騎士たちの憂い
床に落ちた金糸の髪…
子供の頃からずっと伸ばし続けていただけに、切り離してしまった今はとても寂しい…
鏡に映るのは少年のような自分だった。着ている素敵な夜着がちっとも似合っていない…そう感じた。
「道具にはこれがお似合い。」
マリアナは自分に向かって言った。
「…だから、これでいいの。」
どうすればいいかを一晩中考えた。
「そなたが考えることではない」とアドモスからは釘を刺されはしたけれど、とてもそうは思えない。
「きっとお父様も苦しんでいた…私と同じように…」
不平も不満も一切口にしなかった父…異国の森で隠れるように暮らしていたのはバルドから逃れるため、そして自分を守るためだった。
母の生存も思っても見ない事実だった。言葉少なめだったものの、アドモス王は母がボルドー人であると教えてくれた。
近く母とも会えるという。
どんな女性なのだろう…母という人に触れたこともないから想像すらできないけれど、優しい人なのだろうか…
本当なら嬉しいと思わなければならないのに心が重い...
『貴女をバルドへ還さなければ戦も辞さない』
アムンストの言葉を思い出してマリアナは身震いした。
自分の存在が原因で戦になる…信じたくはないけれど、現実にヨルムドの命は危機に晒され、死に至るところだった…
「これは全て現実よ…」
マリアナは戦慄に打ち震えながら自分の身を抱えた。
『グリスティアスの呪い』
それが自分に課せられた宿命…
窓越しに明るい日差しが差し込んだ。
もう間もなく召使い達がやって来るだろう。
マリアナは鏡を伏せて立ち上がり、夜着を脱いでチュニックに着替えた。
チュニックといってもブローボーニの頃に着ていた物とは違い華美で上質の物だが、ドレスに比べればあまりに質素だ。
「カインが誉めてくれた髪だった...」
思い出さないようにしていたのに、マリアナはカインの顔を思い浮かべて悲しくなった。
カインに抱きしめて欲しい…そうしたらこの痛みも消えるのに...
「カインはもう私のことなんて忘れてる…私も忘れなきゃだめ…」
溢れ出る涙を抑えられず、マリアナは声を殺して泣いた。
…もう誰も巻き込んじゃいけないの…カインも…ヨルンも…
最善の方法を見つけなければならなかった。
そのためには、全ての真実を知り、バルドと向き合わねばならない。
「そのためなら、どんなことでもするわ。」
それがマリアナの決意だった。
ヨルムドはマリアナの城に留まり、ボルドーの一団が訪れるのを待っていた。
事の詳細は報告済みで、早駆けによって本国へ届けられ、今頃は父からリザエナへとすぐに伝達されているに違いない…
「リザエナ様に向ける顔がない…」
ヨルムドは深くため息を吐いた。
「17年ぶりの再会だと言うのに、あのような髪に…」
陽の光のように眩しい色の髪…ブローボーニにいた頃、マリアナは
朝になると長い髪を自ら梳いて整えていた。その姿は美しく、まるで森に棲む妖精のようだと思っていた。
「あなたの髪はお月様みたい…」
そう言って微笑んだマリアナが忘れられない…『月光』はマリアナが名付けてくれた称号であり、それ以来ユルムドは『月光の騎士』になった。
「サー ・エストナド」
扉の向こうからの呼び掛けにヨルムドは顔を上げた。近寄ってすぐに扉を開ける。外に居たのは家令を務める男で、彼は一礼してからヨルムドに告げた。
「アル・ファムド様がおいでになっています。…マリアナ様もご一緒です。」
「マリアナが参謀と?…何処にいる?」
「図書室でお待ちです。」
ヨルムドは余計な詮索はせず、すぐに廊下へ飛び出した。
バルドの襲撃後、アドモスはマリアナを城の奥深くへと押し込め、近衛の騎士に警護を任じた。ボルドーの騎士であるヨルムドは責を免れたものの、全ての任を解かれてシスティア城に留まっていたのだった。
足早に歩くヨルムドの目に黒い人影が見えた。図書室の扉の前にアル・ファムドが立ち、ヨルムドに視線を向けている。
「ファムド卿」
ヨルムドは歩み寄り姿勢を正した。アル・ファムドは穏やかな表情でヨルムドを迎え、落ち着いた口調で言った。
「姫君が君に会いたいと仰せになった。今少しその猶予を与える…二人で話をするといい。私はここで待っていよう。」
彼はヨルムドに道を開け、自身は廊下に留まった。
状況からマリアナの無理な願いを密かに聞き届けたことは明らかでだったが、それを主張することはなかった。
「ヨルン…」
奥にいたマリアナが自ら歩み寄ってくる。短髪に膝丈のチュニック姿…それはそれで美しいが、本当に別人のようだ。
「マリアナ…」
ユルムドも立ち上がって向かい合った。
「書庫へ行きましょう…」
マリアナは足を止めず、そのまま書庫の方へと歩いて行く…ヨルムドも黙って従った。
書庫に着くと、マリアナが錠を外して中に入った。
「ヨルンも入って…」
マリアナは今度こそヨルムドの腕を掴んで引き寄せた。書庫の内部は薄暗かったが、一つだけある窓際まで行くと向かい合い、上目遣いで彼を見上げる。
「嘘つき」
マリアナは言った。
「怪我はしてないって言ったのに。」
「…嘘などついては...」
「だから…それが嘘。」
ヨルムドの左掌をそっと握ってマリアナは言った。いつもはしていないはずの包帯が巻かれている。
「ヨルンは嘘つきだわ…お母様のことも、私が誰なのかも全部知ってた…カインのことだって彼がルポワド王の密使だと解っていたのでしょう?」
「それは…」
「解ってる…あなたは課せられた任務を遂行しているだけ…何も悪くないし、恨んでなんかいない…それを責めたいわけじゃないの…」
マリアナは握っていた手を離してため息をついた。
「多分こうして話せるのも最後になるから、ヨルンにだけは真実を話しておくね。」
「真実…?」
「うん。…バルドがなぜ私を欲しがるのか…きっと、この事は私とお父様しか知らないのだと思うの…だから、バルド王…お祖父様はこだわっているのよ。」
マリアナの言葉にヨルムドの全身が総毛立った。マリアナはとんでも無いことを自分に伝えようとしている…おそらくは『封印』の話に違いない。
「バルド王家の三男だったお父様は、ネスバージへ友好の証として、技術供与のため派遣された…きっとお兄様が二人もいたので、お祖父様の期待も薄かったのかもしれないわ…でも、結局『封印』は解けなかった。ネスバージに預けてしまったお父様が、一番優秀だったことにお祖父様は後で気づいたのよ。」
…その通りだ。
ヨルムドは思った。ゼナ・ヴェルネスは表向き城塞技師だったが、実際は兵器開発に長けた技術者だった。彼の才覚によって生み出された兵器は数多あり、その中でもバルドの国境線に建つ砦は最も優れた機能を備えているという。ネスバージがバルドの実質的な侵攻を阻めているのも、その功績の成せるところが大きい。
「アドモス陛下は仰られたの…「ゼナを渡さなかったのは本人がそれを望まなかったからだ」って…お父様を深く愛していたから、バルドの戦の道具にさせたくなかったって…」
「ネスバージ王が…ゼナ様を…?」
「…お仕事とは言え、お父様を利用し続ける事に悩んだ陛下は、あることをきっかけにその地位を奪って失脚させた…それが、お母様との結婚だったのよ…」
マリアナは書庫の棚へと手を伸ばして本を取った。ページを開いて
ヨルムドに見せる。ヨルムドは覗いてみたが、数字と記号が見えるものの、内容はさっぱり読み取れなかった。
「アドモス陛下の仰る『封印』は、たぶん『計算式』だと思う…お父様がなくなる前に時々開いていた本があって、中身は全てお父様が書いた記述だった…何が書いてあるのか尋ねてみたこともあるけど、お父様は教えてくれなかったわ…16歳になるまでは無理だよと言って…」
「16…⁉︎」
ヨルムドは声を上げた。
「それでは…」
マリアナはヨルムドの瞳を見つめながら頷いた。
「そう、私に封印は解けない…今のままでは…」
ヨルムドは動揺し、頭が混乱した。『封印』の正体がマリアナの言うものであるなら、彼女はそれを知る前に父親を失ったことになる…
「でもねヨルン…このことはまだ誰も知らない…知っているのは私だけ…アドモス陛下は私をバルドには渡さないと仰るけれど、利用価値のない私のためにバルドと諍う必要なんてないわ…だって、どのみち『封印』は解けないんだもの。」
「…マリアナ」
「明日はアドモス陛下とお母様…いいえ、ボルドーの元首が私の身柄をどうするかを話し合う…だから、私、その場でバルドへ行くことを告げるつもりよ。」
「…マリアナ!」
ヨルムドは声を上げながらマリアナの華奢な肩を掴んだ。
「何を言ってる…そんな…あり得ない!」
「ヨルン…」
「バルド王がその真実を知ればどうなる⁉︎…貴女の立場が危うくなってしまう!」
ヨルムドの動揺は激しかった。顔色を失い、唇を震わせている。
マリアナは嬉しかった。優しいヨルムド…あなたは命を賭けて私を護ってくれた…私はずっとあなたに護られていた…
「大丈夫…私はバルド王の孫なのよ。少し自由を失うかも知れないけど…何とかなるわ。」
「…だめだ。」
ヨルムドは首を横に振った。
「やめてくれ…」
「ヨルン…」
「容認などしない…できるわけがない…あなた一人を犠牲にして、この場を収めるなど…」
「ヨルン…しっかりして。」
マリアナは強い語調で言った。
「あなたは私の騎士…これは最初で最後の命令よ。私がバルドへ去った後にこの真実を伝えて欲しい…『封印』は永遠に解かれない…だからもう争わないで欲しいって!」
「マリアナ様…」
ヨルムドは泣いていた…涙が頬をつたって落ちる…なんと残酷な命令だろう…マリアナのためなら命など惜しくない…必要とあればいつでも捨てる覚悟でいた。“我が君“を護ることこそが喜びであり、生きる意味の全てだった…
マリアナは微笑み、その頬に顔を寄せてキスをした。誰にもキスをしないとカインに約束したけれど構わない…もう彼に会うことはないのだから…
「もう行くわ…ヨルン、今までありがとう。幸せになってね。」
マリアナは告げると、ヨルムドを残して書庫を出て行った。
ヨルムドは自分の無力さに打ちのめされて咽び泣き、その場に膝をついて崩れ落ちた…
西ルポワド シュベール城
ユーリは応接の間でフォルトが来るのを待っていた。
公爵が応接の場所を王城よりもずっと近いシュベール城に指定したのは幸いで、予定を大幅に省くことができ、面倒な国王への儀礼を踏まずに済んだ。
「要らぬ詮索をされては敵わん…特にマルセルは勘が鋭い。」
大きく開いた窓から外の風景を眺めながら、ユーリはフォルトにどう事実を伝えるべきかを思案していた。
…カインは大丈夫だろう…任務自体の危険性は薄い…それよりも難題はシャリナだ。
ユーリはため息を吐いた。カインの問題を解決しないうちに自身の話をすればシャリナの精神は崩壊してしまうに違いない。カインの所在を突き止め連れ戻すことは当然として、将来待ち受ける問題を解決しておかねばならなかった。
「…待たせたな。」
扉の向こうからフォルトが現れると、ユーリは彼の前まで歩み寄って首を垂れた。フォルトは両腕を差し出し、ユーリの手を握る。
「要件は黒騎士の件であろう…さもあろうぞ。」
フォルトは無駄な挨拶はせず、ユーリを席に着くよう促すと、向かい合って椅子に座った。若い頃から比べると落ち着いた色合いの服を身につけている公爵は、以前にも増して王族らしい威厳を身につけており、彼の成長を如実に感じさせる…
「特務の任命責任は私にある…如何なる苦情も聞こうではないか。」
フォルトはそう言うとユーリを見据えた。
眼差しは真剣そのもので、いつもの揶揄は口にしなかった。
「苦情を言いに来たわけではない。」
ユーリは否定した。
「願いがあって来た…内々にだ。」
「…願い?」
頷くユーリにフォルトは不審な表情になった。
「珍妙だな…申せ。」
ユーリは持参してきた書簡をテーブルに置き、それをフォルトへと差し出した。
「カイン捜索の許可が欲しい…ネスバージへの入国許可もだ。」
「黒騎士の捜索?」
「ああ。」
「まさか…そなた自らが?」
「そのつもりだ。」
「なんと…」
フォルトは目を丸くした。
「黒騎士の捜索ならすでに特務が続けている…そなた自ら行く必要はなかろう。」
「そうも言っておれん…何が起きたかは判らんが、首に縄を括り付けてでもあの頑固者を連れ戻す必要がある。それが出来るのは俺だけだ。」
「…うむ。まあ確かに…」
フォルトは両腕を組みながら唸った。黒騎士の意志の強さは折り紙付きだ。一塊の騎士が帰還を促したとて従うわけがないことは明白だった。
「シャリナも同意しているのか?」
「いや、失踪の件を含めてまだ何も話していない…捜索の許可を得てから伝えるつもりだ。」
「それではシャリナに二重の心労を与えてしまうではないか…」
「そうなるが、いた仕方なかろう…」
「ならば許可など出せぬ…私はシャリナに恨まれたくない。」
フォルトはにべもなく突っぱねた。
「お言葉だが…カインに特務を任じた時点ですでに妻の不興を買っている…手遅れだぞ。」
口元をほころばせたユーリは口角を上げた。たじろぎながら絶句しているフォルトに愉悦を覚えながら話を続ける…
「シャリナの不満は今に始まった事じゃない…一人息子を特殊任務に据えているんだ…ブランピエール公爵の後継者であるにも関わらずな。」
「それは…そうだが…」
「シャリナの心労を思うなら、一刻も早くカインを帰還させて公爵の地位を継承させるべきだ…俺はそう思うぞ。」
フォルトは唸った。シャリナを盾にされてはフォルトに抵抗する術はない。万が一黒騎士を失えば、それこそ、一生涯シャリナに恨まれる事になるだろう…
「…よかろう。」
フォルトはしかめ面で言った。
「そなたに捜索の許可を与える。必ずや黒騎士を捉え、帰還させよ。」
「感謝する、公爵閣下。」
…この老狼め
フォルトは小さく舌打ちし、置かれていたデキャンタに手を伸ばした。いつもいつも本当に忌々しい…
ユーリは微笑みつつ、フォルトより先にデキャンタを奪うと彼のグラスへと果実酒を注いだ。
「シャリナの事でもう一つ…大切な話がある。」
「…今度はなんだ!」
「以前から提言されていた件だが…改めて受諾して貰いたい。」
「は…なんの話ぞ…」
「俺亡き後のシャリナの後見…その事だ。」
「は…」
「俺はもう長くない。生き延びて数年…いや、恐らくそれ以下だろう…」
「なに…」
フォルトは呆然となってユーリを瞠目した。彼の言葉が理解できない…
「…私を謀っているのか?」
「違う…これは真実だ。残念だが…」
二人はしばし無言で互いの顔を見据えた。室内に静寂が訪れる…
「ふざけるでないぞ…漆黒の狼…」
フォルトは言った。
「そなたが死ぬ?それではシャリナが悲しむではないか…」
「そうだな…」
「許さぬぞ…私を出し抜き、シャリナを奪っておきながら、彼女を置き去りにするなど…!」
「別れはいずれ訪れる…俺とシャリナの年齢差を考えれば、それが少し早まっただけのことだ。」
ユーリは薄く笑って言った。
「そもそもシャリナはパルティアーノに嫁いで然るべき姫君だった。公爵夫人こそが本来のシャリナに相応しい。そう言ったのは公爵だろう。」
「無論だ!」
「俺もそう思う。だからシャリナの保護者として、我が妻を委ねたんだ…我が盟友、フォルト・ド・パルティアーノに。」
フォルトは我が耳を疑った。
「今…なんと申した?」
「聞いたとおりだ…二度は言わん。」
「狼…」
「シャリナはまだ若い…寡婦のまま終わらせてはならん。…だが放っておけばあいつはきっとその道を選ぶ…ああ見えて頑固な性格だからな。」
いい終えると、ユーリは立ち上がって深く頭を垂れた。
「どうかシャリナを幸せにしてやってくれ…フォルト。」
フォルトは混乱しながらユーリを見上げた。
高潔な『漆黒の狼』が自分に頭を下げるのは二度目。
愛娘リオーネと、妻シャリナのためだった。
ネスバージの王城では、国王アドモスと元首リザエナの会見が実現し、両国の協議が行われていた。
話し合いは長時間に及んでおり、城内は緊迫した空気に包まれている。出席を許されたのはのは参謀や高官に限られ、協議の内容は極秘とされたのだった。
ボルドーの一団と同行していたカインは、団長であるエルナドの配下として入城を果たし、他の騎士とともに大広間に控えていた。
「マリアナがいる...」
カインはマリアナの気配を間近に感じていた。
状況は把握していたし、マリアナがバルド王家の姫君だという事実もリザエナから告げられていた。ブローボーニでひっそりと暮らしていた内気なマリアナ…今はどんな気持ちだろう…
必ず会わせるとリザエナは約束してくれたが、それはマリアナの心次第だと思う。それについては確約などあろうはずもなかった。
…ひと目会えたらルポワドへ帰ろう。彼女が拒むならそれも仕方ないことだ。
ルポワドではちょっとした騒ぎになっているに違いなかった。帰還すれば厳罰は免れないし、家族も心配しているはずだ…
その時、身を潜めるように座っていたカインの脇に誰かが立った。
カインは物憂げに顔を上げ、その方向に視線を向ける。
「何故追って来た…二度と関わるなと言ったはずだ。」
そこには冷たい視線を向けるヨルムドがいた。その顔に抑揚はなく、相変わらず何の感情も浮かべてはいなかった。
「お前はボルドーの騎士だったんだな。」
カインも応酬した。
「本当に得体の知れない奴だ…」
ヨルムドはカインの言葉を無視し、顔を横に振ってカインを促した。察したカインは立ち上がり、黙ったままヨルムドの後をついて行った。
回廊の北側まで歩みを進めたヨルムドは、人の居ない薄暗い場所で立ち止まると踵を返した。銀の髪が風に揺れている…その名の通り本当に月の光の様だった。
「貴様は公爵になる身だそうだな…カイン・ド・アンペリエール。」
ヨルムドは言った。
「ブランピエール公と言えば東ルポワドを治める領主、パルティアーノ家と並ぶほどの権力を有した大貴族だ。その存在は王族に限りなく近く、国王の信頼も厚い…そうだな?」
「否定はしないが」
カインは抑揚なく答えた。
「それはまだ先の話だ。今の俺は一介の騎士に過ぎない…それがなんだ。」
「マリアナ様を救うためにルポワドの力が要る…早急に。」
「マリアナ?」
「ルポワドの圧力があればバルドの拘束から解放できるかもしれない…恐らくはそれ以外に策はないだろう…」
「どう言う意味だ…」
カインの問いにヨルムドは初めて表情を曇らせた。眉根を寄せ、苦悩を見せる…
「マリアナ様は間もなくバルドの手に落ちる…自らそれをお望みになった…」
「なに…」
「姫君は曲解してしまったのだ…自身の存在が全ての元凶であると…自らを犠牲にさえすれば、戦を止めることが出来るはずだと…」
「マリアナが犠牲?」
「私にマリアナ様は救えない…強大な権力の前に私はあまりに無力だ…だが貴様の身分ならそれも可能なはず…ルポワドの王を動かすことが出来れば、マリアナ様をグリスティアスの呪いから解き放つ事ができよう。」
「ヨルムド…」
「マリアナ様は今も貴様を忘れていない…貴様の差し出す手を迷わず掴むだろう…罪を諍いたいのなら戦え。それこそがマリアナ様への贖罪だ。」
カインはヨルムドを瞠目した。マリアナへの思いはヨルムドも同じ…痛いほどの悲しみが伝わって来る…結ばれないと知りながら、『月光の騎士』はその心の全てを主君に捧げて来たのだ。
「…承知した。」
カインは告げた。
「『月光』の意志は俺が引き継ぐ…任せておけ。」
ヨルムドは頷いた。カインが右手を差し出すと、その手を強く握った。
「頼むぞ…黒騎士。」
数時間にも及んだ協議が終わりを告げると、出席していた高官や参謀たちは次々に退出して行った。
アドモスは鎮痛な面持ちで席に座ったままのマリアナをしばらく見遣っていたが、同じく対岸に立つリザエナに目を向けると小さく首を横に振り、そのまま廊下へと出ていった。
誰の姿も見えなくなると、リザエナはすぐにマリアナへと歩み寄った。傍らに立ち、無言で眼差しを向ける…
マリアナもリザエナを見上げた。間近に見る母は美しく凛然としていて、とても崇高な女性だった。
「初めまして、お母様。」
マリアナは立ち上がり、恭しく膝を折った。
「お会いできて嬉しいわ…こんな日が来るなんて思ってもみなかった…」
「マリアナ…」
「せっかく来て下さったのにこんな姿でごめんなさい…失望なさったでしょう?」
「そんなことがあるものか…とても美しいし、立派だ。」
「…ありがとう。お世辞でも救われます。」
「世辞など言わぬ…本当だ。」
母の優しい言葉にマリアナは屈託なく微笑んだ。17年前、私を産んでくれた人…お父様は言っていた。妻は飾ることない…素直で素敵な女性だったと…
「何故…あの様なことを言った…私はそなたを救うために来た…アドモスを殴ってでも、我が娘を取り戻すために来たというに…」
リザエナの目から涙がこぼれる…その泣き顔は子供のようで、とても可愛いらしくマリアナには思えた。
「償えぬことは解っている…謝罪など意味がない…私は幼いそなたを捨てた…そなたよりも立場を選び、孤独と知りながら慰めることすらしなかった…」
「お母様…」
「許して欲しいとは言わぬ…だがせめてこれからは幸せにしてやりたいと思っていた…それが私の義務であり…願いだったのだ…」
「…泣かないで、お母様…」
マリアナは腕を伸ばして母の手を取り、涙に濡れた碧い瞳を覗き込んだ。
「過去は変えられないけれど、私はそんなこと気にならないわ。お父様が亡くなった時、私は独りぼっちだと思った…これからずっと一人で生きるんだと思うととても寂しかった…でもお母様はここにいる…私はもう独りぼっちじゃない。」
「マリアナ…」
「心配しないで…バルドはお父様の生まれた国よ。私はお祖父様の孫だもの…きっと悪い様にはなさらないと思うわ。」
リザエナは溢れ出る涙を拭うこともせず、マリアナをそっと抱きしめた。我が子の温もりが全身に伝わる…なんと賢く、なんと優しい娘なのだろう…
…カンエにそれが理解できようか?
リザエナには解っていた。バルドの王は無慈悲な男だ。例え孫娘でであろうと、その手を緩めることはないだろう…
「…このままにはせぬ。」
リザエナは言った。
「すぐには無理でも、必ずそなたを取り戻す…」
「お母様…」
「私の愛しい娘…今少しの辛抱だ。」
マリアナはリザエナの胸に顔を埋めた。柔らかくて温かい…
それは初めて知る母の感触だった。
夜明けが近い…
空にはまだ星々が煌めいていたが、地平には僅かな光の帯が見え始めている…
人々はまだ目覚めない…回廊には誰の姿も見えず、周囲は静寂に包まれていた。
黒騎士は闇の中を歩いていた。
足音をかき消し、迅る心を強い意志で抑えながら。
…マリアナは来るだろうか。
確証など何もない。リザエナの耳打ちはただ一言
「そなたのことは伝えた。」
それだけだった。
定められた場所で立ち止まり、カインは辺りを見回した。
意識を研ぎ澄まし、気配を探る…
「マリアナ…」
カインは思わずその名を口にした。
柱の向こう側…マリアナが居る…初めて出会ったあの日の様に…
「…久しぶりだね。」
カインは静かに問いかけた。
「会えて嬉しいよ。」
それ以上は何も言わず、カインはマリアナの居る方向を見つめた。
マリアナは何も応えないまま、じっと身を潜めている…
「そのままで構わない…聞いて欲しい。」
少し間を置いた後、カインは言った。
「俺は君を疑い、嫉妬のあまり侮辱した…本当に愚かだったと反省してる…今さら君にその赦しを求めるのは身勝手だし、虫のいい話だと思う。だから言い訳はしないよ。…でも、どうしても君に伝えたかった…あの日言ったことは嘘だ。君に抱いた気持ちは真実だった…君を愛してる…今もそれは変わらない。」
マリアナが身動ぎ、気配が濃くなった。彼女の動揺が見える…
「君は高貴な人だ…もうこの手は君に届かない。それでも良い…君を愛し続けるよ…これから先も、永遠に…」
カインは告げると、地に膝を着いて跪いた。首を垂れ、胸に手を当て恭順の意を示した。
「ボルドーの姫君にしてバルド王の令孫、マリアナ・バルド・グリスティアス。我が愛は永遠に貴女のもの…この命が尽きるまで、心の全てを貴女に捧げると誓います。」
「…カイン」
「愛してる…マリアナ…」
「…何を言っているの…だめよ!」
マリアナが声を上げて飛び出した。
「私はバルドに行けば戻れない…全て忘れなくちゃいけない…それが分からないの⁉︎」
マリアナを見上げてカインは目を細めた。短くなってしまった髪…首には傷跡が見える…なんて痛々しいのだろう…
「忘れる事なんて出来ない…例え許されなくても、君はもう俺の妻だ…」
カインは真っ直ぐにマリアナを見つめた。何も恥じることはない…それが偽らざる気持ちだった。
「どうして…」
マリアナは言った。
「カインは…馬鹿だわ。」
「…うん。俺は馬鹿だ…認めるよ。」
カインは認め、口角を上げた。
「愚かついでにもうひとつ…」
「なに…?」
「…俺は君を呪いから解放する。」
意を決してカインは立ち上がった。マリアナに歩み寄り対峙する…
「準備を整えたら君を迎えに行く。待っていてくれ。」
「…カイン?」
「約束だ…」
カインは微笑みながら頷いた。マリアナの髪をそっと撫で、指先で頬に優しく触れる…マリアナは泣いていた…頬が涙で濡れていた。
「夜が明ける…もう行くよ。」
手を離して後退り、カインは踵を返した。去るのは辛かったが、今は耐えなければならない…
「…嫌」
マリアナが言った。
「別れたくない…カインと一緒に行きたい。」
「…マリアナ?」
「行かないで…カイン」
マリアナは泣きながら腕を伸ばした。
「愛してるわ...」
「…マリアナ」
カインは駆け寄り、躊躇うことなくマリアナを抱きしめた。咽び泣く顔を引き寄せ、その唇にキスをした。
全身が喜びで満たされる…この日をどれほど待ち望んだだろう…
「置いて行くわけじゃない…少しのあいだ居なくなるだけだ。」
「本当...?」
「本当だよ...俺を信じられる?」
「…うん。」
マリアナは泣きながら頷いた。
「信じる...」
二人は見つめ合った後、再び唇を交わした。空はすでに明るく白んでいたが、二人を分つものはもう何もなかった。
つづく




