朔夜が死んだ日
「ワシは春鹿を買ってこいといったんじゃあ?誰が萬穣なんぞ買うてこい言うたぁ?こんのクソガキはぁ!?」
そうしゃがれた声で男は少年を怒鳴ると酒が入った一升瓶を、恐怖で萎縮している少年の足元に投げつけた。
一升瓶はガシャンと断末魔にガシャンと音を上げて中の酒をぶちまけた。
その音に少年――三条朔夜はビクッと肩を震わせ壁にもたれて座り込んだ。
薄汚れた紫色のTシャツやハーフパンツから覗く、垢で汚れた腕と足にはいくつもの痣が浮かんでいる。
茶色い髪の毛はばさばさで目は虚ろな色を浮かべていて、まさに生気がないといった状態だ。
「ごめんなさい……」
「やかましいわ?おどれは黙っとれ?」
―謝らなかったら殴るくせに……。
思わず口から飛び出そうになった不満を喉でなんとか止めて朔夜は服に負け劣らず汚れた冷たい床に座り込んだ。
―どうして、こんなことに。
始まりは父の事業が失敗したことだった。
まだ中学2年生だった朔夜には父がなんの会社をしていたとかどうしてそんな失敗をしたのかは興味がなかったため知らなかったが、それでもとにかく大きな借金を抱えてしまったということだけは知っていた。
住んでいた家は競売にかけられ、三条家は隣町のアパートに住むようになった。
それでも、まだ父母兄妹の四人家族で仲良く細々と暮らせていた。
父はハローワークに通い、母は近所のスーパーでレジ打ち。朔夜とその妹も新聞配達のアルバイトをした。
だが、高校卒業すぐに働き始めた父には仕事がなかなか見つからず、ほぼ毎日家で酒を飲むようになっていった。
母は「会社がつぶれたショックが大きいのよ」とそんな父を責めようとはしなかった。
妹も母と同じ考えなのかそれとも反抗期なのか父には一切関わろうとしなかったし、朔夜も変に関わるのがめんどくさかったため父と関わろうとしなかった。
それから3年、朔夜が高校1年生になり飲食店でバイトを始めたときだった、事件が起きたのは。
夏のある日、妹が自室で首吊り自殺をしたのだ。
朔夜がバイトに行っている間に首を吊ったらしく、朔夜が妹を見つけた時にはすでに事切れていた。
それからだ、娘の自殺により精神を病んだ母は父に今までの不満をぶちまけ父も娘が死んだのはお前のせいだと母を怒鳴り散らし何時しか夫婦喧嘩が耐えなくなっていた。
変に関わって夫婦喧嘩のとばっちりを食らうのは嫌だったが、それ以上にもうすべてがめんどくさくなった朔夜はバイトにも学校にも行かなくなり一日中父のように家に引きこもるようになった。
3ヶ月ぐらい経つといつの間にか母は家からいなくなっていた。ひび割れたちゃぶ台に置いてあった手紙によると実家に帰ったらしい。
「もうこんな生活には耐えられません。私は実家に帰ります。離婚します。貴方の血を引いた息子を育てたくないので朔夜の親権は貴方に差し上げます」
その手紙を読んだ父はそれを破り捨て「ワシだってお前みたいなクソアマの血を引いた息子なんぞ育てたないわ!!」と怒鳴り散らした。
だが、生活力も働く気もない父は一通り家事ができて働くこともできる息子を捨てるのは惜しかったのか家から追い出すような真似はしなかった。
口先だけか、と野宿生活をするはめになるかもしれないことを心配していた朔夜が安心したのも束の間、父は朔夜に暴力を振るうようになった。
今まで母と喧嘩するのに使っていたパワーが有り余っているのか、そんなパワーがあるなら働けよと朔夜は内心思っていたがめんどくさかったので逆らうような真似も児童相談所に通報するような真似もしなかった。
今更どうあがいても運命は変わらない、虐待を受けた可哀想な男の子というレッテルを貼られて周りから腫れ物に触れるような扱いをされるだけだ――たとえ歯がへし折られようとも、指をおられようとも、火がついたタバコを腕に押し付けれても朔夜は抵抗しなかった。
――寝よう、寝て父の気が収まるまで待とう。
そう思い、目を閉じた瞬間だった。
突如ガッと首元に激しい衝撃が走り、大きな音を立てて朔夜は床に頭をぶつけた。
首に触れるガサガサとした生暖かい感触が、父の手のひらだと気づくのにはそう時間がかからなかった。
「おっ……とうさ……ん」
ぎりぎりと徐々に締め付ける力を強める父の手を振り払おうと父の手首に必死で朔夜は爪を立てる。
酸素が取り込めず、目に大粒の涙が浮かび視界がぼやけ出す。
「お前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前が」
ポトリと涙の雫がこぼれ落ちると、ぶつぶつと念仏のようにお前がと繰り返す父の姿が目に入った。
酒臭い息に思わず胃液が喉元まで這い上がってきたが、首を絞められているせいで口から吐きでることはなかった。
朔夜を睨みつける父の目はまるで人形のような、生気が宿っていない目だった。
――もう、どうでもいいや。
めんどくさい、もう死んでもいい、そう覚悟を決めた朔夜は父の手首から手を離した。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
――ああ、死んでやる。
「死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ死んでしまえ」
――妹が自殺した理由だけ……知りたかったな……。
深い深い海の底へ落ちていく感覚に包まれ、朔夜の目の前は真っ暗になった。
ふわりと優しい風が朔夜の頬を撫でた。
足元には色とりどりの花々が咲き乱れている。
目の前には澄んだ川が静かに流れている。
――僕、死んだんだ。
目の前の川はおそらく三途の川だろう。
臨死体験でよく語られる賽の河原という場所に違いない。
「……あの川を渡ったら……あの世なのかな」
ゴクリと唾を飲み込み足元の花をなるべく踏まないように一歩踏み出そうとしたそのときだ。
不意に、後ろから凛とした声が飛んできた。
「君は、妹が自殺した理由を知りたくはないのか?」
「……誰?」
その言葉にぴくりと足を止めくるりと声のした方へ向き直る。
数mほど離れた場所に、白く長い髪を生やした男がいた。
「妹が自殺した理由を知りたいんだろう」
「知りたくないよ……もうめんどくさい……」
「……さすが怠惰の罪を犯して死んだだけあるな……だが、本当は知りたいのだろう」
怠惰の罪って何、そう問いかけようとしたときブワッと激しい風が朔夜の体を包み込んだ。
「まぁ、長話は若いもんは嫌いだろうしとりあえずあの子たちの元へ送ってやろう……そこで説明を聞け」
より一層強い風が朔夜に吹き当たったかと思うと、再び朔夜の目の前は真っ暗になった。
「あーきたきた。飛んできた。荒々しいね」
「……随分と手荒な運び方ですねぇ」
「……大丈夫かなぁ……神様ももうちょっと運び方考えてあげられないのかな……」
「私の動きを止めるために手足を切り落としたメグリとレイトとセレスは人のこと言えないと思うけど」
「ふふっまぁツンデレのツンだと思えばいいと思うよ」
「うーんとりあえず落ちてきたとき用にクッション用意しといた方がよくないかな」