巫女合宿所
一
藤森神社を後にした観名たちは、地下鉄烏丸線十条駅近くのセブンイレブンの駐車場に入った。とりあえず飲み物を調達して、まだ混乱している観名を落ち着かせることにした。
「観名さん、ちょっと降りてきて。あなた、どこかに何か仕込まれているはずだから」
観名はのろのろと車から出て、不安そうに周囲を見回した。美夜子が指先で観名の体をあちこち触れて「何か」を探す。その手がふと観名の肩の付近で止まった。
「何年生ですか?」
「高三で、もう卒業です」
「部活何かやってたの?」
由加里が聞いた。
「いえ……」
「何か、体育会系かと思っちゃった。その髪どうしてるのかって」
「ムダにでかいって、言われてます……」
京都に来てたった三時間ほどの間に、異常な出来事ばかり遭遇してしまったせいだろう。観名はすっかり無口になってしまった。二人がかりでその全身を細かく調べた。スカートの、ひだの間まで調べるのはちょっとセクハラくさいが仕方ない。見つかったのは、セーラーの襟の下に挟み込まれた小さな木の葉が一枚だけだった。
「怪しい物って言ったらこれかな?」
由加里がそれをつまみ上げ、気味悪そうに顔をしかめた
「何ですか?」
「葉っぱなんだけどね、動物の毛がいっぱい付いてる。つーか、毛でコーティングされてる状態」
「それが引っかかったのかしら? ずいぶん精度が高い護法陣ね」
「空港の金属センサーみたい。これどうしたらいいの?」
由加里が笑いながら言った。
「燃やしちゃいましょう。でも……、藤森神社さんにはそんな必要があるってことなの?」
「別に、何てことない静かな雰囲気だったけどね」
由加里はシガーライターとティッシュを使って車の陰で葉を慎重に燃やし、灰を土の中に埋め込んだ。
「これでもう大丈夫」
「ぜんぜん大丈夫じゃありませんよ。何が起こっているのか解らないんだもの」
美夜子が思いやりのカケラもないことを言う。
「ちょっとぐらい安心させてあげなよぉー」
「気持ちだけの安心なんて、いま何の役にもたちません」
突然観名は顔を覆ってしゃがみこんでしまった。
「ほらぁー! 観名ちゃん泣いちゃったじゃない」
「違います。違うんです!」
観名はそのまま首を左右に振った。
「わたし……。何もできないのが情けなくて……」
「まあ……。何もできないのが普通だけどね。特にこーゆーことは……」
「もう少し……。自分が……、何かできるって。気がしてました……」
「観名……」
由加里は観名の肩に手を添えた。
「とりあえず……。立とうね。みんな見てるから」
少し移動して、どうして観名がこんな目に遭ったのか。その辺の事情を聞き出した。
「愛染寺の御札?」
「それが、変わったものだったみたいで……。東伏見稲荷さんに断られたみたいです」
「ふーん……。美夜子、何だかわかる? あ、お札はここで出さなくてもいいからね」
「ご霊符のことはわからない」
ということは、ここで三人がいくら考えても時間のムダなのだろう。
「わからないけど。観名を伏見稲荷に行かせたくない誰かがいるのだけは確かね」
「……そう言えば、京都に行くなって言われましたし」
「……誰に?」
「あ……。いえ……、違います」
「まだ何かあるの?」
「いえ。ありません」
きっぱり否定しすぎた。
「ところで……。観名さんこれからどうするの? あくまでも伏見稲荷さんに行ってみる?」
「他に行くところありませんし……」
「今なら東京に帰ることもできるのよ」
美夜子が言った。つまり、『伏見稲荷にたどり着けないかも知れない』ということだが。そんな言葉の裏にこめられた意味など、女子高生では分からないだろう。由加里はフォローを入れた。
「あのね、観名ちゃん……。状況は思いっきり良くないの。美夜子が言っているのは『伏見稲荷に行く途中でどんなことが起こるか分からないし、着けるって保証もないけど。それでも危険を承知で行く覚悟があるのか』って意味なんだよ」
観名は目を見開いて絶句してしまった。それはそうだろう。由加里だって何も知らずにこんなことに巻き込まれたらフリーズする。
「そこでね、この場の解決策があるけど。やってみる?」
「……はい」
「それじゃ。まず、あなたの携帯でお家に電話する」
観名は携帯を開いて、しばらく凝固していた。やがて申し訳なさそうに言った。
「すいません……。充電切れました」
片手に携帯を持ったままで、雅恵は何も手につかない状態だった。五時間以上かかってようやく京都に到着したと思ったら、次にかかってきたのは鉄道警察から観名についての身元の確認と「ひったくりに遭ったが被害も怪我もない」ことを告げる電話だった。
観名はこんなにも運が悪かったのかと激しい後悔を覚えたが、実質的な被害はなにもないに等しいのだ。とりあえず無事に伏見稲荷にたどり着いてくれればそれでいいと思った。しかしその後、一時間以上経っても到着を知らせる電話がかかってこない。
「お父さん、どうしよう……」
雅恵がめったに見せない普通の女性モードになってしまっていた。
「落ち着きなさい。タクシーがないのかも知れない」
そう言いながら、篤司はビールと間違えて開けてしまったトニックウォーターの扱いに困っていた。
携帯ではなく家の電話が鳴った。雅恵は子機に飛びつくようにして取った。取ってから表示されていた番号が観名の電話ではないことに気がついた。
「はい大西……。観名!」
雅恵は床にへたり込みそうになって、手近の壁にもたれかかった。
「なにやってたのよ! 心配するでしょ! …………え?」
雅恵はしばらく観名の話を聞いた。
「ちょっ……、ちょっと待ってね。それ、お父さんにも聞いて貰った方が良いから」
ダイニングのテーブルに子機を置き、スピーカーホンに切り替えた。
「観名。もう一度最初から話して」
「駅で引ったくりに遭って。警察から電話した後で、タクシーで伏見稲荷に行こうとしたんです。そしたら……、藤森神社って、別の神社に連れて行かれちゃったんです。それで……。京都駅で助けてくれた人たちは、高崎の愛染稲荷神社の職員さんだったんです。その人たちは、駅で私と別れた時に何か様子が変だから。心配して、車で付いてきてくれたんです。そしたら、私伏見稲荷と藤森神社の区別もつかなくなってて……」
恐ろしく難解な話しだった。
「ちょっと待って観名。タクシーが伏見稲荷と藤森神社を間違えたの?」
およそありそうにないことだ。伏見稲荷は年中賑わう観光地だが、藤森神社に観光客が来る時期は非常に限られている。
「愛染稲荷の人たちの話だと。タクシーの運転手さんも私も、狐に化かされていたそうです」
武藏国赤穂稲荷社の二人は、顔を見合わせ、腕を組んで考え込んでしまった。
「それで……。藤森神社に着いてから?」
「私、伏見稲荷さんは知っていました。でも藤森神社さんに着いた時に全然違う神社だってこと、気がつかなかったんです。で、愛染稲荷さんの人たちに引っ張り出されて。そしたら何か金縛りにあって出られなくなって、サニハの巫女さんに助けてもらいました」
雅恵が半分立ち上がって体を乗り出した。
「観名。いま、サニハって言ったの?」
「はい。サニハの方が一緒でした。叔母さんと、同じようなお祓いをしました」
双方がしばらく沈黙した。
「いいわ。続けて」
「それで……。愛染稲荷さんの方が、今からじゃ絶対伏見稲荷さんには行けないって、おっしゃるんです。危険だって」
大西宮司が腕を組んだまま、天井を見上げた。一般の社会ではとうてい受け容れてもらえるような話しではないが、神社の人間にとっては間違いのない自分たちの世界のことである。観名が錯乱しているのでなければ、間違いのない事実である。
「いま……。愛染稲荷さんの人、そこにいるの?」
「います。向こうの方に」
「ちょっと話しさせてくれる?」
「はい」
雅恵は子機のマイクを押さえた。
「信じます……、よね。観名は混乱していますけど、正常に判断しています」
宮司は腕を組んだまま頷いた。その時、別の女性の声が出た。
「山本由加里と申します。お世話になります」
「赤穂天満宮と赤穂稲荷神社の巫女で、大西雅恵です。観名が大変お世話になりまして」
「あ、観名ちゃんの叔母様ですねぇ。とても良く観名ちゃんを指導なさっていらっしゃいますね。あんなできた女子高生、見たことありませんよ」
「恐れ入ります。あの……。ところでさっき、観名がサニハの巫女さんがいると申しておりましたけど……」
「あ。私は、事務の手伝いをやっております。ご希望でしたら後ほど替わりますけど、その前に大事なこと、お話ししなくてはいけませんよね?」
「はい」
「そちら様は、私どもの稲荷社をご存じでいらっしゃいましたか?」
「いえ、大変失礼ながら存じ上げません」
「はい、こっちの名前より『おたま稲荷』の名前で通っておりますから。それで……。私と巫女は、実は狐祓いの依頼を受けて京都に来ておりました」
「あの……。ちょっと……。宮司の大西篤司と申しますが」
「はい。観名ちゃんのお爺様ですね。はじめまして」
「愛染稲荷神社様は、愛染寺と何か関係がおありですか?」
「私は神社に出入りするようになってまだ二年ほどなので、あまり詳しいことは存じませんが。愛染稲荷神社は愛染寺そのものと言えるようです。社殿や祭壇の一部も、伏見稲荷社にあった愛染寺の木材を使っているそうです」
篤司が呻いた。
「いや、邪魔をしました。済みません」
「私と巫女で京都の決まった場所に不定期に出没する狐霊を追っておりましたら、巫女が新幹線でやってくる観名ちゃんを感知しまして、狐と思って駅で待ち伏せてしまうことになりました。何でも観名ちゃん、伏見稲荷に納める大変なお札をお持ちだそうですが。うちの巫女もそれに惑わされたようです」
篤司が腕を組んだまま、また呻いた。
「後は、先ほど観名ちゃんが説明なさったと思いますが。どうもそのお札が狙われているのではないかと……。そう考えるのが一番自然ではあります」
「伏見稲荷に行けないとおっしゃる理由は?」
「京都駅で観名ちゃんを襲ったひったくりの犯人、どうしてお金を持っていそうな観光客じゃなくて女子高生なんか狙ったと思いますか?」
「……そうですね。つまり、行く先にも待ちかまえているかも知れない」
「はい。巫女はそう申しております」
雅恵は目で篤司に質問がないか聞いた。小さく頷いた。
「すみません、ありがとうございました。巫女さんと話したいのですが」
「はい、替わります。あ……。えーと、雅恵さんが観名ちゃんの先輩で、現在サニハでいらっしゃるのですよね?」
「そうです」
「はい分かりました、お待ちください。……あ、もうひとつ済みません。うちの巫女目が見えませんので、お知りおきください」
スピーカーからごそごそ音が聞こえた。観名らしい声も小さく聞こえた。
「巫女の布施美夜子です」
細い、弱々しい声だった。
「観名の、叔母の大西雅恵です。観名の危ないところを助けていただきまして、ありがとうございました」
「観名の祖父で、宮司の大西篤司です。この度はありがとうございました」
「たまたま行き会っただけですが、お役に立てて良かったです」
「失礼ですが、サニハと……」
「はい。私も自分以外にいること、知りませんでした。観名さんも私のお鎮めを見て、すぐサニハの技だとわかったようです」
「観名はまだ普通の巫女の作法を覚えたばかりで、そちらの方は一回だけ見せたところでした。あの子はほとんどのものを一度で覚えます」
「高校生なのに、作法がしっかりできてると。山本が感心していました」
「恐れ入ります。それで……。伏見稲荷さんのことですけど、行くのは危険なのですか?」
「実際に行ってみなくては分かりませんけど。こんな状態では、私なら明るくなるまで待ちます」
もっともな意見だった。
「そうですね……。ではこちらから伏見さんに連絡を入れます。それで、観名ですけど……」
「七条に、私達が宿舎にしているお寺があります。もう一人くらい入れますから大丈夫ですよ」
二
三人は閉店間際のイオンモールに飛び込んで、ユニクロと無印良品でとりあえず観名に必要なものを買いこみ、閉めようとしていたスーパーに強引に入り込んで食品を手に入れた。コンビニのものは明日食べたってそう変わりはしない。
いつものように超狭い薄暗い境内を。あっちにひっかかり、こっちにぶつかりしながら通り抜ける。ひとり増えたので窮屈さがひどくなった。
「京都の家って、みんなこうなんですか?」
「いや……。ここ家じゃないし」
本堂の明かりを点けると観名が硬直した。
「……え? ……え?」
「ご本尊は今引っ越ししてて、そこ空っぽだからね。拝まなくていいよ」
「ここ……、お寺ですか?」
「最初にお寺って言いましたよ」
美夜子が笑いながら言った。由加里はお湯を沸かし、お風呂の支度をして、座卓を出す。
「美夜子。今日、お膳こっちに出すからね、仏壇の前じゃ観名ちゃん落ち着かないし」
立ちすくんでいる観名を引っぱって、座卓の前に座らせる。変な場所にいると美夜子が衝突してしまうのだ。
「観名ちゃんここね、お膳がここ……」
美夜子が部屋の中で新しく置かれた物の位置をチェックする。指先で肩のあたりにちょっと触れて、それから軽く髪を撫でていった。美夜子に触れられたところから、何かがじわじわ体の表面に拡がってくるような気がした。しかし決して不快なものではなかった。不快な、あるいは良くないものであれば、観名の場合皮膚に痺れに似た感覚が来る。
「先にゴハンだ! お風呂はもう寝る前」
由加里は台所で食事をトレーから皿に移す。トレーのまま出すと美夜子は場所を確認できないし、取りにくくなる。
「何か合宿みたいなことになってきたね」
由加里が向こうから話しかけてくるが、観名は美夜子の動きから目が離せなくなっていた。手指は非常にゆっくり動くのだが、一度場所を確認したらその後は迷わない。
「私に気を遣わなくてもいいですからね。ほとんどのこと、自分でできます」
まるで注目されていたことに気付いたように、微笑を浮かべて美夜子が言った。
「わー、すごい。セーラー服着てても、一発で巫女さんだってわかっちゃう」
食事のお盆を運んできた由加里が声を上げる。
「え?」
「今の子そんな風にぴしっと座れないもの。ほら、ウチの巫女さんのグダグダっぷりったら凄いでしょ?」
と言っても美夜子は脚を崩して横座りしているだけだ。観名が緊張して、と言うよりも緊張とは関係なく、正座すると自然に巫女の姿勢になってしまうだけだ。
「私は美夜子見慣れてるから何とも思わないけど。観名の髪も何気に凄いよね」
正座すると、毛先はほとんど畳に届く。
観名は狭くて黒ずんだ木の壁で囲まれた風呂も、和式のトイレも平気だった。泣き出すのではと半ば期待していた由加里が拍子抜けしたようだが、観名が神社に入ったばかりの頃は、あそこも似たような古い建物だったのだ。
疲れて、眠くはあったが。布団にくるまっても全く眠れなかった。古い木と畳のにおいが懐かしくはあったが、リラックスするまでには至らない。今日一日に遭ったことのストレスがあまりにも大きすぎた。おまけに、つい数時間前に知り合ったばかりの他人と並んで寝ているのだ。これで安眠できるほど観名の神経は太くない。
「眠れない?」
背中の方から、小さく美夜子の声がした。観名は静かに体を回転させて、そうしてからあまり意味はなかったことに気がついた。しかし背中を向けて話すわけにもいかない。
「新幹線の中で爆眠しちゃったんです」
「どこでも寝ちゃうの? 観名さんって?」
「けっこう……、寝られる方だと思います」
「私は……。ぜんぜん眠れないの。どんなに疲れていても、すぐ目が覚めちゃう。ひと晩に何度も……」
「深く……、眠れないんですか?」
「ずっと。だから、ずーっと目覚めないで寝るのって、何だか恐いの」
「し……。目が……、覚めないとか……」
観名は思わず巫女としての禁句を口にしかけた。
「昔は、それもいいかなって思ったこともあります」
観名は、何と言っていいのか解らなかった。
「……今は?」
「今はね……。寝られないで、何もしないでいる時間がもったいないって思う」
自分は逆だと観名は思った。そんな時間が全くない。
「観名さんの神社……、東京の国立市? 」
「はい」
「どんなところ?」
そう訊かれて答えに困ってしまった。中央線の国立といえば高級住宅街のイメージだが、赤穂天満宮はそう遠くないところに高速のインターがある市の外れである。観名自身はただの田舎としか認識していない。
「駅前に……。古い、けっこう大きな和菓子屋さんがあります。ケーキ屋さんもあるんですけど、喫茶室がたばこ臭いからあまり行きません」
「いいな……。お菓子屋さん」
「学校の帰りに……。帰ったらすぐ仕事だから、そこでちょっとだけさぼるんです。粟大福とか……。『おこじゅ』って、クリームが入ったフカフカのどら焼きみたいなお菓子があるんですけど。高校に入るまで、それ『おこじょ』だと思ってたんです」
「おこじょ?」
「白いイタチみたいな動物です。可愛いからそれイメージしたのかなって、勝手に思ってたんです。考えてみたら国立と全然関係なかったんですけど……」
「きゅきゅきゅ……」と奇妙な音が聞こえた。美夜子が口をおさえて笑いを押し殺しているのだった。
「『おこじょ』食べてみたい……」
「来てください、何個でもおごります。一個八十円ですから……」
緊張が解けたのか、急速に眠気が襲ってきた。
三
稲荷山を大改修して、藤森の稲荷社は次第に形を整えはじめた。山の中にあった墳墓は全て手厚く供養された後に撤去された。撤去作業も実に念入りに行われていた。だれが考えた工事なのか、石を一旦全て運び出した上で土を掘り下げ、そこに石を埋め込んだのだ。
社殿の基礎石にしたのだろうが、それにしては土の掘り下げ深さが尋常ではなく、下の岩が出てくるところまで掘っていた場所もあった。そこまで掘ったのなら埋め戻さずに岩盤の上に直接建てたら良さそうなものだが、そこも墳墓に使われた石を埋め込めてから土を埋め戻していた。
無駄なことをやっているとは思うが、止めねばならない理由もないので秦良治は放っておいた。とりあえず本殿が完成していればいいので、あとは何年かかろうが好きなようにやればいい。すでに良治の、ここでの仕事は終わっている。
良治は稲荷山の巡回が日課となった。次に送り込まれる現場が決まっておらず、暇になってしまったのだ。父が没して長兄が家を継ぎ、新たな開発にはあまり手を出さなくなったのだ。兄は土地の開発より政治を好んだ。
空海が拓いて秦の私財で整備した山道は、すでに稲荷山の三峰を巡って一周できる形になっている。頂上の祠はとっくに移転してしまっているので、山全体に道をつける必要などありはしなかったのだが、秦本家の意向で整備が行われた。山を細かく調べたかったとしか思えない。
ずいぶん後になって、本家から丹についてしつこく訊いてきたが、知らぬ存ぜぬで通した。伏見の丹が増えた証拠など残っていないし、稲荷宮の造営で大量に動いてしまった後なのだ。伯父もそうしてくれたのが幸いだった。好んで火中の栗を拾うこともない。
そしてもはや荷田承の息子たちに悩まされることもない。三人いた息子たちの二人までが承と同じような病にかかり、寝たきりになってしまったのだ。
今度は秦良治が毒を盛ったという噂は立たなかった。息子たちが空海の普請に顔を出すこともなく、稲荷山の墓を荒らしていたことを皆知ってしまったからだ。承の病気も稲荷神の祟りだったのではないかと、荷田の里では囁かれるようになった。恐らく荷田頭太が丹を隠していた跡に入り込み、もう残ってなどいない丹を何日もかけて探したのだろう。丹に不用意に触れると治らぬ病に罹ることは、まだわずかな者にしか知られていなかった。荷田の家は急速に力をなくし、深草一帯への影響力は秦家に戻った格好になっている。
明日は二階堂から稲荷神が稲荷山に還ってくると言う、良治にとっては笑い事でしかない祭りの前日にもやはり巡回を行った。真新しい丹に輝く本殿の脇を抜ける、道は途中幾筋にも分かれるが、登る方か広い道を選べば必ず峰の頂に着く。
昔に比べると、足腰が弱くなったと良治は思った。すでに深草に来て十二年が経とうとしている。このままここに骨を埋めることになるのだろうか、それでも良いと思うようになった。元々野心など抱いてはいなかったのだ。
墳墓を更地にした普請の現場まで来ると、平らになってしまった地面を見つめている狐の姿が目に入った。墓をねぐらにしていたのだろうか。
「済まんな。お前の巣を壊してしまって」
声をかけると一瞬良治を見、すぐに木立の中に姿を消して行った。
峰にたどり着いて、息を整えなくてはならなくなったのは、いったい何時からだったろう。山を回復させるために良治が植えた杉は、もう見上げるほどに育っていた。
最も奥の最も高い峰には、祠が置かれていた平たい岩が、まだそのまま残されていた。良治はそこで景色を眺めながらしばらく休息をとることにしていた。今日はそこに先客がいた。わずかに霞む深草の地を見下ろして、白い大きな狐が岩の上に座っていたのだ。ひと目見ただけで、この世界のものではないと感じた。
近づいても白い狐は逃げ去ることなく、良治を振り返ってじっと見つめた。首の周りを取り囲むように、銀色に輝く毛が見えた。思わず良治は膝と両手をつき、頭を下げた。
周囲を風が舞った。顔を上げると白狐の姿はなく、綿毛のようなものがいくつも岩の上を漂い、風に乗って飛んでいった。
「ここに新しい祠を建てよう……」
それで自分の仕事は全て終わるのだろう。
翌日。東寺を出発した輿の列は大勢の民と、貴人の牛車を引き連れながら二階堂稲荷社で稲荷神の一行を輿に乗せ、深草に新しく完成した稲荷宮に遷座した。伏見稲荷の長い長い歴史は、ここからはっきりと表面に浮かび出てくることになる。
そこで、望んだわけではないが稲荷神にされてしまった柴守長者こと荷田頭太の一行であるが、この引っ越しを境に後は消息が途絶えてしまう。もちろん一度は稲荷神として、……これはお祭り騒ぎを目撃した民の早とちりであったが。衆目に触れてしまった以上、そこらの畑を耕していたら空海としてはちょっと都合が悪いので、都から離れた場所に土地を与えたのかも知れない。
あるいは、現在でも伏見稲荷大社の「へっつい職」や「御殿預職」を任されている荷田家の末裔がそれであるかも知れない。さんざんもめ事を起こした里の荷田一族よりも、元より山にいた荷田頭太の一族が、尊敬を受ける民として戻ってきている方が自然である。
なぜなら、里の荷田一族はこの後まだまだもめ事を起こしているからである。
四
秦良治が稲荷山の峰で神狐を見てよりおよそ二百年後、稲荷山の稲荷宮は貴人も民も関係なく信心を集める社となっていた。すでに稲荷祭りの原型が始まっていて、五月のひと月は毎日全山が参詣の人で埋まる状態だった。殊に「正一位」を授かってからは混雑も一層ひどくなり、将棋倒しや参道からの転落などは毎年発生して多くの怪我人を出していて、京職からも安全確保を求める申し入れがしょっちゅう行われていた。
そのうちに不慣れな巫女が群衆の下敷きになって圧死する事故が起こってしまい、稲荷祭そのものの存続すら危ぶまれる事態になってしまった。
困り果てて稲荷社が東寺に相談すると「山でやるから危ないのだ。洛内でやれば、少なくとも参道から転がり落ちることはないだろう」と提案された。八条房門の二階堂稲荷社はまだそのまま残っていたので稲荷宮はその隣の土地も買い取り、洛内稲荷祭のための社殿を造った。翌年から祭りの度に稲荷神は山を下り、東寺に挨拶をした後に御旅所にしばらく留まって参拝を受ける方式に変更した。現在の稲荷祭の形になったわけだ。
それで稲荷山が静かになったのかと言えば、全くそんなことはなかった。稲荷宮には都だけでなく畿内一体から遠くは三河や長門からも稲荷勧請の要請が寄せられてくる。それに応えて霊符を携えて旅をする「イナリサゲ」や「オダイサマ」と呼ばれる巫女が数多く存在していた。
全国に散っていた巫女たちも稲荷宮に合わせて集まってくるのだが、今まではあまりの参詣人の多さに居場所がなくなっていた。それが、人が減ったものだから八島が池の近くにあった齋屋と呼ばれる仮小屋前で唄えや踊れの祭りを勝手に始め、それを見にまた人が押し寄せることになった。
会場は分散してさらに客は増える、客が増えればまた会場が手狭になる。京の都は寺同志で揉めたり地震が起こったり火事が頻発して非常に治安が乱れたが、稲荷社だけは変わらず信仰を集め続けた。一〇八七年には遂に八条房門の稲荷社でも多数の負傷者が出る事故が起こり、今度は洛内でも分散させる目的で七条油小路に御旅所が新設された。
現代と違って、昔の御旅所には稲荷祭の時期だけではなく神主が常駐していた。七条油小路の神主に就いたのは、何と里の荷田一族に繋がる者だった。このあたりから洛内の稲荷祭は非常に生臭いことになる。
だがその前に一度、七条油小路御旅所があった場所の現在に戻ろう。
朝の五時。目覚ましが鳴らなくても観名は目が覚める。長年の習慣で体のリズムがそうなっているのだ。由加里がパジャマ代わりに大きなTシャツを貸してくれたが、それでは少々寒かった。それより自分がどこにいるのかしばらく分からず、ようやく思い出して目を閉じて深い息をついた。
訳の分からないことに巻き込まれている自分を思い出したのだ。そして再び目を開いた。美夜子がいない。
そっと起き出して。襖を細く開けて、仏壇のある部屋を覗いてみた。座卓に両手を置いて、顔を上向きにしたまま身じろぎもしていない美夜子の姿があった。
思わず息を呑んで硬直してしまった。良く見ると座卓の上には地図が拡げてあった。狐の居場所を感じ取ろうとしているのだろうか。
『狐……』
思い出した。昨日この二人に合った後、携帯に潜んだ狐は出てきていない。気にしている余裕がなかったのと充電切れと、あまりにも異常で自分の頭を疑われるかも知れないと思って言いそびれていたのだ。
狐のことを頭の中で回転させていると、上を向いていた美夜子の頭がゆっくり正面向きに戻った。
「……観名さん」
少しかすれた声で呼ばれた。やはり感づかれていた。
「はい……」
「ちょっと来て」
豆電球だけが灯った、薄暗く、大きな仏壇がある部屋に呼ばれるのだからかなり嫌な状況だった。美夜子の白い手が観名に向かってさしのべられたので行くしかなくなった。襖を両手で開け、敷居を踏まないようにして向こうに出る。横向きで静かに襖を閉じる。こんな状態でも作法通りに動いてしまうのだが、その間も視線が美夜子に釘付けになっている。
「もう少しそばに来て」
座卓の横に座ると美夜子が言った。両手を畳について、膝を進める。そこにホットカーペットが敷いてあることに気がついた。
「なに……」
「静かに」
次の瞬間には美夜子の手が顔の前にあった。冷たい指先が頬と額に触れた。美夜子の額に微かな縦皺がよったのが見えた。突然ぎゅっと肩口をつかまれて、観名は全身に鳥肌が立った。
「あなたに狐が憑いていたでしょ?」
別の意味で背中が寒くなった。そうだった。美夜子はサニハ、狐祓いの巫女だったのだ。分からないはずがなかった。
「わ……、私に直接じゃないです」
美夜子がまた眉間に皺をよせて、ちょっと首を傾げた。
「携帯に……。入ってるんです」
「ほんと?」
「自分でも信じられませんけど、ホントです」
「見せて」
「あの、電気点けていいですか?」
「あ、大丈夫」
まだ眠っている由加里を起こさないようにそっと部屋に入り、携帯を拾い上げた。ゆうべアダプターを借りて充電は済ませてある。
「これです」
美夜子に携帯を手渡した瞬間、表情を歪ませてほとんど投げ出すように座卓に置いた。
「どうしました?」
「ごめんね。本当に狐入ってる。舐められたわ……」
気持ち悪そうに手を擦っていた。観名は携帯を開き、耳に当てた。
「狐さん?」
「やれやれ。見つかってしもうたのぉ」
「その狐、話すのね?」
観名は携帯を差し出してから、慌てて美夜子の手を取って携帯を渡した。
「なぜそんなところに入っているの?」
携帯を耳に当て、ごく普通の通話のように美夜子は言った。
「面目もなく。武藏の巫女に、たばかられましてございます」
観名にそんな力はないらしいので、叔母の巫女にどこかから追い出されたのだろうと美夜子は思った。
「名乗る気はある?」
「あの見習い巫女にはまだ知られとうございませぬ故、よろしゅうお願い申し上げます。藤森稲荷山愛染寺より遣わされました。ハハシロにございます」
観名に対しては門前払い同様であったが、美夜子では格が違うので無条件降伏らしい。
「確かに聞いた。あなたはご霊符に入っていた者?」
「はい、霊符に込められて府中に遣わされてございます」
「だいたいの事情は聞きました。それで、あなたはどうしたいの?」
「はて? どうとはいかなることにございましょうか?」
「えーと……、そこから出たい?」
「ここは面妖な場所にございますので、できたら出とうはございますが。さるお方にその見習い巫女をば鬼難から守るように命じられております故、勝手に出てしまうわけにも参りませぬ」
「さるお方は、いつそれをあなたに命じたの」
「見習い巫女が、武藏国を立ちます時にございます」
美夜子は少し考えた。
「それはこの世の方?」
「いえ」
「名前は言える?」
「畏れ多くて申せませぬ」
だとすれば、観名は結構強力な加護を受けているのだ。
「その中からどうやって観名を守るの?」
「今のところ、その時々に話してやるしかございませぬが、何か他の手段も考えねば足りぬでしょうなぁ」
「わかりました。自分でそこからは出られないのね」
「どうしていいやら、皆目わかりませぬ」
「その時になったら出られるように、手段を考えてみます」
「かたじけのうございます」
美夜子は観名に携帯を返した。
「誰かにあなたを護るように命令されているそうよ」
「あ……。あこめって人です」
携帯が手の中で震えた。というか暴れた。何だろうと思って耳にあててみた。
「これ! このたわけめが! その名を軽々しく口にするなと言ったではないか!」
「あ、ごめんなさい……」
「怒られた?」
美夜子が笑った。
五
朝食は、今日もインスタントコーヒーとミルクと、ロールパンにピーナツバターとママレード。由加里と美夜子はもう五日もこればかり食べている。
「ふーん……。ってことはさ、お札を伏見稲荷に持っていっても意味がないってこと?」
由加里がコーヒーをかき回しながら言った。
「ご霊符は、お返しするにこしたことはないけど。急ぐ必要がぜんぜんなくなったわ」
「私……。どうしたらいいんですか?」
観名に訊かれて、美夜子はロールパンを小さくちぎって口に入れ、しばらく考えていた。ミルクをひと口飲んだ。
「京都駅で観名ちゃんからバッグ引ったくろうとしたアレはさ、どーやって観名ちゃんのこと知ったの? つーか、誰が知ったの?」
由加里が言うと、美夜子はちょっと首を傾げた。
「何を取ろうとしたかも問題だわ」
「……ん? てことは?」
「ご霊符と、……中に入っている狐と」
自分の質問がスルーされてしまった感じがして、観名は黙ってパンと淋しさを噛みしめた。もし明日もここで朝食を食べることになるのなら、ティーバッグを買っておこうと思った。
「狐を盗ってどうするの?」
「人間の能力が高ければ使えることもあるし、たぶん観名の守護狐はかなり位が高いものよ」
いつの間にか呼び捨てになっていたが、何となくその方が嬉しかった。
「『キコ』みたいです」
ようやく観名も会話に参加できた。
「キコって名前なの? その狐」
由加里が狐に噛みつかれそうなことを平然と言った。
「空気の気に狐、天狐って最高位のひとつ手前よ」
「天狐は、神様にだけお仕えするそうです」
「へぇ……。そんな狐にボディガードされるってことは、観名ちゃんってVIP?」
「ただの見習い巫女ですよ」
「でもさ……。あ、シロが来た」
由加里は立ち上がって引き戸を開けた。白い猫が中を覗きこんで、入ってきた。
「あ。ねこぉー」
「近所の飼い猫だと思うけど、ここ集会所にされてるの。もうすぐもっと来るよ。愛染稲荷もネコ神社だからね」
由加里は皿にミルクを注いでやる。
「ネコ神社行ってみたいー。実家にもミミって猫いるんです」
「実家って? ……神社のことじゃなくて?」
「神社はお爺さんのところです」
「ん? ……ってことは、観名はお爺さんのところに預けられてるの?」
「そうです。でも両親はしっかり健在ですよ。私の学費とか全部神社の方から出てます」
白猫がミルクを舐めて由加里に撫でを要求し、次いで美夜子のところにも行った。美夜子がなぜか反応しないので、観名のところにも来た。
「あ……。ダメ、すりすりしないで」
黒い制服に白い毛は最悪だ。
「そー言うと猫は余計に行く」
美夜子が何か深く考え込んでいるのが気になった。
赤穂神社に電話を入れてから、一行は伏見稲荷大社に向かい、今度は何の妨害もなく到着した。まだ空いている参集殿の駐車場に車を置いて社務所に向かった。受付で来意を告げると、しばらく待たされた。
女性職員が戻って来て、赤穂神社から電話を受けていた神職が会議中であることを告げた。女性は白衣に袴だが、袴の色が緑なので巫女ではない。御霊符を置き逃げしようと交渉を試みたが、きっぱり拒否されてしまった。
仕方ないので先にお参りをして、神職の会議が終わるまで待つことにした。
「結構アバウトなの? 伏見稲荷って?」
「由加里さんにアバウトって言われたら立つ瀬無いと思いますよ」
「うるさい。ねえ、あの巫女さん緑の袴だったけど、あれなに?」
「巫女じゃなくて事務の職員です。もしかすると元巫女で、結婚してそのまま事務員やってることもあります」
観名が教えた。
「じゃ巫女って呼ばないの?」
「緋袴じゃないと巫女じゃありません」
本殿を礼拝し、外国人の団体に時折道を阻まれながら千本鳥居を抜けて奥の院まで入った。
観名が奥の院奉拝所で手を合わせていると、ふと由加里の姿がないことに気がついた。目で探すと、売店にあるお守りなどを覗いている。観名のいぶかしげな視線に気がついたのか、戻ってきて言った。
「ごめんね。私は神社とか拝むことできないの。クリスチャンだから」
「……え?」
「ただの観光地としてだったら、別に入ることは構わないんだけどね」
「え? でも、山本さん。神社に勤めているんじゃなかったんですか?」
「正確に言うとね。本来美夜子に本の読み聞かせをするボランティアだったのが、いつのまにかパートで介助やるようになっただけ。ホントは職員って言える身分じゃないの」
また何が何だか解らなくなってきた。
「私があまり頼りにするものだから。由加里さん短大を卒業してからもこっちに来て、結局就職できなかったんです」
「最後のとこだけ余計」
「でも……。自分の神様をちゃんとたてて、格好だけ拝んだりしないのだから立派なことだと思います」
「あら、観名ちゃんに誉められたわ」
下りは美夜子に危険なので、特にゆっくりと降りた。美夜子の白い杖を見ると皆道を譲ってくれるので助かる。杖の中身を知ったら退くくらいでは済まないだろうが。
「いま、門のあたりですよね。このあたりにね」
楼門の近く、稲荷の祭具を売る店が建ち並ぶあたりで美夜子は足を止めた。
「昔、愛染寺というお寺があったらしいの」
「え? ここにあったの? 愛染寺」
「観名、狐に聞いてごらんなさい」
観名は勧められるまま、携帯を開いた。
「応仁元年でございましたが、将軍家の跡目争いがありましてな。今の世で『応仁の乱』と呼ばれておりますな」
何も言わない内から狐が解説を始めた。
「跡目争いだけならよくある内輪もめで済みましたものを、大名や豪族の中でも釣られて内輪もめが拡がりましてな。ついに十と一年の大いくさとなってございました。都はほとんど焼け野原、東寺も伏見稲荷も全て虚しゅうなってございます」
「応仁の乱で、京都が全部燃えちゃったんだって。ここも」
観名がもの凄い要約を行った。
「そのあと戦争がないから、京都で『前の戦争』って言うと応仁の乱のことだって」
由加里が言った。
「その時、稲荷はすでに日本中から信心されてございましてな。社殿を再建するために、僧や修験者や巫女が日本中を歩いて勧進を始めましてございます。それを取り仕切っておりましたのが、ここにあった稲荷本願所愛染寺でございます」
難しい用語が多かったが、観名の記憶力でそのまま再現して二人に伝えた。
「お坊さんに修験者に巫女が出入りして。そのうえ愛染寺は東寺の所属だったから、中では何を唱えていたのかぜんぜんわからないわね」
「サニハ巫女も、真言と祝詞と経を取り混ぜてお使いですな」
狐が言った。
「サニ……」
観名がキツネの言ったことを伝えようとしたとき、美夜子が口の前で指を立てた。
「観名、ここでその名前を言っちゃだめ」
「……どうしてですか?」
「黒い巫女だってばれたら、塩撒かれるかも知れないから」
「え?」
「慶応の四年でございましたが、新しいセイフが神と仏は並び拝んではならぬとお触れを発しまして。それを民が、仏を捨てろとの命だと早とちりしましてな、何を考えたのか寺を襲って皆打ち壊してしまいました。そのおり、愛染寺も稲荷社よりお取り払いを命じられまして、無くなってございます」
電話の中で狐の話は続いていた。
「廃仏毀釈ね。知ってる」
「何なの?」
狐が言ったことを皆に伝え忘れていた。
「明治の、廃仏毀釈運動の時に愛染寺がなくなってしまったそうです」
「そう。そしてなぜか、お寺の一部が群馬県に運ばれて神社になっているの。謎よね」
美夜子が杖の先で地面の小砂利をつつきながら言った。
程よく時間も経ったので、もう一度社務所に行ってみることにした。社務所の入り口で紺色の袴をつけた神職が待っていた。
「禰宜の溝口です。お電話いただいた赤穂稲荷の方ですか?」
「はい。赤穂稲荷の助勤巫女で等々力と申します。この度はお手数をおかけいたします」
観名は頭を下げ、話しをするために神官を真っ直ぐ見た。その瞬間不穏な気配を感じた。神官の目が、どこを見ているのかわからないのだ。
「ではお札をお預かりいたしますので、こちらへどうぞ」
社務所とは別の方向へ観名を案内しようとした。観名の携帯が揺れた、マナーモードとは明らかに違う動きなのではっきりわかる。狐だ。そっと携帯を取り出し耳に当てた。
「そいつ、人ではないの」
「やっぱり?」
「危なくなったらこの窓を向けると良い」
「画面?」
「何でもよいから」
「その時は、よろしくお願いします」
美夜子と由加里が少し遅れていた。振り返ると、由加里が頷いて見せた。向こうも何かに感づいているらしい。
溝口と名乗った禰宜は鎮守の森の中を進んで行く。途中、例の緑の袴をつけた女性職員とすれ違った。黙礼をし、禰宜に目を戻すと少し離れてしまっていた。あまり離れないように足を速めながら、その後ろ姿に何か懐かしさを感じていた。
まだ「宮司さん」ではなく「お爺ちゃん」とだけ呼ぶことができた、祖父の姿を何となく思い出したのだ。たったひと晩神社を離れていただけなのに、ずいぶん長いこと顔を見ていないような気がした。
「今朝は人手が足りないから、お爺ちゃんも掃除したのかな……」
宮司が竹箒を持っている様子を想像して、観名はつい表情が緩んでしまった。また禰宜の後ろ姿が離れてしまった。自分はそんなに歩くのが遅いわけではないのに、どうしてこんなに追いつかないのだろう。……ということは。
あまり早くは歩けない美夜子を連れた由加里がちゃんと付いて来ているのか、うっかりそのことを忘れていた。振り返って見ると、やはり二人の姿はない。禰宜に待って貰おうと声をかけようとして、行く手の道が消えて森になってしまっていることに気がついた。
観名の後にいた美夜子と由加里も、女性職員とすれ違おうとした。職員が足を停め頭を下げたので、由加里もつられて頭を下げ、その途端に観名の姿を見失ってしまった。
「え……。ちょっと、うそ! 何で?」
「どうしたの?」
「今……。今、あの巫女さん、じゃなくて緑の袴のひととすれ違って。お辞儀したら観名ちゃん見えなくなった」
振り向いたが、すれ違ったばかりの女性も姿が見えない。
「もう! 由加里さん、隙を突かれた!」
美夜子は由加里に杖を渡すと、両手で印を組んだ。右足を少し踏みだし、地面を二度強く蹴りつけた。
「はいっ!」
気合いと同時に両手を一度強く打ち合わせた。周囲の空気も木の葉もびりびりと震えた。
どこかで何かが破裂したような音に、観名は飛び上がった。目の前にあった森は消えて、禰宜の背中が意外なほど近くに見えた。振り返ると二人の姿もあった。
「どうしたの?」
力を入れすぎて両手がじんじん痺れていたが、美夜子が何事もなかったように言った。
「あの……」
どう説明していいのか困っている間に、美夜子は観名の傍まで来た。
「溝口さん」
呼びかける美夜子の笑顔が恐かった。
「はい」
禰宜が振り返ったが、その顔は気味の悪い無表情であった。
「こちらで、間違いないのですよね?」
「……どう言う意味でしょうか?」
「ありもしない森の中で迷って堂々巡りとか、ありもしない綺麗な川辺で眠らされちゃったりとか。ありもしないサービス万全の社務所で一服盛られちゃったりとか、古典的な罠が仕掛けられていなければいいなー。って、気になってしまったんです」
「そんな、ばかなことが、あるとお思いになる?」
「ええ。だって、私の前に気味の悪い喋る紙がいるのですもの」
そう言った瞬間美夜子は杖を溝口禰宜に向って突きだした。禰宜は、骨のないようなぐにゃりとした動きで杖から逃れた。
「うえ! また?」
由加里が呻くように言った。携帯が、観名の手の中で暴れた。ようやく狐のことを思い出して携帯を開き、画面を禰宜に向けた。白く光る雲だか霧のようなものが画面から噴きだして禰宜を包んだ。
雲が渦巻きのようになって細く窄まって行き、勢いよくまた携帯に飛び込んで消えた。
「やだー! びっくりした、びっくりしたー!」
観名が携帯を持った姿勢のまま、泣きそうな顔で言った。禰宜がいたあたりに、人形に切り抜いた白い紙がひらひらと舞い落ちてきた。
「今の、何だったの?」
美夜子が観名の携帯に顔を寄せて聞いた。
「多少修行しておりましたが、ただの野狐でございました。それより、少し締め付けて何か吐かせようと思っておりましたが、紙から剥いだ途端に気を絶たれてございました」
「気を絶たれた? 消滅させられたってこと?」
「いかさま」
美夜子が険しい表情で携帯から顔を離した。
「やっぱり相手は狐だけじゃないようね」