白雪姫 前編
むかしむかし、ある国に、ひとりの王妃様がいました。
雪の降る夜、身重の王妃様は刺繍をしている時、誤って針で刺してしまった指から滲んだ血を見てつぶやきました。
「あの雪のように白く、黒檀のように黒く、そしてこの血のように赤い子供が欲しいわ」
時は満ち、王妃様はお姫さまをお産みになられました。ですが産後の肥立ちが悪く、王妃様はそのままかえらぬ人となってしまわれたのです。
王様はたいそうお嘆きになられましたが、"白雪"と名付けられた幼い姫に寂しい思いをさせてはならぬ、と新しい王妃様をお迎えになられました。
ですがその王妃様は魔女だったのです。
何年経ったことでしょう。王妃様はいつものように魔法の鏡に問いかけました。
「鏡よ鏡。この世で最も美しいのはだぁれ?」
「それは王妃様、あなたです」
鏡はいつもならそう答えてくれるはずでした。ですが今日は。
「昨日までは王妃様。ですが今日からはあなたの義娘、白雪姫。彼女がこの世で最も美しい」
雪のように白い肌、黒檀のように黒い髪、そして血のように赤い唇の白雪姫は、いまや国中にその美しさを知られるようになっていたのです。
王妃様は怒り狂い、狩人に白雪姫を殺してしまうようお命じになられました。
断れば狩人の命はありません。狩人は哀れをもよおしつつも、言葉巧みに白雪姫を人の寄りつかない森に誘い出しました。
*
目に痛い朱金の光を撒き散らしながら、夕日が沈んでいく。
黒々と濡れた大きな目をすがめて空を仰いでから、白雪姫は先を歩く狩人に声をかけた。
「ねぇ、もう陽が沈んでしまうわ。どこまで行くの?」
無邪気な、けれど不安を滲ませた声に狩人は足を止め、振り返った。彼の手には使い込まれた猟銃。その銃口はまっすぐ白雪姫に向けられている。
白雪姫は笑おうとして失敗したような表情を浮かべた。唇は歪な笑みを刻んでいるのに、彼女の目からは大粒の涙がいくつも零れ落ちる。
「…お、お義母さまに命じられたのね…?」
狩人は肩を波打たせた。
城中で、王妃が白雪姫につらく当たっている事は下仕えですら知っている。日に日に美しくなる白雪姫に王妃が嫉妬しているのだともっぱらの噂だ。
いや、噂ではない。真実なのだ。そして嫉妬から、王妃は義娘である白雪姫を殺すよう狩人に命じたのだから。
「わたし、…お義母さまのお気に触れるような事、何かしているの…?お義母さまはどうしてわたしを疎んじられるの…?わたしはお義母さまを本当のお母様のようにお慕いしているのに…!」
血を吐くように叫ぶと、白雪姫はその場に突っ伏して泣き始めてしまった。
白雪姫に罪は無い。せめて苦しまぬように、と狩人は引き金に指をかけた。
銃声が森にこだまする。
むくり、と白雪姫は上半身を起こすと、涙の痕も新しいままに、不機嫌そうに周囲を見回した。
硝煙の漂う短銃を手にした騎士が、鬱蒼とした木立をかき分け白雪姫の前に現れる。
「お怪我はありませんか」
「怪我はないけれど、ランスロット?どうしてもっと早いタイミングで登場できなかったのかしら?嘘泣きって結構疲れるのよ」
狩人の死体を前に、しかめ面の白雪姫は動揺する素振りも無く立ち上がると、ドレスの汚れを払った。
「申し訳ありません。姫の三文芝居があまりにひどくて。…よく騙されてくれましたね」
「素人童貞なんじゃないの?女の嘘と涙にコロっといっちゃう」
「…姫、どこでそんな言葉おぼえてくるんですか。箱入り王女の設定はどこにいったんです」
「女ばっかりの環境で耳そばだててればそういう単語の勉強には事欠かないわよ。城中では設定に忠実に行動してます。そこは安心なさいな」
清楚で可憐、無垢で無知な美貌の姫。城のみならず、近隣諸国でも白雪姫はそういう評判で通っている。しかし乳兄弟でもあり、物心つくころから傍にいたランスロットの前では、彼女はえげつない本性を露わにする。
白雪姫の「素」を知っているのは、城中でも片手で足りるくらいの人数だ。父である国王の前でも、彼女は鍛え上げた猫を一部の隙も無く着こなしているのだから驚きだ。
王妃は白雪姫の性質を噂通りだと信じきっている。自身の継子暗殺の計画が、当の白雪姫に漏れ、尚且つ利用されているなど考えてもいまい。
「で、姫。これからどうなさるのですか。ついに王妃は王国継嗣であらせられるあなたを弑逆しようとまでしてきた。私が証人になります。告発されますか」
ランスロットが短銃を収めながら問うと、即断即決の白雪姫はしかし、「うーん」と首を傾げた。
「もうちょっと話題性が欲しいかなぁ…」
「継子殺しって結構な衝撃だと思いますが。あなた一応王族ですよ」
ランスロットがものすごく真っ当に突っ込むが、白雪姫は聞いてない。いつものことだ。
「森の奥にさ、叔父さまからまるっと頂いた諜報員たちがいるの、ランス知ってるわよね。取り敢えずそこに身を隠すから。ランス、わたしが死んだって事で、いい?」
「…いい?って…。あぁ、いいですよ。そういうふうに王妃に報告すればよろしいのですね」
「うん。マダムキラー、がーんばっ!」
「…あなたが継嗣で女性じゃなかったら、顔のかたち変わるまで殴ってるんですけどね」
乳兄弟に義母をたらし込めとか言う王女、…どうなんだろう。
*
狩人は白雪姫を哀れみ、そのまま森に逃がしてやりました。
森を彷徨っていた白雪姫は、偶然小さな家を見つけます。くたくたに疲れていた姫は、気付けば七つ並んだ小さなベッドで眠ってしまいました。
森での仕事を終え、家に帰ってきた七人の小人たちは、ベッドで眠る美しい少女の姿に驚きました。
目覚めた姫は、涙ながらにそれまでの出来事を話し、どうかここにおいて欲しいと小人たちにお願いしました。
小人たちは白雪姫が可哀想になり、家事仕事と引き換えに彼女をかくまう事にしてあげたのです。
*
「なんというか…、よくこれだけの情報が集まるものよねぇ。…えぇっと、"照れ屋"…?」
大陸中の国の情報がこれでもかと記載された書籍の量に圧倒されながら、白雪姫は顔を下に向けた。そうしないと視線が合わないのだ。なにせ相手は小柄な白雪姫の胸までしか身長が無いのだから。
しかしその容姿は片眼鏡をかけた中年男性のもの。明らかにアンバランスだ。
「"先生"です、白雪姫。まぁそれも王弟殿下がふざけ半分でつけた呼び名でございますれば。皆、最初はその呼び名に相応しい振る舞いを心掛けておりましたが、正直疲れました」
「王弟殿下っておかしなこだわりをお持ちだったものね」
自分の事は棚の向こうにおいて、白雪姫は溜息を吐いた。
白雪姫の叔父、つまり現国王の実弟は飛び抜けた頭脳と突拍子の無い性格の持ち主だった。白雪姫は義母に頭の上がらない父王より、叔父との思い出の方が多い。
かつて叔父は兄である国王を排し、自身が王位に就こうと画策し、幽閉されたという。
「決して近づいては行けない」と言われれば行きたくなるというもの。幼い白雪姫は、すでにその頃にはいろいろ諦観したランスロットと共に、叔父の幽閉されている離れにちょくちょく足を運んでいた。
弟があまりに優秀だったから、国王を擁する者達が罠に嵌めたのだというもっぱらの噂だったが、叔父本人がそれを否定した。
「だって、あんな女の尻に敷かれているお人好しで気弱な兄上より、僕の方が王に相応しいよ。うーん、もうちょっとでうまくいくところだったんだけどねぇ」
離れの衛士はすでに叔父の舌先三寸で籠絡済みだ。ロッキングチェアに腰掛けた叔父の膝の上は白雪姫のお気に入りの場所だった。
「まぁ僕身体弱いから、激務に耐えれるかって言われれば自信無いけど。飽きずに叛乱起こしとくべきだったかなぁ。あの女はまずいよ。ちょっと調べるだけでもまぁ出てくる出てくる。遠くないうちにこの国はあの魔女に食いつぶされるよ」
ゆらゆらと前後に揺れながら叔父はうんうん緩く唸っていたが、やがて「うん」とひとつ頷いた。
その日から叔父は己の知識、人脈、その他もろもろ。君主に必要だと思われる――叔父の独断と偏見含む――ものを白雪姫に叩き込んだ。
王妃の不興を買う事を恐れて、宮廷人はあまり白雪姫に接触しようとはしなかった。当時の白雪姫はその名の通り、まっさらな新雪のような少女で、常識に照らせば耳を疑う叔父の教えもすんなりと呑み込んだ。
白雪姫の現在のえげつない気性はここに端を発する。そしてランスロットの苦労気質も。
叔父は白雪姫が12歳になる前に他界した。
「さぁ後は君次第だ、僕の白雪姫。この国の未来は君の采配ひとつ。最高じゃないか」
そう言い残して。
この森深く住まう「七人の小人」―――原住民の末裔である異形の彼らも叔父から受け継いだもの。一体どんな経緯で叔父のもとに降ったのか尋ねた事があったが、七人一斉に青褪め口を噤んでしまった。さすがの白雪姫もその様を前に、しつこく追及できなかった。
王妃とその周辺に関する情報に目を通していると、書庫の扉が開かれた。顔を覗かせたのは、"先生"よりいささか若いが、やはり子供ほどしか身の丈の無い青年だ。
「…"眠り屋"?」
「当たりです。でも俺不眠症です」
「ああ…」
本当に叔父は適当につけたんだろうなぁ、と白雪姫は思った。
「城に潜らせてる奴から連絡きました。白雪姫が失踪したっていう事で、捜索隊が組織されたそうです」
「王妃がほくそ笑んでそうね。あの人、わたしが死んでるって思ってるんだもの。影で舌を出していそうだわ」
なんの感慨も無くつぶやいた白雪姫とは対照的に、"先生"は渋面を浮かべた。
「疑われない、とお思いですか。白雪姫」
苦労を知らない繊細な細腕に、次々と書籍を抱えながら、白雪姫は首を傾げた。
「その為におつむが年中春の振りをしてきたのよ?それにランスロットがうまくやってくれるでしょう」
「マダムキラーが?」
「マダムキラーが」
"眠り屋"に、白雪姫はにっこりと微笑みかけた。ランスロットが白雪姫の信頼を裏切ったことは無い。これまでも、そしてこれからも。
「でもさ、ランスって床上手って感じしないわよね。むしろ男マグロっていうか」
―――「こらあぁぁぁ!!」
白雪姫の年若い少女のものとは思えない暴言に、ふたりの小人は書庫が震えるほどの大音量で突っ込まざるを得なかった。
*
白雪姫失踪の報せに、ここしばらく不調が続いていた国王がついに倒れた。継嗣の不在に、王の側近い地位にある貴族たちは国家の最高権力を得るために権謀術策を巡らせる。
皆が浮足立つ城内でランスロットはひとり、王妃のもとを訪ねた。
心得た侍女が、彼をすぐに奥の間に通す。
「…おお、ランス」
はるか西方から取り寄せたという茶を楽しんでいた王妃は喜色満面で立ち上がり、人払いをした。
「…それで、首尾はどうじゃ?」
いささかとうがたったが、今現在も華やかな美しさを誇る王妃は、毒々しいまでに紅く塗った唇でランスロットに囁いた。
「ご命令通り、狩人は私が始末いたしました。御所望でした白雪姫の心臓も、事情を知らぬ料理人に渡してございます」
「若い娘の心臓は美の妙薬になるでの。…ほんにそなたは忠義者よのぅ」
うっとりとつぶやいて、王妃はランスロットの耳朶を甘く噛んだ。
溜息を押し殺し、ランスロットは王妃の背中に腕をまわした。