御旅所炎上
西暦の一二二〇年のこと。同じ一族の中で、稲荷御旅所神主の権利を巡って騒動が起こり訴訟にまで発展したことが記録に残っている。これが八条坊門の御旅所なのか七条油小路の方なのかの記述はないが、それほど御旅所神主という仕事は魅力があったに違いない。
それから十数年後、七条在地の有力者たちによって御旅所の神主は頻繁に入れ替わりがあったことを示す記録も残っているからだ。
そして一二二六年には大きな事件が起こっている。その時の八条坊門猪熊にある御旅所神主は大行事則正という者だった。「大行事」とは寺で行う大法会を仕切る僧の呼び名であるので、この一族の祖は僧侶であり、その家柄の僧侶が代々御旅所の神主を務めていた可能性もある。この時代では神社に僧侶がいることは不思議でも何でもない。
さて。御旅所訴訟の騒動がまだ尾を引いているというのに、大行事則正のところには無体な要求が突きつけられていた。七条御旅所神主がほぼ毎年変わっているのだから、八条の神主もそのようにするべきだと声が上がっているのだ。
御旅所はそれぞれ独立で経営しているようなものだし、何より八条坊門猪熊の御旅所は東寺が建てた最初からのものである。たった百年ちょっとの歴史しかない七条の御旅所とは格が違う。従ってこれまで全く取り合わずにきたのだが、ここに来て風向きが変わってきた。
七条大宮の講頭が、どうやらあちこちに手を回して運動を行っているらしいのだ。七条の住人は金属加工の職人達であり、ここ最近は特に景気が良いために御旅所を始めとする稲荷社への奉納額も大きなものになっている。つまり、それだけ発言力も大きい。
東寺からも遠回しに神主の交代の打診があり、大行事則正も安穏としてはいられなくなってきた。職人頭は安田という姓らしく、だとすれば荷田一族の縁者である可能性が高い。両御旅所とも荷田一族に繋がる者だけで神主職をまわし、銭をごっそり吸い上げようという魂胆が見えている。
運動に一千貫の銭を使おうが、そんな銭は一回の稲荷祭とそれに伴ういろいろな利権ですぐに回収できてしまう。
深草の稲荷宮まで出向いて助けを請うては見たが、御旅所は東寺の管轄になると言われて相手にされなかった。東寺は東寺で不満が出ないように取りはからえと言うだけで具体的なことは何一つしてくれない。そして連日連夜、七条の講の連中が押しかけてきて神主を代われと詰め寄る。
「どいつもこいつも……」
講の連中による度重なる嫌がらせに耐えかねて、他の僧や用人たちまで逃げ出してしまい、則正は水汲みから神事まで全部自分で行わなくてはならなかった。
「銭のことばかり考えおって……」
と言っても、則正自身も銭については潔白とは言えない。この御旅所神主に就くにあたっては、少なくない銭をあちこちに撒いているのだ。いま辞めれば大損になってしまう。
「怪しからぬことではないか」
夜半、庫裏でただ一人酒を飲みながら、則正はひたすら毒づいた。
「ご利益を求めるならばともかく……。稲荷そのものまで手に入れる気か」
酒は伏見から余るほど奉納されてきた。だから食事の代わりに則正は酒を飲むようになってしまった。そんな生活がもう半年近くに及んでいる。日に日に、酒の量は増えて行く。
「怪しからぬことではないか!」
則正は大きな声で言った。
ふと気がつくと、祭壇の陰になにかが居た。
「怪しからぬと……。おもうであろ」
何気なく声をかけてみた。
「ケしからヌ」
それは応えた。狐に見えた、酔眼にはそう見えた。
「主もそう思ってくれるか」
「そうオもってくれル」
狐のようなものは、膳の前にいた。
「怪しからぬやつらを、どうしたらよいかの」
「どうシたらよイかの」
「あの一族を皆呪いにかけるか」
「ノロいニかけルか」
膳の上に得体の知れない半透明なものがわらわらと涌いたような気がした。その真ん中に白い狐が落ちてきた。
「ならぬ」
白い狐は言った。
「なぜじゃ!」
膳ごとそれをひっくり返した。
「止めても無駄じゃ」
「ムだじゃ」
膳の前にいた狐のようなものは、そこにまだいた。
「お主は話しがわかるの。そうだ無駄じゃ、呪いだ」
「ノロいだ」
「やってやるぞ」
「やッテやルぞ」
「やって……、らるとも」
「らルとも」
則正の手から木の杯が落ちた。大きないびきをかいている則正の頭の上を、ネズミのようなものが走って、どこかに消えた。
翌朝、戸が激しく叩かれる音で則正は目を覚ました。
「何事だ……」
二日酔いでがんがんする頭を抱えながら戸を開けると、顔も見たくない七条の講の連中が顔を揃えていた。この状態で朝から押し問答は御免被りたい。しかし、先頭に立っていた安田某は言った。
「大行事則正殿、東寺と稲荷宮の命によって御旅所神主を免じる。疾く立ち去られたまえ」
「何だと」
「聞こえなかったのか。ここを明け渡して立ち去られよ!」
「主らも荷田一族に銭で購われたか」
「何だと」
「主らは稲荷神を何だと思っておる」
「それはこちらの言うことだ。酒ばかり喰らっておる神主なぞに用はない!」
「何だと!」
「構わぬ、こいつをここから叩き出してしまえ!」
横にいた男が則正につかみかかり、戸口から引きずり出した。則正は足元がふらついて地面に転がってしまった。嘲り笑う声が起こる。
「何をする!」
そう言った途端に脇腹を蹴りつけられ、則正は息が詰まった。もう一度蹴られ、腹の中から昨夜の酒が逆流してきた。同時に理不尽な仕打ちに対する怒りもこみ上げてきた。
「お前らに、御旅所を好きにされてたまるか!」
戸口から中に入ろうとしている数人をかきわけて御旅所に入り、中の数人と揉み合いになった。何度も殴られ、目の前に火花が飛んだ。それがさらに則正を逆上させた。
気がつくと、どこで手にしたかも覚えていない棒を振り回していた。衝撃があって何人かが倒れるのが見えた。頭を抱えてうずくまっている者もいる。戸板を棒で押さえつけようとしたが、それは折れてささくれていた。手がぬるりと滑った。
「おのれ……」
窓も全て閉め、中が真っ暗になってしまったので祭壇の蝋燭に火を灯した。その時はじめて手が血まみれであることに気がついた。あわてて庫裏で手を洗い、清めのつもりで酒の瓶から柄杓で掬い飲んだ。戸を外から激しく叩く音がしている。
「言ったであろ」
瓶の陰から狐が覗いて言った。
「言ったであろ」
棚の隙間から、屋根の梁の上から、無数の狐の目が則正を見つめた。
「言ったであろ」
祭壇の上で白狐が合唱した。
「うるさい。うるさい。うるさい!」
祭壇にとびかかり、狐を、燭台をなぎ倒した。幣が燃え上がり経伝にも炎が這った。遂に戸が打ち破られたが、火の海となっている祭壇を一目見るなり皆声を上げて逃げ去った。
「ざまをみろ!」
火の上を歩き、火の祭壇をよじ登った。
「ざまをミろ」
そこに狐がいた。
「そうよ! ここは儂の物よ!」
「儂のモノじゃ……。主ハ」
「誰にも渡さぬ……。誰に……」
「渡サぬ、渡サぬ。ソレ、行くぞ大行事則正」
稲荷御旅所は炎上し、ほぼ何も残さず燃え尽きた。幸い隣接する二階堂稲荷は延焼を免れた。焼け落ちる寸前、狐の姿をした炎の固まりが天に昇っていく様を目撃した者がいると記録には残っている。
二
結局、観名たちは御霊符を伏見稲荷大社に納めることは断念した。下手をすれば大きなトラブルを押しつけることになってしまう恐れもあるからだ。
「で、どーするの?」
車に乗り込んで由加里が聞いた。
「こっちは向こうの姿も見えてないのが口惜しいわね。ただの野狐じゃないのは確かだけど」
「この間から追いかけているのと、同じ狐なの?」
「正体が見えてないから、何とも言えないわ。でも、京都駅で痛い目に遭わせた奴とはたぶん同じ」
「京都駅で、何かあったんですか?」
「あったも何も。観名ちゃんバッグ引ったくられそうになったじゃない」
「え? あの犯人って、狐だったんですか?」
「人間が相手だったら、私あんなひどいことしませんよ」
あの、恐ろしい白い杖でひったくり犯の顔面をひっぱたいたことを思い出して、観名は肩甲骨のあたりがむずむずしてきた。
美夜子が前を向いたまま大きく一度息をついて言った。
「観名、家に電話して。御霊符は持って帰るって」
「えっ?」
「これ以上いたら危険だから、帰った方がいいわ。あれも東京までは手が届かないはずだから」
「そうだね……。観名ちゃんは巻き込まれちゃった状態だもんね。これが本気で暴れ出さないうちに帰った方がいいわ」
「いやです。一緒に行きます」
考えるより先に口が動いていた。
「さっきの見たでしょ。相手は人間じゃないんだから、常識で理解できないことばっかやってくるのよ」
「私も! 巫女……、ですから……」
勢いで言ったが、最後の方は尻すぼみになった。巫女の見習い期間が終わったばかりで、サニハは見習い以前の状態なのだ。
「観名はまだ『お鎮め』持ってないでしょ」
美夜子に「役に立たない」と言われたも同然だった。考えてみたら当たり前である。巫女のことをちょっと知っている程度の女の子に授与所の中をうろうろされたら、観名だってウザいと思ってしまうだろう。観名は何も言えなくなってしまった。
「由加里さん、京都駅に行って」
「観名ちゃん、お寺に何か置いてきてない?」
半ば呆然としながら、観名は首を横に振った。
途中で何かが起こって、自分が役に立つ場面になってくれないかと罰当たりなことを考えているうちに京都駅に着いてしまった。駅で降ろされるだけかと思ったが、由加里も美夜子も改札まで付いてきた。見送りと言うよりは監視だろう。
「仕事が片づいたら電話するね」
「はい……」
「焦らないで巫女の修行するのよ」
「はい……」
悄然とした様子でエスカレーターで乗車ホームに運ばれていく観名を見届けると二人は車に戻り、仕事を再開した。
「おとなしく帰ると思う? 観名ちゃん」
「五分五分」
カフェオレのストローを唇にあてたまま、美夜子が答えた。
「新幹線のキップ無駄にして?」
「だってどうせ自分のお金じゃないでしょ。観名ってたぶん思い込んだら凄いわよ」
「で、どこに行くと思う?」
「本光寺に行くはずがないから、あとは伏見さんか藤森さん。藤森さんは行き方がわからないから、たぶん伏見さんに戻ってくる」
その観名は、まだ呆然としたまま、東京方面のホームに立っていた。赤穂天満宮に電話をすることを思い出して、携帯を取り出した。手の中でしばらく眺め、開いて何も操作せずに耳に当てた。
「無事で京から帰ることができるのぉ」
思った通り狐の声が聞こえた。
「狐さんは、伏見稲荷さんに戻れなくていいの?」
「あこめ殿にもうよいと言われるまで、お主についておらんとならぬのでな」
そうだった。一人と呼ぶのか一匹と呼ぶのか、とにかく味方がいたのだった。
「このまま……。帰っちゃって……、いいのかな?」
「無事で帰れるのだから、良いに決まっておる」
東京行きの『のぞみ』が入ってきた。もう考えている時間はほとんどない。ドアが開いても観名はホームでぐずぐずとためらっていた。
「どうしよ……。ねえ、どうしよ……」
「何をやっておる! さっさと乗ってしまえ!」
乗ったら、もう今のここへは戻ってくることはできない。東京に帰ってしまったら、このグズグズの気持ちのまま神社で朝から晩まで働くのだ。
発車のアラームが鳴り、反射的に体が動きかけたが。手を握りしめ、奥歯に力を入れて自分を抑えた。
扉が閉まった。自分は生まれて初めて、自分の意志で何かに逆らったのだと解った。
エスカレーターを駆け下り、改札で忘れ物をしたと嘘を言って出た。これからどうしたら良いのかと考えたのは、駅を出てからだった。
美夜子の持っている携帯が震えた。
「ホントに戻って来ちゃったよー。困ったお嬢さんが」
由加里の声に、美夜子は苦笑した。恐らくJR奈良線で来ると予想できたので、駅の出口を見張ってもらったのだ。
「どうする?」
「まだ何も考えてないわ。ガードだけして、しばらく様子を見ましょう」
「ガードって。それはもしかして私にしろと言う意味か?」
由加里は距離をとって観名を追った。上着を脱いで外見は変えているが、そこまでする必要はなさそうだった。
「だって私じゃ観名に付いていけないもの」
「私じゃ狐に対応できないよ」
「よほどおかしな場所に入らない限り、昼間は大丈夫だと思う」
「おかしな場所に入れなきゃいいってこと?」
「まあ……。そうなんだけど、たぶん観名はそんな所ばっか行くと思うわ」
「ちょっと。私じゃ面倒見切れないよ、きっと」
「ある程度の真言とか、観名は覚えているみたいだから。その時は観名にやらせればいいわ」
「それじゃ私は何のために付いていくのよ?」
「だから……。いざって時の」
「そのいざって時には。本職の巫女さんがいないとダメって気が、すっごくするんですけどー。とっとと捕まえて縛ってさ、宅急便で送り……。あ……」
「何かあった?」
「何であそこ行っちゃうのかなー、あの娘は」
「もしかして朝のあそこ? 解りやすすぎるわ……」
「あの子。絶っ対、勧誘とかにひっかかっちゃうね」
観名は、偽の禰宜に連れて行かれた場所に戻ろうとしていた。手がかりが何もないので、事件現場から始めるつもりなのだろう。
狐が禰宜に化けていた紙切れも、既に掃除されてしまったのだろうか。そこは普通の木立の中にある小径だった。木の中を透かし見ると、向こうには柵があってその先はどうやら池になっているらしい。観名は携帯を取り出した。
「飛んで火に入る夏の虫という言葉を知っておるか?」
「知ってます」
「知っていて此処へ来るなら、やはりお主はたわけじゃの」
「まずかったですか?」
「なぜ先に訊かぬ。入ってしまったら手遅れじゃ」
観名は恐る恐るあたりを見回してみた。小径は、観名のいる場所だけが残っていて、前も後ろ藪の中に消えてしまっていた。入ってきた場所は見えない。自分の馬鹿さ加減にようやく気がついたが、確かに手遅れだった。
「何かあったね」
由加里は中に入ることを避けた。
「立ち止まってるけど様子がおかしい。それに、何か姿がぼやけて見える」
「朝と同じ手口にやられてるわね」
美夜子は観名に聞いた番号を思い出しながらボタンを押した。
「……はい」
硬い声が応えた。
「せっかく駅まで送ってあげたのに、どうしてそんなところにいるの?」
「……美夜子さん?」
「すぐ近くに由加里さんもいるわよ。でも動いちゃだめよ」
「は……。はい!」
「閉じこめられたことに気がついてから、一歩でも動いた?」
「いいえ、全然動いてません」
「だったら出るのは簡単よ。ご神歌覚えてる?」
「はい」
「それじゃまず。行こうとしていた方を向いて、深呼吸。鼻から息を吸って、空気が頭の中ぐるっとまわって、体の中もぐるっと回って、そして全部口から吐き出すイメージ」
体の中に新鮮な空気を巡らせ、清浄にする呼吸法だ。
「しました」
「右手を印刀に。わかる?」
「はい」
「一回ずつ息吐きながら、自分の前に五亡星描く。気合い込めてね」
「はい」
観名が「しゅっ。しゅっ」と息を吐く音が聞こえた。
「描きました」
「次、禹歩ふたつ踏む」
「え? ウホって何ですか?」
「じゃ、それ省略。そのまんまご神歌うたいながら、ゆっくり後じさって」
「だ……、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、何かいたとしても追ってこられる心配はないわ」
「ちぃーはぁーやぁーぶぅーるー。いぃーなーりぃのー、みぃーやーの、しぃるーしーにわー。わぁーれぇーおーもーふぅーこー……きゃあっ!」
「はい。おかえりなさい」
恐らく後ろで待ちかまえていた由加里にキャッチされたのだろう。
「美夜子、捕まえたよー。このドジっこ巫女どうするの?」
観名が持っていた携帯から、由加里の声が聞こえた。
「仕方ないから一緒に連れて行きましょう、首に紐つけて」
美夜子は携帯を切った。後で観名の番号をワンタッチボタンに入れて貰った方が良いだろう。
後ろのシートで、観名は小さくなっていた。自分がやはりお荷物以外の何物でもないことを、自ら証明してしまったのだ。
「あの……。私が戻ってくるの……、知ってらしたんですか?」
「あたしは『もしかすると』だけど、美夜子は五分五分だって予想してた。ついでに多分ここに戻ってくるって予想もしてた」
もはや、いたたまれなかった。
「すみません、ご迷惑ばっかりおかけしました。今度こそ帰ります」
「そうは行かないのよ、観名ちゃん」
由加里が言った。パジェロミニは京都駅とは反対の方角に向かっている。
「はい?」
「これから狐の居場所に乗り込もうとしていたのに、あんた警報鳴らしちゃったんだから」
由加里が見ているルームミラーから観名の姿が消えた。シートに倒れこんだらしい。泣き声で何か言っていたが、よく聞き取れなかった。
「それでね。美夜子が言うにはー!」
観名の耳に入れるため、由加里はわざと大きな声を出した。美夜子が耳を塞ぐ。
「同じ罠に二回も引っかかってるようじゃ、向こうは相当こっちを見くびっているはずだから。やっぱり今乗り込んだ方が敵の意表を突けるだろうって」
「一緒に、連れて行ってくれるんですか?」
シートの間から観名が顔を出した。
「行くも何も、もう着いちゃうし」
「私、頑張ります」
「いや、頑張らなくていい。普通でいいから」
「気負うと、またそこを突かれるわよ。基本は風に靡く草よ」
「くさ?」
「抗わないで受け流すの」
「……すみません、よく解りません」
「言葉で説明してもあまり意味ないから、しっかり見て覚えて」
「はい!」
三
由加里の運転するパジェロミニは、藤森神社の鳥居を潜った。
「何これ? 参道通っちゃダメなの?」
鳥居から十メートルほどの所に車止めがあった。
「歩道に、車通った跡ありますよ」
後ろのシートから観名が指さした。
「え? マヂで? いいの?」
「あそこの、右の奥が駐車場みたいです」
鳥居を潜ったら歩道を走って駐車場に入るしかない構造になっていた。
「また。何か起こりませんか?」
「これ、こっちで用意してくれた車なんだけどね。中が結界になってるんだって。ちょっとくらいの仕掛けは効かないらしいよ」
「だから小さいんですか?」
「そーゆうツッコミはいいから」
由加里は苦笑しながら言った、観名は本気で言っているに違いなかった。
「作法通りに本殿に参拝しましょ、ここ稲荷社ある?」
「ちょっと待ってねー、いま調べてる。スマートフォン欲しいわ。あ……、藤森稲荷ってのがあるね」
「そこを見てみましょうか」
「今のところ手がかりになりそうなもの、これくらいだもんね」
「あの……」
観名が遠慮がちに言った。
「なに?」
「今ごろなんですけど……。これって、どんな仕事なんですか?」
「あ、そっか。そこのところ説明してなかったっけ」
「狐退治としか……」
「美夜子、話しちゃっていいの?」
「もうここまで巻き込んじゃったから、話さないとかえって面倒だわ。話してあげて」
「えーとね……。今年になってね、伏見稲荷関係の建物とか近所とかで不審火が続いているの。火事になったのもあったけど、何かが焦げたとかしょっちゅう。それがたぶん悪狐の仕業じゃないかってことになって、ウチに退治の依頼が来たわけ」
「こっちには狐退治してくれるところ、ないんですか?」
「探せばあるのだろうけどね。何せね……、ほら、日本の狐の総本山が狐祓いをそこらの霊能者に頼むわけには行かないでしょ?」
「え? それじゃ。これって、伏見稲荷さんに頼まれたんですか?」
「名前は一切出してこなかったけど、どう考えたって伏見さんの氏子さんからの依頼」
「あの……。すいません、何も知らなくて……。伏見稲荷さん、自分でお祓いできなかったんですか?」
「それ説明してると長くなるから、このあとは今日帰ってからね。何が起こっていて、私達が何をしてるかは解った?」
美夜子が背中で髪をまとめながら言った。どうやら、もし今日仕事が終わってもすぐに送り返されることはないらしい。
「了解です」
観名も真似て髪をまとめようとした。
「あ、別に観名ちゃんはそうしなくても……。これ美夜子の戦闘モードだから」
「私も、全力で巫女モード入ります」
「いや、だから全力はいいって……」
境内はほとんど人気はなく、参道にある休憩所みたいな場所で、老人が新聞を読んでいる姿があるくらいだった。三人は、単に参拝に来たふりをしながら歩いた。
「本殿の前。参道との間に、神楽殿なのかな? そんな建物ある。いま授与所の前。これだけコンクリートで……、何か変」
由加里が、歩きながら境内の様子を説明している。
「どう変なの?」
「思いっきり取って付けたような、神社と関係ないって雰囲気」
「授与所の窓口……。高いですね」
観名が感じたままのことを言った。
「それだ。やけに事務所って感じがすると思ったら」
何か神事が行われていたのだろうか。神殿から神官が数人と巫女が出てくるところだった。巫女が歩いていく様子に、観名は何かひっかかるものを感じた。少し経ってわかった。普通は参拝者であろうがなかろうが、境内に人がいれば巫女は会釈くらいするものだ。離れた場所にいたからか。それとも、意図的に無視されたのだろうか。
「何か、やな感じ」
由加里もそれには気がついたらしい。
三人は胸の中にわだかまりを抱えたまま、神楽殿の前に来た。神楽殿が本殿の前に建っていて、恐らく拝殿も兼ねているのだろう。
「手水舎あそこです。猫います」
「何か京都きてからやたらに猫見るわね」
揃って礼拝するふりをしながら、由加里は背後に気を配っていた。境内に佇む老人、授与所の巫女、軒下でこちらを監視する猫。何となく全てが怪しく見えてしまう。
「さっきから、モロに監視されているわよ」
美夜子がうっすら微笑んで言った。
「どうする?」
「予定した通り。次に藤森稲荷さんを拝んで、そこで様子を見ましょう。離れないでね」
本殿の右側にある稲荷社に灯明を上げ。中で野良猫が寝ていたが、とりあえず拝んだ。
「由加里さんは?」
美夜子に言われて気がついた、いつものように離れてしまったようだ。
「い……。いません!」
「もう! 離れちゃダメって言ったのに! 捜し……、ちょっと待って! 空気がおかしいわ。動いちゃだめ!」
すぐ近くで呻くような声と、何かが落ちる音がした。思わず観名は走り出してしまった。
「観名! だめ!」
由加里は、美夜子と観名が稲荷社の前に付いたところで、うっかりいつものように離れてしまった。湧き水がどうやら何かの効果がありそうな雰囲気だったので、見に行こうと思ったのだ。
大木の切り株を奉ったものを見ていると、後ろから首の付け根に木の葉か何かが当たったような気がした。手で触ってみたが、別に何もない。
「ん?」
嫌な感じがした。あたりの空気が突然いがらっぽくなったような気がする。
「やば……。美夜子が離れるなって……」
二人の所に戻ろうと一歩踏み出した途端に、地面が揺れたような気がした。目眩がして、頭の中が混乱した。
『何で二人のところに……、行くんだっけ? 離れちゃだめって……』
歩こうとして脚がもつれた。もつれたと言うよりも足が意図している方向と、違うところへ行こうとしている。
「や……、ばい。何か、憑かれたかも」
何かに憑かれたことを理解した瞬間、由加里は力に逆らうことをやめた。体が勝手に動いて、美夜子と観名から離れようとしていた。また足がもつれて、湧き水が溜まっている大きな岩に手をついた。美夜子と観名が、自分がいないことに気がついたのだろう、あたりを見回している。自分でもどんな状態か解らないのにいま来られたらまずい。歩き出そうとする意志に初めて由加里は猛然と逆らい、わざとバランスを崩して両手で岩にしがみついた。
動悸がした。何故だか解らないが、この場所に対して恐怖心が沸き起こってきた。
「何の……、つもりよ……」
それが、理由のある物ではなく。外部から「注入」された感情であることを、由加里は既に見抜いていた。冷や汗が出て手や膝に震えているが、由加里はその感情を無視した。下手に抵抗するとさらに強くなってしまうので、相手にしない方が良いのだ。
流れ落ちる湧き水にだけ注意を向けながら、深呼吸を行った。美夜子に習った方法で、鼻から静かに吸い込み、口から細くゆっくり吐く。最後に下腹に手を当ててしっかり吐き切る。本当はこの時「祓い給え清め給え」と念じる。神道の修行法の一部なのだが、そこまで教えたらクリスチャンの由加里は実行しないだろうと考えて、美夜子は形だけ教えたのだ。それでも一応効いた。理由のない恐怖心が薄れた。
「……よし」
体を起こして背中を伸ばした。その時、授与所の中にいた巫女と視線がかち合った。表情すら解らないほど離れて、さらに窓の向こうだったが。何か気持ちに刺さりんでくる『いやな感じ』があった。
「あいつだな……」
観名が京都に来た夜に、ここで何かを仕掛けたのもあの巫女だろうか。
考えていると、ふいに腹の底にずしんと衝撃が走った。次にこみ上げてきたのは激しい怒りだった。
「違う……。これも……」
それはあまりにも強力で、何をする余裕もないほどだった。理由もなく喚いて走り出したくなったが、湧き水の石を強く掴んで絶えた。爪が折れて痛みが走り、由加里はうめき声を上げた。その時、瞬間的に自由が戻った。由加里は流れ落ちて溜まっている不二の水に思い切り顔を沈めた。
観名は稲荷社の鳥居から出て左右を見回した。すぐに「不二の水」で柄杓を置く青竹と柄杓を吹っ飛ばして、誰かが岩から流れ落ちている水に頭を突っ込んでるのが目に入った。どこかの酔っぱらいかと思ったが、パンツスーツの女性だった。由加里だった。
観名は一瞬『何とか殺人事件』のようなタイトルが頭を過ぎったが、由加里は流れ落ちる水を頭に受けながら、水面から出ている片眼でこちらを見て弱々しく手を振った。
「由加里さん……、なに……。してるんですか?」
「美夜子……、連れてきて。私がいまどんな状態か、説明して」
口も半分水の中なので、変な声になっていた。
超常現象的な状態らしい。観名は稲荷社に戻り、美夜子の手を引きながら、できるだけ私見は挟まずに説明した。
「何か、来たの?」
まだ水に漬かっている由加里に、美夜子が訊いた。
「理由がない恐怖心と……、同じく理由のない怒り……。水に漬かったらいちお消えたみたいだけど、でもこのままだと中耳炎になるから早く助けて」
「確かに、いま何かまとわりついているわね」
「どうしたらいいの? 美夜子」
「祓ってみるわ。普通に立てる?」
「やってみる」
由加里はのろのろと体を起こし、立ち上がろうとした。髪から水がしたたり落ちる。観名がハンカチを出して由加里の傍へ行き、顔を拭おうとした。
「観名、だめ!」
「だめ! 来ないで!」
美夜子と由加里が同時に叫んだ。由加里は突然抑制が効かなくなり、観名につかみかかってしまった。ハンカチを持った観名の左手をつかむと、左手が観名の首にかかった。
「由加里さん! なに……」
観名が後じさると由加里はさらに観名を押して、旗塚の石垣におしつけた。
「由加里さん! やめて!」
首にかかった手は浅く、観名が肘で由加里を押し返す状態になっているので息が詰まることはなかったが。身動きが取れなくなってしまった。
「由加里さん、観名。どうしたの!」
美夜子は二人の位置を見失ったようだ。観名は異常な事態に免疫ができてしまったのだろうか、まだ頭の中でいろいろ考える余裕があった。
「美夜子さん。来ないでください!」
言ってから、それでは逆効果だと思った。
「由加里さん!」
その時観名の胸ポケットで携帯が暴れた。
「狐……」
携帯を取り出すには、由加里の左手を押さえている手を離さなくてはならない。しかし両手が首にかかったら、どれだけ持ちこたえることができるだろうか。
「観名!」
美夜子は二人の気配を探りながら近づいてきていた。もう猶予はない。観名は由加里に掴まれている左手を引き寄せた。幸い、観名の腕力の方が由加里より強かった。そのまま携帯を取り出し、片手で開いて画面を由加里の額に押しつけた。
画面から白い光りが吹きだして、由加里は声も上げずに後ろに吹き飛んだ。
四
本光寺に戻るまで、車の中では誰も口をきかなかった。意識が半分どこかに行った状態で運転している由加里に話しかける危険など犯せなかった。
やはり由加里は車を運転して来るので精一杯だったようで、帰るなり四畳半に倒れ込んでしまった。観名がスーツとブラウスを脱がせ、まだ濡れている髪にタオルを巻いた。それから京都駅近くまで行って紅茶と菓子を買った。サイフが空になってしまったのでATMでお金をおろし、消毒薬と絆創膏と、ついでに自分用のマグも買った。口座の残額を見て、あとひと月くらい京都に居ても余裕だと思った。
それで思い出し。東京に電話をしていいかげんな理由を並べ、もう一日京都に泊まると伝えた。だめと言われても観名が帰らなかったらそれまでだ。こちらにいて何ができるのか何の自信もないのだが。とにかくこのまま帰されてしまうのだけは嫌だった。
ティファールがお湯を沸かす音が、なぜかひどく耐え難かった。マカロンをひとつ口に入れ、音を立てたくなかったので噛まずに溶かした。紅茶を淹れると、それまで呼吸さえしているかどうかも解らなかった美夜子が、少しだけ反応した。
「美夜子さん、紅茶のみませんか?」
カップを渡すと美夜子はそっと湯気を嗅いだ。
「いい香り」
「砂糖とか……、入れます?」
「少しだけ」
熱そうに、そっと紅茶をすする。横座りのまま座卓までにじって寄り、カップを置いた。
「そこに何かあるでしょ」
「マカロンです。わかるんですか?」
「いいにおいがするもの。観名の口からも」
「そーゆうの、鋭くなっちゃうんですね?」
「由加里さんがね。高崎の、自分の部屋で何かこっそり食べててもね。においで何だか解っちゃうのよ」
観名は台所から持ってきた茶托にマカロンを出した。小鉢や平皿は申し訳程度にあるが、もう少し綺麗な皿があっても良いのではないかと思った。
「どうぞ」
「お呼ばれするわ」
しばらくの間、二人がマカロンをかじる小さな音と、紅茶を控えめにすする音だけがしていた。門の外では観光客が記念写真を撮っているのだろう、人の声がしばらく聞こえていた。
「本当にどこも怪我してないの?」
やがて美夜子が言った。
「由加里さんの爪の跡がついたけど。平気です」
「できたらでいいんだけど、最初から話してくれる?」
観名は話した。引ったくりに遭った時と違って今度は細かいところまで全て見て、記憶している。
「……それから。授与所にいた巫女さん。あそこから見えていたはずなのに……。それに由加里さん、濡れてひどい状態だったのに、授与所の前通った時に無視してました。私達が、あそこに着いた時にも。姿を見たはずなにの無視されました」
まともな巫女ならあり得ないことだ。
「つまり……。どう言う意味だと思う? 観名は」
訊かれてちょっと困ってしまった。
「それは……。私達がケンカしたと思って……」
「観名が行く前に、由加里さん湧き水に頭浸けていたのよね」
「はい」
「普通なら、その時点で飛んでくるはずよね」
「……そうですね」
「黙って見ていたとしたら。私達が何者で、何がどうなっているのか知っていたからね」
「……はい?」
「つまりその巫女は、由加里さんの錯乱に関係があるかも知れない」
「まさか……」
四畳半で、由加里がのろのろと体を起こした。
「由加里さん……。大丈夫?」
気配を察知して美夜子が声をかけた。呻きながら起きあがり、座卓にやってきた。
「大丈夫ですか? 何か、飲みます?」
観名が恐る恐る声をかけた。
「それ、なに?」
「さっき紅茶買ってきたんです」
「ひと口だけ、ちょうだい。あ、美夜子の飲んでるのでいいから」
カップを唇にあてたまま、由加里の眼が動いて観名の首のあたりを見つめた。
「観名ちゃん。首のとこ、それ……」
由加里の割れた爪が引っ掻いた跡が、二箇所赤く残っている。出血はしていないので、絆創膏を貼るほどでもなかった。
「ごめんね……。痛いでしょ」
「一番ひどい目に遭ったの、由加里さんですよ」
由加里は腕を伸ばし、手を何度か握って開いた。
「あ……。やっと感覚がまともになってきた」
「動かないの?」
「普通には動くんだけどね、自分が動かしてるって気がしないの」
しばらくの間、反省会のように藤森神社であったことをぼそぼそと話し合っていた。
「……それでさ。これ高崎に報告しないとまずいでしょ。敵、どう考えても狐一匹じゃないでしょ。あそこにいた巫女、超怪しいよ」
由加里が言うと、美夜子が俯いた。
「私、電話していい?」
「……お願いします」
消え入りそうな声で美夜子が言った。
由加里はしばらく天井を睨んで考え、携帯を出した。
「もしもし……。山本ですぅ。報告って言うか……、相談しなくちゃいけないこと、起こりました……」
美夜子と観名のカップが空になるまで、由加里の状況説明が続いた。
「はい……。はい……。そうです。はい……。へ? 今からですかぁ? はい……。あの……、お宿とか……。あ、はいはい、わかりましたぁ。お気をつけてぇ……」
携帯を畳むとまた天井を見上げ、大きくため息をついた。
「婆さん……。これから京都まで来るって」
「やっぱり……」
美夜子が座卓に両手を置き、その上に顔を伏せた。
「どなた……、ですか?」
「美夜子のお師匠さんで、養母の人。『おたま稲荷のチヌ婆さん』て、地元じゃ超有名な人なの。京都でも名前知られてるらしいよ。稲荷と狐の歩く百科事典」
「これから……。高崎からこっちに?」
「来るって。八時頃には着くんじゃない?」
「ここに、いらっしゃるんですか?」
「いや、あの人いつも京都駅のグランヴィア」
「どうして知ってるの?」
卓に顔を伏せたまま、美夜子が訊いた。
「だっていつも予約してるの私だし……」
そう言いながら由加里は携帯を操作していた。
「あ、高崎の愛染稲荷神社と申しますぅー。いつもお世話になっておりますぅー。大竹マネージャーさん、おいででしょうかぁー?」
「由加里さん、どうして電話だと全然違う声になっちゃうんですか?」
観名が美夜子の耳に囁いた。
「知らない。由加里さんにきいて」
美夜子が一瞬考えて、やがて笑いをこらえながら答えた。
「大竹マネージャー、愛染稲荷神社ですー、いつもお世話になってますー。あのー、いつもいつも急で申し訳ないのですけどー。またぁ、シングルひと部屋お願いできますかー? ええ、今日。はい、チヌさんですー。……はいー。あー、済みません助かりますー」
美夜子が口を押さえて、「きゅきゅきゅきゅ……」と笑い声を漏らしていた。由加里が口元だけに造り笑顔を浮かべながら睨んだ。
「……はい。あ、それからですねー。また急ですいませんけど、吉兆さん8時半で4人取っておいてくださいませんか? ぎりぎりで申し訳ないんですけどぉ……、松花堂弁当で……。ええー。すいませぇーん。ありがとうございますぅー」
美夜子の笑いが観名にも伝染して。二人は抱き合ってお互いの肩に顔を埋め、苦しそうに笑いを押し殺していた。
「こら。そこの小娘ども、何がおかしい」
「いえ……。おかしく……、ありません……」