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Since711AD  作者: 胡堂 瞬
8/13

松花堂

     一


 三人は八時過ぎには京都駅に着き、少し時間を調整して二〇分に店に入った。観名でも名を知っている料亭の支店だった。

 個室でぼそぼそと話しながら待っていると、八時三〇分ちょうどに淡いピンクのスーツを着た老女が現れた。由加里が素早く座布団から降りて畳に手をついた。観名も慌ててそれに倣う。

「お疲れ様」

 老女が席に着くと、すぐに仲居が新しい茶を運んできた。

「お酒はいま何があるの?」

「八海山と賀茂鶴です」

 由加里が仲居より先に答えた。予約を入れたのに由加里がメニューを念入りにチェックしていた理由がわかった。

「賀茂鶴を頂戴。由加里、あんたはビール?」

「はいっ」

「猪口は四つ持ってきてね、この子たちお清めが必要だから」

 手の皺の具合から、かなりの歳であることは何となく解ったが、声に非常に力があった。

 冷酒の容器が運ばれてくると、老女が全員に酒を注いだ。

「赤穂稲荷さんの見習い巫女って言ったね?」

 老女が眼鏡を外しながら言った。

「はい。等々力観名です。はじめまして」

「私は布施チヌ、美夜子の母親だよ。養母だけどね」

 チヌはそう言ってグラスの半分ほどをひと口で飲んだ、美夜子と由加里も頂く仕草をしたので、観名も両手で捧げ持って、唇だけつけた。チヌさんは母親と言うより祖母にしか見えないが、それは法律上のことだ。

 胡麻豆腐と、海老しんじょの椀が来た。

「どうせろくな物食べてないんだろ、しっかり食べておきなさいよ」

「コンビニか、良くてスーパーのお総菜です」

「それじゃあんたに付いてもらってる意味がないじゃないの」

「いやー。追っかけるってのが意外に大変で。時間食いますよー、今回の仕事」

「無理は承知の上で頼んできたんだろうからね、そっちに直接何か言ってきたわけじゃないでしょ?」

「別にないですけどー。明らかにケムたがられてますよ」

 観名には何のことだか解らなかった。

「美夜子。こっち来て四日だったかい? 何回?」

「今日を入れて確実なのが一回、何だか解らないのが三回」

 美夜子が答えた。たぶん追っている狐と接触した回数のことだろうと観名は思った。

「上出来とも不出来とも、何とも言えないね。追えているのかい?」

「気配を絶たれると何日も見つからないわ。でも観名のおかげで何となく居場所の見当はついたわ」

「それで乗り込んで、返り討ちにあってたら意味がないじゃないか」

「スイマセン。私が迂闊でした」

 由加里が頭を下げた。

「まあ、実体があるのかないのかわからない狐を相手にするのはこれが初めてだからね。失敗もあるだろうさ」

 松花堂弁当の本体が来た。塗りの箱の中に煮物や焼き物の小鉢が四つ入っている。美夜子がこれをどう扱うのだろうと心配していると、由加里が箱の中に収まっている皿の形と盛られている料理を説明していた。皿の形がそれぞれ違うので区別できる。

「筍は、丁度良い時期だねぇ」

 弁当を完食して、抹茶のムースにアイスクリームのデザートまで食べると、観名はさすがにスカートがきつく感じた。

「どうやって由加里が憑かれたのか、手口はわかるかい?」

 由加里が最後に残った酒をチヌの猪口に注ぐと、チヌが言った。

「いいえ……。わからないわ」

 美夜子がアイスクリームの匙を慎重に扱いながら言った。

「その時御霊符は持っていたの?」

 観名がしばらく考えて言った。

「持っていませんでした。カバン……。車に置いてました」

「あ、そうだ。そう言えばあの時観名は手ぶらだったね」

「だとすれば御霊符は関係なくて目的は由加里だったってことになるけど。それじゃ意味が解らないね」

「まあ、私だけ巫女じゃありませんから……」

 由加里がビールを少しずつ飲みながら言った、やはり体調はいまひとつ良くないようだ。

「それじゃあんた操ってどっちか襲うって、手間のかかることやろうとしたのかね?」

「観名の姿見たら、いきなり制御きかなくなりました」

 観名は、座布団を通して血液が抜け出していくような気がした。由加里を操っていた何かは、もしかすると観名の命を狙っていたのだろうか。

「犯人が藤森さんの巫女だったとしてもだよ、まあ伏見さんに恨み持ってるのはわかるけど。火を付けるようなことするはずがないと思うんだけどねぇ……」

「しかも私たちが何をしているのか。知っている人は凄く少ないはずよ」

「だいねー」

 由加里は油断すると群馬弁が出るらしい。

「伏見さんに悪さしているのと、京都駅で何かやらかしたのは別のだってこと。ないのかい?」

 美夜子が首を傾げ、しばらく考えていた。

「そう言えば、駅であれだけ凄いことできたのに。伏見さんでやったことがあまりに小さいわね」

「相手がはっきりわからないんじゃ、ここで考えたって意味はなさそうだね。ところで、観名さん。赤穂稲荷さんはあなたのところの一族がご奉仕しているんだね?」

「はいっ」

 突然話が自分に向いたので、観名は慌てて姿勢を正した。

「今は、祖父と叔母が勤めています。母は、結婚して家を出ました」

「今は叔母さんが、サニハを勤めているんだね」

「はい。もうすぐ、……再来年くらいに私が交代することになっています」

「お母様はサニハを勤めたことはおあり?」

「いえ、知りません」

 母が巫女を勤めていたことも、中学に入った頃初めて聞かされたくらいなのだ。そこで初めて思い当たった。自分は母の代わりに赤穂神社に入れられたのだろうか。

「赤穂天満宮さんのご鎮座は何年?」

「きゅ……、九〇三年ですけど。一一八一年に遷座して今の場所です。そこに……、赤穂稲荷の元になったアコ様がそこには先にいらして。摂社のようになりました」

 不意を突かれて手に汗をかいたが、答えることができた。

「あなたの家は、いつからご奉仕してるの?」

「遷座した時からだと聞いたことがありますけど、詳しいことはわかりません」

 食後のお茶が持ってこられたので、話しはしばらく中断した。

「もしかして、赤穂稲荷さんには特別のお祭りがあるのじゃない?」

 観名は思わず膝の上で手を握りしめた。

「……あります」

「それは夜中にやるでしょ?」

「はい」

 何故チヌさんは知っているのだろう。

「何でご存じなんです?」

 顔が真っ赤になっている由加里が、観名の代わりに質問してくれた。しかし由加里より多く飲んでいるはずのチヌは平然としている。

「サニハがいて稲荷社にアコって名前が付いてたら、愛染寺と阿古女さんの関係だよ。阿古女さんは夕暮れの巫女だからね。祭事は全部夜なんだよ」

 美夜子がアイスクリームを探っていた匙を停めた。何かを言いたそうにしていたが、先に観名が言った。

「あの……。あこめさんの名前は叔母から聞いたことはありますけど、どんな方だったんですか?」

「阿古女って名前が師弟関係で受け継がれたのか、それともどこかで神狐になられたのか、知りようもないんだけどね……」

 チヌは座椅子にもたれて少し目を閉じた。そうすると急に本来の年齢が滲んで見えるような気がした。

「阿古女さんは応仁の乱で伏見稲荷が焼けた時に、社殿を再建するためにいろいろ働いた歩きの巫女らしいんだ。でも伏見稲荷の歴史を調べているとね、その前から百年二百年じゃ効かないくらい、あっちこっちに名前が出てくるんだよ。で、今度は武蔵の国にもいるようだし……」

「赤穂稲荷は、アコ様のお塚だそうです。悪い狐と戦って相打ちになったらしいです」

「また何か凄い話しになってるけど、まあ伝説なんてそんな物だね。……でもそうすると阿古女さんは一一八一年には、とっくに死んでたことになるね」

 チヌが苦笑しながら言った。美夜子が相変わらず何かを言いたそうにしていたが、タイミングをつかめずにいる。

「等々力は、お父様の姓だね。あなたの母親の旧姓は?」

「大西です」

「ずーっと大西家がご奉仕?」

「はい」

「ふーん……」

 チヌは観名が不安になるほど顔を見つめた。

「あの……、観名に……。何かあるのですか?」

 由加里が聞くと、チヌはゆっくり最後の日本酒を飲み干した。

「もしかすると観名さんは、秦の血筋かもしれないよ」

「え?」

「阿古女さんと縁がある稲荷があって、サニハがいるってことは愛染寺と関係がある。これだけいろいろ条件が揃っているのに秦と何の関係もなかったらそっちの方が不思議だよ」

「秦って……。伏見稲荷を作った人たちですか?」

「それも大西は、伏見稲荷の社家筋にある姓だよ」

「うそー!」

「古くからの家なんだから、血筋の人間なんて日本に何万人だっているよ。別にどうってことはないさ。……もしかすると、天満宮が遷座して観名さんの家が社家になったのは、アコ様のために行われたのかも知れないね。しかし何か変だけど」

「何が?」

 美夜子がようやく口をはさんだ。

「御旅所とか、稲荷社本体でない付属のものは荷田の家が取り仕切って、愛染寺はまた独立した組織だったはずなんだけどね。末裔とは言っても秦の血を引く娘がサニハをやっているってところが、何か腑に落ちないんだよね」

「それと、観名が狙われたことって……関係あるんですか?」

「まだ解らないね。狐ふん捕まえて聞き出すしかない」

「観名が……」

 美夜子が言った。

「最初に襲われた時に、木の葉の呪物を仕掛けられていたわ。最初は御霊符が目的だったけど、その時観名が何物かわかって、狙いを変えたのかも知れないわね」

「それは、あるかも知れないねぇ」

 高崎から持ってきた物があると言うので、三人はチヌの部屋に行った。

「それをカバンごと持って行って」

「これぇ……。もしかして『お式』ですか?」

 美夜子がぴくんと反応した。

「下手すりゃ小烏(こがらす)使うことになるよ」

「あー。そうですねぇ」

 観名は、チヌがテーブルの上に封筒を滑らせ、由加里がそれを押し頂くところを見てしまった。

「そう言えば、この騒ぎの元になった御霊符。持ってきているかい?」

「はい」

 観名が慌ててバッグから風呂敷包みを取り出す。風呂敷を解いて箱ごとチヌの前に差し出した。チヌは箱に向かって合掌してから蓋を開け、御霊符を取り出した。

「ふーん。確かに文久三年愛染寺と書いてあるね。これに入ってた眷属が悪さしたんだね」

「はい」

 チヌは眼鏡をかけて御霊符を見つめ、それから文書の方をもう一度見直した。

「この、正一位の文書とね。ダキニさんは関係ないよ」

「え?」

「もちろん愛染寺とダキニ天は切っても切れないけど。この勧請文書と、ダキニさんの御霊符は別々に来て一緒の祠に納まったんだろうね。観名さん、祠には他に何か入っていなかったの?」

「あとは幣帛だけでした。あの……。宮司も、他に白木の何かがあるはずだと言っていました」

「うーん。やはり解ってたんだねぇ。それは見つからなかったんだね」

「はい」

「それじゃおかしなことになって当たり前だね。眷属も困るはずだ、……そう言えば狐はどうなったの?」

「観名の携帯に入っているわ」

 美夜子が言うと、さすがにチヌの表情が変わった。

「また、とんでもない時代になったもんだねぇ。まるで管狐じゃないか」

「話し……、できますよ」

 観名が狐憑き携帯を取り出した。

「美夜子。あんたは話してみたのかい?」

「ええ。名前も聞きました」

「じゃ私はいいよ。眷属と話していられるほど体力ないからね」

「観名。その狐、阿古女さんにあなたを護るように命令されたって言っていたわね」

「はい。そうです」

 チヌが箱を取り落としそうになった。

「何でそれを先に言わないんだい!」

「……済みません」

「まだ……、阿古女さんはいらしたんだね。もう完全に神狐だよ。しかも護れって言ったってことは、あんたは間違いなく秦の子孫だよ」

 美夜子とだけ話しがあると言われて由加里と観名は先に部屋を出され、カバンを持ってロビーで待つことになった。

「あーあ。やっぱりか……。美夜子かわいそぉ……」

 ロビーのソファで、由加里が強烈に酒くさいため息をついた。

「美夜子さん、説教ですか?」

「んー。今回は私も責任あるからねー、辛いわー」

 由加里は座っていても体が揺らいでいた。

「あの……『お式』って、何ですか?」

「んー? これわぁねぇ……サニハの装束。これ着てやるのもお式って呼ぶみたいよ」

「あの……真っ黒いの。ですか?」

「そお……真っ黒。カラス、イカスミ……」

「一回だけですけど。着たことあります」


 部屋に残された美夜子はベッドに座されていた、チヌは窮屈な椅子に腰掛けた。

「どこで何を使ったのか、全部説明しなさい」

 声はさして厳しくはないが、美夜子は杖を抱くようにして身を縮めた。

「三日前の夜に……稲荷御旅所まで気配を追って、野狐加持作法(やこかじさほう)で……。その時はお鎮め抜き合わす前に逃げました」

「何でそこで野狐加持作法なの? ただの野狐じゃないって知ってるじゃないか。そんなもの効くかどうか怪しいもんだって解るだろ」

「……作法通り、です」

「普通の相手じゃないって最初に言ってるのに、何で決まった通りにしかできないの! 殴り合いのケンカするのに、右のコブシで頭殴りますよとか、いちいち相手に教えるバカがどこにいるの!」

「相手がわからないと……、何から始めていいのか解りません」

「解らなかったら測ればいいだろ。御旅所の狐はいつ測ったの?」

 美夜子は数回唇を動かした。声は出なかった。

「済みません……、測っていません」

「馬鹿! 作法通りにもできてないじゃないか!」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「私に謝ってどうなるの。相手がわからないから、ひとつ覚えみたいに野狐加持作法なんか持ち出すんだ。それで効いたら楽だって思ってたんだろ」

「楽するなんて思ってません」

「じゃ何で測っておかなかったの。測ってないから逃げられて、あげくに由加里と観名さんまで危ない目に遭わせちまったんだろ。それとも狐の測り方忘れたのかい」

「いえ……」

「人に憑いてないから測れないって、思っちゃったんだろ」

「……はい」

 美夜子がさらに身を縮めた、俯いた顔から水滴が落ちる。チヌはため息をついた。

「何でもやらない内から諦める癖、いつになったらやめるんだい」

「……済みません」

「そこで謝るんじゃない! ずっと同じことの繰り返しじゃないか。狐だってどんどん進化してるんだよ、まるでパソコンのウィルスみたいだよ。新しい何かが出てくれば狐はそれに取り憑いて新しいことを始めるってのに、こっちが何百年も前と同じ据え物斬りばかりやってたら勝てるわけないだろ」

 美夜子は顔を覆って泣き出してしまった。

「泣くんじゃない! いい年して!」

 怒鳴りつけてから、チヌは大きなため息をついて美夜子の横に座った。美夜子の髪を整えて肩を抱いた。

「お前が手を抜いているなんて思ってないよ、お前はただ臆病で不器用なんだ」

 由加里と観名が待ったのは、一〇分ほどでしかなかった。チヌが美夜子を連れてロビーまで降りてきた。

「由加里、あまり美夜子を甘やかさないでおくれ」

「えーっ? 美夜子シゴくのはチヌさんの仕事れすよぉー」

「私がいると、これは頼ろうとするからね。時々来て絞る位が一番良いんだよ」

「それでー。チヌさん、明日はどうなさいますかぁ?」

 由加里は眼がとろんとなっているが、マネージャーの勤めは忘れていない。

「明日は兵庫の方まで行ってくるよ」

「あー。そりゃー良かったですー」

「何がだい?」

「あ、いや……あのー。何つーかぁ。車がー、なっから|(凄く)小っちゃいですからー」

「この年で一日中車に乗って狐追いかけるなんて、できるわけないだろ。関節がバラバラになっちまうよ」

「ええー。ムリはなしゃららい方が、いいれすよれー」

「何かあんたの言い方って、刺さらないトゲがあるねぇ」

「いやぁー、そんな。気のせいですってばぁー。あははははは」

「ちょっと。由加里を連れて帰って、早く寝かせな。ベロベロになっちゃってるよ」

 観名は、美夜子の様子ばかりが気になっていた。京都駅から本光寺までの帰り道が、やたらに長く感じられた。

「ところで観名ぁ、あんた学校はー?」

 由加里一人だけがやけに喋っていた。

「もう卒業式があるだけですよ。その前にリハーサルありますけど」

「卒業式いつ?」

「三月三日です」

「あー、女子校だからか。観名きっと後輩にムシられるよー。あはははは」

「逃げます」




     二


 美夜子たちが夕方に本光寺に逃げ帰った頃、藤森神社では授与所を閉める準備が始まっていた。と言っても窓のシャッターを下ろすだけなので、巫女が一人いれば済むことだ。行事がなければ普段はひっそりとしている神社なので、ご奉仕以外の仕事で忙殺されることもない。

「並河さん」

 社殿の戸締まりを済ませてきた禰宜が声をかけてきた。

「はい」

「昼間、不二の水のところで何かあったみたいだけど。知ってる?」

「あー。何や騒いではった人たちいてましたけどぉ……」

 ここのただ一人の常勤巫女である並河貴子は、キーボードを叩きながら顔をちょっと上げた。

「柄杓とかみんなふっ飛んじゃって、結構大変だったらしいよ」

「あらぁー。そないなひどいことしてはったんですか? 困りますなぁ」

「ちょっと気を付けていてくれるかな?」

「気い付けはしますけどぉ……、うち一人じゃどないもできまへん」

「まあ……。そりゃそうだな」

 カードをリーダーに通して授与所を施錠し、倉庫の隅にある狭苦しいロッカールームで私服に着替えた。

 帰り際に一応、不二の水を見に行ってみたが。既に何事もなかったように整えられていた。齋館前に停めてあるプジョー二〇七にコートを着たまま乗り込むと、エンジンをかけてからセンターコンソールのノブを引いた。トランクが開き、屋根がその中に吸い込まれていく。プジョーはたちまちガブリオレに変身した。

 アイドリングするエンジン音に、貴子にしか聞こえない声が混じった。

「シくじ……、巫女……」

「なに言わはんの。タタキが来た言うから出したけど、境内を荒らしたらあかんって言うたやないの。そないに強いタタキやったん?」

 貴子はノイズに紛れて聞こえてくる声に、呟くように答えた。

「巫女……、フたり……」

「二人もおったん? それで手こずったんか?」

「巫女……、タタキ……」

「なに言いたいん? よーわからんわ」

 貴子がカーナビの画面に手をかざすと。操作もしていないのに画面はするするとスクロールし、京都駅に近い塩小路通りの一点を示した。

「何? ここ行け言うん?」

「早……いケ」

「うるさい」

 プジョーに乗った巫女は、河原町通りに出ると。髪をなびかせ、派手な排気音を立てて北に向かった。十五分ほどで京都駅ビルのパーキングタワーに到着すると、少なくなり始めた車を見て歩き、しばらくして参道入り口の監視カメラで見たパジェロミニを発見した。メモしたナンバーと同じであることを確認すると、貴子は車内を覗き込んだ。ドアノブに手をあててしばらく待った、何も起こらない。

「あら。法印されてるん?」

 『声』に問いかけてみたが、ここにはノイズがないので何も返っては来なかった。パジェロミニをよく調べる前に、場内の防犯カメラを探した。ここが写りそうなものを見つけると、しばらくそれを見つめながらバッグから竹筒を取り出した。

「あれ壊しといて」

 そう言うと竹筒に唇をあてて息を吹き込んだ。確かめる方法はないが、多分しばらくの間は故障しているはずだ。

 慎重にパジェロミニの車体とその周囲を調べて、やがて助手席のドアにはさまっている一本の長い髪の毛を発見した。両手で持って伸ばしてみると一メートル近くあった。恐らく背の高い方の髪だろう。何かにひっかかって抜けたらしく、都合の良いことに髪の根まで付いていた。

 貴子はその髪を、先端の方から左の人差し指に巻き付け、根の方が十センチほど自由になるようにした。その、紙を巻き付けた指を唇に当てると貴子は囁いた。

『きよみずやをとわのたきはつくるともうせたるもののいでぬことなし』

 三度くり返すと、その人差し指を宙に向けた。垂れていた髪の端が、蛇が首をもち上げるようにゆっくりと起きあがり、ある方向を向いた。

 エレベーターで一階に下りる間、機械音の中に声を聞いた。何か聴き取る前に一階に着いてしまった。髪が微かに指を引いていく力に従って貴子は塩小路を渡り、そのまま西堂院通りを北に向かって歩いた。一〇〇メートルも行かない内に立ち止まり、戻って木津屋橋通りを西に向かって歩いた。

 そして貴子は本光寺の前までたどり着いた。ティッシュを取り出して、指に巻き付けた髪を包んでバッグに入れた。後でまた役に立つかも知れない。

「……なして本光寺なん?」

 その区画を一周してみたが、中を伺うことはできなかった。近くの家で、通りに面した場所にエアコンの室外機が置かれていた。暖房で回しているのだろう、丁度良いノイズが出ていた。

「どないしたらええの?」

「結界……門……」

 室外機のモーター音に、『声』が混じった。

「ほな間違いなしってことやね? 確認できたならもう帰るで」

 しかしあの妙な三人が何をしに来たの、かさっぱり解らないことがひどく気にかかった。そのうち一人は白い杖を持った視覚障害者、もう一人は制服を着た女子高生。タタキ巫女が入ってきたと『声』に教えられてすぐに疑ったのは、黒いパンツスーツのショートヘアだった。漂わせている気配が不穏で、動きもおかしかった。

 言われるままに狐を管から解き放った結果があの騒ぎだった。一体何が起こったのか解らずに、呆然と見ていることしかできなかった。今にして思えば、授与所にいなければ良かったのだ。




     三


 高速道路や鉄道が整備された現在では、京都への物流を止めるということは非常に困難だ。しかし大量に物資を運ぶ手段が限られる時代では、淀川を船で運ぶか馬に乗せて、竹田街道・鳥羽街道などから運び入れるしかない。後は山科を通る道もあるが、物資を供給する大元としては大阪が最も大きい。そして稲荷社のある稲荷山からは、その全てが丸見えになるのだった。

 応仁元年の暮れのことである。応仁の乱が家の跡目争いから、もはや収拾のつかない戦乱となって都を本当の意味で炎上させていた時のことだ。数年前に稲荷社の祠官家に加わることになった羽倉出羽守という男がいた。現在の東西羽倉家の先祖であるらしい。荷田氏の出で、かなりいろいろな手を使って祠官の座を手に入れたらしい。

 その時の伏見深草のあたりは、軍勢は言ったり来たり通り過ぎてはいくものの。矢が飛ぶでもなく火の手が上がるでもなく、一種不思議な静けさの中にあった。とは言う物の、稲荷山に登って西を見れば、都からは何時になっても煙が立ちのぼっている。消えたかと思えば新たな煙が倍も立ちのぼるという具合で、都の民の苦難はいかばかりかと皆心を痛める日々であった。

 春も深まり、そろそろ今年の籾まきが始まろうとしている頃である。山科から山を越えて、多賀豊後守高忠の従者で細川氏の与党・骨皮左衛門尉道賢と名乗る武士がやって来た。現在の感覚からすれば非常に胡散臭いと言うより、ギャグのような名前であるが。本人はどうやら胡散臭いどころでは済む人物ではなかったようである。

 戦の広がりを恐れてか、古参の神官が勤務を休みがちになってしまい。その日は出羽守しか対応でできる人間がいなかった。

「それがし多賀豊後守様が所司代にございました折り、目付を仰せつかってヲりましてナ。勝元様ヨり呉服の織物と黄金作りの太刀を給いましてナ」

 あいさつもなしで、いきなり早口で話し始めた。姿形は立派な人物であるが。妙な話し方と、何より周囲に漂う異臭に閉口して、出羽守は袂で口元を覆った。この人物は山科より来たと言っているが、まるで都の焼け跡から出て来たような臭いがする。それにあの眼は、底に異様な光りを持っている。

「ご用件は何でございましょう」

「細川勝元様が仰せらレるにはナ。山名党の所行許し難し、天然の要害である稲荷山に依ってナ都への兵糧を止め不逞の輩メを干上がらせよとナ。仰せらレたのじゃ仰せらレたのじゃ」

 早口だけでなく、話し方も何やら変であった。

「それで貴殿は何をなさる」

「稲荷山に依ってナ、都への兵糧を止め不逞の輩メヲ干上がらせるのじゃ」

「それはもう聞いてございます。貴殿はいかにして都への兵糧をとめるおつもりであるのか」

「洛中山代にナ手の者がナあまたおるのじゃおるのじゃ」

「あまたとはどれほど?」

「およそ一万およそ一万」

「……それは二万ということにございますか?」

「およそ一万」

「それだけの兵糧、当社にはございませんぞ」

「なに山だけ山だけお借りできレばよろしいノじゃよろしいノじゃ。兵糧は敵から奪うにヨッてナ」

 大ざっぱにも程がある作戦である。この骨皮左衛門尉道賢なる人物、敵をひどく見くびっていたか、自信過剰か、あるいはその両方か。そうでなかったら最初からまともな戦争などやる気はなかったとしか考えられない。

 出羽守も馬鹿ではなかったから、そんな杜撰な作戦に山を使わせる気など起こらなかった。稲荷社はこの騒動ではどちらに与する気もない、東軍西軍に属する双方の家から寄進を受けていることでもあるし、そもそも稲荷社には関係のないことなのだから。

 遠回しにそう伝え、骨皮左衛門尉道賢におひきとりを願おうとしたが。一向に聞かないまた「それがし多賀豊後守様が所司代にございました折り……」から話しを始めるのだ。四度目の堂々巡りが始まったときには出羽守は目眩がした。こちらが承諾するまでは何日でも粘り続けるのではないのかと疑った。

「それがし手柄を立てタるあかつきにはナ、頼むべくもない秦ノ者ヲ秦ノ者ヲ此処より立ち去らせてナ、稲荷社の用ヲ荷田ノ者に荷田ノ者に執らせようゾ執らせようぞ」

 無茶な話しだった。多賀豊後守高忠の従者に、どう考えたってそのような影響力があるはずもない。しかし会話に疲れた出羽守の胸の底に『もしかすると』と想いが浮かんだ。

「して、ここで何日戦うおつもりか?」

「タッタ三日じゃタッタ三日。それで京の兵糧は尽きて、音を上ゲル音を上ゲル音を上ゲル」

「そこで細川勝元殿が攻めかかるのか?」

「いかにもいかにもいかにも」

 三日で片が付いて陣は引き払われて。それで細川勝元方が勝利するのなら、それで細川勝元に出羽守の名が伝わるのなら、あるいはこの人物の夢物語もあながち夢ではないかも知れない。

 出羽守の頭の中に、京を蹂躙している山名・畠山の軍勢が、ただ三日間指をくわえて兵糧の到着を待ち続け、あげくに空きっ腹を抱えて悄然と去っていくありえない図が見えたのだろうか。

 骨皮左衛門尉道賢は稲荷山を『天然の要害』と言ったが、散々木を伐られ山肌を削られた荒れ山を、秦の一族が土木技術の粋を集めて復旧開発を行ったのだ。それが要害であるはずもなかった。稲荷山は守りにくく攻めやすい状態になっていたのであった。一万の軍勢が籠もるにしても、ひと月以上の時間をかけて陣地の構築を行わない限り稲荷山に依って戦うことは不利すぎるのだ。

 しかし出羽守はそんな経緯を知らず、また軍事的な知識など持ち合わせているはずもなかった。

「よろしい。三日に限って稲荷山に陣を置くことを承知いたす。三日経ったら必ず御引き払い願いますぞ」

「よくぞ決断なサれたなサれた。勝元殿もさぞ喜ばれヨう喜ばれヨう」

 骨皮左衛門尉道賢はぴょんぴょん跳ね回って決断を褒めちぎった。その様を見て出羽守の胸に、取り返しのつかないことをしてしまった後悔が滲んできた。がもう遅い。

 翌日には骨皮左衛門尉道賢がおよそ一万と胸を張った軍勢が到着し始めたが、どう見ても一万どころか二,三千人程度しかいない。稲荷祭の混雑ぶりを知っているので、出羽守でもそれくらいの見当はついた。

「道賢殿。これはまだ、ほんの一部でございますな?」

「いや。コレで全てじゃ全てじゃ」

「これは……。多く見ても、五千人にも満たないのだが……」

「それがしの軍勢は一人が十人の働きをイタすのじゃイタすのじゃ、心配ご無用ご無用ご無用」

 しかし兵の装備が貧弱であり、ばらばらで軍の統制も取れていないことは、出羽守でもすぐにわかった。中には山伏や河原者としか見えない得体の知れない者まで混じっている。やはり騙されたと知ったが、もうどうにもできない。

「私は何ということをしてしまったのだ……」

 陣の構築も何もない。それどころか道賢が連れてきた兵どもは、社殿のあちこちに好き勝手に入り込み、飲食するわ賽は振るわ喧嘩はするわ、狼藉の限りを働くのであった。

あまりのことに社の下人までが逃げ出して、出羽守は稲荷社に独り取り残された格好になってしまった。




     四


 ユニクロでスゥエットの上下でも買っておけば良かったと、本光寺に戻ってから観名は後悔した。どっちにしろホテルを出た時点で駅の地下街は閉まっていたので、買うことはできなかったのだが。

 由加里は帰ってくるなりまた倒れ込んでしまった。あの体調でビールに加えてチヌ婆さんから日本酒を七・八杯は飲まされてしまったのだから無理もない。お風呂の準備は美夜子にできるはずがなく、観名は何をどうしたら良いのかも解らなかった。冬で良かった。

「……チヌさんに、怒られたんですか?」

「仕方ないのよ。私まだ未熟だから」

「でも……。いろいろ凄いことできるじゃないですか」

「凄くない。観名だって少し練習すればできるようになるわよ」

「あれって……、練習で……。できるようになるんですか?」

「私、霊能者じゃないわよ。観名の叔母様だってそうでしょ?」

「うーん……。恐いけど、そーゆう意味じゃ普通です」

「巫女は、神様の通り道よ」

「……通り道?」

「神様は。巫女の口や体をお使いになって、この世に言葉や力を顕すから」

「それ……。普通じゃない……、じゃなくて。緋袴じゃない巫女のことですよね」

「神様にお仕えてしていれば、袴の色に関係なくできると思うわ。条件あるかも知れないけど。私、由加里さんだって巫女できると思ってる」

 美夜子はそこで声を潜めて。

「彼氏いないし」

 と付け足した。

「えー? ホントですか? 美人なのに」

「由加里さんの家カトリックで、そこのところは凄く厳しいって言ってた」

「え……。ってことは」

 観名は両手の指先で唇を押さえた。

「……ってことなんですね?」

「でも私よりましですよ。私、男の人と面と向かって話したことないんだから」

「私も女子校ですから、全然経験ありません」

「まあ大変。ここにいる人みんな免疫ないんだわ」

「そーゆう怪しい言い方やめてください」

 今夜も本光寺は静かだった。疲れたのと、お腹がいっぱいなので二人とも急速に眠気が襲ってきた。顔だけを洗って着替える、観名はどうしても美夜子の肌が気になって、ちら見してしまう。

「ねえ観名。そっち入れてもらっていい?」

 なぜか観名の心臓が跳び上がった。布団はふた組しかないのだ。

「は……。はい?」

「由加里さんが、お酒臭くていやなの」

「あ……、あ。いいです。私は平気、です」

 美夜子はほんの少し首をかしげた。それからうっすら微笑んだ。

「大丈夫よ。襲わないから」

「え? ええぇ?」

 なぜかもの凄くおどおどしながら、観名は美夜子と一緒の布団に入った。

「わー。観名って暖かい」

「由加里さん暖かくないんですか?」

「あのひと寝相が悪いから、あまりくっつけないの」

 由加里の、ちょっと苦しそうないびきが聞こえた。

「明日、二日酔いじゃないといいんですけど」

「二日酔いじゃなくても、どうせ明日は休まないとだめなの。憑かれやすい状態になっているから」

「やっぱり、危ないんですか?」

「由加里さん、続けて何杯も飲まされてたでしょ? あれ杯に祓いの呪を含ませてたのよ」

 そう言えば。チヌは由加里が持った杯に注ぐのではなく、その度に杯を受け取ってから注いでいた。変なことをするとは思っていた。

「由加里さん、私のために危ない目にばっかり遭ってるの」

 美夜子の言葉にため息が混じった。

「姉妹みたいに見えますね」

「実際そんな感じになってるわ。チヌさんも家族みたいに扱ってるし」

 思わず美夜子の家族関係のことを聞きそうになって、観名は言葉を飲み込んだ。

「……不思議よね」

「何がですか?」

「時々本を読み聞かせに来てくれてた教会のボランティアさんと、京都で狐退治してたと思ったら。今度は名前も知らなかった女の子と、初めて会った次の日に一緒に寝てる」

「美夜子さん、言い方が微ビミョーすぎます。もしかして酔ってませんか?」

「一杯だけよ、飲んだの。……観名は不思議だって思わないの?」

「思います。何でここで……、何で帰らないで、ここにいるんだろうって」

「それが縁よ」

「……えにし」

「そう。で、縁と同じ意味の言葉。知ってる?」

「……ゆかり。ですか?」

「そう。何だか凄いよね」

 自分は美夜子とどんな縁で繋がっているのだろうと、観名はしばらく考えた。その間に美夜子の寝息が聞こえてきた。明日はどんな理由を考えて京都に残ったらいいのだろうと考えながら、観名も眠りに落ちていた。


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