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途中下車

作者: quinet

 車窓から入りこむ陽光は白く、埃りの粒をきらめかせている。都心へと向かう電車とはちがって所々に空席のある車内にイヤホンから漏れたスネアの音が聞こえていた。自分の気のせいかもしれないと思いこんでしまえば聞こえなくなってしまいそうなかすかな音だった。話し声はまったくなかった。美緒も佐由子もずっと黙りこんだまま、電車に乗ってからだいぶ時間が経った。

 担任から家に電話がきている頃かもしれないと、美緒はふいに思った。学校に行く方向とは反対の電車に乗っていた。多分終点まで行くのだろうが、はっきりと佐由子から行先を聞いているわけではなかった。佐由子がなにをしたいのかもわからなかった。これまで無断欠席はおろか病欠さえしていない美緒だった。この時間帯ならばおそらく母は家にいるはずだが、娘の無断欠席を知らされてもきっと心配はしないだろうことは想像がついていた。朝帰りをしても小言のひとつも言わない両親がたった一日の無断欠席で大騒ぎするわけがなかった。とはいえ、これまで滞りなく続いてきた皆勤がすっぱりと途切れてしまうのは少なからず名残惜しかった。もう後戻りをしても学校に間に合わなくなる時間になってからも、ホームルームが始まる時間になるまで美緒は時折腕時計を気にしていたが、時間を迎えた途端にその未練はまたたく間に消えてしまった。その頃にはまだ雑居ビルやマンションがひしめいていた車窓の風景も、今では建物同士の間隔がずいぶんと開いている。一限目は体育だった。早朝から校庭を走らされる面倒を考えれば、休んでしまうのも悪くはなかった。制服を着ているのは美緒と佐由子のふたりだけになっていた。

 先週の水曜から学校を休んでいた佐由子が、実は病欠ではないのではないかとうすうす感づいてはいた。佐由子の両親も放任なのだろうか。しかし制服を着ているということはすくなくとも学校に行く前提で家をあとにしているはずで、そのちょっとしたことに美緒は違和感があった。ブラウスにもスカートにもしわが目立っていた。家出という単語がうっすらと美緒のあたまをよぎっていた。ブラウスがしわになっているものの、髪は脂ぎっていなかったからシャワーは浴びているらしかった。大き目の紙袋にシャツやスカートが無造作に入っているのが覗けていた。ネカフェのようなところで寝泊まりしているのかもしれなかった。それでも顔色は比較的普段通りだったので安心した。佐由子が学校を休んでいる間、美緒は佐由子がどんな顔色をして家にいるのかずっと気がかりでならなかった。

てっきりいつもの妄想につきあわされるのかと思っていたのに、佐由子は電車に乗るなり文庫本を開き、読み始めてしまった。美緒はすることもなく、世界史の一問一答を取り出してぱらぱらとめくっていた。何周もしているので、用語のほとんどはあたまのなかにはいっている。どうせあと半年もすれば卒業なのだから、佐由子も辛抱すればいいのにと思ってしまう。

 佐由子から彼女の家庭について聞くことは少なかった。二親なのか片親なのか、兄弟や姉妹はいるのかも知らなかった。佐由子とは二学期の席替えで隣同士になって話すようになったが、それも一日のうちに機会があれば言葉を交わす程度の間柄だった。佐由子のことは乗り換えの駅でたびたび見かけていたから、学年があがって同じクラスになる以前から知っていた。それでも数列隔てた佐由子の席までわざわざ話しかけにいくつもりはなかったし、佐由子のほうも自分のいるグループのなかにひきこもっていてばかりで、ほかのクラスメイトと馴染もうとする様子は見受けられなかった。それは席が隣り合ってからも同様で、昼休みになるとすぐにグループのほうに顔を出しに行ってしまい、美緒はこれまでと変わらずひとりで時間をつぶすことが多かった。

 これまでたまたま駅で顔を合わせることはあっても待ち合わせたことはなかったのに、佐由子は今朝に限って美緒がホームに来るのを待っていたらしかった。電車の待機列から離れたベンチで手を振る佐由子に駆け寄れば、佐由子は立ちあがるなり隣のホームに行かないかと誘ってきた。ちょうど電車の進入を知らせるアナウンスが鳴り、遅れて銀色の車体が目の端に入りこんでいた。改めて佐由子が学校をさぼろうと言うので、美緒はドアの付近で客がごった返す風景と佐由子を見比べ、乗客の波に押し流されるいきおいでうんとうなずいていた。

 もしも先週末に藤谷桐子と喧嘩別れしていなかったら、佐由子の誘いにのっていたかは怪しい。一旦は電車に乗っていたとしても、佐由子を置きざりにしてすぐに引き返していたかもしれない。けれど多少は桐子に腹が立っていた。自分がつまらない人間であることは百も承知であったが、それを面と向かって言われればいい気分はしない。もっとも、そのいらだちを佐由子にぶつけるつもりはなかった。いらだちをぶちけてしまえば、佐由子のきまぐれを自分の傷心旅行に利用しているようでかえって惨めな気分になる。目を落としたままの佐由子を眺めながら、美緒は肺にためこんだ空気をめいっぱいに吐いた。先週からの話しかけづらい雰囲気を美緒はいまだに引きずっていた。

 電車の外は木々の緑が目立つようになっていた。都心のほうにいるときよりも電車の駆動音がひと際大きく感じる。イヤホンからの音漏れもいつの間にか消えていた。朝帰りらしいホスト風の男が優先席の隅でぐったりしていて、音漏れの原因は彼だったのではとずっと気になっていたが、その彼もいくつか前に停車した駅で降りていた。

このまま電車を降りて登山することになっても方角的にはなにも不思議ではなかった。もっとも佐由子は肌が地黒というだけで運動が得意なわけではないから、高尾山であっても山頂にたどり着く前にへとへとになってしまうかもしれない。夏を過ぎたとはいえ、外に出れば未練がましく太陽が照っていた。電車にいてもうなじが暑かった。佐由子は電車に乗りこみ、座席に腰かけるなり早々にカーテンをおろしていたが、それでも繊維の隙間から太陽の熱が漏れていた。

 まるで小旅行のようだ。修学旅行以外でクラスメイトと旅行にでかけるのは小学生のとき以来だった。佐由子にすべてを任せて、自分はただ電車に揺すられながら目的地に向かうだけ。山に登らないのならばそれでも良かった。せめて自分を誘った理由くらいは教えてくれてもとは思うものの、今更それをたずねたところでどうなるものでもない。

 結局、桐子とは旅行に行かなかった。美緒にとっては旅行に行こうが行くまいがどちらでもよかったし、段取りを決めてくれていればそれに従うだけだった。けれど桐子のほうで都合が悪くなり、何度か旅行の計画がとりやめになった。そのことを桐子はなかば八つ当たり的に美緒をなじったのだった。もともと抱き合うために会う約束をし、早い時間に落ち合ったときには夜になるまでカラオケでひまをつぶす程度の関係だったから、とりたてて桐子と旅行をしたいわけではなかった。だから桐子に予定を先延ばしされればそれに従った。けれど桐子にはそんな美緒の態度が薄情に感じたらしかった。いつものホテルに行く前に寄った喫茶店で美緒が、今年の夏は旅行に行けなかったね、と何気なく言ってから、桐子の機嫌が悪くなった。それが美緒にはたまらなく面倒くさかった。自分よりも年上の女が自分勝手にふてくされているすがたを見せつけられ、そんな女といっしょにいる自分がはずかしかった。先に腹立ちを抑えきれなかったのは美緒のほうで、ホテルの部屋に入ってからもくちびるを尖らせている桐子に、言いたいことがあるならはっきり言いなさいよと言って、テレビのリモコンを投げつけていた。それからは言葉の殴り合いだった。別れると言って帰り支度をしたのも美緒のほうで、部屋に入るなり喧嘩になったので終電までにはかなり余裕があった。駅に帰る道すがら、桐子からことごとく言われたつまらない人間という文言があたまのなかでくり返しひびいていた。ホテルから学校に向かっても良いようにと持ってきていた制服や教科書のせいで手提げがいつにもまして皮膚に食いこんだが、我慢して新宿駅まで歩いた。そのときにできた擦過傷のかさぶたが、腕を折り曲げるときにできるしわの真ん中にまだ残っている。


これまでの佐由子の欠席がサボりであったなら、原因はきっとあのことだろうという確信はあった。あの一件で佐由子の自尊心が踏みにじられたのはまちがいなかった。

 佐由子には人の話を聞いていながらも視線をどこか別のほうに向けるくせがあった。視線の先にあるのは大抵がクラスの上位のグループにいる女子だった。さりげなく向ける視線は間近にいればほとんど誤差に思えたが、佐由子のくせを知っている以上、話していている最中にそうした態度をとられれば、もう話は切り上げにしてしまいたくもなった。たまりかねて、そういうのはやめたほうがいいよ、と注意したことがある。佐由子は、考えごとをしていたとはぐらかしていたが、焦点を合わそうとしない目が美緒へのささやかな反抗らしかった。

 あんな化粧をしてはずかしくないのだろうか。スカートの丈が短すぎて、あれで痴漢をされても文句は言えない。街を歩いていてすれちがう女子の恰好について、佐由子はいちいち年寄りが孫に言うような文句を並べた。カップルを見かけただけで、男性の性の搾取に気づかない典型的な女性のタイプであるとか、異性に好かれようとして画一的になる無個性などと、わざとむずかしい言葉を使って批判めいたことをぶつけてた。それらのすべては桐子に言わせればブスの僻みだった。彼女たちをうらやましいという思いを打ち消すのに、わざと悪態をついているのはわかりきっていた。

 そんな性格だから佐由子に友人は少なく、仲よくしていたのはクラスでは地味な部類の女子たちだった。昼休みになると空いている机を利用してみんなで食事をしていたが、たいていはアニメや声優について話しているらしかった。ほかのクラスメイトからは呪いの儀式をしていると裏でからかわれていた。趣味が合う者同士で寄り集まっているのだから他人からなにを言われようが気にする必要もないなのに、佐由子の自尊心はそれを許せないらしく、美緒の前では友人の悪口も平気で言った。もっとも身だしなみに無頓着なのは佐由子も同様で、美緒からすれば目くそ鼻くそを笑うのたとえの通りだった。

 ブスほど性格がゆがんでいるものよね、と言ったのは桐子だった。新宿の東口を歩いていて道の反対側から歩いてきた佐由子とばったり会ったことがある。佐由子は美緒に一瞥をくれただけでそれからはずっと桐子のほうを伏し目がちに見ながら、居心地悪そうに挨拶をしてすれ違っていった。あの子って性格が悪いでしょう、と桐子が耳打ちするのに美緒は反論ができなかった。

 もともと佐由子に抱き、輪郭を描いていたイメージのなかを色で塗りつぶすためには桐子の一言は十分すぎた。小学生のとき、ブスだからという理由で女子を蹴る男子がいたが、彼を止めようとする同級生は皆無だった。否定的な言葉を浴びせられながら暴力を振るわれる経験をすれば、それが性格をゆがませてしまうことは理解できた。

美緒のように、小学校の高学年ですでに身長が百六十センチを超え、髪も耳のあたりで切っていたのでオトコオンナとからかわれても、真っ先にその男子の頬桁をなぐって鼻血を出させるくらいに開き直れたら、またちがうのかもしれない。地元の中学校まではそのときの美緒を知る同級生も多かったので、オトコオンナという単語は侮蔑的にではなく、まるで美緒に対する称号かなにかのようなものになった。しかし佐由子には、現状のグループにいるのがたまらなくイヤであっても、そこにいればひとりぼっちにはならずにすむ安堵に浸っているようだった。

 先週の週明けに古川ゆかりが佐由子に因縁をふっかけたのは、決して古川ゆかりだけに問題があるわけではなかった。もっともホームルームの前、古川ゆかりは登校してくるなり自分が痴漢されたことを友人の前でしゃべりだしたのだから、佐由子でなくても彼女に視線をそそぐ同級生は多かった。降りぎわに触られたのだと古川ゆかりは声を荒らげる古川ゆかりに男子たちもちらちら好奇の目をくれていた。そんな話題を大声で言える神経が美緒には理解できなかったが、それ以上に佐由子の古川ゆかりに向ける視線のほうが気になった。凝視しているようでいて、瞳にはなにも映しだされていないかのような視線だった。案の定、誤解した古川さゆりは机におしつけていた尻をどけると、佐由子の席に近づき、なんか文句でもあるのと言って舌打ちをした。あんたみたいなブスに関係ない話でしょ、とののしられても、佐由子は顔を青ざめさせながらうつむくこともせずに目の前を見つめていた。佐由子にまったく反応がないのでつまらなくなった古川ゆかりが教室を出ていったあとも、佐由子はまったくあたまの位置を動かそうとはしなかった。机に置いていた両腕だけが小刻みにふるえていた。周りにいた友人に慰められ、佐由子はきつく結んでいたくちびるを弛ませたが、ブスは痴漢からも相手にされないと古川さゆりにあざけられて、自尊心は醜く腫れあがっているにちがいなかった。

 放課後、普段ならば古川ゆかりについて散々けなしていたであろう佐由子が珍しく無言で歩いていた。昼休みのときも、グループには顔を出さずに教室を出てしまっていた。昇降口を出れば、うすく引き伸ばされたような青空が広がっていた。日の入りの間近の最後の明るさだった。校門を出て、駅まで向かう道のりも会話はずっとなかった。しゃべりかけた途端に佐由子のなかにたまった腐敗ガスが破裂してしまいそうで、美緒はローファーが砂利を踏む音に意識を集めていた。

 翌日になって古川さゆりにカッターで切りつけるかもしれないという胸騒ぎさえ感じていた。美緒は寝る前になにか佐由子にメッセージを送らなければとラインの画面を出して、文章を打っては消す作業をくりかえしたが、結局適当な文言は思いつかずに、わたしは味方だからと、使い古された励ましの言葉を送った。程なくして既読にはなったものの返信はなかった。となりで寝ていた桐子から、あなたも案外善人ぶるのが好きねと笑われたが、ほんとうにその通りだった。もっとも善人ぶりたいわけではなかった。もしも佐由子が事件を起こせば、その学校に通っている自分の推薦にも当然影響が出るのだろうという自分本位の不安もあった。結局そうした不安は翌日に佐由子が欠席したことで霧散したが、花瓶が置かれていないことが不思議になるほど佐由子の机はひっそりとしていた。佐由子がいなくても、地味グループの女子たちは普段以上に教室の隅で騒いでいた。

 今になって美緒は桐子と喧嘩別れをしてしまったことを後悔していた。桐子であればラインをすれば案外すぐによりを戻してくれるかもしれなかったが、それではさすがに自分勝手がすぎた。ふいに左肩が圧迫されてとなりを見れば、いつのまにか佐由子は、指をしおりにして閉じた文庫本を右手にぶらさげ、寝息を立てていた。これが桐子との旅行だったならどんなにか楽だったろうか。桐子は佐由子のことを性格が悪いといっていたが、表立って見せないだけで自分も十分性格が悪いと美緒は左頬をひきつらせた。


電車が終点の高尾駅に着くころには、電車に乗っているのは大柄のリュックを背負った初老の客ばかりだった。山を登るには絶好の日和だろう。電車が段々と駅に着くのがわかるにつれて、美緒は佐由子を起こそうかとまどった。山を登るのであればためらうことはなにもないのかもしれないが、どうして佐由子がいっしょに学校をサボろうと言いだしたのか、美緒なりに見当はつけていた。各駅停車に乗ったので、時計を見れば一時間以上電車に揺られていたことになる。そろそろ一時限目が終わる頃だった。やっぱり母親からは電話もメッセージもこなかった。なんだか母親からの連絡を待っていたみたいで、美緒は急いで携帯をかばんにしまった。

 美緒が声をかけなくても、電車がホームに到着すると佐由子は自然に目を覚ましていた。

佐由子は前に組んだ両手をもちあげて背伸びした。あくびをすると、前方に突出した前歯が口からののぞき、げっ歯類を思わせた。

 目のはしにたまった涙をぬぐうために外した眼鏡をふたたびかけている間、佐由子は一向に立つそぶりを見せずに座ったままだった。眼鏡のレンズに埃りが点々とこびりついていた。

「降りないの?」

「美緒は降りたいの?」

「終点だよ、ここ」

「このまま乗って帰ろうよ。降りたらお金がかかっちゃう」

 それではキセルになるという言葉を飲みこみ、美緒は浮かせてかけていた背中をもう一度座席に沈めた。真ん中寄りの車両に乗っているので、駅員に見とがめられる心配はほとんどなさそうだった。

 電車が発車するまでにはまだ時間があった。佐由子は飲み物を買ってくると言って一端ホームに降りると、程なくして階段近くに設置されている自販機で買ったペットボトルの緑茶を二本小脇にかかえて帰ってきた。佐由子が学校でよく飲んでいる濃いめの緑茶だ。財布を出して自分の分の代金を美緒がさし出すと、佐由子は黙って受けとった。

山のふもとにある駅といっても、標高の低い山だから、鬱蒼と茂る森林を切り開いて街を作ったような風景が広がっていた。朝の時間帯、山のふもとにある駅から乗りこんでくる客はまばらだったが、木々が吐きだした空気を洋服にためこんで入ってくるためか、わずかに車内がひんやりとしだしたのは決して空調のせいだけではないように思えた。まさか学校をサボるつもりはなかったので、ペットボトルを用意していなかった美緒の口には緑茶の冷たさがみずみずしかった。佐由子はわざわざ買った緑茶にまったく手をつけずに、だれも座っていない左隣のシートにペットボトルを放りっぱなしにしていた。

「美緒なら、つき合ってくれると思ってた」

「どうして?」

「マジメ系クズだから」

「佐由子に言われたくないなあ」

 佐由子はいつも表情筋をめいっぱいにあげて笑うので、口元にも目元にも深いしわができる。しわが深ければ深いほど、佐由子の笑い顔は意識的に見える。

 外で発車を知らせるベルが鳴っていた。警笛が吹かれ、ドアが閉まる。駆けこんでくるような乗客はいなかった。ひんやりとした空気を乗せたまま、電車がのっそりと動きはじめる。放りっぱなしのペットボトルが電車の動きに合わせて小刻みに転がる。てっきり下車すると思って床から膝の上に置き換えていたリュックを両足の間に置いてから、美緒はだんだんと小さくなっていく山の稜線を眺めた。

「ほんとは終点に来るまでに相談したかったんだけど、言いだせなくって」

「ゆっくり話してくれたらいいよ。いきなり本題から切り出さなくったって」

「ありがとう。そういえば、桐子さんは元気?」

 新宿で偶然佐由子と会った翌日、学校で桐子との関係を聞かれ、美緒は正直に交際相手だと答えていた。自分のセクシャリティを隠すつもりはなかった。そもそも交際の対象が女性だというだけで桐子を含めて本心からだれかに恋愛の感情をいだいたことのない美緒には、セクシャリティなんてものはたいして重要ではない。

「別れた」

「そうなんだ。どうして?」

「喧嘩したの。わたしもちょっと感情的になりすぎたかなとは思うけど」

「ふぅん。あんまり未練なさそう」

「まあね。またネットで相手を探すだけだから」

「美緒の話を聞いてたら、なんだか桐子さんのほうがかわいそうになってきたな」

 桐子のことはそれくらいにして別の話題にしてくれないのかと、美緒は内心では佐由子のデリカシーのなさにいらだっていたが、左手の小指のつけ根を反対側の親指で押してこらえていた。死んだ祖母がむかし、美緒の怒りっぽい性格を気にして教えてくれた、いらいらを鎮めてくれるツボだった。大抵のことはそれで我慢できた。

「ねえ佐由子、家には帰ってるの?」

「さすが美緒だなあ。うん、帰ってない。家出中なんだ」

「親御さんが心配するでしょ」

「心配ってレベルじゃないかな、たぶん。一応、一日に数回は電話して声を聞かせてる。警察に捜索願出されても困るもん。美緒は良いよね、門限とかがなくって」

 電車に乗って最初の一時間がうそであったかのように、佐由子は饒舌だった。家を飛びだすときに置いてきてしまった人との会話の仕方を、一度に取り戻したかのようだった。

「そんなことよりさ、どこかで途中下車しない? ずっと電車に乗っていたら、飽きてきちゃった」

「さっき終点で降りればよかったのに」

「それはイヤ。わたし、家出中だよ。ちょっとでも電車賃、安くすませたいもの」

「そのくらいわたしが出すから」

「いいのかな」

「うん。バイト代、入ったばかりだしさ」

例のしわを刻んだ笑い方で、佐由子は「ありがとう」と返事をした。


 佐由子とはちがって電車に乗ってから一度も立ちあがっていなかった美緒は、降車をしてからも臀部にシートのごわごわとした感触が残っているような気がしていた。十時を回って、あたりにはちらほらと同年代の子を見かけるようになった。

 聖蹟桜ヶ丘駅で降りた理由を佐由子は、ジブリが好きだからと答えた。ジブリの映画で聖蹟桜ヶ丘の周辺がロケ地になっている作品があることは知っていた。佐由子の口からその作品名を聞かされてもあまりしっくりこなかったが、保育園に通っていた頃に毎日のように見ていたという話を聞いて腑に落ちた。

 電車に乗っていたときには妙に気が張っていたのに、改札をいったん通ってしまえば賑わう人の波に酔わされてか、美緒の気持ちもだいぶ明るくなっていた。駅舎と直結しているショッピングモールの案内を眺めながら、最終的には安くすむという理由で一階にあるファストフード店に寄った。昼時には早かったが、朝食を食べていないので美緒はハンバーガーのセットにフライドチキンも加えた。

 商品が置かれたトレイをもって席を探す。店内の半分ほどが空席だった。ソファ側の席に座りたいと佐由子が言うので奥のほうの席に腰をおろした。二時間近く電車のモケット生地にからだを沈めていたからか、木材のイスは異様に固く感じられたが、今の美緒には固いくらいがちょうどよかった。佐由子は自分のハンバーガーをあっという間に平らげてしまい、水が入った小さなカップに口をつけていた。ハンバーガーにしても、店で一番安いのを二つ頼んでいただけだった。佐由子のほうにポテトを向けて食べるように勧めた。

 初めからそのつもりでセットメニューを注文していた。

「学校には行こうと思ったんだけど、やっぱりサボりたくなっちゃって」

「それでわたしを待ち伏せしてたんだ」

「もともと美緒には相談したいことがあったから」

「これまでどこにいたの?」

「ネカフェ。誕生日が六月で助かったなあ。ほんとは学割が使えたらよかったんだけどね」「いつまで家出をするつもり?」

「資金が尽きるまでかな。母親の財布からとりあえず二万円は抜いて出てきたんだけど」 佐由子のことだから家出をする時点で所持金は少ないと思っていたが、親の財布からくすねていたところまでは想像していなかった。親からもバイトを禁じられている佐由子の収入源は月々のお小遣いかお年玉で、それもアニメのグッズに費やしてしまうのですぐになくなると以前言っていた。

「ポテト、こんなにもらっちゃっていいのかな」

「たくさん食べて」

「ねえ、小公女は読んだことってある?」

「子どもの頃にね」

「たくさんでございます。わたくし、ほんとうにいただくわけはございません」

 電話越しでしゃべるような声高な口調で佐由子が言った。突然芝居がかったしぐさを目の前でされて美緒はおかしくなった。

「ポテトくらい、素直にもらいなよ」

「ついさ、言ってみたくなっちゃって。わたしね、ジブリが好きなくらい小公女も好きだったんだ。アニメも見たし、小説も読んだな。小公女みたいになりたいって、美緒は思ったことない?」

「あんまり。わたしとはまったくタイプがちがうもん」

「わたしはなりたいな。自分ではなれっこないって思っているから余計にね」

 それから佐由子はほとんどポテトには手をつけなかった。すっかり手もちぶさたになった相手に自分の食事風景を見られるのは落ち着かず、それならばせめて佐由子の話を聞いていたかった。佐由子は空になったコップにさっき高尾駅で買った緑茶をソファで注ぎ、飲んでいた。視線が美緒のわずか後ろにある気がして振りむけば、七分丈のカーディガンを着た女性が垂れてくる髪を片手で抑え、小さく開けた口にポテトを運んでいた。

「ああいう人が施しをもらうんだろうなあ」

「そうかもね」

「美緒だってもらえるよ」

「私が?」

「桐子さんとかからさ」

「へんな冗談はやめて」

「冗談じゃないよ。美緒ってさ、大人びた弟って感じがするじゃない。桐子さんとお似合

いだったな」

「そうかも。桐子って子どもっぽいおねえさんだったから」

 長岡の花火にしようか、それとも大曲にしようかと、旅行雑誌を見ながら足をばたばたさせて寝ころんでいた桐子のすがたを思いだした。部屋の外で掃除機の音が聞こえていた。セックスをして微睡んだ翌朝、目が覚めて、セックスをした相手がとなりにいるのをたしかめるときが美緒にとっての一番幸福に思えるときだった。桐子もそのことを知っているので、化粧をしたあとは下着だけつけてシーツにくるまってくれていた。寝起きの悪い美緒が起きるのを、桐子は雑誌を読んで待っていたのだった。携帯で時間をたしかめれば、ホテルのチェックアウトまでは余裕があった。午後からは予備校の授業があり、桐子とは駅前で別れることになっていた。

 鼻歌を口ずさむ桐子の横顔は美緒のクラスメイトとくらべても幼く見えた。もしもあのとき、美緒のほうから自分の予定を言っていたら、桐子は有給を消化するつもりで旅行の日程を決めてくれていただろう。協力の一切をせずに、ひとごとのように結局旅行をしなかったと漏らせば、桐子がふてくされるのもむりはなかった。それでもあえて年下とつきあっている以上は、多少振り回されたところでこちら側のレベルに落ちてきてほしくもなかった。

「これからどこに行こうか。佐由子は行きたいところ、ないの?」

「とくにはないかなあ。ぶらぶら歩かない?」

 トレイの回収口で店員にトレイを渡し、店の外に出た。店に入る前よりも人混みが増していた。もしかしたらこのまま佐由子の相談を聞かぬまま、学校が終わる時間になるのではと思った。これまでの時間、だべっているだけで有意義に過ごしているとは言いがたかった。せめて古川ゆかりの一件が佐由子の家出にどう影響しているのかくらいはたずねたかった。


 適当にウィンドウをっピングをしようかなどと口では言っていても、漠然と駅のロータリーに出ていた。陽光がまとわりついてくるようだった。体育祭を控えた期間はぐずついた空模様が多く、ほとんど練習できないまま、一日順延して当日を迎えた。桐子と別れたのはその当日の夜だった。わたしがいなくてみんなうれしそうだったでしょ、と佐由子が言った。たしかに佐由子がいなくなったので、クラス対抗リレーでは佐由子の代わりを女子サッカー部の生徒がつとめた。とはいえ、そもそも体育祭の最中に佐由子の話題はクラスのなかでいっさいのぼらなかった。

 ショッピングモールを出てすぐのところに周辺の案内板が立っていた。ジブリ映画の舞台になった場所が絵で丁寧に書かれていた。案内板のかたわらに西洋風の一軒家をかたどったモニュメントがあった。自分の夢についてを書いて投函するポストであると説明文が添えられている。青春のポストと名づけられているらしいそのポストに、美緒はなにも投函できるものがなかった。大学に行くのも高校を卒業すれば自動的に行くものだと思っているからで、父親も娘の進路について興味はない様子だった。どうせなら東京を出て地方の学校に入学してもいいかもしれないとさえ美緒は考えていた。知らない土地に行って、見飽きた風景から飛びだしてみたかった。

 ポストの柱にチラシをいれたケースがくくりつけられている。美緒はチラシを二枚取り出して、佐由子にも手渡した。裏をめくれば案内板も描かれているような地図が印刷されていた。大きめの白い丸が三つ、絵の隙間を縫って配置されていた。スタンプラリーの用紙になっていて、そこにスタンプを押すらしい。「せっかくだから、これをやってみようよ」と美緒が提案すれば、佐由子も笑顔で「賛成」とはしゃいだ。

 ひとつ目のスタンプは駅舎のなかにあった。スタンプがかすれてしまわないように印にたっぷりと朱肉をふくませ、一番下に配置されている丸の部分に押しあてれば、目と口のある電車が桜並木を走っていた。なんでもない絵柄なのに妙に愛着が沸き、佐由子が押したものと見せ合った。あとでスタンプを押した佐由子のほうがうまく押せていた。美緒のほうが全体的に絵柄が左に寄りぎみだった。

 散策マップの通りに道を歩いているあいだ、佐由子が飲んでいた緑茶がなくなったので美緒はまだ半分ほど残っていた自分のペットボトルを佐由子にあげた。ファストフード店でコーラを飲んでいたからのどは渇いていなかった。ふたりともかばんや荷物を駅のロッカーにしまっていた分、身軽だった。大通りをまっすぐ行けば橋のたもとに出る。そこを超えればつづら折れの上り坂になるらしい。佐由子がずんずんと歩くので、その歩幅に美緒も合わせなければならなかった。歩道に並んだ街路樹が風でそよぎ、実際の気温よりも涼やかに感じた。

 これが放課後や休日ならば他愛もない学生生活の風景なのだろう。学校のあとは、バイトか予備校か、もしくは交際相手とホテルに行く以外にない美緒には、学校で話す知り合いはいても、郊外で遊ぶような友人はいなかった。かつての交際相手とは、ほとぼりが冷めればたまに連絡はとっているが、直接会いたいとは思っていない。今は、桐子と別れ、また新しい相手を見つけるまでの小康状態なのかもしれないと美緒には思えた。

「あっ、ちょっと待って」

 そう言って急に佐由子が立ち止まるので美緒が前に行きかけたかかとをうしろに引くとうしろで「あっ」と声がした。ビニール袋を提げた年配の女性とぶつかっていた。美緒が女性に謝ろうとするのもかまわずに佐由子が美緒のカーディガンをひっぱってさえぎるので、謝るあいだ、かえって罰が悪かった。

「どうかしたの?」

「次のポイント、コンビニに台が置かれてるみたい」

 言われて用紙を見れば、右下の隅にはたしかにそのように書かれていた。真ん中の白い丸に小さくいろは坂と併記されていたので、てっきり坂のどこかに台があるつもりでいた。今しがたコンビニを通り過ぎたことを思いだして元の道を引き返した。スタンプの台は店先に置かれていた。

「佐由子が気づいてくれてなかったら、危うく通りすぎるところだった」

「うん。なんかすぐにふたつ埋まっちゃったね」

 もっとも最後のポイントはここからはだいぶ離れているようだった。高尾山にこそ登らなかったが、アウトドアをすることに変わりはないらしい。こういうとき、学生服はつくづく便利だと美緒は思う。平らかな靴でなかったら、初めからスタンプラリーをする気力は沸かなかっただろう。美緒は用紙に二つ目のスタンプを押してから、つまさきを立てて足首を回した。

 橋のたもとへはそれから数分でたどり着いた。その先に木々が茂っているのが見えた。橋の手前と奥とで景色ががらりと変わっている。ホテルなのか、やけに白い建物が門扉のように茂みの前にたたずんでいるのがひと際目立って見えた。丘の上には民家が並んでいるらしく、橋から先だけを見るとかつて祖父母に連れて行かれた旅館から観た、箱根の景色に思えた。歩道の幅が途端にせまくなっていた。

 散策マップの平面な地図から想像していたよりも勾配が急に感じた。ちょっと坂を上っただけで振り返れば小さくなりきれずにごちゃごちゃとした密集した街並みがあった。ずっと先のほうは林立するタワーマンションに遮られて、それ以上は奥になにがあるか見えなかった。ほとんどの窓がこちらをそむくような角度で向いている。そうした構図は陽光の光に少しでも触れようと懸命に枝を伸ばす植物のいじましさに似ている。けれどその伏し目がちな窓のひとつひとつが美緒には慎み深さのあらわれに見えた。まるで異なる感慨が美緒のなかで不都合なく同居していた。

「結構、足にくるね」

 うつむくようにして佐由子が言う。息をする回数が坂をあがる前よりもだいぶ増えている。もともと姿勢の悪い佐由子の首が更に前に出ていた。

「でも自転車を漕いだら気持ちよさそうだよ。学校に行くときとか」

「ええ、絶対にいやだ。雨が降るたびに憂鬱になるよ」

 左側に、整備された階段が連なる脇道が見えた。映画ではこの階段のある道の反対側に主人公の父親が勤めている図書館があるが、実際には丘の空閑地として整備しているような公園があるだけだった。ここで階段を上がらなければ、曲がりくねった坂道を進むことになる。

 階段を上るとふたたび車道に出た。目の前に二つめの階段がある。階段は都合三つあり、三つめの階段が最も傾斜があった。道幅もせまく感じられた。

 三つめの階段を上り終えて、道なりに上り坂を歩いてくと茂みに紛れて一軒家の二階部分が目に入った。そこから更に進めば、見渡す限り住宅が広がっていた。さっきまで別の次元を迷いこんでいたのかと思うほど、駅の街並みのつながりのような雰囲気がした。散策マップではほとんど一本道のように書かれていた坂道に脇道がいくつも伸びていた。ゴール地点のほかにもいくつか名所が書かれていたが、ひたすら広い道を歩くことにした。

「あっ、ネコだ」

 佐由子が指をさす先に、民家の塀でネコがうずくまっていた。模様が均等に散らばった三毛猫だった。庭先からダリアが生えているのが見える。細かい花びらが丸まるようにして何層にもついている。背高の茎が花の重みでいまにも折れそうだった。門扉にとりつけられた植木鉢からも名前はわからないが白い花がいくつもつらなってしだれている。花の存在を実感すればするだけ、匂いが濃くなっていく。ネコは美緒や佐由子がいてもかまわずにまぶたを閉じていた。映画にもネコがしばしば出てくるので、散策マップにもネコのすがたが小さく描かれている。ここにくるまでのあいだ、ネコと遭遇しなかったのはたまたま運が悪かっただけなのかもしれない。佐由子は腰をかがめながら塀に寄ると、仰ぎ見るような恰好でそっとネコのあたまを撫でていた。

「この子、全然動じないよ。美緒も撫でたら?」

「ううん。ここのおうちのガーデニングがきれいだから見てる」

「ほんとだ。美緒、こういうのが好きなんだ」

「こういう家に暮らしてる人の家に住みたいなっていうのが昔からの夢」

「ネコみたい」

「それさ、つきあったひと、みんなから言われたな。どうせ長くはつきあえないって思っ

てるから、かなわない夢だけどね。そこそこの大学に行って、そこそこの会社に就職して、適当にだれかとつきあうんだろうなあ」

「美緒って達観してるよね」

「実際は開き直っただけなんだどね。小さいときには目が大きくてくりくりしてるって祖父母からも、友達からもかわいいって言われて育ったけど、だんだん背が大きくなってくるし、顔も大人びてくるし。自分にはかわいいって言葉が似合わなくなったんだなって思いはじめたときだったかな、髪を切ろうって思ったのは」

「昔から今みたいな子だったんだろうなって勝手に思ってた」

「全然ちがうよ。編み物好きだし」

「意外」

「そうでしょ。桐子には時期が時期だったから編まなかったけど、去年の冬につきあってた彼女にはマフラーを頼まれて編んだなあ」

 うずくまっていたネコがおもむろに目を開け、佐由子がなでる右手ごと起きあがった。

驚いた佐由子が手をひっこめた隙に、庭のほうへと飛び降りていった。

「撫でられすぎて嫌われちゃったのかな」

「塀で寝てるのが窮屈になったのかもね。まだ駅から橋のたもとくらいの距離はあるみたいだから、そろそろ行こう」

 佐由子は白線さえ引かれていない道を急に走ってみたくなった。さっき立ち止まっていた美緒たちを通り過ぎていった老婆を追い越していく。後ろで佐由子が「待って」と弱弱しく叫んでいた。庭があったり、西洋風の凝った門扉のある家があちらこちらにある。どの家にも広々とした車庫があるのは土地柄を考えれば当然だといえた。トラ柄のネコが一匹、美緒の目の前を横切っていった。


「突然走り出すからびっくりしちゃった」

 佐由子の恨み節が店内に響いた。美緒が置き去りにならない程度に走っているうちに、目的地に到着していた。円形の植込みの周りを車道が囲っていた。佐由子は美緒に遅れながら、転びそうになる足を懸命に食い止めてようやく美緒のもとにたどり着いた。なんの断りもなく走り出したのだから、佐由子が文句を言うのも仕方なかった。三つめのスタンプがああるのは、ロータリー交差点にさしかかる手前にある洋菓子店だった。青い看板の店にはさまれた茶色の看板に古めいた装飾文字で店名が綴ってあった。

 詫びもかねて、佐由子にケーキをごちそうしたのだった。飲食スペースはなかったが、店先のテーブルが空いていたのでそこに隣り合って座った。

「もう、何回も謝ってるじゃない。そんなに言うんなら、そのイチゴタルト、わたしにちょうだいよ」

「仕方ないなあ」

 口をすぼませながら、佐由子は半分ほどになったイチゴタルトにフォークを入れた。店の扉から映画の主題歌が漏れている。スタンプの最終地点だけあって、店内には主題歌が流れている以外にも劇中に出てきたキャラクターの人形がいくつも置かれていた。訪店記念のノートを開けば、都外の観光客も多く訪れているらしかった。なにか書こうとも考えたが、子どもの頃に一度見たっきりの美緒には思いつく言葉がなにもなかった。美緒がケーキの会計をしているあいだ、佐由子がノートにメッセージを書いているのが見えたが、それについて美緒はなにもたずねなかった。

「でも、びっくりしちゃった。日曜休業なんて。今日来てよかったな」

「ねえ、佐由子」

 美緒はまだほとんど手をつけていないモンブランの皿にフォークを置いた。大学生くらいの年のカップルが美緒たちのいるテーブルを横切って扉を開けた。主題歌の音量が大きくなり、やがてもとの静けさをとりもどす。

「そろそろ、話してくれない?」

「わたしの相談事?」

「うん」

「そうだなあ」

 フォークについたクリームを舐めたまま、佐由子はその手を動かそうとはしなかった。くちびるの内側にはいったフォークの先を噛んでいるように見えた。ため息と同時にフォークをテーブルに置く。佐由子は定まらない焦点をようやく美緒の首すじのあたりに定め、もう一度ため息を吐いた。

「もうさ、どうでもよくなってきちゃった」

「どういうこと?」

「なんでもないんだ。相談のことはもう忘れて。わたし、なんだかんだで今日楽しかったから。ほんとうにどうでもよくなってきちゃったんだ」

「そう。なら良いけど」

 佐由子がなにも語らない以上、自分から興味本位で踏みこもうとは思わなかった。佐由子は「もうひとつ、おごってほしいな」と勝手を言って店のなかに入っていってしまった。入れ替わるようにしてさっきの大学生カップルが出てくる。てっきり佐由子がうらやましそうにそのあとを見つめているかと思ったのに、ふたりには見向きもせずに商品棚に並んだケーキや焼き菓子を眺め、軽く握った右手を口にあてているのが壁一面の窓越しから見えた。

 もし仮に佐由子から古川ゆかりに仕返しをする手伝いをしてくれと頼まれていたら、きっと美緒はそうしていただろう。父が軟式野球で使っている金属バットが庭の物置にしまっているはずだった。工具箱のハンマーでもいい。けれど佐由子の様子を見ている限り、もうあのときの腐敗ガスが破裂してしまいそうな様子はなかった。気づけば美緒は自分の下唇に前歯を強く押し当てていた。それが犯罪者にならなくてすむ安堵からなのか、それとも別の感情なのかはわからなかった。ただ、佐由子が散々自分を振り回したあげくに元の生活に戻るのだろうことはほとんどまちがいなく、どうしてか腹立たしかった。

 とにかく、新しい交際相手をつくらなければと美緒は思った。交際相手をつくり、自分が存在しているのだという感覚を、このからだに刻みこんでほしい。

 ソックスの際のあたりに毛の温かい感触がした。トラ柄のネコが頬をすり寄せていた。動物の本能を忘れて甘えるネコの顔を散々に引きちぎってしまい衝動を抑えて、美緒はネコのあごの下を撫でた。佐由子がくるまでずっと、みじかく切りそろえたつめでそっと撫でていた。

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