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ペリエの黒騎士   作者: ヴェルネt.t
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月光の騎士

この作業をするのは何度目だろう…とカインは思った。

薪になりそうな木を見つけては斧で切り倒し、細かく分断して持ち帰る…しばらく乾燥させた後、斧で割ってひとまとめに括ったものを納屋に納める…

頻繁に作業を繰り返した結果、薪はかなりの備蓄ができた。マリアナひとりなら季節を跨いで使うことができる量だ。

ブローボーニに来てから1ヶ月近く…マリアナとの生活もすでに自然になっていた。毎日が静かに過ぎ、充実した日々が続いていた。


作業を終えて城に戻ると、大広間の長椅子に座って本を読むマリアナの姿が見えた。

最近のマリアナは空いた時間によく本を読んでいる。その本はどうやらルポワドのものではないらしく、何が書いてあるのかカインにはさっぱり理解できなかった。ただ、察するところ何かの解説書である様で、各所に図解らしき挿絵が垣間見えていた。

「カイン…お疲れ様。」

自分に気づくと、マリアナは本から目を離して笑顔を浮かべた。

「お菓子の用意ができているわ。今、お茶の準備をするわね。」

カインの横をすり抜け、マリアナは食糧庫の方へ歩いていく。

テーブルの上にはカインの好きな焼き菓子が置いてあった。ペリエ城で暮らしていた時にシャリナがよく焼いてくれたものを、マリアナが苦労して再現してくれたのだ。

行儀が悪いと思ったが、カインはそれを掴んで口に放り込んだ。

「うん。美味い。」

舌鼓を打っていると、マリアナが戻ってきて笑った。カインのつまみ食いはいつものことで、珍しいことではなかった。


「その本もルポワドの本ではなさそうだね?」

テーブルの傍に置いてある本を見ながらカインは言った。

「君はどうしてその本が読めるの?」

マリアナは「ああ…それはね。」と特段気にする様子もなく説明し始めた。

「小さい頃には時どきお客様が訪れることがあって、その中でも長く滞在していた方が遠い異国のお医者様だったの。私は毎日、彼から言葉や文字を教わって…ついでに、医術のことも少し学んだわ。」

「医術?」

「そう。元気が出る薬の作り方とか、傷の治療とかね。すごく簡単なものばかりだけれどいろいろ教えて下さって…この本は世話になったお礼にって、その方が置いて行ってくれたものなの。」

「へえ…異国の医者か。」

カインは納得した。かつてはこの小さな城も繁栄していて、そこそこ人の外来もあったのだ。だがそれも父親がいた頃までで、その後は忘れられ、森の中に埋もれてしまったのだろう…

「それにしたってマリアナはすごいよ…その難しそうな本を読んで理解できるんだから。」

「…だって私、それくらいしか得意なこと無いから」

「そんなことないさ。この焼き菓子だって上手に焼けてる…僕は大好きだよ。」

「大好き?」

マリアナは目を見開いた。お菓子のことだとわかってはいたが、何だか顔が熱くなる…

「そう言えば、君の父上は何て名前だったっけ…」

「ゼナよ。」

「ああ、そうか…どんな人だったのかな…君は似ている?」

「ええ、そっくりだってよく言われたわ…全てね…」

「じゃあ、優しい人だったんだね…」

「うん…とても…」

マリアナは頷き、少し寂しそうに微笑んで見せた。

カインはそんな様子のマリアナに安堵した。生活の中で感じた疑問はこれで全て解決した。パルティアーノ公がマリアナの何を疑問視していたのかは不明だが、彼女のどこを探っても、ルポワドに害を成す事実は見つからなかった。

…そろそろ引き時だ。

カインは内心で呟いた。これ以上の深入りは危険だと感じた。


「これから森を少し歩いてくるわ。材料を集めたいから…」

カインが焼き菓子を食べ終わると、マリアナは後片付けをしながら言った。

「…材料?」

「ええ、たぶん戻るのが遅くなるけれど、心配しないで。」

「僕もついて行こうか?」

「ううん。探し回らないといけないし、集中したいの。カインは休んでいて…夕飯の時間までには帰るから。」

「そう。じゃあ、そうするよ。」

マリアナは澄んだ瞳でカインを見つめた後、食器を持って大広間を出ていった。

自分が住むようになってからマリアナが単独で行動するのは初めてだったので、カインは少し気になった。材料集めとは一体何に必要なものなのだろう…

しばらくするとマリアナが戻り、「行ってくるね。」と声をかけてくる。あの黒い外套を身につけており、久しく見る姿だった。

「気をつけて…何かあったら大声を出すんだよ。すぐに助けに行くからね…」

扉の外で心配そうに見つめるカインに、マリアナは思わず頬を染めた。わずかに躊躇いを見せながら、背伸びをしてカインの頬に顔を寄せる…

「ありがとう…そうするわ。」

柔らかな唇がカインの頬に触れ、甘い香りが鼻腔をくすぐる…

「マリアナ…」

カインはマリアナの腕を咄嗟に掴み、その身体を両腕に納めた。意図的にではなく、無意識の衝動だった。

束の間…無言でお互いの温もりを確かめ合った二人は、ごく自然に口づけを交わした。カインにとっても、マリアナにとっても、これが初めてのキスだった。

…やがて、カインの腕から解放されたマリアナは、驚いたような表情を浮かべながら踵を返して外へと出ていった。

残されたカインもその場に立ちすくみ、自分のしたことに茫然となった。


マリアナは城から離れた場所まで走って行き、城が完全に見えない位置まで来ると座り込んだ。鼓動が速く、胸が苦しい…

「どうしよう…」

マリアナは呟いた。カインに特別な感情を抱いてはいけないとずっと戒めてきたのに、自分からそれを破ってしまった。

「カインも…同じ気持ちだった?」

カインの温もりを思い出してマリアナの顔が熱くなる…

「…でも、これ以上好きになっちゃだめ…あの人はもうすぐ出て行ってしまう…どのみち一緒に生きることはできない…」

体を丸め、膝を抱えて蹲った。心を落ち着けなければいけない…そうでなければ彼の元へは帰れない…

「大丈夫…夕方まで時間はまだあるもの…」

風の囁きが聞こえる…地面には自生の花の芽が芽吹いていた。もうすぐ春が訪れる…森が目覚めを迎えるのだ。

「あなたと春を迎えることができたら、どんなに素敵かしら…」

暫く蹲っていたマリアナだったが、思い直したように顔を上げて立ち上がった。

「薬を完成させなきゃ…カインが行ってしまう前に…」

胸の高鳴りはまだ治まらなかったが、彼のために頑張らなければと気持ちを立て直し、マリアナはより森の奥へと歩みを進めて行った。


「俺は何がしたいんだ… 」

カインはひとり呟いた。

…時期に帰ると決めたばかりだぞ。

自分に苛立ちながらも、体は酷く高揚していた。マリアナが愛おしく、衝動が抑えられない…

「…愚か者め!」

カインは二階に駆け上がり、自室に隠してある長剣を掴んで再び外へと飛び出した。鞘を抜き捨て、構えを取る…

「…煩悩を捨てろ!」

剣を薙ぎ払ってカインは叫んだ。

…俺の陳腐な感情より、王都に還ってマリアナが魔女ではないと報告すべきだ。それがマリアナにとって一番大切なことなんだ!

いつまでもマリアナを魔女と呼ばせたくないとカインは強く思った。あんなにも純粋で心優しい彼女が、周囲に恐れられる存在であってはならない。

…それを証明できるのは俺だけだ。

「は…笑わせる!」

自身の愚直な考えを自嘲した。そんなものは自分の本心を隠したいがための言い訳に過ぎない。マリアナを見る度に湧き上がる激情がその証拠だ…許されるものならすぐにでも彼女を手に入れたい!そう心が叫んでいる!

…俺はとうの昔にマリアナを好きになってる…手遅れだ。

見えない敵に向かってカインは剣を振り下ろし続けた。以前であればすぐに意識は集中できたし、そもそも煩悩など生まれもしなかった。しかし、今しも張り裂けんばかりのこの激情はどうあっても抑える事ができない。それほどまでにマリアナが愛おしかった。何を捨てても彼女が欲しかった。

やがて汗まみれになり、薙ぎ払う力も失せ果てたカインは手を止めた。撫然と立ちすくむその体を、春の気配を感じさせる微風が優しく撫でる…

「…⁉︎」

カインは刹那に全身を緊張させた。何かの気配を感じる…人間の、それも敵意に満ちた気配だ。

…誰だ。

カインは微動だにせず周囲の様子を伺った。耳をそば立て、意識を集中させる…近くに何者かが潜んでいるのは間違いないが、その場所は特定できない…

…只者じゃない。相当の手練れだ…

カインは剣を握り直した。間合いを詰めて来るなら応戦せねばならない。おそらく敵は一人だけ…一対一なら負けはしない。

だが、『敵』は動かなかった。その姿を見せないまま、やがて存在をかき消すようにその場から去っていった。

カインはややあってから顔をあげ、その方向に視線を向けた。無論のこと、そこにはすでに誰の姿もなかった。

「マリアナが危険だ。」

長剣を携えたままカインは駆け出した。方向はわからなかったが、大声で名前を呼びながら、森の奥へと入って行った。


「カイン…?」

遠くで彼の声が聞こえたような気がして、マリアナはふと耳を澄ました。

清水が湧き出る窪地に居るのでよく聞き取れなかったが、こんな静かな場所で声が聞こえるとしたら彼しかいない。

「カイン!」

マリアナは答えた。それだけで胸の鼓動が早くなる。ようやく気持ちが落ち着いてきたところなのに、一体どうしたのだろう…

「マリアナ、どこだ!」

カインの声がより近くなり、マリアナは「ここよ!」と声をあげた。足音がして、カインが頭上から顔を覗かせる…

「こんなところにいたのか…」

カインは安堵したように言った。

「どうしたの?そんなに慌てて…」

カインの表情が曇っているのを見て、マリアナは不安を感じた。彼の手に握られている長剣も、今初めて目にするものだった。

「…いや、ちょっと心配になって。」

カインは自らマリアナの傍に降りて行きながら言った。何も知らないマリアナをむやみに怯えさせたくないため、笑顔を繕った。

「心配…?」

「君が動物に襲われていないかと思って…さ。」

カインの言葉にマリアナは目を丸くしたあと、吹き出して笑った。

「まさか…この森にいる一番大きな動物は鹿なのよ。…でなきゃ私、とっくに食べられちゃってるわ。」

「…そうなの?」

「そうよ。」

「なんだ…心配して損したな。」

気まずそうに苦笑するカインを見て、マリアナは嬉しくなった。

「でも…ありがとう、心配してくれて。」

今度は上手く間合いを保ってマリアナは言った。カインもそれ以上距離を詰めて来る事はなく、安堵したように頷いた。

その後は二人で森の中を歩き、必要なものを一緒に探した。マリアナが手に入れたかったものは概ね植物ばかりだったが、カインが籠を覗くと、中にはキノコのような物も入っていた。

「これを何に使うの?」

カインは歩きながら尋ねた。

「…内緒。」

マリアナは躊躇いがちに答えた。

「でも、とても役に立つものよ。」

「そうなんだ….」

カインはそれ以上訊かなかった。いくら生活を共にしているからと言って、何もかもを明け透けにする必要はない。それよりも、今はあの得体の知れない気配がないか警戒することのほうが重要だった。狙いが何であるか判らないが、いづれにせよ、今後は油断すべきではないだろう…

かなりの時間を費やし、マリアナはさまざまな物を採取した。木の根や樹液、果ては地中の“みみず“まで…

摘んだ葉の香りを嗅いだ後、マリアナはついに「これで最後ね」とおしまいを告げた。

「もういいの?」

「ええ、少し足りないけど仕方ないわ…季節が訪れないと手に入らないものもあるから…もうお城に帰って夕飯の支度を始めましょう。」

「そうだね。」

帰りの道でもカインはさらに警戒を怠らなかったが、懸念していた事態には至らず、二人は無事に帰り着くことができた。カインは帰るとすぐに扉を閉じて錠をかけ、今夜は眠る際にも武器を傍に置こうと肝に銘じた。相手の正体がわからない以上、いつ攻撃されてもおかしくはないからだ。

いつものように二人で夕飯を作り、食事を済ませると、マリアナはまた本を持って長椅子に座った。今夜はロゼーンも部屋にいて、狙っていたかの様にいち早くマリアナの膝を陣取る。

「一緒に本を読まない?」

マリアナは言った。

「いいけど…なんの本?」

「ネスバージで書かれた物語で、魔女と騎士のお話よ。」

「ネスバージ?」

カインはその名を聞いてリュシアンを思い出した。確か王太子妃候補はネスバージの姫君であったはずだ…

「おとぎ話だけど素敵な物語なの…カインにそっくりな「黒い騎士」が出てくるのよ。」

「黒い騎士?」

マリアナは持っていた一冊の本をカインに見せた。その本は厚みのない、とても古そうなものだった。

カインが隣に来ると、二人は顔を寄せて本を覗き込んだ。

「実はね…カインが騎士だって聞いて、本当はすごくドキドキしてたの…だってこのお話の騎士みたいに黒い髪と黒い瞳だったんだもの。」

マリアナは恥ずかしそうに言った。

「私、小さい頃からこの本が大好きで、よくお父様に読んで貰ってた…でもそのうちに自分で読みたくなって、ネスバージ語を一生懸命勉強したのよ。」

「…勉強って、独学で?」

「もちろんよ。お父様はいつも忙しかったし、自分で頑張るしかなかないでしょう?」

カインは唖然とした。サラリと吐露しているものの、その実、マリアナはとんでもない才女だった。こんなにも高い知識の持ち主は王都でもそうは見たことがない。本当に驚きだ。

「君は…すごい人だ。」カインは言った。

「そんなことないわ…ほら、この物語に出てくる魔女みたいでしょ?」

マリアナはそう言うと、本を開いて読み始めた。

物語の始まりは、深い森に迷い込んだ一人の騎士が、その森に住む魔女の魔法によって心を絡め取られ、全てを忘れてしまうというものだった。

「…魔女の手先となって操られ続ける黒い騎士…だが、歳月を重ねるうち、彼は少しづつ思い出した…自分が誰であるかということ…そして、祖国で愛おしい姫が待っているということを…」

そこまで読むと、マリアナは口を閉ざした。少しの沈黙の後、何度か瞬きをする…

「…騎士はさらに強力な魔術を使って自分を支配しようとする魔女に抗い、猛然と戦いを挑んだ。それは自身の命をも削る熾烈な戦いだったが、自分を待つ姫への愛が彼の闘志を支え続けた。」

マリアナの細い指が頁をめくる。カインは複雑な心境になっていた。…これはまるで俺の話そのものだ。

「…三日三晩に及ぶ戦いの末、騎士はついに魔女を倒した。魔女が死ぬと、かけられていた呪縛も全て消え去り、彼は晴れて自由の身になった。」

「…それから、騎士はどうしたの?」

待ちきれずにカインは尋ねた。

マリアナは頁をめくり、先を読み進める。

「祖国へと帰った騎士は、多くの人々を拐かしてきた邪悪な魔女を倒したことで人々に英雄として讃えられた。国王はその功績として沢山の褒美を与え、自分の娘を妻に迎えよと命じた。晴れて愛しい姫との結婚の許しを得ることができた黒い騎士は、その後、美しい姫君と結婚し、裕福で幸せな生涯を生きた…」

読み終えると、マリアナはカインを見上げた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「私…このお姫様になりたかった…ずっと憧れてたの…黒い騎士に。」

「マリアナ…」

「ごめんね、カイン…あなたはおとぎ話の騎士じゃないし、私はブローボーニの森の魔女…それが現実よ。…でも、聞いて貰いたかった…あなたがここを出ていく前に、この素敵な騎士の物語を…」

マリアナは寂しそうに言うと、静かに本を閉じた。

「マリアナ…」

カインはマリアナから本を取り上げて脇へと置き、声を押し殺しているその泣き顔を覗き込んだ。

「僕の方こそごめん…」

理由も言わず、カインは謝った。任務のためと彼女に近づき、調査目的で潜入した。善良で純粋な心を利用し、ずっとマリアナを騙し続けてきた…

…そんな卑劣な俺を、マリアナは憧れの騎士だと思っていた…疑うこともせず、心から信頼してくれていたんだ。

…もう限界だ。

カインは腕を伸ばしてマリアナを抱きすくめた。昼間以上に強く抱きしめた。

「君を愛してる…」カインは告げた。

「君とずっと一緒にいたい…」

「カイン…本当?」

「…本当だ。」

「ああ、カイン!」

マリアナもカインに身を寄せた。心が通じ合えた喜びに涙が止まらない…やっと出会えた愛しい人…私だけの黒い騎士。

「私も…愛しているわ…」

二人は見つめ合い唇を重ねた。お互いの戒めを解いた二人に、もはや遮るものは何もなかった。


ブローボーニの森がいつになく騒めいている...森の目覚めを予感させる春の嵐の到来だ。

この夜、カインはマリアナに惜しみない愛を与えた。

その慈しみは極めて未熟なものであったかもしれない…けれど腕の中のマリアナはとても幸せそうだった。恥じらいながらもカインに応え、カインの全てを満たしてくれた…

…やがてカインの全身が悦びで満たされる…マリアナも至福の瞬間を迎えた。結ばれた嬉しさに泣くマリアナ…カインはそっと唇に触れながら、感謝の言葉で労った。


吹き荒れていた嵐が止み、森はいつもの静寂を取り戻していた。

身を寄せながら眠るカインの寝息が聞こえている…その寝顔を見つめながら、マリアナも幸せな気持ちで眠りについた。

…もう私は魔女じゃない…夢にまで見た黒い騎士の『愛する姫君』になれたのだから…


翌朝

目覚めたカインは隣で眠っているマリアナを見て笑みを浮かべた。

いつもは綺麗に束ねてある金色の髪が解かれ、白く透き通るような肌に絡み付いている…部屋は薄暗いものの、窓から漏れ指す光に照らされたマリアナの寝顔はこの上ないほど美しかった。金糸の長いまつ毛も薔薇色の唇も、その全てが愛おしい…

「魔女に心を奪われた騎士…か。」

カインはマリアナの髪をそっと撫でながら呟いた。

物語のとおり、黒騎士は魔女に囚われてしまった。国に帰還することもせず、自分が誰であるかも忘れて、いつまでも側に居たいと望んでいる...

「…違う。君は魔女じゃない…愛しの我が姫...俺の妻だ。」

カインは否定した。深く契りを結んだ以上、このままマリアナを見離すことはできない。

「俺と一緒にペリエに行こう…マリアナ。」

カインの囁きに、マリアナが僅かに身じろいだ。目覚めることはなかったが、柔らかな指先が無意識にカインの頬をそっとなぞった…


次に瞼を開いた時、すでにマリアナはそこにいなかった。二度寝をしたあげく、彼女が起きて部屋を出て行ったことにも気づかないほど深く眠っていたらしい…

服を着てから一階に降りると、すでに朝食の用意がしてあり、暖炉の前にはスープの入った鍋が置いてある。

他の部屋や厨房を探したがマリアナは見つからず、カインは心配になって外へ出た。

周辺を探すと、裏庭の方から鼻につく匂いが漂ってくる…

「なんだ…この臭い。」

カインは思わず鼻に手を当て指で摘んだ。それは言い知れない臭いで、辺りに漂っていた。

「カイン…起きたのね?」

背後から声がして、カインは振り返った。そこには外套を着たマリアナが立っていた。

「この臭いは…?」

鼻を摘んだままカインは尋ねた。

「ああ、ごめんね。ちゃんと風向きを考えて置いたんだけど…」

マリアナは苦笑いしながらカインの背に手を当てがい、その場から離れるように促した。

「三日間くらい臭うと思うけど我慢してね。昨日の材料を煮詰めているから…」

「いったい何故?」

「だから…秘密。」

マリアナはまた答えなかった。笑顔を浮かべながらカインの手を握って城の中へと導いて行く。

「今日は一緒に野駆けに行こう。」

カインは言った。

「野駆け…?」

「ああ、森を出て、見晴らしのいい場所でのんびりするんだ。」

マリアナはカインを見上げた。昨夜以来、何だかカインの様子が変わったように感じたからだ。

「馬に乗せてくれるの?」

「そうだよ。」

「素敵…嬉しいわ。」

「よし…決まりだ。」

朝食を済ませた後、カインはマリアナを自分の馬に乗せ、自分はその背後に付いて出発した。行き先を決めていたわけではなく、ただマリアナと二人で広い土地を走りたいと思った。城の中にいては、またすぐにマリアナを組み敷いてしまいそうだった。

…このままペリエに行ってしまおうか。

馬を駆りながらカインはそう思った。ペリエで帰りを待つ家族にマリアナを紹介したい…その後は結婚の許しを国王に願い、彼女を妻として迎えるのだ。

…俺は近くグスターニュ城の継承を終えて公爵となる…マリアナを公爵夫人として幸せにすることができるだろう…

王都に続く道を暫く進み、見晴らしの良い丘の上まで一気に駆け上がる…良い頃合いで馬を止め、カインはマリアナを地に下ろした。

「綺麗な景色…なんて素敵なの!森とネスバージの山々が見える。」

マリアナは瞳を輝かせて言った。

「ほら見て、牛たちが草を食んでいる…村の家の屋根もまるでおもちゃみたいだわ!…ああ、向こうに咲いているのは何の花かしら…」

いつになくはしゃいでいるマリアナを見て、カインは思わず口角を上げた。こんなに嬉しそうな表情を見るのは初めてだ。

「あの白いお花を見てくるわね。」

マリアナは告げると、小走りにカインから離れて行った。どうやら我が姫君は目新しい花々に夢中らしい…

「まったく…俺の気も知らないで。」

カインは肩をすくめながら首を横に振った。マリアナの知識欲に任せていたら、おそらく半日は戻ってこないだろう…

「マリアナ…」

カインはマリアナに歩み寄り、背後から抱きすくめながら言った。

「僕が植物に嫉妬して八つ当たりする前に戻ってくれないか?」

「カイン…?」

「花と喧嘩しても僕には勝ち目がなさそうだけど…」

「まあ…」

マリアナは驚き、次にクスっと笑った。

「そんなことないわ…自信を持って。」

「いや、自信はない…」

「そう?」

「うん。」

じゃあ…と言って、マリアナは反転し、カインの頬にキスをした。

「今後はあなた以外とキスをしないと誓うわ。それでいい?」

「…うん。まあ…それなら納得。」

カインもようやく頷き、マリアナに軽くキスを返した。

それから暫く、二人はのんびり過ごした。お互いの成長話や家族の話をしながら、持ってきた昼食を一緒に食べた。

時が経つうちにまたマリアナの肌が恋しくなり始めていたが、カインは平静を装い、最後まで紳士的に振る舞った。


「誰に許しを乞えば君を妻にできる?」

帰りの道で馬の背に揺られながら、カインはマリアナに尋ねた。

「…え?」

「君は天涯孤独で後ろ盾もいない…僕はそれでも全然構わないけど、結婚に必要なことがあれば教えて欲しいんだ。」

「カイン…」

「僕と結婚するのは嫌?」

「…ううん。そんなことない!」

マリアナは否定した。

「…とても嬉しいわ…でも、色々と複雑な問題があって…」

「複雑…?」

「そう。…だから、答えはもう少しだけ待って。」

マリアナは消沈し、いかにも辛そうに答えた。

「マリアナ…」

カインは眉を寄せた。いったい何がマリアナを躊躇わせているのだろう…

「訳は聞かせてくれないんだね。」

「ごめんなさい…でも、近いうちに話せるようになるわ…きっと…」

マリアナは呟くように言った。それはまるで、自分に言い聞かせているかの様だった…


「今夜は新月…」

マリアナは夜空を仰ぎ見ながら呟いた。月の光を失った森は漆黒の闇に包まれている…手にしたランプの灯りがなければ、自分がどこにいるのさえ分からなくなりそうだ...

「さあ、始めるわよ。」

マリアナは呼吸を整えてから手にした混ぜ棒を鍋に入れ、かき混ぜながら小声で唱えた。

「Dale poder a esta medicina」

「Manténgalo alejado del desastre y protéjalo de la enfermedad.」


何度も何度も、マリアナはこの言葉を繰り返した。

言葉を混ぜ込むことで薬効はさらに強化される…ここまでするのに3日間を費やした。この『儀式』が最後の仕事…最大の山場だ。

「あと十回…」

額に汗を浮かべながら、マリアナはしっかりと願いを混ぜ込んだ。側からみれば妖の儀式そのものだが、全ては解説書の説明通りに過ぎず、要するにこれは単なる言霊だった。

「終わった…」

マリアナは手を止め、笑顔を浮かべた。

「あとは乾燥させるだけ…上手くいって良かった…」

ホッとすると同時にどっと疲れを感じる…マリアナはランプを置いた切り株に歩み寄った。ランプを避けて腰掛けようとした…

「マリアナ様…」

気配もなく闇から現れたヨルムドに、驚いたマリアナは思わず声をあげそうになった。咄嗟に彼が口を押さえなければ、悲鳴を上げていたに違いない。

「お静かに…」

羽交締めにされたマリアナは頷いた。ヨルムドの息が耳朶にかかる…

「あの男はよく眠っているようですね、何か仕掛けを?」

囁きのようなヨルムドの問いかけに、マリアナはまた頷いて見せる。

「賢明な判断だ。」

彼が手を緩めたので、マリアナはようやく小声で言った。

「…でもほんの少量よ。明日には気持ちよく目覚められるわ。」

口を押さえていた手は緩めたものの、ヨルムドの両腕は未だマリアナを解放せず、自分の胸に押し付けたままだった。

「ヨルン…もう離して…」

「貴方はあの男と取引をした…そうおっしゃられていましたね。」

マリアナの要求には耳を貸さず、ヨルムドは小声で囁いた。

「…では、毎夜寝所を共にすることも取引の範疇と…そう申されるおつもりか?」

その問いに愕然となってマリアナは彼を見上げた。責めるような冷徹な眼差しが瞠目している…

「何を言うの…」

「忠告したはずです…お立場をお忘れにならぬ様にと…」

地の底から聞こえるようなヨルムドの声音に、マリアナは恐怖を感じて押し黙った。彼は明らかに怒っていた。不機嫌どころではなかった。

「…監視していたの?」

マリアナはやっとの思いで言った。

「なんて卑劣な人…」

「…卑劣?」

ヨルムドもすぐに応酬した。

「それが私の任務だ。」

「任務?…毎夜寝室を覗くことも?」

マリアナの指摘に、今度はヨルムドが絶句した。彼は小さく唸ると腕の力を緩め、マリアナから離れた。

「あなたは…最低よ…!」

マリアナはヨルムドを突き放して後ずさり、無言で城へ逃げ帰った。

「…カイン。」

眠り薬の効き目でぐっすり眠っているカインの枕元に顔を寄せ、マリアナはその額にキスをした。

「後悔なんかしてない…あなたを愛してるもの。」



違和感を感じていた…

体が重く、疲労感が抜けない…

心配したマリアナが薬を作って飲ませてくれているが、症状は一向に改善せず、むしろ体力を失う一方だった。

「熱があるわ…」

ベッドに横たわる自分の側でマリアナが言った。水に浸した布を絞り、額を拭いてくれている。

「ありがとう…マリアナ。」

カインはマリアナの白い手を握って笑顔を浮かべた。そのままキスをしたかったが、そうもいかない…

「お腹がすいたでしょう?何か食べやすいものを作るわね。」

マリアナは優しく言うと、桶を持って部屋を出て行った。残されたカインは重い瞼を閉じる…

…何か変だ。

そう感じていた。マリアナはいつもどおりに見えるが、深夜に姿を消すことが増えている…

「何をしている…」カインは呟いた。

この体調の悪さと関連があるのではないか…そう疑い始めていた。まるで毒が体に回っているかのような症状…

…毒?

カインはマリアナが採取していた沢山の植物のことを考えた。彼女は「内緒」と言っていたが、あれはどう見ても薬物の材料だ。

「まさかな…」

カインは自分の疑いを否定した。献身的に看病してくれているマリアナを疑うなど愚かにも程がある…

…思い過ごしだ。


その晩、カインは隣で寝ていたマリアナが起き上がり、部屋を出ていくのを見定めると密かにその後を追った。無下に疑うよりも真実を見極めるべきだと思ったからだ。

階段を降り、僅かな灯りが漏れる厨房を覗き見る…すると、外套を纏ったマリアナが見えた。一心不乱に何かを練っているようだ…

暗闇に近い場所で作業を行っている自体が不可思議だったが、それ以上に、明らかにルポワド語ではない言葉を囁き続けるマリアナに

はことさら不信感を抱いた。カインに全く気づいていないマリアナは、練りまとめた塊をいくつかに切り分けた後に掌で丸めていく…丸め終わると用意していた巾着袋に入れ、それを持ってエントランスへと歩いていった。

外へと出ていくマリアナの後を、カインは気づかれぬように追いかけた。体は重かったが、気配を押し殺すことだけには抜かり無かった。

「ヨルン…そこにいる?」

マリアナは静かな声で言った。

「…はい。ここに。」

声とともにヨルムドが現れる…マリアナの前に来ると跪き、頭を垂れた。

「陛下へ献上するお薬が完成したの…これを持ってすぐにネスバージへ帰って。」

麻袋をヨルムドの前に差し出しながらマリアナは言った。

「…私を厄介払いするおつもりか?」

ヨルムドは相変わらず抑揚を見せず、皮肉めいた口調で反問する。

マリアナは唇を噛みながら彼を見下ろした。

月明かりに照らされ、彼の銀髪が輝きを帯びている。端正な顔立ちであるにも関わらず、常に冷淡で無表情なヨルムド…その面差しは彼のもつ魅力を根こそぎ奪っているとマリアナはずっと以前から感じていた。

「…いいえ。貴方には陛下にお伝えして欲しいことがあって…だからよ。」

「伝える…何を?」

「私はこの森を出るわ。カインと結婚して、彼と共に生きて行くの。」

「なに…」

ヨルムドは驚き、立ち上がった。

「そんなことが可能だとお思いか⁉︎…ネスバージを捨て、あの男と夫婦になるなど…陛下がお許しになるはずがない!」

「そんなこと…?」

マリアナは涙を浮かべて言った。

「私は…ただ幸せになりたいだけ…ただのマリアナになる。それすらも許してはもらえないの?」

「マリアナ様!」

「他には何もいらない…カインさえ傍にいてくれるなら…」

決然と告げるマリアナを、ヨルムドは暗い表情で見つめ返した。所詮マリアナは世間知らずの『姫君』に過ぎない…自分の立場を何ひとつ理解せず、その存在の意味すら把握してはいないのだ…

「よりにもよって…それを私に願うのですか?」

マリアナの腕をそっと掴んでヨルムドは言った。

「貴方に尽くし、心から慕ってきた…この私に。」

「ヨルン…?」

引き寄せられたマリアナは、抵抗する間もなくヨルムドに唇を奪われた。抑え込まれて成すすべがない…抗おうにも首ひとつ動かすことができない…

やがて、想いを遂げたヨルムドがマリアナを見つめた。衝撃を受けて茫然としている彼女に『月光の騎士』は告げた。

「貴方は還らねばならない…それが与えられた宿命だ。」


カインは茫然としていた。

何もかもが虚実であったことを思い知った。

…マリアナは何も言わなかった。あの騎士のことも、自分がルポワド人ではないことも…

二人の会話は異国語で交わされていて、カインには何ひとつ理解できなかった…マリアナが銀髪の騎士に渡したのは深夜の怪しい『儀式』によって作り出された物…おそらく何らかの薬物に違いない。

だが、それ以上にカインを打ちのめしたのはマリアナの裏切りだった。自分を愛していると言いながら、抗うことなく銀髪の騎士を受け入れ、視線を絡ませている…

カインはその場に蹲った。怒りと絶望が渦巻いて、熱に浮かされた体にさらなる苦痛をもたらしている。

「俺は騙されていた…初めからマリアナに操られていたんだ。」

愚かしい自分が許せない…感情に流され、冷静さを失った。それ故にマリアナの嘘が見抜けなかった…

「畜生…なんてことだ!」

カインは重い身体を引きずりながら自室に戻った。ここを脱出するにしても今は無理だ。もう少し体を回復させる必要がある…

…明日も生きていれば…だがな。


「やっぱり、原因は毒虫かもしれない…」

カインの体調が悪くなったのは何故なのか…マリアナは必死に考えていた。理由が解ればより良い治療が出来る…カインをもっと楽にしてあげられるはずだ。

カインのために作った粥を器に入れ、作り置きの滋養薬を少量混ぜた。回復はゆっくりだが、カインは毎日少しずつ元気を取り戻している。何とか手掛かりを見つけて薬を見つけなければいけない。

「今夜、熱が上がらなければ、少し安心してもいいかな…」

マリアナは笑みを浮かべながら呟いた。カインには早く元気になって欲しかった。また一緒に野駆けに連れて行って貰いたかった。

二階に上がろうとしたマリアナは、階段の前に立っているカインに驚き、悲鳴を上げた。持っていた器を危うく落としそうになる…

「カイン…驚かさないで…」

マリアナは言った。

「起きて大丈夫なの?今、食事を持っていこうと…」

「…もう平気だ。」

マリアナの言葉を遮ってカインは言った。その表情が憮然としていることに気付き、マリアナは不安を感じた。

「…どうしたの?怖い顔をして…」

マリアナは尋ねた。

「…隠していることがあるだろう?」

「え…?」

「…初めからそのつもりだったのか?」

「あの…なんのこと?」

「シラを着るつもりならそれでもいい。だが、俺は許さないぞ。」

カインはマリアナに詰め寄り、両手で黒い外套の襟首を掴んだ。マリアナの手から器が落ち、床へと転がる…

「お前は俺を騙していた…虚言を吐き、正体を隠して、俺の心を弄んでいた。」

マリアナはカインの言葉に衝撃を受けた。彼が何故こんなことを言うのかわからない。

「そんなこと…してないわ。」

マリアナは否定した。

「嘘をつくな!」

カインは怒鳴り、さらにマリアナに迫った。

「異国の言葉を話すあの騎士は誰だ!奴は以前から俺を敵視していた…その存在を知っていながら黙っていたじゃないか…それに、俺に毒を盛ってまで深夜の儀式でいったい何を作っていたんだ⁉︎」

「違う…誤解よ。貴方に毒なんて使ってない…あの儀式はお薬を作るのに必要だった…本に書いてあったとおりにしただけ…ヨルムドのことも…いつか話すつもりだった…」

マリアナはカインを見つめた。その目からはいく筋もの涙がこぼれ落ちていた…

「私を信じて…」マリアナは訴えた。「お願い…カイン。」

この美しい声と眼差しにどれほど魅了されてきただろう…

カインは舌打ちをした。今でさえマリアナに欲望を感じる…この体を抱きしめたいと心が訴えている…

「俺はもう騙されない…」

カインはマリアナを睨んで決然と言った。

「この…魔女め…!」


カインの蔑むような視線と言葉がマリアナの心を粉々に打ち砕いた…もうカインを引き戻すことはできない…幸せな時は終わりを迎えてしまった…

「Te amare por siempre…」

マリアナはカインを見つめながらネスバージ語で告げた。そして逃げるように彼の前から走り去った。


その姿を目で追うこともせず、カインはマリアナに背を向けた。

…もうここに用は無い。マリアナは魔女だった。その事をルポワドに報告せねばなるまい。




つづく



























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