暗殺の時間
人を殺してはいけません。
それは子供でも知っている常識で、少なくともこの国では誰もが教えられるまでもなく身に着ける常識だ。
法で禁止されているから、倫理に反するから、単純に悪い事だからと、理由は様々だけど、嬉々として誰かを殺めようとする人間は稀だろう。
まあ、日常の中で誰かを殺してやりたいだとか、消えてくれだとかを心の中で思う事はあるだろうけど、実際に行動に移せば犯罪……感情が理性を上回らなければ実行に移す人もいない。
ならもしも、殺人が法に触れなければ人は人を殺すのかと聞かれればそれは否、だ。
常識として身に着いた認識を無視する事はできない。
何故なら人殺しは悪い事だから。
と、なんでこんな哲学染みた事を誰かに語るかのように考えているのかというと、ちょうど今しがた、僕は人を殺したからだ。
「――――お仕事完了。証拠を消して帰ろう」
少し散らかった部屋の中で横たわる男性を見下ろして独り言を呟く。
男性はすでに死んでいる……というより、僕が殺した。
もちろん、恨みがあって殺した訳でも、快楽で殺した訳でもなく、依頼を受けたから殺した。
僕は殺し屋、依頼を受けて人を殺すのが仕事だ。
殺人を生業にする犯罪者、大っぴらにはできない人でなし、それが僕の職業。
僕がこの仕事をしているのには特別な理由はなく、ただ才能があって、環境があったから。
悲壮な過去も、そうしなければならなかった理由もない。
ただ向いているからこの仕事をしている。
無論、これが犯罪だという事も、悪い事だという事も理解した上でこの仕事を選んだ。
「今日はもう遅いからお弁当かな」
男性の部屋を後にして暗い夜道を進んでいく。
今回の依頼、標的は務めている会社のお金を横領し、それが表沙汰になりかけると、部下にその罪を擦り付けて自殺にまで追い込んだどうしようもない男性だった。
依頼主は自殺した部下の親族……その理由は言うまでもなく復讐。
証拠もなく、告発することもできない親族が最後に頼った手段が暗殺で、それを受けたのが僕だ。
世間一般から見れば、暗殺という手段に頼るなんてという人もいるだろう。
復讐なんてしたところで何もならないと言う人もいるかもしれない。
けれど、そんなのは自分が当事者じゃないから言える事だと思う。
まあ、依頼を受ける側の僕からしたら関係のない話なんだけど。
「あ、もう次の依頼が入ってる。内容は……」
携帯端末を操作して依頼の内容を吟味し、受けるかどうかを決める。
仕事だからといってきた依頼を全て受けるわけじゃない。
人殺しが悪だという大前提ではあるけど、依頼の中からそれでもマシな理由を選んで受けている。
それは別に正当性だとか、正義だとか、そんな高尚なものでなくて、ただ仕事をした後に僕が嫌な思いをしたくないから。
善人を殺してお金を得るより、悪人を殺してお金を貰う方が後味はいいだろう。
もちろん、所詮は人殺しなので、どうしたって後味が悪い時だってある。
例えば今日の依頼で殺した男性は部下に罪を擦り付けて自殺に追い込んだけど、彼にも家族がいる。
妻に子供が二人、どういう家庭環境なのかは想像するほかないが、少なくとも悪い父親ではなかっただろう。
彼の妻と子供達からすれば僕は父親を奪った仇……つまり、彼、彼女達にとって僕は明確な悪というわけだ。
見方を変えれば誰かにとっての正義も、別の誰かの悪……いや、正義というべきか。
ともかく、何が言いたいのかというと、絶対的な正義なんて代物はないという事だ。
こと、暗殺なんて悪に関しては、だけど。
「……なるほどね。内容は復讐、動機もまあ、逆恨みって訳じゃない。殺されるにたる理由もある……それじゃ、受ける方向で進めようかな。後は下調べをして――――」
だから僕は正義なんて曖昧なものを自分の基準にしない。
殺しは悪なのはどうしたって変わらないし、背負う業も大差ないのなら自分で納得する仕事を選ぶ……それこそ僕がただ一つだけ定めた暗殺の矜持だ。
「――――今日は星がよく見えるや……うん、明日は良い事があるかも」
そんな事を考えながら僕は夜道を歩いて帰路に着く。
きっと次も、その次も、特に悩むことなく、僕はこの仕事を続けていくだろう。
そう、だからこれから先も――――暗殺の時間は終わらない。