旅しながら
詩集を読みたくなった心境で出会った文庫本に薄手のブックカバーを纏わせる。『心が疲れているから』と言ってしまえばそれまでだけれど、滋味のように感じられる『言葉』を持ち歩きたくなる。
あの人は今どうしているだろうか
書店に併設されたお馴染みの喫茶店でコーヒーを飲みながら浮かんでくる。現代ならではの、対面のない付き合いをしていた人。迷っていることも不自然なような気がしてしまう日々の中で、ほっと一息ついてみて思うのは店内の落ち着いたヒーリング系のBGMの心地よさ。『調和』とでも言うのだろうか。
突如その空間に女性がアイスコーヒーを抱えて現れて、着席するや否や猛烈にキーボードをタイプし始める。呆気に取られるような気分でしばらくそちらの方を見ていたら、時々中空を見つめ首を捻ったり、何やら一人頷いているような仕草をしている。
もしかして小説でも書いているんだろうか
その時何故その可能性に思い至ったかは自分でも謎ではあるけれど、何となくビジネス関係の作業をしているような服装ではないのと、失礼かもしれないがどこかしら『変人』そうな雰囲気があったからかも知れない。実際、その女性は周囲を一切気にしないような『自分の世界』に入り込んでいる様子に見え、時折『隣』で購入したばかりと思われる書籍を眺めている。全体的に端正な顔立ちをしている人なのでそれとの「ギャップ」のせいだろうか、その日とても印象に残った。
詩集を半分ほど読み終えていた休日、再び同じような時間帯にその喫茶店を訪れる。そしてそこには「彼女」も居た。先客だったようで、チラ見程度ではあったけれどテーブルのアイスコーヒーは殆ど無くなっている。ココアを注文した自分は敢えて彼女の後方の席に着いてみた。当然ではあるけれど彼女は全く気にかける様子もなく、ひたすら猛烈な勢いでタイプし続けている。
すげえな
その集中力は驚異的でさえあって、詩集の残りを読むつもりではあったけれど途中から瑞々しい筈の言葉の数々が頭に入らなくなってきた。『カタカタ』。それは職場では普通の音ではあるけれど、改めてものすごい勢いスピード感だし、どこかしら未知のエネルギーを感じる。
『彼女は今そうやって【世界】を構築している最中なんだ』
天啓のように閃いた言葉は、完全に彼女がそこで創作を行なっているという前提ではあるけれど、ロマンのようなものを感じて気に入ってしまった。言葉で構築する世界、というキーワードを思いついたらブックカバーに包まれている詩集も別な意味を帯びてくるように感じられた。
なんで記号の集まりの中に、世界を感じるのだろうか。感情を辿れるのだろうか。
素朴ではあるけれど不思議なことである。例えばその女性の中に広がっている世界を見る事が出来たらとても素晴らしい事のように思える。そういうものを感じてみたいなぁと思う時期だったのだと思う。
彼女より一足早く店を出る際、思いがけず誰かに「あの」と呼び止められる。その女性が席を立って背後に立っていた。
「何か?」
「これをお忘れでしたよ」
「え?」
彼女が手に持っていたのは見覚えのないカエルのようなキャラクターのラバーストラップ。よくガチャなどで見かける代物だ。
「これは私のではないですね。どこにあったんですか?」
「え、そうなんですか?後ろの席に誰か着席したなぁと思って、席を立った時に椅子の下に落ちてたので」
「あ、もしかしたら私の前に座った人が落としていったのかも知れないですね。店員さんに落し物として届けておきますね」
「そうだったんですね。すみません」
偶々こんなやり取りがあったので折角なので彼女に訊ねてみた。
「あの失礼でなければなんですけど、もしかして席で小説とか書かれていたんですか?」
「え?分かりましたか?やっぱり音うるさかったですかね」
「いえいえ。ただもの凄い集中されていたので、もしかしたらって思ってて」
「実はそうなんです…。あ、そうだ…それだったらちょっとお願いがありまして」
「何ですか?」
「実はある作品の登場人物に、貴方をモデルにした人物を登場させたいなぁと思ってたんです。本を読んでいる姿が魅力的だなと思ったので。許可が居るのかどうか分からない話なんですけれど、大丈夫ですかね?」
「ああ、全然構いませんよ。どんなストーリーなんですか?」
そこからはどこか恥ずかしそうにネットのある『アカウント』を紹介してくれた。
彼女は現在、様々な世界を巡り歩く女性の旅人を主人公にした作品を執筆している。「世界」とは現実に近しい世界である事もあれば幻想的な世界でもあったりする。旅の中で様々な人々や動物、物に触れ、主人公は成長してゆく。どの世界も豊かな描写に溢れ、心を新鮮な気持ちにさせてくれる。そして最近更新された最新話に登場したのは、何の変哲もない小さな町の喫茶店に現れた本を読む男性。主人公はその男性と交流して、彼からその町に伝わる不思議な『カエル』の伝説を聞かされるという展開になった。
主人公は最後にこんなモノローグを残している。
『離れた今も彼はまるでわたしを見守ってくれているように感じた』
もしかしたら本当に、いつものこの喫茶店から主人公を見守っているかも知れない。




