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ペリエの黒騎士   作者: ヴェルネt.t
6/15

月光の騎士 2

マリアナは森を彷徨い歩いた。

夜が訪れ、また朝を迎えても城へは戻らなかった。

幸せな日々を過ごしたブローボーニ城…カインがいなくなってしまったあの場所に、どうして戻ることができるだろう…

…出会わなければ良かった…

マリアナは泣きながら思った。

…あのまま一で暮らしていたなら、こんな気持ちにならなかったのに…

「カイン…どうして?」

彼のことを思うと切なかった。どんなに蔑まれようと、マリアナはカインへの思いを捨てられなかった。生まれて初めて愛した人…なぜこんな事になってしまったのだろう…

…もういい。

マリアナはその場に蹲った。

「カインの言うとおり…私はこの森の魔女…たくさんの木々と同じ自然の一部になってしまえばいい…」

…そうすれば、痛みも悲しみも消える…カインのことも忘れられる。

マリアナは膝に顔を埋めて瞼を閉じた。体に力が入らず、もう瞼も開かなかった。


「マリアナ…」


その声にマリアナは顔を上げた。

「お父さま…?」

そこにはゼナがいた。優しい眼差しで微笑みながら、そっとマリアナの頭を撫でる…

「辛いだろう…でも、まだこちらに来てはいけないよ。」

「どうして?…私、もう生きていたくない…」

「お前には未来がある…そして、待っている者もいる…」

「嘘…そんな人いない…私なんて誰にも必要とされてないのよ。」

「そんなことはない...お前は愛されるために生まれてきた…本当だよ。」

「じゃあ、何故カインはあんなことを言ったの?私は何もしていない…彼を騙したことなんて一度もないのに…」

マリアナの言葉に、ゼナは悲しそうな表情になった。

「真実を知れば、彼もきっと理解してくれる…私がお前に嘘をついたことがあるかい…今は辛くても、きっと幸せな日が訪れる…だから信じて待つんだ…」

「嫌…」マリアナは首を横に振った。

「連れて行って…お父さま。」

「いつかまた会える…私の愛しい娘…いつでもお前を見守っているよ…」

「待って…行かないで…お父さま…」

マリアナは去っていく父に手を伸ばした。しかし、ゼナがその手を掴むことはなかった。

そのまま意識が遠のき、マリアナの体はゆっくり地面へと崩れ落ちていった。その目からは止めどもなく涙が溢れていた…


…温かい…


そう感じた。

誰かの温もり…お父様?…それとも…カイン?

マリアナは重い瞼を開いた。全てを開くことができず、虚に相手を見つめる…

「気がついたか…」温もりの主は言った。

「良かった…寒くは無いか?」

自分を見つめる灰色の瞳…心配そうに彼は言った。

「ヨルン…?」

マリアナは呼びかけた。

「本当に無茶なことをする…もう少しで死んでしまうところだ…」

ヨルムドは言いながらマントに包まれたマリアナを強く抱きしめた。それは今まで聞いたことのないとても優しい声だった。

「どうして…」

帰ったのではなかったの…?

問いたかったが言葉が出ず、マリアナは間近にあるヨルムドの顔を見上げる。

「私は貴方の僕…貴方を見守るのが努めだ。…例え軽蔑され批難されようとも…」

「ヨルン…」

「さあ、これを飲んでもう少し眠りなさい。体温が戻ったら私が城へお連れします。」

そう言うと、ヨルムドは携えている皮革袋の果実酒を少しだけ含ませてくれた。飲み込むとじんわり体が熱くなる…

…嫌、城へは戻りたくない。

声に出したかどうかは分からなかったが、マリアナは訴えた。また涙が溢れてくる…この温もりがカインのものだったらどんなに幸せだろうと思ってしまう…

「ごめんね…ヨルン…」

マリアナはヨルムドに身を寄せながら再び瞼を閉じた…自分の為に身を呈してくれている彼に放っておいて欲しいとは言えない…今は大人しく従うべきだ…

泣きながら再び眠りに落ちるマリアナを温めながら、ヨルムドは眉根を寄せ、ほぞを噛んだ。

…それほどまでにあの男を愛しているのか…

カイン・ド・アンペリエールの正体はルポワド王直属の密偵だった。マリアナの正体を探りに来た忌々しい犬だった。

「そんな男を…貴女は…」

カインが心底憎かった。大切に護り、慈しんできたものを、奴はいとも容易く奪い去った。

「お許しください…ああでもしなければ貴女から奴を遠ざけることはできなかった。手遅れにならぬうちに手を打たねばならなかったのです。…毒は致命傷には至らず、放っておいても治癒に向かうでしょう。ですから、貴女が贖罪を感じる必要はありません。」

ヨルムドにとって緩い毒でカインの体力を奪うのは造作もないことだった。猜疑心を煽り、衝撃的な場面を見せつけることで、カインが自ら身を引くように揺動した。全ては仕組んだことであり、演出だった。

「…言われなき罪で貴女を不幸にした贖罪は、我が身命を賭して償い続けます。マリアナ…愛しの我が君。」           

ヨルムドは心から謝った。それが自分の唯一の誠意であると固く信じた。



ブローボーニの森を去って数日、カインは遠く離れた町にいた。

勢いで城を出たものの体調が思わしくなく、帰還を諦めて途中滞在を余儀なくされていたのだ。

「これもあの魔女のせいだ。」

微熱で帰還が立ち行かない苛立ちに、カインは思わず毒を吐いた。

王都で待つパルティアーノ卿に一刻も早く報告し、然るべき判断を仰がねばならない…

「…魔女と断定されたらマリアナはどうなる?」

カインは自問した。

マリアナの笑顔が脳裏を掠める…大人しく清楚で、慈愛に溢れていたマリアナ…孤独の身でありながら不平も言わず、毎日を懸命に生きていた。 

「…あの騎士が現れるまで、彼女に疑わしい素振りは一切なかった。」

その事実がカインの猜疑心に迷いを生じさせる…亡くした父親が城塞技師であること、幼い頃からブローボーニの森で育ったこと、そして大切にしているというあの本を読むために、独学でネスバージ語を勉強したこと…その全てが、彼女の捏造話とは思えない…

「俺の報告ひとつでマリアナの人生が変わる…こんな程度の調査でマリアナを魔女だと断定するのか?」

マリアナの泣き顔を思い出し、カインの胸は激しく痛んだ。この先マリアナを待っているのは悲劇…ブローボーニの森にルポワドの調査兵が押し寄せ、マリアナは公の場に引き出されるに違いない。

「裏切り者はどっちだ…」

気怠さと戦いながら、カインは悩み続けた。問題がなかったと言えば嘘になる…正体不明のあの騎士は、確かにマリアナと関わりをもっていたのだから。

熱い視線を絡めながら唇を交わすマリアナの姿を思い出す度に心が乱れた…任務を優先すべきだと自分を嗜めながら、どうしても私怨の方が勝ってしまう…

「俺はどうすればいい?」


…その夜、カインは夢を見た。

腕の中で初めての愛を捧げるマリアナ…澄んだ泉のような美しい色の瞳が濡れている…

その温もりが心地よく、カインは愛おしさでいっぱいだった。

「ありがとう…カイン…」

マリアナが耳元で囁いた。

「誰よりも愛しているわ…」


「俺も…君を愛してる…マリアナ。」


自分の声で目が覚めた。

呆然となり、しばらくの間、虚を見つめていた。

…マリアナは裏切ってなどいない。

それが答えだった。

純潔の証…それを知っていながら、俺はマリアナを信じることができなかった…話も聞かず一方的に突き放し、暴言で彼女を貶めてしまった…

堪えようもなく目から涙が溢れ出た。憎いと感じたのは醜い嫉妬が生んだおぞましい感情だ。マリアナの泣き顔が忘れられない…絶望し、最後に語ったあの言葉は、何と言っていたのだろう…

「…このままでは駄目だ。」

カインは手で顔を覆いながら言った。

「もう一度君に会わなければ…」

カインは顔を上げ、涙を袖で拭き取った。

真実なんてどうでも良い… 誇りも捨てる…今度こそ全てを信じ、君に赦しを希う。

「待っていてくれ…マリアナ!」

カインは宿を飛び出した。

破竹の勢いで馬を走らせ、まっすぐにブローボーニの森を目指した。



ルポワドとネスバージの国境

その山々の麓に砦があることを、マリアナは今日まで全く知らなかった。ましてやヨルムドがその場所を拠点としており、祖国との繋ぎ役を通じてマリアナへの配当金を受け取っていたことも、今初めて知った事実だった。

「あなたは山越えをして来るのだとばかり思っていたわ…」

砦の門を前にしてマリアナは言った。ヨルムドが訪れるのは数ヶ月に一度の事であったし、彼は用件以外、何も語ろうとしなかったからだ。

「それでは不測の事態に対応できない。」

ヨルムドはいつもの様に冷淡な口調で答えたが、その表情は以前よりも幾分柔らかかった。

「考えてみればそうね…本当に…私って無知。」

マリアナは深くため息を吐いた。この数日間はずっと泣き通しで、ヨルムドには散々迷惑をかけている。彼の想いを知っていながら応えることもできず、一方的に支えられてばかりだ…

「是非もないことだ…気にする必要はない。」

ヨルムドはサラリと言った。

「祖国に戻れば自ずと様々な事情を知ることになるでしょう。…それよりも陛下にお会いする前にお気持ちを整えておくことの方が重要だ。」

ヨルムドの忠告に、マリアナは俯きながら頷いた。

「解ってる…でも、陛下にはお薬をお渡ししているだけで、一度もお会いしたことがないわ。 」

「陛下はずっと貴方に会うことを切望しておられた。その願いがようやく叶い、今は一日千秋の思いでマリアナ様の帰還をお待ちでだ。」

「…そうなの?」

不安そうに聞き返すマリアナの手を取り、ヨルムドは僅かに口角を上げて頷いた。

彼がマリアナを連れて戻ると、砦に駐在する兵士が一斉に首を垂れて出迎えた。大勢の人間に会うのもかしずかれるのにも慣れていないマリアナは、困惑しながらヨルムドに身を寄せ、たどたどしく会釈をすることしか出来なかった。

「きっと、呆れられたわ…」

部屋に案内された後、一人になったマリアナは落ち込みながら言った。ヨルムドは用事があると言って砦から出て行ってしまい、残された自分にあるのは心細さだけ…

「本当はネスバージになんて行きたくない…もうカインに会えなくなってしまうなんて嫌…」

そう思うとまた悲しくなった。激しく嫌われてしまった以上、あの幸せは決して戻らない…例えルポワドに留まったとしても、カインは戻ってきてはくれないだろう…

一度は城に戻ったものの、やはり留まるのは辛く、マリアナはブローボーニ城を閉める覚悟を決めた。

その報告はすでにアドモスの元に届いており、もう後戻りはできない状況だった。

「カイン…カイン…」

マリアナは声を上げて泣いた。もう一度カインに会いたかった。

「貴方は優しかった…出会うことができて…本当に嬉しかった…」

自分の身の上にある問題はいずれ解決できると思っていた…カインが自分を望んでくれるなら、何もかも捨てて構わないと思った。

「ずっと…貴方に愛されていたかった…」

届くことのない想い…この切なさはいつまで続くのだろう…時が経てば忘れられる?

今は何も考えられない…心の痛みで押し潰されそうだ。

「…ヨルンの言う通りよ。こんな状態のまま陛下の前には立てない…陛下にカインのことを知られてはいけない…」

ヨルムドは口外しないと誓ってくれた。それがカインの為だと彼は言った。

「馬鹿な私…」

マリアナは泣きながら愚かな自分を恥じた。立場を弁えずに突き進めば、何も知らないカインを巻き込んでしまう…そのことから目を背けてはいけなかったのに…

「夢を見ていた…だからこれでよかったの…カインとは別れなければならなかったのよ…」

カインの蔑みは深い傷となって生涯残るだろう…けれどカインの身を守れるのなら、それでいい。

今のうちに泣くだけ泣いておこうとマリアナは心に決めた。例えネスバージでの人生が過酷なものであっても、カインと暮らした幸せな思い出があれば生きていける…

「カイン…この声はもう届かないけれど…あなたを永遠に愛しているわ…」

マリアナは言った。そしてベッドへと俯し、思い切り涙を流した。



マリアナの城に戻ってきたカインはマリアナの名前を呼んでいた。

春を迎えた庭には美しい花々が咲いていたが、そこにいるはずの可憐な乙女の姿はどこにも見えない。

城の入り口は固く錠が掛けられ、人の気配は全く感じられなかった。時間はそう経過していない様であったが、マリアナがここを去ったことは明らかであり、ブローボーニ城はすでに廃城となってしまっていた。

「マリアナ…どこへ行ってしまったんだ。」

カインは呟いた。

「俺は謝らなければならない…君に。」

探しようにも、マリアナの言葉を拒絶した自分に残された手がかりは何一つなかった。

「きっと君は許してはくれないだろう…それでもいいんだ…俺は君を愛してる。そのことだけを伝えたい。」

…醜い感情を剥き出しにして傷つけておきながら…今さらか。

カインは自身を蔑み、ひたすらに自虐した。喪失感で立っているのも辛い…自分の愚かさゆえ、一番大切なものを失ってしまった…

「君に謝る機会さえ、もう俺には与えられないのか…!」

カインの嘆きが森に響き渡る…その声に呼応するように、木々が俄に騒めいた。

「そうだ…貴様にその権利はない。」

傍から突如姿を現した騎士が言った。

「ルポワドの犬め…マリアナ様を蹂躙しただけでは飽き足りず、まだ辺りを嗅ぎ回るか…」

カインは振り向き、咄嗟に長剣に手をかけた。そこにいたのは銀髪の騎士だった。凄まじい殺気を帯びた騎士がまんじりとしてカインを睨んでいる。

「お前は何者だ…」カインは訊いた。

「ずっと俺を監視していたな。」

カインの問いに騎士は表情を曇らせた。冷たい色の瞳に激らせているものは嫉妬…自分と同じ感情だ。

「我が名はヨルムド。マリアナ様の警護を務める『月光の騎士』」

「やはり…異国の騎士か。」

「貴様はルポワド王直属の密偵であろう?『ペリエの黒騎士』」

「ああ、そうだ。」

カインは躊躇いなく頷いた。相手の素性を考えれば、自分の情報も調査済みであろうことは必然だからだ。

ヨルムドは舌打ちした。自分の威圧にもカインは少しも物怖じしていない。そればかりか漆黒の瞳で自分を見据え、寸分の隙すら見せてはいなかった。

「なぜ戻った…毒の効果からすればルポワドまでは十分に辿り着るはず…そう踏んでいたが…」

「毒…?」

「弱い毒だ…体力を奪いはするが、命には別状のない程度のな。」

カインは愕然とし、ヨルムドを瞠目した。

「…じゃあ俺に毒を盛ったのは…」

「如何にも…この私だ。」

ヨルムドは告げ、冷笑した。

「マリアナ様の名誉のために告げておく。あのお方が作っていたのは毒ではなく、貴様のための回復薬だ。我らの主君に献上している物を、貴様が去る前に手渡そうと準備していた。…毒の作り方などマリアナ様は全く知らぬ。全ては私の独断…貴様を無力にするための判断だ。」

真実を知ったカインは驚き、思わず怯んだ

…マリアナが「内緒」と言っていたのは、いずれ別れを告げるであろう自分への思いやり…?一日中森を歩き、寝る間も惜しんで、君は来るべき日のために備えてくれていた…?

「ルポワドが何のつもりで貴様をこの場所に潜り込ませたのかは知らぬ…だが、これ以上マリアナ様について詮索をするべきではない…これは警告だ。」

「そう言う訳にはいかない…俺は特務を命ぜられている。異国の騎士が何故ルポワド領に居るのか…それを知る必要がある。」

カインの応酬にヨルムドは憤然としたようだった。

「それを知ったところでルポワドには何の得もありはせぬ。それどころか、深追いすれば国家間の摩擦を生じさせることになるだろう。」

「摩擦…?」

カインは反問した。

「どういうことだ。」

「…答える義務は無い。」

ヨルムドは言うと、マントを払い、腰に帯びていた長剣の柄に手をかけた。

「それでも引かぬと言うなら、この剣を抜くまでだ。」

対峙した二人は即座に身構えた。緊張が走る…一度剣を鞘から抜けば流血は免れないだろう。

「私は貴様を許せない…邪な理由でマリアナ様に近づき、無垢な心を弄んだ。その御身を辱めた罪は本来なら極刑に値する。…この場でその首を刎ね、王の前に差し出して然るべきところだ。」

「俺の罪の重さについては否定しない…だが、マリアナへの愛は真実だった…マリアナを疑ったことは後悔している…だから俺はここに戻って来た。マリアナにそれを伝えるために!」

「世迷言を…マリアナ様は深く傷心し、生きることさえ否定しようとなさった…ひとり森をさまよい、あと少しで命を落とすところだったのだ!」

カインは目を見開いた。

「…マリアナが…命を?」

「もはや貴様の存在はマリアナ様を苦しめるだけ…貴様はマリアナ様の敵だ。」

このまま躊躇いなくカインを倒すことができればどんなに気が晴れるだろうとヨルムドは思った。

しかし、カイン・アンペリエールが近くグスターニュ公となる身である事を考えれば迂闊に手出しはできない…王家に連なる公爵を手に掛ければルポワドは必ず報復に打って出るに違いないからだ。

…それをきっかけに、マリアナ様の存在は白日の下に晒され、ネスバージは多大なる痛手を追うことになる。マリアナ様をその渦中に投じるわけにはいかない。

ヨルムドは激る感情を極限まで抑えながら言った。

「マリアナ様はすでに祖国にお帰りになった。貴様が姫君に会うことは二度とない。全てを忘れて王都に帰れ。貴様の言葉通り、マリアナ様はこの森の魔女であったと報告するがいい。」

言い終わると、ヨルムドは僅かに後ずさった。

「待て…」カインは言った。

「マリアナは誰だ…ネスバージの姫君か?」

ヨルムドはそれには答えず、さらに身を引きながら冷然と言った。

「貴様にも私にもマリアナ様は過ぎたお方…それ以上を知る必要はない。」

『月光の騎士』は告げると、踵を返して立ち去った。

しばらくすると馬の足音が聞こえ、それも徐々に遠くへと消え去った。

残されたカインは緊張を解き、失意の底でマリアナを想った。

…国境を越えてしまっては、もう君に会うことは叶わない。

「マリアナ…マリアナ…」

カインは声を出して泣いた。生まれて初めてのことだった。




ネスバージ国王アドモスと、ボルドー公国の元首リザエナ…

二人の君主のもとに報告書が届けられたのは、ほぼ同時刻のことだった。


「マリアナが戻るか!」

浮足だったアドモスは思わず歓喜し声を上げた。

「そなたが余の元を去ってから二十年…ようやくそなたの娘を手元に置くことができるぞ、ゼナよ!」

額縁の中で穏やかなに微笑むゼナ…この一枚の絵画だけがアドモスに残された彼の遺品だ。その娘マリアナには一度も会ったことはなく、アドモスは日々、もどかしい思いで暮らしていた。

「マリアナはそなたに生写しという…年の頃もこの絵のそなたと同じ…まこと会うのが待ち遠しい。」

まだ見ぬマリアナへの想いに目を細めながら、アドモスは絵画の中のゼナに優しく触れた。

「そなたと等しくマリアナは余のもの。…そなたの娘は余が必ず幸せにしようぞ。」


一方、リザエナはマリアナの身に起きた出来事を憂い、心を痛めていた。

自分の立場ではマリアナを慰めることもできず、すぐに会いに行くことさえ難しい…

「自分のお腹を痛めた娘だと言うに…もどかしいことだ。」

リザエナは深くため息を吐き、嘆きの言葉を呟いた。

マリアナに触れたのは赤子の頃の、ほんのしばらくの間だけ…マリアナ自身は母親が誰であることも、母親が生きて存在していることも知らない。

「是非もない事とは言え、私は母親として何もすることができなかった。ゼナを失い孤独に泣くそなたを抱き締めてやることもせず、傷心のそなたを慰めてもあげられぬ…本当に、私は母親失格だ。」

リザエナ自身、今もゼナを失った悲しみの中にいる。ゼナの逝去は到底受け入れることのできない現実だった。その若すぎる死は、リザエナに拭えないほどの深い傷を負わせていたのだ。

「ゼナ…何故逝ってしまったのだ…」

リザエナは涙ぐんだ。ゼナを深く愛していた…どんなに離れていようと、彼は最愛の夫だった…

「マリアナ。母を許してくれとは言わぬ。…だが、ゼナが残してくれた大切な娘だ。そなたは私が必ず守る…持てる力の全てを使い、そなたを縛る宿命から、今度こそ解放してみせようぞ。」

今も手に残る小さな温もり…儚く愛おしく、マリアナは自分にとっての全てだった…ゼナと微笑み合いながら二人で名付けたマリアナの名…とても幸せな瞬間だった。

「マリアナ…ゼナと私の愛しい娘…」

リザエナは涙を拭った。泣いている場合ではない。一計を案じ、今こそ複雑に絡んだ難題を打開しなければならないのだ。



つづく































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