私や由香、父さんもカフェオレを作ったのだけど、効果はなくてね。家じゅうが傷だらけ。だからミケの世話は任したわ」
「いや、さすがに下宿先だから――」
その時、段ボールが動きだし、僕の横まで動いてくる。何かと思えば、女の子が荷物を運んでくれているのだった。積み重なった段ボールのせいで顔は見えないけれど、足取りがとても律動的なのが印象に残った。
「あ、すみません、僕の荷物なので自分で運びます」
「いいのよ、これも仕事だし」
引っ越し会社の人だろうか。彼女はすたすたと歩いていき、僕の部屋を無遠慮に開けて荷物を放り投げる。まだ来たばかりで散らかっていないとはいえ、プライバシーには配慮してほしい。苦情を言おうとすると、ミケが彼女の側によって、甘えるように飛びついたのだ。少し驚いたように猫を抱えた彼女は、ミケの背中をさすりながら僕に笑顔を向ける。
「初めまして、大家の娘の早希といいます。あなたが透君ね、そちらのお母様から伺っているわ」
「え、母さん?」
驚く僕に母さんが説明するには、ここの大家は母さんの同級生の家らしい。だから格安で、しかもミケの同居も認めてくれたとのことだ。
「よろしく。何かあったら母屋にいるので困ったら何でも言ってね」
まるで頼りがいのあるお姉さんのように、えへん、と胸に手を当てながらそう言うのだけど、背がなんというか低いので、年下かと勘繰ってしまう。
「痛っ」
邪推を察したのか、早希さんは僕の足をさりげなく踏みつけ、じと目で睨んで手を差し出してきた。
「大学二年生になります。よろしく、後輩の透君」
「……はい、よろしくお願いします」
握手が痛い、そして長い。
早希さんは足を踏んだまま、母さんに笑顔を向けて頭を下げる。
「中学では失恋で引きこもっていたり、高校では友人がミケちゃんしかいなかったり、さぞかし心配だったでしょう。先輩である私がちゃんと導きますので安心してください」
「え、ちょ、なんで知って!」
何てこった。母さんの誤魔化すような笑顔を見る限り、僕は嵌められたのだ。どうりで下宿を簡単に許してくれたわけだ。ああ、せっかく部屋でゆっくり過ごす時間を手に入れたつもりだったのに。
頭を抱えた僕を心配したのだろうか、早希さんにしがみついたままのミケが僕に手を伸ばしてくる。でも猫の癖にバランスを崩し、落ちかけたので僕は慌てて手を伸ばす。早希さんも同じように手を伸ばしたため、ミケを挟んで抱き合う感じになってしまった。
頭が真っ白になった僕に、カフェオレのいい匂いが漂ってくる。
そのもとをたどると、それは早希さんからだった。
そうか、この人も珈琲好きなのか。
それもミケ好みの匂いを作ることができる人だ。
「ちょっと、いつまでこうしているの?」
「あ、これは、その……痛あ!」
また早希さんに足を踏まれ、僕は悲鳴を上げる。そして早希さんは残りの荷物を持って、また僕の部屋へと入っていった。何か部屋で、どしん、どしん、と放り投げるような音がするのだけど、今、確かめるのは怖い。深いため息をついた時、匂いを残したままのミケが「にゃあ」とからかうように鳴いてきた。
こうして僕にとって相変わらずの、カフェオレの匂いがする日々がまた始まったのだ。