英雄の黄昏
「バルドの王都ベルセドはここより北東方向、国境から僅かな距離にあります。」
会議室に集まった騎士達を前に、テーブルに拡げられた地図を指し示してアル・ファムドが言った。
「王太子殿下の来訪についてはすでにバルドからの回答を得ており、門扉は開かれています…ですが、敵の懐に入るからには危険が伴うは必須…万全を記さねばなりません。」
ファムドの濃い色の瞳が、両脇にいるユーリとエルナドに向けられた。ルポワドとボルドーの団長は腕を組み、撫然とした表情でファムドを見返している。経験豊かな二人にとって、敵の陣地に足を踏み入れることの危険性は概知の事実であり、本来なら許容すべき案件ではない。
「重ねて申し上げるが、ボルドーとしては王太子殿の同行は推奨できない。接触するにしても、国境をまたがぬ場所で行うべきと存ずる…おめおめと誘いに乗れば部隊が全滅しかねない…退路を保って然るべきだ。」
『曙光』の灰色の瞳がユーリを捉える…対してユーリの漆黒の瞳が彼を捉え、二人の視線がぶつかった。
「ペリエ男爵のご意見は?」
アル・ファムドが尋ねる。
ユーリは眉根を寄せ、渋面のまま王太子へと視線を移した。リュシアンは瞼を閉じて沈黙している。明らかに不機嫌な様子だ。
「エルナド殿の判断は正しい…私も同意見です。」
ユーリは低い声で言った。
「一時的な和平交渉に応じているとは言え、バルドにとってルポワドは仇敵…全く信用に足るものではない。」
ユーリの発言に、アル・ファムドもエルナドも深く頷いて見せた。
「歴戦の猛者であればこその慎重論…」
隣に立つヨルムドの呟きにカインは耳を傾けた。
「だが、それでは膠着状態になる…」
彼の声音には明らかな焦りがあった。マリアナの現況を考えれば当然のことだ…
二人は扉の前に並んで立ち、会議の様子を傍観するだけの立場だった。訝しげなリュシアンの背後にはアーレスが立っており、彼もまた黙って渋面を浮かべている。
…アーレスはリュシアンの気性を誰よりも心得ている…それだけに不安なのだろう。
カインの気持ちはそれ以上に暗澹たるものだった。マリアナを一刻も早く迎えに行きたいが、それでは王太子を危険に晒すことになる…
「バルドがこちらの条件を受け入れるまで待つべきと存じます、王太子殿下。」
ファムドが改めて告げた。
「それまで、どうか暫くこのままご待機頂きますよう…」
「…暫くだと?」
リュシアンが口火を切った。
「それはいつまでだ…明日か?それとも一年後か?」
「それは…」
「バルドとの和平交渉のためここまで来たんだぞ。僕の手には同盟国の調印書が握られている。いったい何を恐れろと言うんだ?」
「恐れながら王太子殿下、確かに三国の同盟に脅威を感じるからこそバルド王も門扉を開いたと言えるでしょう…しかし、敵地の中心では多勢に無勢…不足の事態においては、その対応が難しいのです。」
「は…随分と弱腰ではないか。本来ならここに座っているのは父上だった…それでも同じことを申すのか?そなたらが頼みの綱と見込んだ『雪原の銀狐』に!」
リュシアンは嘲るように笑った。
「僕を人身御供にしたくなければ全力で護れ!それが貴公らの役目であろう?失敗すれば互いに首を失う運命だ…騎士として誉なことではないか!」
…無茶苦茶だ。
カインは思わず眉根を寄せて瞼を閉じた。
勇敢なのか自暴自棄なのか判断できない…リュシアンの破天荒ぶりは理解不能だ。
「僕は一歩も引く気はない。来いと言うならベルセドとやらに堂々と乗り込み、バルドの王から調印をむしり取るまでだ。僕の妃と共にな!」
「…妃?」
カインは驚き、小声で反問した。ヨルムドもこちらを見ている…驚いている様子だ。
「ルポワドの望みは和平協定のみならず、皇女を僕の妃とすることだ…それはずっと以前に交わされた約束だった。いかにバルドの王でもそれを反故にはできぬ…断れば戦になるのだからな。」
「な…」
カインは愕然とした。
あまりの衝撃に視界が歪む…なんということだ。
…そうだろうとも
顔色を失って狼狽しているカインを、ユーリは遠目に見つめた。
憐れんだところで慰めようもないが、親なればこそ、我が子の苦悩は理解できる。
…初めから事実を伝えていれば、お前はきっと「間違い」に至ることはしなかった。マルセルもフォルトもお前の意志の強さを過大に評価し過ぎていたのだ。万が一にも『黒騎士』が情に流され、任務を放棄する事など無いだろうと…
ユーリは、ヴァルダーから送られてきた書簡に目を通したマルセルの顔を思い出した。紺碧の瞳を輝かせながら口角を上げる独特な微笑み…家臣が恐れる残忍な笑み…
…罪については俺も同罪だが、若いお前にこの任務を与えたマルセルの性格の悪さはもはや罪人級だ。
上座に座るリュシアンの顔色も決して良いとは言えない。
本来なら妃となる姫君に手を付けたカインは極刑となって然るべきところだった。しかし王太子はそれを撥ね退け、カインの罪を赦免する替わりに、『妃の奪還』を以って恩赦すると豪語したのだ。
…リオーネの言う通りだな。王太子はそれほどまでにお前を失いたくなかったということだ…理由はどうあれお前の首はつながった。何としてもその汚名を濯がねばならんぞ…
「…王太子殿下がそこまでのお覚悟であれば、我ら騎士も腹を括らねばなりますまい。」
エルナドが重い口調で応えた。
「皇女殿下の奪還は我が君の悲願。我らボルドー騎士団は死力を尽くして殿下の背後をお守りすると約束いたしましょう。」
ボルドーの意志表明に、ファムドも同意した。
「我が軍も御意に従います、王太子殿下。」
「ならば話し合いは終わりだ。僕は部屋で休む。」
リュシアンは立ち上がって退室するため扉の方へと歩いた。
通りすがりにカインを見上げ「後で話がある。アーレスを呼びに遣わす。」と短く告げて立ち去る…
後ろにいたアーレスが憐れむような眼差しをカインに差し向けていた。彼はカインの耳に顔を寄せ「私も君に話したいことがある…すぐに行くから部屋で待っていてくれ。」と穏やかな口調で耳打ちして出て行った。
ヨルムドもエルナドに促されて退室し、カインはユーリを待って共に会議室を後にした。
「顔色が悪いな…大丈夫か?」
ユーリが静かに問いかける。これだけ顔面蒼白の息子を見たら、シャリナが卒倒してしまうに違いない…
「殿下が請け負った免罪符とは…マリアナ…否、王太子妃の件だったのですか…だとすれば、俺は極刑を免れないほどの重罪を犯しています…殿下に…とても顔向けなどできないほどの…」
「そうらしいな。」
ユーリは頷いた。
「…だが、王太子のほうはへこたれておらん…婚約に関しては不承不承でも、お前に恩を売る口実ができたと息巻いていたくらいだ…あの性格の悪い銀狐もほくそ笑んでいたし、お前は王族達に弄ばれたに過ぎん。」
「弄ばれた…俺が?」
「ああそうだ。弱みに漬け込んでいたぶるのがあの性悪どもの常套手段なんだ…その点では王太子は幾分かマシのように思うぞ…お前への愛がある分な。」
「父上‥本気で仰っているのですか?」
「本気だとも…王太子が女に興味ないからこそ、お前は赦免されたんだ…幸運だったと考えねばならん。」
「そんな…」
カインは目眩を感じて顔を手で覆った。例え自分が恩赦によって免罪されてもマリアナはその罪から免れられない…リュシアンが彼女を一生そんな目で見るのは、死に至るよりも辛かった。
「マリアナ…」
絶望に打ちひしがれながらマリアナを想う…
…俺はどれだけ君を傷つけたら気が済むんだ。
「カイン…忠告しておくぞ。お前の命はすでに王太子のもの…そして皇女はルポワドと諸国にとっての『希望』となるお方だ。互いに惹かれ合おうとも、その思いは決して成就しない。今のうちに気持ちを断ち切っておくことだ。」
カインは何一つ言い返すことができなかった。心が折れる…気持ちを立て直すことなど出来ようはずもない…
重い足取りで部屋に戻ると、扉の前でアーレスが待っていた。
彼は優しい眼差しで口角をあげ、「中で話そう。」と静かに言った。
二人は久しぶりに向かい合って座り、お互いの顔を見遣った。
カインがアーレスに会ったのは半年以上前…リオーネが王都に滞在していた時だ。
「やっと君と話ができる…いろいろと報告したいことがあるんだ。」
「報告?嗜めるんじゃなくか?」
「嗜める?私が…君を?」
アーレスは意外そうに目を丸くした。
「そんなことはしない…考えすぎだ。」
カインの気分が最悪であろうことは理解していたが、アーレスはあえて気付かないふりをした。憐れみなど見せようものなら、かえってカインの自尊心を傷つける結果になるのは明らかだ。
「殿下が話をする前に補足を…と思ってね…」
「…補足?」
「ああ、真実を知って以来、殿下は様子が変わった…それは見た目にも表れているだろう?」
「髪を切ったことか?」
「…そうだ。君が自分の婚約者と恋仲になったと知った殿下は蒼白になって私に尋ねた。「どうすればカインを罰から救える!」…とね…正直、私にその答えは見出せなかったが、殿下は必死になって考えた様だ…君が優秀かつ忠実な僕であること。その母上が陛下の恩人であるアンペリエール夫人であること。そして何より、自身が君を深く愛していること。殿下はそれを公の席で訴え、全て吐露した上で国王陛下に希ったんだ。君への免罪と引き換えに、その気持ちを永遠に断ち切る。以後は王太子としての責務を全て果たす…とね。」
「リュシアンが…そんなことを?」
「殿下はその場で髪を切り落としたんだ。決然たる意志の表明だった。陛下は終始冷然となさっていたものの、結局はアンペリエール夫人やブランピエール公爵の功績を理由に君を赦された。厳しい条件のもとではあったが、殿下は身を挺して君を護り切ったんだ。」
聞き終えたカインの表情が変化していることに、アーレスは大いに安堵していた。これならリュシアンと対峙しても耐えられるはずだ。
…そうともカイン、君は皆に必要とされ愛されている…一つの愛を失ったとて、私よりは過分に恵まれているのだぞ。
「補足はこれで終わりだ。殿下が首を長くして待っておられる…すぐに行ってくれ。」
アーレスは言い終えると席を立った。瞳に覇気が戻ったカインも立ち上がった。
「…それから、これは私個人の話なのだが…」
ふと、思い出した様にアーレスが言った。
「実は、訳あって幼い少女をアンペリエール夫人に託したんだ。」
「…少女?」
カインの反問に、アーレスは僅かに頬を染め、微笑みながら頷いて見せる。
「貧しい身の上の娘で、私が引き取ったのだが、パルティアーノに奉公させるのは到底無理だし、決して良い結果を生まないだろう。その点、君の母上は寛容だ。幸い、夫人は快く受け入れて下さった。感謝しているよ。本当にお優しいお方だ。」
「なるほど。それなら問題はないよ。」
カインは短く答えた。事情は全く分からなかったが、母の性格であれば当然のことだ。
「…君の隠し子か?」
朴訥なカインの質問に、アーレスは目を見開いた。
「それは君のほうじゃないのか?」
アーレスは応酬し、揶揄しながら笑った。
最後の難関はリュシアンだ。
カインは背筋を伸ばした。
父やアーレスの説明によって僅かに気持ちの整理がついたものの、
やはり心の衝撃は大きく、動揺は未だ収まり様がない…
…マリアナがリュシアンと結婚する…ルポワドの王太子妃になる…
それを思うと胸が苦しかった。泣きたいほどの悲しみに苛まれた。
…解っていた。この手がもう君に届かないことは…だが、付き従うべき主君の妃となる君を、俺はどうやって敬えば良い…君への愛を微塵も感じないだろうリュシアンを、この先どう思って生きれば良いんだ…
深くため息を吐いた後、カインは意を決してリュシアンの居室の扉を開いた。
「カイン・ド・アンペリエール、参りました。」
「入れ。」
すぐに返答が返ってきたので、カインは扉を開けて中に足を踏み入れた。室内にはリュシアン一人がいて、窓辺に立ってこちらを見ている。
「王太子殿下。」
カインはすぐに跪き、首を垂れた。
「僕の結婚について、ユーリやアーレスから詳細を聞いたな?」
リュシアンは前置きなくいきなり切り出した。
「聞き及んでおります。」
「ならば理解しておろう。そなたは特務において職務放棄という失態を犯したうえ、我が妃となる者と姦通した。どのような言い訳も通用せぬ…そなたは重罪人だ。」
「は…」
カインが力無く答える。リュシアンは小さく舌打ちした。
「…だが、そなたは僕の幼馴染であり、真の友だ。いずれグスターニュ公となる者を極刑に処すのは、ルポワドにとってあまりに損失が大きい…反対意見もあるが僕はそなたを赦す。その考えは間違っていないと信じている。」
「有難きお言葉。」
伏したままのカインをリュシアンは悲しげに見下ろした。以前よりも痩せ、顔もやつれた…よほど辛い状況だったに違いない。
「そなたの罪を免ずるにあたって、僕は父上と幾つかの約束をした。一つは、バルドとの調印を果たすこと。もう一つは、妃となる皇女を必ず連れ帰ること。そして最後は、帰国後すぐに結婚し…妃との間の子をもうけること。…僕は約束を果たさなければならない…何としてでもだ。」
カインは微動だにせず、その言葉を受け止めていた。全ては自分のため…とリュシアンは言っている。何と残酷な言葉だろう…
「立て、カイン」
リュシアンは命じた。
「立って僕を見ろ」
カインは応えて立ち上がり、リュシアンの顔を真っ直ぐに見遣った。
「はっきり申しておく。そなたが愛した女は僕の妃…僕は妃を愛さねばならない。…決して恨むなよ。」
そう告げたリュシアンの目頭が赤くなる…涙を必死に抑えているようだ。
…王族に生まれた者の宿命…リュシアンもまた、その運命からは逃れられない。
「御意に…王太子殿下。」
カインは告げ、両腕を広げてリュシアンをそっと胸の中に収めた。リュシアンもそっとカインの肩に顔を乗せる。
「感謝するよ…リュシアン」
カインの囁きに、シュシアンは嗚咽し、肩を震わせた…
国王アドモスは玉座に座り、アル・ファムドの報告を聞き終えると「解った」と応えて足を組んだ。
「あの王太子は生意気な若造だが、軟弱者ではないと言うことだな。」
「…はい。発言にせよ行動にせよ威風堂々しておられます。善き度量をお持ちのようです。」
「戦好きで知られる『雪原の銀狐』の息子なれば、その気質を過分に引き継いでいると考えて然り…今後敵に回せば厄介な相手となろう。」
「そのように。」
アドモスは目を細め、過去の記憶を辿りながら語った。
「あの王太子はマリアナがルポワドで生まれた半年後に生を受けた。当時はまだ若き王であったマルセルがネスバージとの盟約のために結んだ婚約…互いに口約束程度と考えていたが、ルポワドがこれはど本腰を入れて来るとは思わなんだ…リザエナには勝手な事をするなと散々なじられたが、マリアナがルポワドに嫁ぐことで表面上の和平が成立する…バルドもこれ以上マリアナに手出しはできぬし、それはそれで良かったのかも知れぬ。」
「は…」
アル・ファムドは同意しながらも気持ちが上向かず、屈託ない笑顔のマリアナを思い浮かべてその身を慮った。
…複数の王家の血筋を受け継ぎし身であればこその悲劇…お気の毒としか言いようがない。僅かな時間であったが、姫君とは楽しい時間を過ごした。賢い姫君は知識に溢れ、私を師と仰いで慕ってくれた。遠い異国の民である私を躊躇わず受け入れる者は稀…マリアナ様はまごう事なき尊いお方だ。
「…時にムアル、一つ気になることがある。」
アドモスが顎の髭を摩りながら言った。
「そなたの知識が必要かも知れぬ…行ってそれを確認して参れ。」
その命令の意味が理解できず、ファムドは眉根を寄せた。
「どちらに向かえばよろしいのでしょうか?」
ファムドの疑問に、アドモスは指で手招き顔を寄せ、低い声で耳打ちをした。
「ルポワドの英雄のところだ。」
ファムドは命じられた通りにペリエ男爵を探した。
出陣の準備に忙しい騎士達が集まる中庭広場や大広間を訪れたが居らず、自室にもその姿はない。
「はて…何処に居られるのだろう。」
ファムドは仕方なく引き返そうとした。しかし廊下の窓から見える人影にふと立ち止まり、眼下に向かって目を眇める…
「ペリエ男爵…」
男爵は王太子を相手に槍の扱いの指導をしていた。王太子が馬を御しながらランスを手にしている。
「こんな時に競技の練習を?」
思わず声を漏らした。明後日にはバルドへと出立すると言うのに…
野外に出たファムドが近づくと、男爵の声が聞こえて来た。
「姿勢をもっと低く…視線はそのままに!」
王太子は素直に指示に従い、据えられた的に狙いを定めてランスを突いた。まだ不慣れなのか、的へとかすってはいるものの、今ひとつ正確さに欠けている‥
ファムドその場に佇みながらその様子を静観していた。王太子の努力も興味深かったが、何より男爵の様子を観察する必要があったからだ。
指導は暫く続いた。王太子は繰り返し馬を駆って槍を突き出し続けた。しかし、疲労が見え始めたところで号令を出し、男爵は練習を中止させた。
「どうだ…才能はあるか?」
馬から降りた王太子が言った。
「正直に述べよ。」
受け取った槍を縦に持ち替えた男爵は「そうですな…」と口角を上げる。
「私が若い頃、殿下と同じ年頃のマルセル陛下と手合わせをしたことがあります。経験という部分を除けば陛下と同等といったところでしょう。」
「父上とか?…微妙な感想だな。」
王太子は不服そうに言った。
「せめて、フォルトの若い頃と同等なら納得できるが…」
「それは少しばかり性急です。パルティアーノ公爵はジョストでは負け知らずの英雄…国中を探しても公と居並ぶ者は極めて稀です。」
「努力しても僕には無理と?」
「そうは申しませんが、相当な修練が必要でしょう。」
王太子は唸り、両腕を胸の上で組んだ。
「悔しいな…王太子たる者が弱者では下々の者に示しがつかぬではないか…」
「そう思われるのであれば、とにかく修練を積むことです。」
「うむ、そうだな。今後も指導を頼む。」
王太子は頷いて見せると、ファムドが待機している方向に向かって歩いて来た。男爵も馬をネスバージの従者へと預け、王太子の後に付いて来る。
「先ほどからそこに居たな。僕に何か用か?」
お辞儀をするファムドの前で立ち止まり、王太子が言った。
「恐れながら、ペリエ男爵にお話が…」
「ユーリに?」
反問した王太子は男爵を振り返ったが、すぐにファムドに向き直り
「なら話しをするがいい…僕は一人でカイン達のところへ戻る。」
そう告げて大股で歩み去って行った。
残った男爵は王太子をしばらく目で追っていたが、カインの居る集団の中へとその姿が消えると、ようやくファムドの方へ視線を向ける。
「用向きは?」
男爵は単刀直入に尋ねた。その眼差しは柔和で、声音は至って温厚だ。
「少しお時間を戴きたい。できるならば我が居室へ…そこで話をしましょう。」
「それは構わんが…俺はこ難しい話は苦手だぞ。」
「難しい話などでは…」
ファムドは思わず笑った。男爵は楽しいお方だ…
「…では、こちらへ」
ファムドは彼を誘い、エントランスへの道のりを横に並んで歩き出した。
遠くに若き騎士達の声が騒がしく聞こえていた。
「さっぱり読めんが、これは何語なんだ?」
並んだ書物に目を凝らしてユーリは尋ねた。
壁にしつらえた棚には大量の本が収められており、その一部は見慣れぬ文字で飾られている。ユーリに他国語の知識は皆無だったが、アル・ファムドの容姿や流暢なルポワド語から察するに、彼は様々な言語を理解しているに違いなかった。
「それは私の祖国の医学書です。私の専門は医学と薬学…祖国でそれを学びました。」
「医者ということか?」
「ええ。」
ファムドは頷いた。
「ですので、貴方を蝕む病魔に対して、私の知識が役立つかも知れれない…そう思いまして。」
「俺の病…?」
ユーリはファムドを瞠目した。病の話はフォルト以外の誰にも告げていないはず…何故この男が知っている?
「そんなに病人に見えるのか…俺は」
「誰の目にも…という訳ではありません。あくまで私の目視による推察です…脈を取らせて頂いても?」
「ああ…構わん。」
ユーリは頷き、ファムドに腕を差し出した。
「このあと、触診もさせて戴きたい。」
ユーリは彼の申し出を素直に受け入れることにした。
ルポワドではシャリナに気取られないよう、密かに医者の診断を受けたものの、現状については今ひとつはっきりせず、症状が徐々に悪化しているという状況だった。
…言われなくても判る…同じ様な奴を何度も見て来たんだ。余命が短いなら尚更にやるべき事を早く納めねばならん。
シャリナに隠し事をするのは心底忍びなかったが、今後を思えば、あと少しの時間が必要だと自分を納得させた。
…カインを無事帰還させ、ブランピエールの世襲を完了させる。バルドの姫君が輿入れし、全ての盟約が成立すれば、ルポワドにも一応の安寧がもたらされるだろう...俺の騎士としての任務もこれで最後だ…
ファムドは時間をかけて触診と問診を行い、その症状からユーリを蝕む病巣を探り当てた。それはアドモスの懸念通りに深刻なものであったが、さりとて何かの治療が施せるわけではなく、ファムドの心は陰鬱になる。
…真実をこの方に告げるべきだろうか。
ファムドは躊躇った。放っておいて奇跡が起こる訳ではない…ならば、いっそ真実を告げ、悔いのない時を過ごすのが一番なのではないのか…
「…悩まんでいいぞ。」
ユーリが唐突に言った。
「あとどれだけ生きられる?判っているなら教えてくれ。」
ファムドは驚き、思わず固唾を飲んだ。
「知っておられたのですか?」
「ああ、随分前からな。」
「カイン君も…その事を?」
「全く知らん。妻にもまだ話しておらんくらいだ…」
「…そうでしたか。」
ファムドは納得し、眉根を寄せて瞼を伏した。
「私の判断では一年ほど…ですが、僅かであれば延命は可能かも知れません。」
「延命?」
「はい。祖国の書物に効果があるとされる記述がありますので、期待は持てるのではないかと…」
「それは真実なのか?」
「絶対とは申せませんが、記述通りであれば…」
ユーリは唸った。一年はあまりに短すぎる…後始末には全く足りない…
「出来得るなら延命はしたい…どうすれば良い?」
ファムドはゆっくりと立ち上がり、書物のある棚に手を伸ばした。
しばし無言で書物に目を走らせ、やがてユーリへと向き直る。
「少し時を戴きたい…薬物に必要な材料の確保と、生成のための時間が必要なのです。」
「俺がバルドに渡り、生きて戻れる頃には完成しているか?」
「勿論です。」
「そうか…それは助かる。」
ユーリはファムドに向かって微笑んだ。その表情には安堵の様子が浮かんでいた。
…死期の宣告を受けたというのに…
ファムドは彼に心からの敬意を感じた。男爵はすでに覚悟を決めている…病に冒されながらも周囲を慮り、自らの使命を全うしようとしている。
「薬の生成については、配下の者に指示を出しておきます。ご安心ください。」
「感謝する、ファムド卿。」
ユーリは笑顔でファムドの手を握った。
…この手の温もりを生涯忘れまい…
ファムドはその誓いを心に刻んだ。
ルポワドの英雄『漆黒の狼』ユーリ・ド・アンペリエールの、鋭くも穏やかな眼差しとともに…
「バルドに参る!我に続け!」
王太子リュシアン・ダ・ルポワールは、居並ぶ騎士団に向かって号令を出した。
ルポワド、ネスバージ、ボルドーの各騎士達は膝を折り、深く首を垂れて恭順の意を表す。
高台にはアドモス王が立ち、悠然とその様子を静観していた。
元首リザエナ配下のボルドー軍も集結し、部隊の顔ぶれも出揃った。
「ようやくだ…待っていてくれ、マリアナ!」
カインが告げると、ヨルムドも黙ったまま頷いた。
和平協定のもと、三国の騎士達は同じ旗を掲げて出立した。
向かうは『王都ベルセド』…バルド帝国の中心地だ。
つづく