第3話 私達は声を失った 後編
お母さんは無言で史佳を見続ける。
緊張感はお母さんの隣に座る私にまで伝わり、正面で見据えられている史佳は堪ったものじゃないだろう。
しかし、史佳は一体どんな生活を送っていたらこんな姿になるの?
昔の面影が殆どない、綺麗で自信に溢れていた憧れだった姉の面影が...
「あの、お母さん」
沈黙に堪えきれない史佳は恐る恐るお母さんに呟く。
脂汗は顔だけじゃなく、服にまで滲み始めていた。
「何かしら?」
「足を崩していいかな...膝が痛くって」
「好きになさい」
「うん...あいたたた」
姉は苦悶の表情で足を崩し、大股を開くと両足の指を揉みだした。
その仕草には大人の女性としての、品位の欠片も無い。
まるで子供がする様な仕草、外見だけでなく、内面もすっかり変わってしまったのだと実感させる。
姉は正気では無い。
今も完全に気が狂っているとしか思えない。
不倫を隠して政志さんと結婚し、娘まで授かっておきながら、不倫相手との関係を続け、挙げ句家族を捨てて逃げたのだ。
それだけの事をしでかしながら、政志さんの前に現れて、ヘラヘラと復縁を迫る等、常軌を逸している。
完全に潰さねばならない。
私にとって大切なのは政志さん、そして美愛ちゃんなのだ。
「史佳...生きててくれて、よかった」
「お母さん?」
お母さんの言葉に耳を疑う。
なんで優しく声を掛けてるんだ?
「貴女は私の娘よ...死を願う親なんて滅多に居ません」
「お...お母さん...うん...ありがとう」
母の言葉は姉の心を射貫いた。
反抗的な狂人の目に光が宿り、僅ながら理性を感じる。
(...なるほど)
お母さんの意図は分かった。
絶対に本心から出た言葉じゃない、どれだけキツい言葉をいくらぶつけても、今のコイツは聞き流し、都合の良い言葉しか返って来ないからだ。
「史佳は私の娘...それは切れない縁よ」
「うん...辛かった...それなのに、誰も私の事を分かってくれなくって...」
嗚咽混じりに返す史佳。
自分の都合でしか話さないのは相変わらずだが、さっきよりマシだ。
まだ聞いてられる、同情はしないが。
「ずっと寂しくって...なんでこんな事してるんだろう...でも帰れない...あんな事しちゃったし」
いかに自分が苦労をしながら介護をしていたか、不幸を涙ながらに語る姿に、僅な反省が見え始める。
「辛かったでしょう...愛されたかっただけなのよね」
母は史佳の言葉を否定せず、受け入れの言葉を掛け続ける。
いくら正気ではない人間の為だとは思うけど、ちょっと心配だ。
「...ねえ、お母さん」
私は母の袖を小さく引っ張る。
まさか絆されたりしてないよね?
「...大丈夫よ」
母の小さな声にホッと胸を撫で下ろした。
「うん...私、これからは政志さんと...だからお母さん、応援してね...」
その間も史佳は馬鹿げた妄想を続けている。
なんだか復縁が前提になって来てない?
「それは諦めなさい」
「ふえ...?」
ピシャリとお母さんが姉の言葉を否定した。
態度が変わり、予想外の言葉に姉は驚いている。
「...もう無理な事、本当は分かってるでしょ?」
静かに、小さかった頃の私達を諭すように母さんは呟いた。
「そんな事無い...だって政志さんはずっとこの家で私を待っててくれたんだよ?」
「あのね...」
どうしてそんな都合よく解釈が出来るんだ?
政志さんが引っ越さず、ここに住み続けていた理由はアンタを待つ為なんかじゃない。
「それは...紗央莉から言いなさい」
「分かった」
母さんは私に頷く。
テーブルの下でお母さんは携帯でメッセージを手早く打ち込み始めた。
「政志さんはアンタを待つ為に、ここを離れなかったんじゃない」
怒りに任せてはダメだ、母を真似て出来るだけ冷静によ。
「嘘よ...紗央莉は私が邪魔でそんな事言うのね」
「嘘じゃない、だってここは政志さんの両親が遺してくれた家、忘れたの?」
亡き両親との思い出の詰まったこの家を政志さんは手放したり出来なかった。
そして、この事は姉も分かっている筈よ。
「姉さんも新婚生活をここで過ごしたでしょ?
政志さんの妻として、泥沼の不倫を断ち切りたいと、全てをここからやり直したいと願ったんじゃなかったの?」
「あ...ああ...私は...」
ワナワナと唇を震わせ始める。
不倫相手から言われるまま姉は政志さんと交際を始めた。
計算外だったのは、姉は政志さんに本気となった事。
嫉妬にかられた不倫相手は姉を取り戻そうと懸命に口説き、また関係を継続させた。
これは失踪から逃げ帰った男から政志さんが聞いた話。
本当にバカ、狡猾な男の考えに反吐が出る。
それに乗せられ、関係を断ち切れなかった姉にも。
「先の無い不倫生活に疲れてたから、政志さんと結婚までしたんじゃないの?」
「う...ああ...」
そんな闇を抱えた交際と結婚だったなんて私達家族は全く知らなかった。
政志さんにそんな失礼は話は無い。
悪魔に心を明け渡した人間が幸せになれる筈がないのだ。
「...紗央莉みたいに」
ポツリと呟いた。
「紗央莉...あなたが羨ましかった...
なんの悩みもなく、恋愛を楽しんで...婚約した貴女が」
「...はあ?」
酷い言い分だ。
なんで妬まれなければならないの?
不倫の精算が出来なかったのは自分達の意志薄弱が原因ではないのか?
結局姉は誰かに依存して、自分を、そう自分だけしか愛せない人間だったって事か。
それは愚かで、バカにしか見えない。
「やっと...だったの...不倫なんか日陰じゃなく、本当に、胸を張って毎日が幸せですって...」
「それじゃなんで姉さんは浮気を続けたの?」
一応は聞いてみよう。
「...分からない、アイツに脅されたのはある。
でも不倫が奥さんにバレるのを一番恐れていたのも分かってたのに...」
全く同情出来ない、それならさっさと逆に男を脅して関係を終わらせたら良いだけなのに。
分別と社会的立場のある人間が簡単に陥る落とし穴、全てを不幸にするだけが不倫って事なのか。
「でも政志さんを愛してた...だから帰りたい気持ちは本当なの...信じて...」
信じてと言われて『はい』なんか言える筈ない。
ましてや復縁なんかどうかしてるよ。
「アイツが逃げた時も...本当はここに戻りたかった。
...でも断られたらって考えたら...怖くて」
それが普通の考え。
許される事を期待をしてる方がおかしい。
それじゃなぜ帰って来たんだろ?
「先ず身体を治しなさい」
それまで黙ってやり取りを聞いていたお母さんが姉に言った。
「...身体を治す?」
「貴女の身体は普通じゃない、それじゃ満足に動けないでしょ?
なんにしても身体から治しなさい」
一体お母さんは何を言いたいの?
治したところで、また帰って来るよ?
「...うん...ずっと食べるばかりで運動なんかしなかったから」
姉は自嘲気味にお腹の贅肉を摘まむ、本当に見事な太鼓腹。
「話は終わったか?」
「ええ」
リビングの扉が開き、真剣な表情のお父さんが入って来た。
「...なんでお父さんが...」
実家に行ったんじゃ無かったの?
「さあ行くぞ史佳、タクシーを待たせてる」
「どこに行くの...?」
言葉に答えず、お父さんは姉の腕を掴んで立たせた。
「病院だ、先ずは身体を治しなさい」
「そうしたらまた会える?」
「ああ...全部片付いたらな」
「...分かった」
お父さんは少し困った顔で私を見る。
分かったわ、お母さん達が考えた事を。
それにしても、お父さんは相変わらず嘘が苦手だ本当に。
「...紗央莉...行ってくるよ、政志さん達と待ってて」
どう答えたら良いのかな、何を言えば...
「美愛ちゃんを置いて行ったのは邪魔だったからなの?」
私の口から出たのは美愛ちゃんだった。
「それは...」
「本当は政志さんの子供が欲しかったんじゃないの?だから隠れてDNA鑑定をしたんじゃ?」
姉はもう限界だったんじゃ?
だから全てを壊し、逃げたんじゃないのか。
愛する娘が愛する人の子供と証明され、不倫関係を続ける事に良心の呵責に心が耐えきれなくなったのでは...
「...忘れたわ」
「そう...」
本当に忘れてしまったのかもしれない。
だけど姉は男と逃げる時、躊躇う奴に逃げないと奥さんへバラすと脅迫したらしい。
そして失踪の際、姉はお金を殆ど持ち出さなかった。
結婚の際に作った夫婦名義の通帳も残されていて、政志さんの稼いだお金には手を着けらていなかった。
だから、不倫じゃなく最初は事件に巻き込まれたと思った位だ。
自分の弱さに、失踪と言う不倫相手を巻き込んでの破滅行動、それは政志さんと美愛ちゃんに対する謝罪だったかも、そう考えるのは希望的観測かもしれない。
結局は滅茶苦茶になって帰って来たんだから。
「母さんと紗央莉はここに残りなさい、
病院は私一人で連れて行く」
外でタクシーに乗ろうとする私とお母さんを父さんは止めた。
「大丈夫だ、酒はスッカリ抜けたよ」
確かに顔色はシラフだけど。
「早く、ケータリングがもう直ぐ届くぞ、政志さんと美愛ちゃんもタクシーでこっちに向かってるから」
「そうね、分かったわ」
「お父さん、姉さんをお願いね」
ここはお父さんに任せよう。
せっかくの誕生日、用意を無駄にしたくない。
お父さんと姉を乗せたタクシーが消えて行く。
このまま心の治療になるだろう。
いつ退院出来るとも分からない入院生活が始まるんだ。
「さあ家に戻りましょ」
「うん...」
なんだか気分が晴れない。
結局姉は何がしたかったんだろ?
届いたケータリングの食事をテーブルに並べながら、そんな事ばかり考えてしまう。
「紗央莉」
「何?」
「史佳は完全に壊れてた」
「そうね」
間違いなくそうだろう、あれは普通じゃ無かった。
「いつ壊れたか、分からない。
不倫した時かもしれないし、関係を継続しながら政志さんと過ごした結婚生活かもしれない」
「うん」
「でもあれだけの姿まで壊れてなかった筈よ、きっと最後の家は追い出されたんだと思う」
「確かに...」
姉の姿を思い出す。
サイズの合わない服を無理矢理着て、ボサボサの髪を振り乱していた姉を...
「治るのかな?」
「さあ?」
さあって...
「治るかなんて分からない。
私にとって大切なのは今よ、貴女が政志さんと結ばれて、美愛ちゃんと幸せになる事が一番なの、それはお父さんも一緒」
「お母さん...」
そうよね、私だってそうだもん!
「帰ってきたわね」
玄関ドアの開く音に私は走る。
そう今が大事、この時間を、この幸せを今は噛み締めよう!
「おかえり」
「ただいま!」
私に飛び付く美愛ちゃんをしっかり抱きしめる。
もう姉の姿は脳裏から消えていた。
で、いつもの...