二人の誓い
リュシアンの待つ宿営地に向かう間、カインとマリアナは様々な話をした。お互いの身に起きた出来事や、その時の気持ち、今の想いを…
敵の襲撃に警戒する必要もなく、目的地に向かって一本の道が延びている。カインは歩き、マリアナだけを背に乗せて、馬はゆっくりとした歩調で歩いていた…
「ねえカイン…私、考えたの…」
マリアナはカインに向かって言った。
「…なに?」
カインもマリアナを見上げる。
「王子様と私は婚約者だけど…初対面だし、彼はカインと私の関係を知ってる…でも、カインのことが大好きだから許して下さった…そうよね?」
「…うん。」
「だとしたら…王子様は一生私を好きになれないかもしれないわ。」
「マリアナ…」
「…いいの、それは仕方のないことだから。でも、結婚したら仲良くはしなくちゃいけない…」
「それは…そうだね。」
「だから私、誓いを立てようと思うの…カインと一緒に。」
「…俺と一緒に?」
カインは反問し、その歩みを止めた。
「…どういう?」
「私たちはルポワドと結婚し、生涯、殿下に尽くす同志であり続けます…って。」
「同志?」
「…そう。私は妃で、カインは騎士…同じ王太子殿下の僕なんだから同志でしょう?」
「いや、それは…」
「そう考えたらちょっと楽になったの…カインを身近に感じられるし、殿下だってその方が気が楽じゃないかなって…」
「ち…ちょっと待って、マリアナ…」
カインはあたふたと答え、腕を伸ばしてマリアナを馬から降ろした。
「俺が忠誠の誓いを立てるのは当然だけど、君がリュシアンに誓うのは愛だ…妃はしもべなんかじゃない。」
「そんなこと知ってる…でも、リュシアン殿下に愛がないならそうするしかないわ…」
「そうかもしれないが…」
「私はカインが好き。その気持ちは永遠に変わらない…だからずっと心にしまっておきたいの…」
「マリアナ…」
「ルポワドにいれば、カインにいつでも会える…私はそれだけで幸せよ。」
マリアナは身を寄せ、カインの胸に顔を埋めた。
「カインも…そう思ってくれる?」
「…もちろんだ。」
カインは寂しげに微笑み、マリアナを抱きしめた。
「君への愛は永遠だ。…誓うよ。」
「私たちの心はひとつ…だからこそ殿下の前で誓いましょう。ルポワドと結婚するって…」
柔らかな感触と温もりを感じながら、カインは小さく頷いた。
すでに自分の運命を受け入れ覚悟を決めて歩もうとしているマリアナ…なんと強い娘なのだろう…自分など全く足元にも及ばない…
「君は…本当にすごい人だ。」
「黒騎士は魔女に心を囚われた…でしょ?」
「魔女じゃない…姫君だ。」
二人は互いに微笑み、唇を重ね合わせた。
…これが君と交わす最後の抱擁になる。
カインは瞼を閉じた。
リュシアンの待つ宿営地はもう間近…その後は触れることさえ許されないのだ。
「カインはまだか?」
リュシアンは苛立ち気味にアーレスに尋ねた。
「黒騎士にしては遅いぞ!」
「落ち着いて下さい。迎えの者を差し向けました。もうまもなくです。」
アーレスはいつもの穏やかな口調でリュシアンをなだめたが、その実、視線の先の惨状にはいささか困惑気味だった。カインが帰還するということは、すなわちマリアナ皇女が来るということだ。
…皇女殿下がこの状況を目の当たりになされたら…
生まれてすぐに婚約者となった王太子と皇女…お互いの存在すら知らなかった二人が、今日初めて顔を合わせると言うのに…
…これはまずい
「…殿下、散歩に出でてはいかがです?気分転換になりますよ。」
アーレスは言った。
「は…散歩?」
「ええ、天気も良いことですし…」
「嫌だ。僕はここで黒騎士を待つ。行き違いになるやもしれない。」
「カインが戻ればすぐに遣いの者が参ります。近くに市も立っていますし、マリアナ皇女に贈る品物を探すというのはいかがでしょう?」
「贈り物…?」
「はい、何か気の利いた物が見つかるかもしれません。」
「贈り物…か」
リュシアンは大人しくなり、両腕を胸の上で組んだ。
「僕は女の扱いが分からない…が、それは必要なことか?」
「もちろんです。これから生涯を共になさるのですから、初めに誠意をお示しになるべきかと。」
「誠意か…確かに嫌われると子を作るのに支障が出るな…」
…それは極論だ。
アーレスは笑顔で頷きながらも否定した。リュシアンはまだ本当の愛が理解できていない…マリアナ皇女が本当にお気の毒だ。
「…解った。では供をせよアーレス」
アーレスは密かに胸を撫で下ろし、リュシアンの支度を手伝った。発言についての信憑性は全くなかったが、どうやらリュシアンをここから引き離すことには成功したらしい…
…その間に部屋を通常の状態に戻しておかねば…
近衞の騎士たちに部屋の片付けをするよう言い置くと、アーレスはリュシアンを外へ連れ出した。通訳のためエルナドも二人に随行し、ファムドが留守を守ることになった。
迎えの騎士と合流したカインは、マリアナと相乗りで馬を飛ばし、一気に宿営地まで駆け抜けた。
到着したマリアナをファムドが出迎える…再会の喜びを分かち合い、二人は互いに微笑んだ。
「ご無事で何よりです、殿下。」
「…迎えに来て下さったのですね、お師匠さま」
「師匠などと…恐れ多いことです。」
「いいえ、あなたは幼い私に様々なことを教えて下さった…だから生涯、お師匠さま。」
そう言って微笑むマリアナが愛おしく、ファムドは「光栄です」と
答えて細い指先に唇を寄せた。
「リュシアン殿下はどこに?」
マリアナの背後にいるカインがファムドに尋ねる。
「…それが、ずっとお待ちになっていたのですが、少し前に出かけると仰って、まだお戻りではないのだ。」
「出かけた?」
カインは眉を寄せた。マリアナが来ると言うのに、どこへ言ったのだろう…
「早速、遣いの者を差し向けます。それよりもお疲れでしょう…さあ、中へ。」
ファムドに導かれるまま、マリアナとカインは館の中へと足を踏み入れた。石作りのアーチをくぐり、噴水のある中庭へと歩みを進める。庭には様々な色の花が咲き乱れていて、とても美しい庭園だった。
「あの、お師匠さま…彼らは何を?」
二階の窓から見える人影を見て、マリアナは尋ねた。
「あ、いえ…」
ファムドは一瞬たじろぎ、マリアナの視界を遮るように立ち止まった。
「お掃除…?」
マリアナの素朴な疑問に、ファムドの表情が曇る…
「まさか…リュシアンが癇癪を...」
カインの呟きを耳にして、マリアナは彼を振り返った。
「癇癪…?」
呆然とするカインの視線の先をファムドの脇からちらと覗いたマリアナは目を丸くした。窓から下ろされていたのはカーテンと思しき物…ボロボロの布だったのだ。
「お師匠さま…あの部屋は…王子様の?」
「…はい、王太子殿下のお部屋です。」
マリアナは息を飲んだ。リュシアンの話はカインに聞いている。もちろん変わっていると言うことも…
「まあ...」
マリアナは声を上げ、早足になった。ファムドとカインを置き去りにして階段を駆け上がる。
廊下に数人の騎士がおり、扉が開いていて室内が丸見えになっていた。小走りのマリアナを見て「何者だ」と騎士は声高に嗜めた。
「ここは王太子殿の居室…入ることはまかりならぬ。」
「マリアナ…」
追いついたカインが名を呼ぶ…黒騎士を見ると騎士達は一瞬たじろぎ、ついで顔色を失った。
「まさか...皇女殿下?」
「その通りだ。」
カインの答えに騎士達は驚愕し、全員が即座に跪いた。そんな彼らには目もくれず、マリアナは入り口に立って呆然と室内を見遣る。
「…カイン」
「…なに?」
「お掃除の道具を持ってきて…」
「掃除…?」
「片付けるの…」
「マリアナ…?」
「こんな汚いお部屋…放っておけないわ。」
マリアナは告げると、部屋の中に入って行った。服や物が散乱した床、カーテンも引きちぎられ、寝具も破れている…こんなに酷い部屋を観るのは初めてだ…
「私もお城を蜘蛛の巣だらけにしたけれど…ここまでじゃなかった。王子様はいったいここで何をしたの?」
…癇癪だ。
片付けを始めたマリアナに困惑つつ、カインは内心で訴えた。
「信じられない…どれも大切な財産なのに…」
「…殿下、どうかお手を汚さず…片付けならば我らが…」
騎士達は狼狽えながら告げたが、マリアナは「いいえ」と言って首を横に振り、全く聞く耳を持たなかった。
「…私とカインだけで十分よ。」
マリアナは端的に答えて手を動かした。幸い身につけているのはチュニックとショーツで、作業をするのにうってつけだ…
「帰って来たら…お説教よ。」
説教…?
リュシアン殿下に?
騎士達は仰天した。実母である王妃でさえ手を焼く王太子に説教とは…
「カイン、この人達は下がらせて...手伝いは貴方だけでいいから。」
「わ…いえ、御意に。」
命令通りに騎士を室内から追い出し、カインはマリアナと一緒に部屋の片付けを始めた。ブローボーニュ城の大掃除に比べればどうということはないものの、仕切りに愚痴をこぼすマリアナがまるで子を持つ母のようで、カインは何とも言えない複雑な心境に陥った。
一方、皇女と黒騎士が到着したとリュシアンが知らされたのは、あと少し進めば帰り着く場所でのことだった。
「そうか!」
リュシアンは瞳を輝かせた。
真っ先に浮かんだのはカインの顔…皇女のことなど二の次だ。
王太子の帰還に騎士達が首を垂れ、次々に道を開ける…
「黒騎士!」
リュシアンは叫んだ。
彼の功績を讃えねばならない…これで大手を振って一緒にルポワドに帰還することができるのだ。
「…御前に。」
カインはエントランスでリュシアンを出迎え、恭しく跪いた。
「カイン…よくぞ帰還した!」
リュシアンは歓喜の声を上げ、カインの前に歩み寄った。右手を差し出し、彼のキスを受ける。
「此度の活躍、賞賛に値する!父上もさぞお喜びになろう!」
「有り難きお言葉…光栄です。」
満面の笑みを浮かべるリュシアン…実に上機嫌だが、次には不機嫌なマリアナとの対面が控えている…カインの心に一抹の不安がよぎった。
「…それで、僕の許嫁はどこだ?」
リュシアンは少し神妙な面持ちになって言った。
「殿下の居室にてお控えに…」
「僕の部屋?…そうか。」
カインに返事をする間を与えず、疑問すら抱かないリュシアンが脇をすり抜け歩み去る…背後に立つアーレスと視線が合い、彼も不安そうにこちらを瞠目していた。
「部屋は…片付いていたか?」
「…いや、間に合わなかった。」
「ということは…」
二人は押し黙って部屋の方向を見遣った。
暗雲が立ち込めていた…
妃になる者と初めて対面する…
ここが正念場だとリュシアンは思った。
…カインの心を奪ったマリアナとはどんな女なんだろう…
本音は誰にも言えなかったが、皇女は最強の恋敵であって、妃になるという意外に興味も無ければ、むろんのこと愛など感じていようはずもなかった。
…そもそも、どんな美女であろうとカインには敵わない。僕は子供の頃から黒騎士が好きなんだ。
廊下の向こうの扉が開いている。近寄ると人の気配がした。リュシアンは部屋の前に立って中を見る…すると、自分に気付かず背中を向け、淡々と作業をしている人影が見えた。
「誰だ…そなたは…」
リュシアンは思わず言った。
その声に応じてマリアナが振り返る。向き合った彼女は真っ直ぐにリュシアンを見据えて告げた。
「リュシアン殿下…?」
「そうだが…」
リュシアンは、呆然と彼女を見つめた。
短い髪…服装はチュニックにショーツ…まるで男子のようだ…
「初めまして。マリアナ・バルド・グリスティアスです。」
マリアナが膝を折って自己紹介すると、リュシアンは我に帰って歩み寄った。初めて見る許嫁の顔…よく観れば宝石の様な大きな瞳が美しく、薔薇色の唇が麗しい…
「リュシアン・ダ・ルポワールだ。」
リュシアンは告げ、マリアナに向かって右手を差し出した。彼女の手を取り、指先にキスをしようとした。
「ご挨拶は後ほどに。手が汚れておりますので…」
マリアナはむしろ手を引っ込めながらリュシアンを見上げた。
「それよりも、言いたいことがあります。」
「なんだ…いきなり…」
挨拶のキスを拒まれたうえ、大きな目に威圧されたリュシアンは困惑した。女なら恭しく膝を折り、キスを受けるのが礼儀ではないのか?
「いきなりは貴方のほうだわ。初めて会う婚約者のお部屋がまるで廃墟みたい…何をしたらそうなるの?」
「…は?」
リュシアンは反問した。
「何を…と改めて訊かれても…」
「何にせよ物を壊すなんて幼子のよう…信じられない。」
「幼子?僕は18だぞ、子供じゃない。」
「自分の感情を抑えることが出来ないなら子供と同じよ…我儘な駄々っ子だわ。」
「駄々…」
リュシアンは驚愕のあまりたじろいだ。こんなにも罵られるのは生まれて初めてだ。
「この無礼者…僕はルポワド王太子で、そなたの夫になるんだぞ…そんな口の利き方は許さない…」
「だったら尚のこと皆の手本となるべきよ。例え貴方が夫でも、今のままなら私は尊敬などしないわ。」
「う…」
リュシアンは呻いた。
…何て生意気な女だ。
少年の様な容姿のマリアナ…他の者とは明らかに違っていた。それだけではない、カイン以外の人間に罵倒されたのは生まれて初めてだった。
「片付けは済みましたので、着替えて参ります。」
マリアナは一方的に告げ、リュシアンから離れて扉に向かった。
廊下の先にカインと赤い髪の騎士が心配そうな顔で立っている…二人の間に立ち入る事が出来ず、様子をうかがっていたのだった。
「あなたはアーレス?」
マリアナは訊ねた。
「はい。皇女殿下…」
アーレスは応え、その場に跪いた。その仕草は実に優雅であり、彼の気品が感じられる…
「お噂は予々…カインのお話どおりにとても素敵な髪の色ね…」
「嬉しいお言葉…されど、皇女殿下の麗しさには敵うべくもありません…」
「ありがとう…お世辞でも嬉しいわ。」
「お世辞など…私は真実しか語りません。」
燃えるような赤い髪の騎士を見遣りながらマリアナは微笑んだ。彼は本当に素敵な騎士だ…
「きちんとしたご挨拶は後ほど…リュシアン殿下にもその様に伝えてください。」
「御意に」
マリアナはカインを促して一緒に階段を降りて行った。
先ずは埃まみれの服を脱ぎ、身綺麗にしなければならない。リュシアンに恭順の意を示すのはその後だ…
…意外な展開だったな。
皇女の行動に驚きを隠せず、アーレスは目を丸くしていた。
この事態をリュシアンがどう捉えているのか全く予測できない…逆上し、また暴れ出すかもしれない…
「殿下…」
棒立ちになっているリュシアンの背中に向かって声を掛ける。
部屋は見事に片付けられていた。ボロボロのカーテンは外され、毛布やシーツは新しい物に取り替えられていて、煩雑に床へと撒きちらかされていた塵や物も、全て綺麗に消え去っていた。
「アーレス…」
リュシアンがおもむろに振り返る。不機嫌な顔を想像していたアーレスだったが、その表情を目の当たりにすると目を見開き、驚くことしか出来なかった。
「…気に入った。」
リュシアンは告げた。
「僕には…皇女が必要だ。」
躊躇いながら告げるリュシアン…瞳が潤み、耳朶が赤く染まっていた。
ユーリとヨルムドが帰還したのはそれからまもなくの事だった。
カインはマリアナとともに彼らを出迎え、ユーリは初めてマリアナと対面する。マリアナはユーリに跪かないよう願った後、自ら手を握って労った。
「カインはお父様にそっくりだわ…」
マリアナは瞳を輝かせて言った。
「私も父にとても似ているの。...でも、お二人ほどじゃないかも…」
「そうでしたか...母君もお美しいが、お父上も相当な美丈夫であらせられたのですな。」
ユーリは笑顔を浮かべながら言った。眩しいほどに美しい皇女…可憐で愛らしく、カインが夢中になるのも無理はない...
「黒騎士が二人...なんて素敵なの...」
マリアナはうっとりしながらカインを見上げた。カインも微笑みながらマリアナを見つめる...ユーリはその様子を見て苦笑するしかなかった。愛し合う二人...このままペリエに連れ帰り、婚姻を結ぶ事ができたなら、シャリナがどんなに喜んだだろう...
大広間には怪我人が多数おり、ファムドが指揮をとって治療を施していた。
マリアナも手伝いたいと申し出て、今はファムドの指示通りに働いていた。ヨルムドも隣におり、共に騎士の傷の手当てに勤しんだ。
「姫君のお手を煩わせるなど恐れ多いことです…」
側にいたエルナドが渋面を浮かべて言った。彼の向こうにはカインがいて、ちらとこちらを垣間見ている。
「いいえ...元凶は私にあるのだから手伝うのは当然です。知識はこういう時にこそ役立てるものだわ。」
マリアナは静かに答えた。騎士の切り傷が痛々しいが、自分にできる事といえば血止めの軟膏を塗って布で縛るくらいがせいぜいだ。
「エルナドさんがいてくれて良かった…お薬はいろいろあるけれど、ボルドーのお薬はとても痛みに効くもの...」
エルナドはわずかに顔をほころばせて眉を上げた。マリアナの声はリザエナに似て鈴の音のように美しい…瞳の色は違えど、目元にも彼女の面影があり、何より聡明さがそっくりだ...
やはり血は争えない...とエルナドは思った。ゼナ・ヴェルネスも優秀な人物だっただけに、マリアナの頭脳の明晰さは筋金入りなのだろう…
「…皇女。」
背後から声がして、振り返るとリュシアンが立っていた。
皆が恐縮する中、マリアナにゆっくりと歩み寄る。
「…僕と一緒に来い。」
リュシアンは朴訥に命じるとマリアナの手を握った。大人しく従うマリアナを連れて廊下へと出る…無言で階段を登り、自室に入ると口火を切った。
「僕以外の男に触れるな…」
「え?」
「そなたはルポワドの王太子妃になる身だ…下級騎士の手当てなどするべきではない。そう心得よ。」
不機嫌な様子で語る王太子だが、辛辣な口調という訳ではなかった。目を細めながらマリアナを瞠目している…
「時と場合によるわ…」
マリアナは答えた。
「怪我人がいるのに放っておけと言うの?」
「そうだ。」
「殿下…」
「これは命令だ。…今後はカインに触れるのも禁止する。」
「…カイン?」
マリアナは反問した。
「カインとそなたはルポワド貴族の噂の的になっている…これ以上の嫌疑をかけられたくはなかろう?」」
「そんなこと百も承知よ…命じられなくてもそうするし、自覚くらいあるわ。」
「黒騎士のことが好きでもか?」
「もちろんよ…彼は大切な人…だからこそ、もう関わらないわ。」
決別の言葉を語るのは辛かったがマリアナは平静を装った。リュシアンの不信は当然で、疑念を払拭するには時間をかけて誠意を示さねばならない…
「僕がカインを好きだと言う事も知ってるのだな?」
「知っているわ。」
「それでも僕を受け入れられるか?」
「必要なことだもの…」
リュシアンは唸った。すでに覚悟を決めているらしく、マリアナは淡々と答えている。泣いたりうわずったりする様子も見せなかった。
「…ならば、僕もそうする。」
リュシアンは告げ、上着のポケットから何かを取り出した。
手にしたのは金の首飾りで、中央には薄紅色の宝石が輝いていた。
「僕が大義を成した記念に…許嫁たるそなたへと贈る。」
マリアナに近づき、それを細く白い首へと掛ける…マリアナはじっとリュシアンを見つめた後「ありがとう...大切にするわ。」と告げて微笑んだ。
視界が開ける...
リュシアンの心が光で満たされた。こんな気持ちは初めてだった。
「キスをしても...良いか?」
唐突な言葉に驚いたものの、マリアナは無言で頷いて見せた。
許しを得て、リュシアンはそっと身を寄せ、マリアナに顔を押し付ける...
...初めてのキスはカインに捧げると決めていたのに...
名残惜しさはあった。
それでも、マリアナに触れると喜びが湧き上がり、自然に両腕で抱き締めていた。違和感は感じられない…
僕は頭が変になったのか?
リュシアンは自分が解らなくなっていた...
数日後 ネスバージ王都
「何か召し上がりますか、父上…」
ベッドの上に横たわるユーリの汗を拭きながらカインは言った。
戦闘では怪我ひとつ負わなかったユーリだが、ネスバージ到着後に体調を崩し、ここ二日ほどは熱が高い状態が続いている...
「こう具合が悪いと酒も受け付けんな…」
ユーリは冗談を言いながら微笑んだ。
「…だがマリアナ殿下の手製スープは別だ。あれは美味い...」
「マリアナは料理が上手ですからね...」
カインは微笑んで言った。
「滋養を考えて作っているんです。ただのスープじゃない。」
「なるほど、それでお前は胃袋ごと支配されたと言う訳か…」
「はい。ブローボー二の城で毎日作って貰いました。」
「...そいつは貴重な体験だったな。」
寂しげな息子の辛そうな表情を見る度にユーリの心が痛む…
最近のマリアナは滅多にカインの側に近付かなくなり、会話すら儘ならない状態だった。
…王太子のまさかの異変...マルセルさえ予想していなかった事態だ...
何がそうさせたのかは解らない...だがリュシアンがマリアナに好意を抱いたのは紛いもない事実だ。ネスバージまでの帰途、王太子は片時も皇女から離れず、誰の手にも委ねようとはしなかった。
…ルポワド王家の繁栄には幸いなことだが…カインにとっては辛い現実だな。..
こんな時、シャリナならどんな言葉をかけるだろうか...とユーリはシャリナの顔を思い浮かべた。
…お前の支えが必要だ...妻よ。
不調は一時的なものだとファムドは言う...彼が用意してくれた薬が効けば、帰り着くことくらいはできるだろう...
「…入っても良いかい?」
扉を叩く音とともに声が聞こえ、カインが後ろを振り返った。
声の主はヴァルダーで、ユーリが自ら「いいぞ。」と返答する。
ヴァルダーは扉を開くと、水差しとスープの入った盆を侍女から受け取り、それを手に持ってユーリの側へと歩み寄った。
ヴァルダーは、リザエナがマリアナを出迎えるためネスバージを訪れる際、伴として来訪していたのだ。
是非ともユーリに再会したい…それが来訪の理由だった。
「…具合はどうです?」
ヴァルダーはユーリの顔を覗き込みながら言った。
「まずまずだ…」
「まずまずですか...なるほど。」
カインが盆を受け取ると、彼は口角を僅かに上げる。
孤高の騎士であった漆黒の狼。その屈強さと高潔さは今も何一つ変わっていないが、歳を重ねた今、言葉尻からも佳人としての慈しみを過分に身につけたことが察せられる。どうやらシャリナは彼を骨抜きにし、『理想の夫』にしてしまった様だ...
「貴方にしては弱気な発言ですね...シャリナが聞いたら泣きそうだな。」
「…余計な報告はするなよ。妻はリオーネの出産のことで頭がいっぱいなんだ…心労で倒れられては敵わん。」
「出産の予定はいつなんです?」
「もう時期だ...冬を迎える前に生まれるだろう…」
「そうですか…では、お誕生の歌を詠まねばなりませんね。」
「ああ、そうしてくれ...シャリナが喜ぶ。」
「おおなんと...初のご用命!これは気合を入れてはりきらねば…」
「はりきるな...普通にしていろ。」
二人の会話を聞き、カインは自然に笑っていた。旧友ならではの信頼...
外見も内面も対極な二人だが、共通しているのは母への想いだ。
激情に溺れることなく、ヴァルダーは今も深い愛を貫いている…
…俺にもできるだろうか?
カインは自身に問いかけた。
…悲しみを忘れ、この痛みに打ち勝つことが...
ユーリの食事が済むまで、三人は静かに談笑しながら時を過ごした。
父とヴァルダーの過去話は意外なほどに面白く、彼らが決して『無傷』ではないことを吐露してくれた。
…リュシアンが免罪符を請け負ってくれたとはいえ、周囲は俺を蔑むだろう...国王陛下が如何なる処遇を下したとしても俺は甘んじ、全てを受け入れなければならない...
カインは決意していた。
ペリエの黒騎士は国家に命を捧げる。
非情なるも省みる事なく、ただひたすらに忠誠を尽くすと...
数日後
ユーリの回復を待っていた王太子は「大事に至らず」と判断し、ルポワドへの出立を決めた。
リュシアンが見守る中、マリアナはヨルムドに別れを告げる。
頬に感謝のキスを与え、その手を握って笑顔を向けた。
「ヨルン、本当にありがとう...貴方のことは決して忘れない…」
「マリアナ様...」
「そんな顔しないで...またいつかきっと会える...その日を楽しみにしているわ。」
「お言葉..我が胸に刻みます。」
ヨルムドも告げてマリアナの手にキスを返した。再会を信じ、その日を心から希った。
隊列の中央で、マリアナのために用意された馬車が待機している。
アドモスとリザエナがその前に並んで立っていた。
「婚儀の日にまた会おう。」
リザエナはマリアナを抱き締め、優しく背を撫でながら言った。
「はい。お待ちしています。お母様。」
マリアナも母の胸に顔を埋める…短くはあったものの、二人は満ち足りた時間を過ごした。母娘ならではの遊びや会話を存分に楽しみ、失ったものを取り戻した。
「いい加減にせよ…」
横に立つアドモスが嗜め咳払いした。
「そなたは婚儀の際に会えるのだ…早く余に代わらぬか。」
「うるさいジジイめ...なぁマリアナ?」
マリアナはくすくすと笑った。
リザエナから離れたマリアナをアドモスの太い腕が包む。力強く引き寄せ、耳元で囁きかけた。
「余はそなたが好きであった。ゼナの身代わりにではなく、そなた自身をな…」
「…陛下?」
抱擁は一瞬で、アドモスはすぐに腕を解いた。
「自身を愛えよ...マリアナ...」
ネスバージ王は口角を上げ、愛おしげに目を細めた...
王太子を先頭に、ルポワド軍がネスバージを出立する。
笑顔で手を振るヴァルダーに、ユーリは最期の別れを告げた。
黒騎士も月光の騎士と掌をぶつけ合い、互いの健闘を讃えあった。
馬車の窓から見えるリュシアンとカインの後ろ姿…
複雑な心境に陥って、マリアナは深くため息を吐いた。
つづく