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ペリエの黒騎士   作者: ヴェルネt.t
8/15

バルドの使者

リザエナは自室の窓を開放し、外へと突き出した半円のテラスへゆっくりと歩み出ると、眼下に広がる庭園の完璧な整地ぶりに目を眇めた。

元首という大義を背負う自分に与えられている部屋は王城の中央に位置しており、庭園の景観はこの部屋からの眺めを意識して作られていた。広大な敷地を誇る庭の手入れには百を超える人間が関わり一年を通じてその維持が丹念に成されている。

「幸い我が国は平和だ…」

リザエナは言った。

「今のところは…だが…」

美しい景観を目にしていると言うのに、リザエナの気持ちは浮かなかった。マリアナがアドモスのもとに帰還して以来、ずっと心の不安が拭えない。

「カンエが動き出せば諸国の調和が乱れるのは必至…アドモスが要求を呑まねば、今度こそ戦は避けられまい…」

…アドモスが要求を呑む?

考えるたびに戦慄を覚えた。確かに一人の人間を犠牲にさえすればカンエは納得し、当面の調和は維持されるに違いない…

「…だが、その犠牲者が何故マリアナでなくてはならないのだ。」

リザエナは悔やんだ。

遠い過去の出来事は愛しいゼナを貶め不幸にはしたものの、代わりにリザエナは彼と結ばれることができた。「とても幸せだよ…」と微笑みながらマリアナの誕生を心から喜んでくれたゼナ…それなのに…

「マリアナはアドモスのものでも、カンエのものでもない…私の娘だ!」

マリアナに会いたい気持ちを極限まで抑えてきた。今すぐにでも飛んで行き、自分が母だと告げて抱きしめたかった。

「これ以上、男どもの勝手にはさせぬ…」

リザエナは踵を返して部屋に戻り、扉の前に控え立っていた人物に歩み寄った。全身を白で統一した壮年の騎士、その灰色の瞳が君主を見つめる。

「エルナド、少し話がある…ここに座れ。」

「は…」

短く応えると銀髪の騎士は命じられるがまま椅子へと座った。

「そなた、最後にヨルムドに会うたのはいつだ?」

「ヨルムド?」

唐突な問いに、エルナドが眉根を寄せて考える素振りを見せる。

「…確か三年ほど前ではなかったかと…」

「3年⁉︎」

リザエナは驚きの声を上げた。

「そんなに会うておらぬのか?」

「は…便りは幾度か寄越したものの、姿は見せておりません。」

リザエナは呆れかえってエルナドを瞠目した。

「帰還しようと思えば出来たはずではないか…何も娘に張り付いていずとも良かったものを...」

エルナドは片眉を跳ね上げた。その後わずかに声を漏らして含み笑いを浮かべる…

「何が可笑しい?」

「いえ…相変わらず鈍…いや、頓着のないお方だと…」

「そなた…今何か言おうとしたな。」

「いやいや、何も。」

「嘘をつくな…見え透いておるわ。」

リザエナの突っ込みに、エルナドはついに口角を上げて笑った。

「お分かりになりませんか?帰還せぬのは倅の意思…マリアナ様が心配で仕方がないからにほかなりません。姫君のおんためなら親の顔など忘れ果てておるのです。」

「なんと…」ザエナは目を丸くした。

「まさか…ヨルムドがマリアナを…」

エルナドは答えなかった。大真面目に動揺する鈍い“我が君“を一瞬だけ恨めしそうに見遣り、すぐに真顔に戻る。

「それは目から鱗だ…だとすると、私はヨルムドに酷い仕打ちをしているのやも知れぬ…」

「それはどうかと。 主君に仕えるは我らの務め...至極の喜びです。ヨルムドとてそれは心得ておるでしょう。」

「そう言ってくれるのは嬉しいが…」

愛する苦しみを知っているだけに、リザエナはヨルムドの心情を慮って切なくなった。『心得る』と『抑える』は同義語ではない。理性では理解していても、思いを止めることは決してできないのだ。

…マリアナはどう思っているのだろう。

リザエナはまだ見ぬ愛娘の姿を思い描いた。マリアナは17歳…自分がゼナと初めて出会ったのも同じ年だった…

「エルナド、私はやはりネスバージへ行こうと思う。アドモスに会い、マリアナの今後について協議を申し出るつもりだ...そなたも同行してくれるな?」

「勿論です。我が君。」エルナドは頷いた。

「あのジジイに今度こそもの申してくれる…笑いを堪える覚悟をしておれよ。」

「…御意。」

元首と騎士は視線を交わしながら笑みを浮かべた。幼馴染であればこその呼吸だったが…この時ばかりは、幼き日の「リズとエド」に立ち返る二人だった。



リューデン城を出立したカインとヴァルダーの一行は、数日のうちに首都オルグに到着した。

「これがボルドーの王都か…」

城下町に足を踏み入れたカインは、街並みや王城の佇まいがルポワドとは全く違うことに驚いた。

ボルドーの文化は質が高く、人も街も洗練されている。目前に広がる王城や庭園も見事に整備されており、その美しさはまるで一枚の絵であるかの様だった。

「君が男爵の子息なのは幸いだ…」

ヴァルダーは歩きながら言った。

「ルポワドからの客人と聞けばリザエナ様もきっと関心を示される。ルポワドは友好国だし、身分から言っても問題はないだろう。」

「…リザエナ様?」

「ああ、我が国の偉大なる母、元首殿だ。」

「そのような偉大な方が私に関心を抱くのでしょうか?」

「あのお方は好奇心が服を着て歩いてるような人なんだ…『漆黒の狼』の子息が来訪したなんて聞いたら、ことさら瞳を輝かせるに違いないさ。」

「父上の名が…ボルドーまで?」

「リザエナ様の知識を侮るなかれ…とても賢い方なんだよ。」

…マリアナもそうだったな。

カインはマリアナの顔を思い浮かべた。

たった一度だけ二人で行った野駆け…初めて目にする光景に瞳を輝かせ、彼女は見るもの全てに興味を抱いていた。本を読み、森を歩きながら、意欲的に高い知識を身に付けていた…


「それじゃあ君はここにいなさい。少し時間はかかると思うが安心するといい。元首殿のお墨付きさえ頂ければ、ネスバージへの入国など容易いものさ。」

ヴァルダーは弟子達の集まるサロンにカインを置き、楽観的な言葉を残して去っていった。

残されたカインはカタコトのボルドー語を駆使して歌人達と過ごすことになったが、そもそも知識の高い彼らは表現力も豊かであり、身振り手振りで厚くもてなしてくれた。カインは改めて彼らの感性に敬服しながら、心から感謝をするばかりだった。


「元首殿は御在室かい?」

扉の前にいる警備兵に歩み寄りながらヴァルダーは問いかけた。

「御在室です。フィッツバイデ卿」

彼は表情一つ変えずに無機質に答えた。近衛の騎士が無愛想なのはいつものことだし、ヴァルダーは違和感なく一方的に微笑みを投げかけると扉に向かい合う。

「ヴァルダー・フォン・フィッツバイデ、リューデン城より帰還いたしました。」

呼びかけに応じてすぐに扉が開き、中に立つ銀髪の騎士と視線が合った。彼は外にいる騎士の隊長だが、柔和な表情でヴァルダーを向かい入れる…

「ヴァルダー、帰ってきたか!」

ヴァルダーの姿を見ると、リザエナは自ら出迎えた。ヴァルダーは片膝をついて跪き、リザエナの手に口づけた。

「歌会の成果は如何であった?」

前置きなく問うリザエナに、ヴァルダーは不敵な笑みを浮かべてみせる。

「もちろん我が一門の圧勝です。マベリック公を黙らせ、唸らせることに成功しました。」

「おお…そうか!」

リザエナは目を輝かせると口角を上げた。

「まあ、当然だな。そなたはボルドー随一の歌人。論破されたマベリックの顔が目に浮かぶぞ。」

リザエナは至極当然であるかのように胸を張る。元首である自分に挑戦状を叩きつけ、権威の失墜を図ろうとするマベリック侯の無礼には以前から腹が立っていた。この歌会もリザエナが女性であることを卑下する意図で催したのは明らかであり、何としてもその鼻柱をへし折る必要が合ったのだ。

「私に恥をかかせようなど片腹痛い。国中の詩人を集めたとて、そなたに敵う者などおらぬと言うに。」

「お褒めの言葉…光栄です。」

「本当によくやってくれた…嬉しいぞ。」

リザエナは胸の空く思いだった。傲慢なだけで鼻持ちならない男達を相手に奮闘する日々…時に苛立ち、投げ出したくなることもしばしばだが、自分を支え護らんとしてくれる者達のお陰で現在がある。

「報償を与えねばな。…弟子達の功績も労わねばならん。」

「有難きお言葉…みな喜びましょう。」

ヴァルダーは感謝の意を伝えると顔を上げた。満足そうな笑みを浮かべるリザエナ…ヴァルダーも喜びを感じた。背後に控えるエルナドと違い自分には武力で主君を護る術がない。携えている剣は形式的なもの…使うのは専ら知恵だけだ。

「畏れながら陛下…参じついでに少しばかりお力を貸して頂きたい儀があります。」

ヴァルダーは切り出した。話をする良い機会に恵まれた。カインも首を長くして待っているだろう…

「願い事か…珍しい。」

不思議そうな表情になり、リザエナは言った。

「聞こう。そこに座れ。」

ヴァルダーを誘い、リザエナはヴァルダーに向き合った。

「実はソラムの街で迷子を拾いました。ルポワドの若人で名はカイン。私の古い友人の令息です。」

「ルポワドの?」

「はい。ネスバージに居る婦人を訪ねたいとのことですが、入国が敵わず往生しているのです。そこで、陛下のお力添えを賜れないかと…」

「身元は?」

「男爵家の嫡男で、父親は馬上槍試合の覇者『漆黒の狼』」

「『漆黒の狼』だと⁉︎」リザエナは目を丸くした。

「広く名声を轟かした英雄ではないか!その嫡男が我が国に居るというのか?」

「…はい。我が一門のサロンにて待機させております。」

「何と…それは面白い。国越えの許可など容易いが、まずはその者に会い、事情を聞かねばなるまいな。」

リザエナは控えているエルナドに視線を向けた。目配せしただけだと言うのに、エルナドは踵を返して部屋を出て行く…

「ルポワドにはゼナの事で世話になった…マリアナはルポワドの生まれで故郷も同じだ。喜んで力になろう…」

「マリアナ…?」

リザエナの言葉にヴァルダーは驚き、思わず声を上げた。

「…今、マリアナと申されましたか⁉︎」

「藪から棒になんだ…娘の名を口にして驚かれる所以はないぞ。」

顔をしかめるリザエナに、ヴァルダーは思わず仰け反った。

「娘…マリアナ…まさか⁉︎」

ヴァルダーは完全に失念していた。マリアナはリザエナ・アルタウスとゼナ・ヴェルネスの間に生まれた子供…マリアナ姫の名前だったのだ。

「…これは運命の導きかも知れない!」

ヴァルダーの視界が開け、不思議な縁に心が躍った。もしカインの探しているマリアナがリザエナの愛娘であるなら、シャリナと自分との出会いはここに紐づけられていたのではないのか…⁉︎

不審な表情のリザエナを他所に、ヴァルダーは微笑みながら目を細めた。

「シャリナ…貴女を近くに感じるよ。」


迎えに来た身なりの良い騎士が廊下を黙々と歩いている。

カインは彼の後に続いて歩いていたが、その間もずっと一つの疑問を感じていた。

…あの騎士にそっくりだ。

『月光の騎士』とこの人物はあまりに酷似している。年齢の違いこそあれ、それを除けば本人そのものと言っていいほどだ

…偶然か?

カインは思考を巡らした。

…マリアナを警護する騎士ならネスバージの軍人と考えてしかるべきだが…他人のそら似にしては類似点が多すぎる。

…あの騎士、確かヨルムドという名だった…あとでヴァルダー殿に尋ねてみよう。

考えているうちに騎士は立ち止まり、正面の扉を開いてカインを誘った。

すると、中に居たヴァルダーがすぐに歩み寄って来て、カインにそっと耳打ちする…

「リザエナ様が話をしたいそうだ…心の内を全て明かして協力を願い出るといい。」

カインは目を見開き、奥に座っている貴婦人を見遣った。

銀髪に紺碧の瞳、目元は涼しく、気高さを絵に描いたような美しい婦人が自分を見ていた。カインは進み出ると跪き、首を垂れて恭順の意を示した。

「私はルポワドの騎士にしてペリエ男爵の嫡男、カイン・ド・アンペリエールと申します。偉大なる元首リザエナ様、謁見の機会を与えて頂き、感謝に絶えません。」

「遠路はるばるよう来た。会えて嬉しいぞ。」

リザエナは目を細めて穏やかに言った。

「来訪の目的はヴァルダーから聞いた。ネスバージへの入国を希望しておるとか。」

「はい。果たしたき事があり、ネスバージへ行かねばなりません。でき得るならばお力添えを賜り、入国の許可をお与えいただければと存じます。」

「果たしたい事とは何だ?」

唐突な投げかけに、ヴァルダーとエルナドは思わず視線をリザエナに差し向けた。表情は穏やかに見えるが、リザエナの胸中には別の感情が隠れている…彼女をよく知る者しか解らない微妙な抑揚だ。

「謝罪…そのためだけに…」

「何の罪を犯した?」

リザエナの容赦ない問いかけに、カインは一瞬怯んだ。語りたくない事実…自分にとっては恥ずべきことだが、避けては通れない…

「心から愛した女性を侮辱し、蔑んだうえに貶めました。醜い嫉妬から虚実を信じ、潔白である彼女に謂れなき罪を被せて傷つけてしまったのです。」

「虚実とは?」

「彼女が魔女だと思い、毒を盛ったと疑った…全て警護の騎士の画策だったとも知らず…」

「毒だと…?」

リザエナはたじろぎ、思わずエルナドの方に目を遣った。彼は事情が分からず、怪訝そうに眉を寄せている。

「それはまことの話か?」

「はい。微熱が続き、体力を削がれはしたものの大事には至らず、七日後には体調が戻りましたが…」

「そうか…それは何よりだった。」

安堵したリザエナは表情を緩めた。

「では、その者が魔女であるという嫌疑は晴れたのだな?」

カインは咄嗟に自分を戒めた。これ以上言及されれば任務に抵触しかねない。返答するにしても言葉を選ぶ必要がある…

「勿論です…彼女は魔女ではありません。誰よりも優しく、清らかな心の持ち主です。それは私が一番知っている…そうでなければ、これほど愛することはなかったでしょう。」

カインは告げた。紛れもない本心だった。

リザエナは複雑な思いでカインを見つめた。

ヨルムドから送られてきた報告とルポワドからの密使の存在…

マリアナがそれによって傷つき、ネスバージへの帰還を決めたことは真実だ。全ての元凶がこの若者だとすれば、マリアナに会わせるなど許すべきではない。

…若さ故の過ちはあるものだ。

リザエナの苦悩はそこにあった。身分も立場も弁えず、ゼナと結ばれることだけを望んだあの日…生まれ来る我が子の背負う宿命など考えもせず、自分の幸せだけを求めていた。

「一つだけ聞くが…そなたはその者に謝罪した後、どうするつもり

でおるのだ?」

「それは…」

カインは口ごもった。

「…答えられぬのか?」

カインは唇を噛んだ。答えが出ない…闇雲に突き進むだけで、その先の見通しなど皆無だった。

「それを答えられぬ者に“娘“と会う許しは出せぬ…諦めてルポワドへ帰れ。」

リザエナは冷たく言い放った。

「そなたが遂げようとしているのは謝罪ではなく自身への救済だ。口先だけの償いなど何の意味もない…そうは思わぬか?」

…その通りだ。

認めざるを得なかった。

…俺は救われたかった…追いかけて謝ったところで、ただマリアナの傷を抉るだけだというのに…

押し黙って悲しげに俯くだけのカインに、リザエナは深くため息を吐いた。カインの心情は過去の自分と同じ…無力な自分に幾度絶望したことだろう…

「例え許されなかったとしてもーー」

カインは言った。

「あの時の愛は真実だったことをマリアナに伝えたい…そして…今も愛しているということを…」

カインの目からは涙が落ちていた。それが彼の偽ざる気持ちであることは明らかだった。

「リザエナ様…」

ついにヴァルダーが口を挟んだ

「どうかもうお赦しを…これ以上は酷です。」

「分かっておる…」

リザエナは答え、立ち上がってカインに歩み寄った。自分のハンカチでその涙を拭いながら、「泣くでない…子供でもあるまいに」と言って微笑む。

「そなたの思いは理解した…経緯はどうあれ、我が娘はただ利用された訳ではなかったようだ。」

「娘…?」

カインはリザエナを見上げた。

「私はマリアナの実母だ…父親のゼナとは非公式ながら結婚していた。一緒に過ごせたのはほんの一瞬だけだったが...」

「マリアナが…陛下の…」

「そうだ。諸事情あって乳飲み子のマリアナを手放した。故にマリアナは私の存在を知らぬ...母親は死んだと思っているだろう。」

驚愕するカインを見つめながら、リザエナは寂しそうに目を潤ませた。

…マリアナへの償いという意味では、自分とこの若者の目的は同じなのかもしれぬ…

「マリアナはネスバージ王の下にいる。会うにはいろいろと面倒な手続きを踏まねばならないが、私と共に行くか?」

「陛下...」

カインは救われたように目を見開いた。先のことは何も考えられない…だが、マリアナに会える希望だけは生まれた。

「はい。どのような形であろうとこの身を賭し、陛下のご意向に従います。」

カインの恭順にリザエナは頷いた。

「…ならば私も腹を決めることにしよう。」

リザエナは告げると、頼もしい二人の騎士を交互に見遣った。



日当たりの良い庭園の木陰にマリアナがいた。

最近置かれたばかりのべンチに座り、脇には数冊の本と焼き菓子の入ったバスケット、ラフなチュニックを身につけたハーツ伯爵は読書に余念がなく、夢中で文字に目を走らせている…

歩み寄っても一向に気付く様子を見せないので、ヨルムドは邪魔しないよう傍に立ち、静かにそれを見守った。

暖かく温暖なネスバージの春は穏やかで、あまり広くないこの庭園も花の最盛期を迎えている。近くには小さな小川のせせらぎもあり、その心地いい水音を耳にしていると、なぜか心まで洗い流されるような気分になる。

しばらくして爽やかな風がヨルムドのマントを凪ぐと、マリアナはようやく顔を上げてヨルムドに視線を合わせた。

「ヨルン…いつからいたの?」

「だいぶ前からです。」

「全然気づかなった…」

目を丸くするマリアナにヨルムドは苦笑した。いつもながら警戒心のかけらもない。自分が悪党ならとうに拐かされているところだ。

「もう、あなたったら…声をかけてくれればいいのに…」

マリアナは本を閉じ、バスケットを避けてヨルムドのための席を作った。

「焼き菓子はいかか?私が焼いたものだけど…」

「…マリアナ様が?」

「そうよ。ブローボーニでよく作っていたの。」

「それは知りませんでした。」

「それはそうよ…だってヨルンったらすぐに帰ってしまうんだもの。」

「は…申し訳ありません。」

「謝ることじゃないと思うわ。」

一向に座ろうとしないヨルムドを気遣って、マリアナはその腕を掴んで引っ張った。強引にでもしなければ、頑なにそれを拒み続けるに違いないからだ。

「それに…敬語と様は禁止って約束でしょ。」

「…はい。」

ヨルムドは躊躇いながらも並んで座った。境界は積まれた本の分だけ…公然とは許されない距離だ。

「ですが…ここは周囲の目がありますので…」

「私が命じたのだから大丈夫。だって私、偉いんでしょう?」

…で、あればこそだ…!

ヨルムドは心中で訴えた。

「ほら、味見してみて。」

マリアナは焼き菓子を一つ摘んで差し出した。ヨルムドはそれを受け取り、口へと入れる…

「美味い…」

「でしょう?」

マリアナは嬉しそうに微笑んだ。

「これであなたは買収された…だから呼び捨て必至!」

「そんな…マリアナ様…」

「違う。…マ、リ、ア、ナ」

マリアナの念押しにヨルムドの頬が赤く染まった。視線を彷徨わせて躊躇っている…マリアナは辛抱強く待った。

「マ…マリ…」

「うん…」

「マリア…ナ 」

ヨルムドがやっとの思いでその名を口にすると、マリアナは思わず吹き出して笑った。

5歳も年上の彼が可愛く思える…ブローボーニにいた頃とは大違いだ…

「もう、ヨルンったら…あんまり笑わせないで!」

マリアナはお腹を抱えて訴えた。

「お腹が捩れそう…」

「酷い…そんなに笑うとは…」

真っ赤になってヨルムドも訴え返す。

「ごめん…だって、いつものヨルンと全然違うんだもの…」

「私だって必死なんだ!あなたが無茶を言うから!」

ヨルムドがムキになるので、マリアナは更に可笑しくなった。

「もうやめて…謝るから…」

ヨルムドは顔から火が出るほど恥ずかしかった。「月光の騎士」となって以降ずっと抑えてきた感情が溢れて歯止めが効かない…マリアナと肩を並べて笑い合う…こんな日が訪れるとは夢にも思わなかった。

「ああ、可笑しかった…」

ひとしきり笑ったマリアナは落ち着きを取り戻して言った。

「もうずっとこのままよ…約束して」

屈託のない笑顔にヨルムドの全身が喜びに満ちる…この上ない幸福感だ…

…光栄です。我が君

ヨルムドは声に出さずに囁いた。結ばれることのない恋…それでも構わない。こうして傍にいることさえできるのならーー

「約束は永遠に…マリアナ。」

ヨルムドは穏やかに微笑んだ。跪きたかったが、それは許されないことだった。



「姫君…」

不意に声を掛けられてマリアナは振り返った。

書庫へ向かう途中の廊下で周囲には誰も居ず、左右に視線を巡らせる…

「誰…?」マリアナは声をかけた。

「失礼します。」

声とともに柱の陰から現れた人物をマリアナは瞠目した。上背のある見知らぬ紳士だった。

「突然のご無礼、お許しのほど…我が名はアムンスト・ヴォード…隣国バルドより参りました。」

「バルド?」

反問するマリアナへとアムンストが歩み寄って来る…威圧感を感じてマリアナはたじろいだ。今日はヨルムドがいない…こんな日に限って…

「怯えないで下さい。私は丸腰です。」

アムンストは両手を上げて手のひらを見せた。腰にも剣を携えておらず、どうやら嘘ではなさそうだ。

「わかりました…それで、異国の方がなぜここに?」

マリアナが問うと、紳士は目を眇めて薄く微笑んだ。

「我がバルドにとって最も尊いお方をお迎えするためです。」

「尊い方?」

「アドモス王には再三に渡り申し入れた…真の祖国である我が国に帰還させるようにと…だが彼はそれを拒み、無視し続けた。応じなければ戦も辞さぬと警告したにも関わらず…」

マリアナは困惑した。彼の言葉の意味が理解できなかった。

「よくわからないわ…」

マリアナは正直に言った。

「私はまだネスバージに来て間もないので…何も事情を知りません。」

「是非もないことです。貴女の周囲は虚偽で固められている…真実を知らされぬまま、貴女は利用され続けているのです。」

「…え?」

「我が陛下は貴女の奪還をお命じになった…今こそバルドへ帰る時です。マリアナ・バルド・グリスティアス。我が主君にして、偉大なるラ・カンエの孫、尊き姫君…」

言い終えたアムンストがマリアナの腕を掴もうと手を伸ばす…マリアナは自分に迫る危険を悟って後ずさった。


「ーーマリアナ様に触れるな。」


刹那、気配なき疾風がマリアナの前に現れると、アムンストとの合間へと割って入った。

薙ぎ払われたアムンストは怯み仰け反ったが、直後、背後に数名の騎士が現れる。

「ヨルン…」

マリアナはヨルムドの背を見上げながら言った。彼はマリアナを片腕で守りながら、右手で剣を引き抜いた。

「貴様、ボルドーの騎士か…」

アムンストは呟くように言った。

「その顔、エルナドの配下…否、血筋の者だな…」

「…如何にも。ボルドー騎士団『曙光』の配下『月光』だ。」

…ボルドー騎士団?

マリアナは自分の耳を疑った。

「…なるほど。『曙光』の子を姫君の守護に任ずるとは…さすがリザエナ殿は抜かりがないな…」

「私はマリアナ様を侵害する者全てに対してそれを排除できる権限を有している…。治外法権下では例えバルドの王族であろうと例外ではない…直ちに引き下がられよ。」

「口を慎め『月光』…もはやそのような妄言は通じぬ。時は満ちた…マリアナ姫はバルドに帰化し、然るべき地位に収まる…それが宿命だ。そなたこそ剣を納めねば首が床に落ちるぞ。それでも良いのか?」

アムンストの背後にいる騎士達が剣を引き抜いて構えた。相手は四人…ヨルムド一人で敵う訳がない。

「ヨルン止めて…死んじゃうわ。」

マリアナはヨルムドの背中に向かって訴えた。

「私が言うことを聞けば…」

「隠れていなさい…柱の陰に…早く!」

「ヨルン!」

突き放されたマリアナは仕方なく従った。言われた通りに柱の陰へと走り寄りヨルムドを見遣る。

四人の騎士が周りを囲み…ヨルムドは背後を取らせないよう柱を背に剣を構えた。

…どうしよう

マリアナは恐ろしさに震えた。自分に何が起きているのかさえ理解できないうえ、ヨルムドの命が危険に晒されていることに頭が錯乱している…

…どうしてこんなことに

瞬次、バルドの騎士達がヨルムドに剣を振りかざした。ヨルムドも剣をぶつけながら身を翻して防戦する。身に付けていたマントを一人に投げつけ、怯んだ隙に一撃を食らわせた。二擊目は横一閃に薙ぎ払い、傷を負った二人は次々に倒れて悶絶する。

「なんという動きだ…」

アムンストは舌打ちした。

「『曙光』配下の騎士が有能なことは耳にしていたが、これほどまでとは…」

三人目の騎士の攻撃を剣で防御するヨルムドに対し、最後の一人が更なる追撃を仕掛けていた。一度に二人を相手に闘うヨルムドの体力が容赦なく奪われていく…

叫びをあげ、渾身身の力でせめぎ合う敵を押し返したヨルムドは、瞬時にベルトから短剣を引き抜くと左脇の敵へと突き刺した。刺された騎士は後退りながら崩れ落ちる。ついに敵は一人になり、返り血を浴びたヨルムドが最後の騎士と向き合った。

「もうよい!」

アムンストが言った。

「二人とも剣を退け…姫君のご命令だ。」

その声に応じて敵が即座に身を引いた。ヨルムドも我に帰ってアムンストに視線を移した。

「マリアナ…」

ヨルムドは衝撃を受けた。マリアナがアムンストと向き合っていた。おそらくは自分の放った短剣を手にし、それを首に突きつけていたのだ。

「これ以上やるなら刺します…本気よ。」

マリアナは言った。

「私が…死んだら困るのでしょう?」

マリアナはアムンストを睨み、彼に迫った。

「無論です…致命的だ。」

「だったら手を引いて…今すぐに」

マリアナは剣先を更に喉へと突きつけた。

アムンストは低く唸り声を上げて口元を歪ませると一歩引き、「承知しました。」と応えて片手を上げる。

「…ですがこれで終わりではありません。今日のことは始まりに過ぎず、すぐに正式な迎えが参ります。どうかそのことをお忘れなきよう…私はバルドにてお待ちしております。」

言い終えると、アムンストは踵を返した。

傷を負った騎士達は仲間の手助けによって何とか逃れたものの、絶命した一人が取り残された。

「ヨルン…」

マリアナが振り返り、ヨルムドの名を呼んだ。

握っていた短剣が床に落ちる…その手は血まみれだった。

「マリアナ!」

ヨルムドは叫びながら駆け寄った。膝から崩れるマリアナの体を何とか支えて抱き止めた。

「ヨルン…大丈夫?…怪我はない?」

マリアナは震え声で言った。心配そうにヨルムドを見つめる。

「怪我などしていません…それよりも、貴女の方が心配だ…」

ヨルムドは言いながらマリアナの首筋を見遣った。剣先が触れたであろう切り傷が痛々しい…

「良かった…ヨルンが死んでしまうかと思った…」

目から大粒の涙を溢すと、マリアナはそのまま堰を切ったように泣き出した。ヨルムドは愛しさを抑えられず、震える体を自分の胸の中に収めた。

「貴女のおかげで命拾いした…ありがとう。」

マリアナの腕が自分を抱きしめる…二人は初めて抱き合った。

敵を前にしても揺るがないヨルムドの心が、激しく早鐘を打ち鳴らして止まらなかった。



数時間後、

マリアナは王城に戻り、アドモスと対座した。

真実を知りたいと願うマリアナに対し、アドモスは全ての事実を打ち明ける。…父の出自…母の存在、そして、バルドがなぜマリアナ帰還にこだわるのかを…

「グリスティアスの血を受け継ぎし者の宿命…そなたが還れば封印は解かれ、バルドは更なる強国となるだろう…」

アドモスは告げた。見せた事の無い、暗く陰鬱な表情だった。



つづく




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