口の使い道
ある日急にニシが喋り始めたため、私はほとほと困り果てている。初めにその旨を報告してきたのは、先月入社したばかりのミホちゃん。ロビーから517号室へルームサービスへ向かう途中、誰もいないエレベーターで「このホテルから出たいわ」という声が聞こえたのだ、という話を聞いた時、私はすぐにニシが約束を破ったのだと思った。聞き間違いかもしれない、疲れているのだから少し休みなさいとミホちゃんを言いくるめたはよいが、なんにせよお客様に聞かれる前に、支配人たる私がなんとかしなくてはならないだろう。
ニシは、当ビジネスホテルの西側エレベーターである。彼女が人の言葉を話すことは導入当初からわかっていたのだが、そのことが私にばれたとき、「決して迷惑はかけないからここに置いてほしいの」と、そのあまり恵まれたとはいえない身の上話を始めたものだから、私はついつい承知してしまったのだ。宿泊者が少ない日の夜更けを狙って、私は西側エレベーターへと向かった。
「こんばんは」
「……」
目の前の窓から、しんとした館内に月の光がさしている。
「どうしてまたこの頃になって、私を困らせるんだい」
隣でしゃがみこんだ私にニシが久方ぶりの声を聞かせた。
「こうでもしないと、あなた、こちらに来ないじゃない」
私は答える。
「支配人室が東側にあるからね。どうしても向こう側にいることの方が多いのだ」
「そうね」
ニシは何か話したいことのある素振りで、それでも一向に口を開かないので、私はとうとう立ち上がった。
「明日の晩、またここへ来る。何か言いたいことがあるのなら、それまでにまとめておいてくれ。君は十年以上、優秀なエレベーターとして働いてくらている。支配人として、できる限りのことをしよう」
翌晩、私は彼女との約束を果たすことができなかった。「失礼します」几帳面なノックで支配人室に現れたのは、スタッフ層ではベテランの幸村くんである。日報を取りまとめ、提出に来たのだ。
「お体の具合はいかがですか」
「問題無いさ」
夕方から急に気分が悪くなった私を気遣って、幸村くんは「やはり入院しては」と続けた。
私は癌である。入院したら、このホテルに戻ることは無いだろう。無理を言ってその日を先送りにしているのだ。
幸村くんは躊躇いながら続けた。
「差し出がましいようですが…スタッフは皆、山本さんを心配しています。それに、あの西側エレベーターも」
私は寸の間息をとめた。
「知っていたのか」
ええ、と幸村くんはうなずく。
「最近ですがね、私どもが彼女を認識したのは。お気を悪くされないでいただきたいのですが…西側エレベーターで、2人のスタッフが山本さんの話をしていたそうです、その、お身体の具合を心配して。それを聞いた彼女が、そのスタッフに思わず声をかけてしまったようです」
うーん、と私は唸った。してみると彼女が私に言いたかったことは、癌のことだろう。私との約束を律儀に守り、ずうっと口を聞かず二十年もこつこつ働いたエレベーターが、人の命を心配している。私はなんだか急いた気がしてきて、やはりどうしても今夜の約束を守りたい思いに駆られたが、もう意思と体をつなぐ回線は思うように動かず、どうしても今夜は動かれないのであった。
*
その後このビジネスホテルが立つ地区は、山本の退任と合わせたように過疎が進んだ。それでも取り壊しの日には幾人か集まり写真などを撮っていたが、エレベーターを撮る者はいない。エレベーターが思う唯一の後悔は、あの晩にすべて話してしまわなかったことである。彼女の希望は、いま支配人が横たわる病院で、もう暫くの間エレベーターとして働くことだった。しかしもう遅い。取り壊しは決まってしまった。段々と歯車などになっていく過程で、感謝すら十分に伝えられなかったことを彼女は悔いた。しかしもう彼女に口は無い。