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Since711AD  作者: 胡堂 瞬
5/13

藤森稲荷宮

     一


 そもそも姿が見えない状態でふらふらしている狐を相手にするのは、一般的な『狐祓い』ではない。山本由加里が氏子達に言ったとおり、狐が人に憑いているから祓らえるのであって、憑いてもいない狐を祓うというのは理に合わない。

 愛染稲荷で請ける狐祓いは、基本的には赤穂稲荷で雅恵が行ったものと同じである。たたし愛染稲荷に持ち込まれる依頼はもっと深刻で、危険なものばかりだ。時には憑かれた人間の方が狐より危険な場合ということもあるのだが、それはまた別の話しだ。

美夜子はある程度狐や妖物の気配を察知できるが、その範囲はいいところ一キロ程度で、それを行うにも相当の気力と体力を消耗してしまう。一五分気配を探ったら残りの四十五分は休むようにしないと、とても続かない。

 幸いなことに今回の狐が出没する場所は限られているので、京都中を探し回る必要はない。しかしいつどこに出現するのかは全く判らないので、かなり運任せの部分はある。

 今日は伏見稲荷大社の近辺を探ってみたが、全くの空振りに終わった。ここは夜間に張ることはできない。狐反応が多すぎてどうにもならないからだ。

 電車で京都まで引き返し、夜は再び車での巡回を行ってみることにした。いいかげん極めて局所的ではあるが、二人とも京都の街に詳しくなってきた。

「由香利さん……」

 奈良線の中で、突然美夜子の声が緊張を帯びた。

「近くにいます。いま……、近づいてきている」

「マヂで?」

 思わず電車の窓から外を見てしまったが、見えるわけがない。

「これ……。この間のやつかしら?」

 電車が京都駅に着いた。電車を降りる人混みが途切れるのを待って、ホームに降りた。

「とても近いですよ」

「……最悪」

 京都駅の中で、日本刀を振り回して目に見えない狐と戦うことなど、二人とも想像したくもなかった。駅の中が大パニックになるだろう。

「どうするの?」

「とりあえず、行ってみます」

 ここからは由加里が誘導するのではなく、美夜子が行く方向を示すのだ。と言っても、気配のする方向に常にまっすぐ進めるわけではない。改札を出てしまうか、それとも改札中のコンコースを使うか、ルートは由加里が判断しなくてはならない。

 少し移動したただけで、由加里は何かおかしいことに気がついた。狐が京都駅の混雑の中にいること自体がすでにおかしいのに、二人が追っている『何か』はまるで人間のように通路を通っている。それは美夜子が気配を探っている顔の向きが低いことを見てもわかる。対象は空中ではなく、自分たちと同じ高さを移動している。と言うことは、ビンゴで憑かれている人間を捕捉したのだろうか。

 南北自由通路に出た。伊勢丹とビックカメラに買い出しに来ているので、この中はよく解る。ただ問題は人が多すぎることだ。

「由香利さん……」

「はい」

「これ……。たぶん人を追っていますよね?」

「私もそう思ってた」

「いま……。止まってますけど、難しいです」

「ゆっくり行こうよ」

 南口方向に進んだ。

「こっちで間違いない?」

「はい」

 由加里は一か八かの賭に出た。エレベーターで南口の地上に降りたのだ。先回りできればキャッチできる可能性は高くなる。

「来てる?」

 エレベーターを降りて聞いた。美夜子の眉間に皺が寄っていた。右手の指でちょっと上を指した。先回りできたらしい。こちら側に降りてくるのなら、地下鉄ではなくタクシーか徒歩で移動することになる。もう一度賭けてみることにした。タクシー乗り場の近くに移動してみた。

「今……。降りてきました」

 由加里は階段の方向を伺ったが、コインロッカーがあって見通しが悪い。徒歩で西側に行かれたらやっかいだ。

「来ます」

 美夜子の声が緊張した。当たりらしい。しかし憑かれた人を確認しても、その後どうするかの作戦は何もない。だがとりあえず手がかりが何もないよりは、よほどましにはなる。由加里は携帯のカメラを起動させておいた。

「見えませんか?」

「あれがそうだとしたら、女子高生」

 その女の子は携帯で話しながら、ゆっくりとこちらに向かって歩いていた。

「ちが……。いや、由香利さん。もうひとつ、何かが降りて来ました」

「へ?」

 こんな状態は考えてもみなかった。丁度階段を降りてきたのはスーツを着た男性と、エレベーターからはカートを引いた女性の一団が出て来た。監視しなくてはならないものが一気に増えた。女子高生が携帯を畳んで何かを目で探した。女性の一団は横断歩道のある方向に歩き始めた。男性は……、女子高生を見ていた。

 女子高生はひとことで言って地味だった。背はそこそこ高いが、目立つところがなかった。髪も黒くて、そういえばやけに長い。黒っぽいショルダーバッグ。気がついた、セーラー服を着ているのだが、それも真っ黒なのだ。

「美夜子。女子高生に知り合いいる?」

「いえ。少なくとも京都にはいません」

「私、片方は間違いなく女子高生だと思う。でも……」

 携帯で姿を撮っておきたいが、まだ遠かった。

「でも、何ですか?」

美夜子の質問に答える余裕はなくなった。スーツの男性が、女子高生の横を通り抜けようにしながら。女子高生を突き飛ばしてショルダーを引ったくったのだ。

 女子高生は声を出さなかったので、つまずいたか何かのように見えた。何が起こったのか判ったのは、ずっと観察していた由加里だけだろう。いや、美夜子にも見えていた。普通の目では見えないことが。

 女子高生はコンコースの床に片手をついて呆然としていた。彼女を突き飛ばしてショルダーを引ったくった男は、八条通りを渡って逃げるつもりなのか、由加里たちの方に向かって走ってくる。

「こっち来る男、女子高生からバッグ引ったくった!」

「後から来た狐ですね」

 美夜子は半歩横に踏み出して、男が脇を通り過ぎる瞬間に白杖で地面に半円を描くようにしてその足元を払った。普通なら杖が蹴り飛ばされてしまうか、軽く躓く程度であるはずだが。そうはならなかった。

 「ぎゃっ!」

 苦しげな声と共に、何と男は地面を一回転してショルダーを放り出した。由加里は走ってショルダーを拾い上げ、ついでに男に蹴りを入れようとした。空振りだった。

男は「ぐにゃっ」とした気味の悪い身のこなしで蹴りを避けると、バッグを奪い取ろうと手を伸ばしてきた。由加里は体を退こうと思ったが、蹴りを空振りしたので姿勢が崩れて動けなかった。

 男の片手がバッグ目がけて、もう片手が由加里の首に向かって伸びてきた。手で押し返そうとしたが、その寸前に目のすぐ脇を白く光る線が迸り、男の顔面を横から叩いた。ついでに由加里の肩まで叩いた。美夜子が見当をつけて白杖でひっぱたいたらしい。

 男は顔を覆って後ろ向きに二メートルほどよろけて歩き、横断歩道の縁石に足を取られて後ろ向きにひっくり返った。と見えた瞬間に姿が消え、白い紙が車の走り去る風に乗って飛び去って行った。


 観名は何が起きたのか、最後までわからなかった。背後から突き飛ばされて、前にのめって床に片手をついた。手を離れて滑って行く携帯に気を取られて、ショルダーがなくなったことにさえ気がついていなかったのだ。

 変な悲鳴が聞こえたのでそちらを見ると、人がよろけて転んだ。女性が転んだ男ともみ合うようにしていると。小柄なもう一人の女性が白い杖を空中でくるりと回して、もみあってる女性の後ろから男性を叩いた。杖が軽く当たっただけのように見えたが、男はもの凄い勢いで後じさって、見えなくなった。

 立ち上がった時、ようやくショルダーバッグがなくなっていることに気がついたのだ。ショルダーは返ってきたが、やっと新幹線を降りたと思ったら今度は京都駅で足止めだった。そっちの方が頭の中を回って、自分がひったくりに遭いそうになった、と言うより遭ってしまったことを認識できたのは、駅の交番に入ってからのことだった。

 警官に家の住所や京都に来た目的、駅に着いてから被害に遭うまでを説明していると、手が震え出した。本能的に巫女の姿勢を取って落ち着こうとしたが、震えは全身に伝わった。涙も止まらなくなって話しもできなくなってしまったので、事情を聞くのはしばらく中断になってしまった。

 硬いソファに腰を下ろして、落ち着こうとしかのだがどうにもならなかった。こんなことでパニックになってしまう自分が情けなくて余計に涙が出た。

「失礼します」

 すぐ傍で声がしたが、そちらを気にする余裕もなかった。誰かが横に座り、こちらに体を寄せてきた。ここに入ってからずっと床ばかり見ていた視界に、黒いエナメルのストラップシューズと白い杖が入り込んできた。

「あ……」

 ひったくり犯からバッグを取り返してくれた女性の一人だったことに気がついた。慌ててぐしょぐしょのハンカチで改めて顔を拭い、ようやく顔を上げた。その一瞬に涙もパニックもどこかへ消し飛んだ。

「布施美夜子です。京都に来られたばかりのところで、災難でしたね」

「あ……。あ、はい……」

 目が離せなくなったのは。透けるほどの肌の白さと、閉じられた目の、睫毛の美しさだった。

「等々力……、観名です。あの……、ありがとうございました」

「大丈夫? ケガとか、ありませんでした?」

「ええ……、びっくりしたけど。別に……」

 どこかの国とのハーフかクォーターなのかと考えていた。しかし、髪はあくまで黒く、長い。自分と同じくらい。

「朝……。東京出てきたんですけど、途中で何回も新幹線が止まっちゃって……」

 そこで思い出した。伏見稲荷にお使いに来たのだった。時計を見るともう7時近い。

「こんな時間になっちゃって。どうしよ……」

 思わず顔を覆った。美夜子が観名の肩に手を置こうとして、静電気でも来たように手を引っ込めた。

「今日、これからどうするんですか?」

「伏見稲荷に……」大きく息をついた。また泣き出しそうになってしまったのだ。

「タクシーで伏見稲荷に行って、そっちで泊めてもらうことになっているんです」

「伏見……、稲荷……」

「私……。見習い中の巫女なんです。しょっちゅう失敗して怒られてますけど」

 観名はようやく普通に呼吸ができるようになった。

「どちらの神社ですか?」

「東京の、国立にある赤穂天満宮です」

「天満宮だから、受験の神様ですね?」

「ええ、そうです。布施さん……。学生ですか?」

 美夜子の着ているものは、黒っぽいブレザーにグレーのチェックのスカート。今風の高校生にしか見えない。日本一地味なセーラー服を着る身としては、ひどく羨ましかった。

「学生……、に見えますか? だったら嬉しいかも知れない」

婦人警官が、美夜子が落ち着きを取り戻した様子を見て、聞き取りの続きを始めるために呼びに来た。

美夜子は迎えを待つふりをしながら、警官と観名の会話をこっそり聞き始めた。由香利であればその微妙な表情の変化から『かなりヤバいこと』があったと気付くだろう。




     二


 空海が去って半月も経たないある日。荷田承の屋敷から頭多が消えた。山に詳しい者に、頭多の一族が住む集落を見に行かせたが、予想通りもぬけの殻であった。一族が総勢何人いたのか、正確なところは誰も知らないが。村の規模から見て数十人程度ではないかと思われた。どこでどうやって暮らすつもりなのか知らないが、果たして無事民の中に入っていけるのかどうか、かなり気にかかることであった。

 秦良治は稲荷山の頂上付近にあった祠を、盛大な祭祀を行って中腹へ移した。そこは以前に古い墓が露出していた場所で、良治は「粗末に扱った祖霊の怒りを鎮めるため」と説明したが。それならわざわざ大変な思いをしてまで、山頂から石の祠を降ろすこともなかった。

 さらに、稲荷山への入山は良治の命で禁止されてしまった。中腹まででの薪拾いや山菜類の採取は認められたが、山での殺生は一切禁止となり警備も行われるようになった。荷田の一族であっても勝手な入山は許されることはなかった。

「良治……どぉの……。なぜ山え……、は、入るのを……禁じる……」

 ある時荷田承が苦情を言った。もはや隠居の身であり、滅多に屋敷から出ることもなくなっていた。半年ほど前から手足が震えるようになり、歩くことも困難になったのだ。最近では言葉もおぼつかない。

「空海様に、このままの山をお引き渡ししなくてはなりません。荷田頭太にもそのことを頼まれておりますので。万一山火事でも出してしまったら申し訳が立ちません」

 とりつく縞もない良治の返事に、荷田承が首を振りながらよろよろと去ろうとすると、その背中に良治が声をかけた。

「言っておきますが承殿。山に手を出さないという、私との約束はまだ有効ですぞ」

 荷田承の目が一瞬厳しさを帯びて、伏せられた。だが振り返った表情は、病を得て枯れた老人のものだった。

「……解ってえ……、いる……」

「ご子息達にも、よく言い聞かせていただきたい」

 それからひと月も経たぬうちに荷田承は死んだ。その衰えが余りにも早く、また異常であったために秦良治が毒を盛ったのだという噂が深草中に流れた。それもあってか、承の息子達は強硬に山への立ち入りを求め、山で良治の用人たちと乱闘騒ぎを起こすまでの事態となった。そして、空海が早くも戻ってきた。

 馬を駆けさせて伏見近くの現場から戻った秦良治が目にしたものは、夥しい数の人間が稲荷山に取りついている光景だった。空海の姿を探すのは造作もなかった、傘をさしかけられて多くの僧に取り巻かれているのだから。

 良治は馬を降りて走り、空海の前に膝を折った。

「空海様、秦良治でございます」

「おお、久しゅうな。荷田承は身罷ったのだな。さっき墓に経を上げておいたぞ」

「ありがとうございます。……ところで空海様。もう伐り出すおつもりですか?」

「うむ……。供ひとりだけ連れて木を選びに来たかったのだが、東寺の者がそれではいかんと言い出してこの有り様だ。騒がせて済まぬ」

「いえ。空海様が去ってより、山には人を入れないよう心がけておりましたので。ご自由になさってください」

 そこでふと気がついた。

「空海様。荷田承の息子達に、お会いになられましたか?」

「いや。用人頭には会ったが、荷田の者はどこかに出かけたと言っておった」

 秦良治は思わず稲荷山を見上げた。息子達はこの騒ぎに紛れ込んで山に入ったに違いなかった。

 わずか三日で、稲荷山の中腹あたりを巡る山道が整備されてしまった。讃岐の国で行った池の普請がなぜ異常な早さで完了したのか、何となく解るような気がした。秦良治が舌を巻いたのは、人の数だけではなくその膨大な人間を捌く巧みさだった。

 下準備に時間をかけて、作業が始まると一気に進んでいくのだ。集団が山を登っていくと草や灌木が担ぎ降ろされて来て、その人足が今度は資材を担いで登っていく。集団が通った後には突き固められ、補強された道が出来上がっている。もの凄い数の人足が常に動き回り、自分たちが次に何を行うのかをよく理解しているのだ。

 さらに麓にはさしかけ小屋がいくつも造られていて、いつもかなりの人数が休息をとっている。集団をいくつかに分けて、入れ替えているのだ。驚いたことに、誰も命じたわけでもないのに近隣から農民が生業の手を休めて空海の普請を手伝いにやって来る。近郊の貴族や豪族も、荷車に米俵を積み上げて寄進にやってくる。

 そして空海は常に現場をあちこち歩き回り、作業の進捗具合と人足たちにも目を配っているのだ。空海がさしかけ小屋に行けば、寝ころんでいた人足が皆跳ね起きて、一斉に空海を拝むのだ。

このとき、空海は勅命によって中務省に勤務させられており、時間を作っては朝堂院から深草までやって来ていたのだ。朝堂院は現在の二条城の北西、千本丸太町交差点付近にあった。現在のJR二条から電車に乗って稲荷まで、乗り継ぎが良くても二〇分程。歩けば二~三時間だろうか。とんでもない体力である。

 強い木の香りが満ちる広場で、空海は切り出した木に向かって経を上げ、それぞれに注連縄をかけた。

「いろいろとお手間をかけてしまって、申し訳ございませんな」

「お役に立てて、有り難いことです」

 相変わらず承の息子達は現場には姿を見せない、秦良治は荷田一族の代理を務める格好になってしまっている。

「ところで……、これをいつ都に運ぶのですか?」

「あと一年経ってからですな。最低三年は寝かさないと建材には使えません」

 うっかりしていた。切り出したばかりの木は水を多く含み、それだけ重い。運ぶにしても乾燥させてからの方が楽に決まっていた。

 木はどんどん伐り出され麓に下ろされてくるのだが、その全量を一年間は置いておく場所が要るのだ。このために荷田一族が長年守り通して来た藤尾社をさらに南に移転させることになり、これもまた承の息子達の抵抗に遭って長期にわたる揉め事の火種になった。

 寺社関係の工事には、伯父である秦守慶の協力を仰がねばならなかった。適当な用地がなかったので、敷地が広かった真幡寸社と合祀しようと考えたが、守慶が反対した。易による占法で不吉と出たらしい。そのため真幡寸社は西方に遷座することとなったのだが、易との相性が悪かったのか最終的に城南宮に落ち着くまでに数カ所を転々とさせられたらしい。

 稲荷山を視察しにきていた秦守慶が、難しい顔をして現場事務所に戻ってきた。

「良治」

「はい」

「山の中腹に墓があるのは知っているか?」

「はい。山の復旧の時に埋め戻しまして、稲荷を奉りました」

「掘られてしまっているが、まさか普請の人足がやったのではあるまいな?」

「地元の民が以前から不心得なことをしておりましたので、一時は山への立ち入りを禁じておりましたが。このどさくさに紛れてまた来たのかも知れません」

「そうか……」

 守慶は出された湯をひと口飲んだ。

「ところで。お前、ずいぶん前に伏見の倉から硫黄を持ち出したな」

「本当にずいぶん昔の話しですが、田の土に使うためにいただきました。父上には断りましたが……」

「うむ、それは良いのだが。お前、別な物を今ごろになって倉に返していまいだろうな?」

「はて? 別な物とは何ですか?」

「倉の『丹』の量が増えているような気がするのだ。誰も何も言わないから別に良いのだが、何となく気になってな……」

 良治はたじろいだが、何とか顔に出さずに済んだ。守慶は寺社担当で直接丹を扱うことがあるので在庫量の変化に気がついたのだろう。

「さあ……。私は土地の表面のことしか分かりませんから、丹の堀り方なんて知りませんよ」

 その夜、良治は日課になっている空海の木材置き場での見回りを行った。ひと際大きな、塔に使用される丸太の傍に行くと、ほんの一瞬腰を屈めて何かを置いた。それから丸太に手をかけて、小さな声で言った。

「ちょっとまずいことになった。大伯父が気がついた。すぐにどうなるとも思えないが、今まで通りの量は動かせないぞ」

「構わんよ」

 声はどこからともなく帰ってきた。

「当座の金としてもう充分だ。残りは取っておいてくれ」

「冗談じゃない。今さらあんな量をどうしろと言うのだ」

「なら空海さんに寄進してやれよ。きっと喜ぶぞ」

「寄進のためだって触りたくない。私はお前と、お前の一族のためにやったのだぞ」

 低い笑い声が伝わってきた。

「……解ってるよ。この恩は忘れない」

「当分、こんな会い方もしない方が良さそうだな」

「必要ができたら、その時は考える。世話になったな」

 気配が消えて、秦良治はまた独りになった。




   三


 由加里は新幹線八条口の真ん前に車を止めた。視覚障害者誘導のために天下御免の全域駐車禁止除外を取っているので、道路の真ん中にでも停めない限りレッカーされる恐れはない。まだ鉄道警察の前にいる美夜子と女子高生を発見した。

「大丈夫だった?」

「ありがとうございました」

 真っ黒いセーラー服の女子高生が、深々と頭を下げた。

「等々力観名さん。高校生で巫女見習い中だそうです」

「へぇ、巫女さん? 美夜……」

 美夜子が、見えないように由加里の脇腹を肘で突いた。

「え~と……。これからどうするの? 泊まる所とか?」

「伏見稲荷さんに泊めていただくことになっています」

「今、車を持ってきたところだけど、伏見さんまで送っていこうか?」

「い、いいえ。そんなことまでしていただいては、申し訳ありません」

「うわー。すごい」

「……え?」

「さすが巫女さん。今時の女子高生そんなこと言えないよ」

 結局、女子高生巫女は送られることを固辞してタクシー乗り場に向かった。

「何か問題あった? 巫女ってバラすの」

 由加里は横目で彼女が乗ったタクシーの特徴を確認しながら、車まで急いだ。

「何となく、まだ伏せておいた方が良いような気がしたの」

 美夜子はまたシートベルトに苦労している。

「伏見稲荷って、どこに泊めてくれるの?」

「参集殿だと思うけど、たぶん行けないと思う」

「何で?」

「あの子。何か仕掛けられてた」

「うわー。ヤバそ気ー」

 女子高生が尾行を気にするはずもないので、由加里はお構いなしにタクシーのすぐ後ろに付いた。河原町通りを南に下っていく。

「行けないって、どんな妨害してくる?」

「それは狐のやることだもの……」

「化かす?」

 鴨川を渡った。

「お? おー。おー……。どこ行く気かなー?」

「なに?」

「いま、交差点左に曲がらなくちゃいけないのに真っ直ぐ行った。これじゃ伏見の駅行っちゃうよ」

「始まったようね。きっと運転手さんも化かされている。……由加里さん、何かないの?」

 由加里は手探りでコンソールからシリアルバーを出して、前を見たまま左手と歯でパッケージを剥いて渡してやる。

「なに? これ」

「シリアルとナッツとドライフルーツ」

「やだ。歯にくっつく」

「今あるのはそれだけ、嫌なら食うな」

「ダイエットのは由加里さんだけでいいのに」

「うるさい!」

 女子高生を乗せたタクシーは、伏見の駅前を通り過ぎ、京阪の踏切を渡った。

「おーい。どこ行く気かな?」

 カーナビを操作して、行く先を見た。

「藤森神社?」

「……たぶんそこね」

「巫女さん、どーしますかー? 今のうちに決めてください」

 美夜子は拳を唇にあてて、しばらく考え込んでいた。

「もう着くよ」

「仕方ないわ。あの子の身の安全確保する」

「何やるの?」

「猫だましで充分よ」

「えーと。ってことは、私がやるのかな?」

「私じゃあの子に追いつけないし、できたらこっちの手の内見せたくないの」

 前方でタクシーがハザードランプを点滅させた。やはり藤森神社だ。由加里はライトを消してスモールだけにして、ゆっくりと鳥居の手前に停めた。参道に入っていく観名の姿が闇の中に紛れようとしている。

「あんな制服着るな、もう!」

 藤森神社は参道で馬を走らせる神事が行われるために、参道の巾が非常に広く、長い。そこを真っ黒いセーラー服を着た女子高生は、何の疑いも感じないように歩いていく。

「何なのあれ。伏見稲荷と違うってわからないの?」

 追い越して前に回り込んだ。

「あ……。山本さ……」

「めざまし土曜日っ!」

 そう叫んで観名の顔の前で思い切り手を打ち合わせた。観名は飛び上がり、一瞬硬直した。まさに猫だましだ。

「起きた?」

「あ……。え?」

 観名は、そこで初めてここが伏見稲荷とは全然違うことに気がついた。

「ここ、どこですか?」

「藤森神社ってところ。全然気がつかなかった?」

「私……。伏見稲荷さんに来たと……」

「どうやら、運転手さんも狐に化かされたらしいよ」

「え?」

「一緒においで。伏見さんまで送ってあげるから」

「あ……。はい……」

 観名は何が何だかわからないまま、とりあえず付いて行こうとしたが。鳥居の真下で観名の足は止まってしまった。

「ん? どうしたの?」

 由加里に訊かれたが、説明できなかった。自分は歩こうとしているのだが、鳥居から先に行くことができないのだ。

「あの……。あれ? どうしたんだろ?」

 無理に足を出そうとすると、激しい動悸と冷や汗が噴きだした。助けを求めるような観名の表情に、由加里は自分では手に負えない異変を感じた。

「ここから絶対動かないでね。いい!」

「はい……」

 由加里は全速力で車に戻り、引きずるようにして美夜子を連れてきた。幸い観名はまだそこに凍り付いていた。

「観名さん、動けないの?」

「はい」

「後ろは? 後ろ向きに一歩」

「歩けます」

「もう一度こっちに」

 観名はもう一度鳥居まで来たが、やはりそこで足が止まってしまう。

「由加里さんは普通に入って、出て来たのね?」

「うん。何ともなかった」

 美夜子は首を傾げて考えている様子だった。白い杖で地面を突いた。

「これ、アスファルト?」

「そう」

 また首を傾げた。

「左右に、何かある?」

「ここは鳥居の真下だから、左右は柱。柱の前後に灯籠ある」

「前後ってことは……。四つあるってことね?」

「そう」

「ここ灯籠の交叉するところじゃない?」

「交叉? あー、バッテンの線? そうだね。ちょうどそこで止まってる」

 美夜子は小さく息をついた。

「護法陣に捕まったのね。観名さん、出る時だけ正中通ったのね」

 『正中』は参道などの中心線、神殿などの真正面のことだ。通常は神様に対する礼節として、そこは通らないようにする。

「入るときは、ちゃんと正中は避けました。でも出るときは何だかぼーっとしていて……」

「あ……。引っ張り出す時、忘れてた」

 美夜子は観名の前に立った。それもほとんどくっつくように。

「あれ……。観名さんって、もしかして大きい?」

「私より大きいよ」

 美夜子は手をさしのべて、観名の頭の位置を確かめた。

「観名さん、絶対動いちゃだめよ。藤森さんには失礼になっちゃうけど、一瞬護法陣切らせてもらうしかないわ。由加里さん引っ張り出してね」

「了解」

 美夜子は足を少し前後に開き、白い杖を刀か何かのように構えた。杖のグリップをぐいとひねると、中から細い何かが滑り出てきた。それは外灯の光を反射して鈍く光った。それが小さな刀だと解って観名はぞっとした。同時に、美夜子は前に踏み出した足で地面を二度、蹴りつけるように踏んだ。

「はいっ!」

 かけ声と共に刀が観名の頭を目がけて振り下ろされ、観名は思わず目をつぶった。

「由加里さん!」

「はいよっ!」

 腕を思い切り引っぱられ、観名は鳥居の下から引き出された。美夜子はその場で杖を腋にはさんで手を合わせた。

「失礼申し上げました。お許しください」

 一礼すると振り返った。

「さあ。逃げましょう」

 観名は有無を言わさずパジェロミニの後席に押し込まれた。

「あの……。美夜子さん……。もしかして……。サニハ、ですか?」

「そうですよ。でも、どうしてその名前知っているの?」

「いえ……。ちょっと……」




     四


 お上から東寺を下げわたす旨が空海に伝えられたのは、弘仁十四年の正月だった。その時の東寺はまだ伽藍も整備されておらず、だだっ広い敷地に本堂といくつかの建物がぽつぽつ並んでいる程度のものだった。

 空海はただちに普請を開始、深草に大量に備蓄してあった木材を丸太のまま曳き、あるいは現地で加工して輸送を開始した。図面はすでに完成して、大量に写しておいたのだ。それぞれの木材を敷地のどこに運び入れたら良いのかまで指示されているから、輸送の列は深草から東寺まで繋がってしまったが、停滞も混乱も全く発生しなかった。

 その四月のことである。自室にいた空海に弟子が遠慮がちに声をかけた。南の門前に異形の物たちがたむろって居ると言うのだ。

「稲荷のものだと……、言っているらしいのですが」

 空海が門に来てみると、門の外はお祭り騒ぎであった。唐風と見えなくもない衣服に身を包んだ大柄の老爺が朱の椅子に腰掛け、傘を差し掛けられている。周囲には、これも何とも珍妙で派手な衣服を着けた女性や子供が侍り、さらには稲束を山のように担いだ男達が並んでいる。

 空海はあまりの光景に眉をひそめ、それから笑い出した。

「これはこれは、いつぞや稲荷山でお会いした御仁ではございませぬか。お懐かしい」

「空海どの!」

 集まった物見高い民が腰を抜かすほどの大きな声だった。

「お上より東寺を賜ったと聞き。この柴守長者、稲荷の山よりお祝い申し上げねばと参じましてございます」

『ちゃん』と賑やかな鉦が鳴って、女達が詠い始めた。何とはなく唐風の曲に聞こえるが、良く聞けば稲荷祭文である。鈴を鳴らしながらひらひらと舞う女たちを見物の民も囃したて、南門前は大騒ぎになってしまった。

京職がやって来て面倒なことになる前に、空海は騒々しい一行を東寺の中に入れ、門を閉じた。

「柴守長者とは、どこで拾った名前だ?竜頭太」

「稲荷神のご利益で、裏の竹藪から銀が涌いて財を為したことにしておりますので。まあ適当に考えた名でございます」

「しかしそのひどい有り様は何事だ。笑ってしまうではないか」

「我ら長年の山暮らしで、都に馴染むのは無理と解りましたので。それなら、変ななりでも民に不審がられない異人になってしまえば良いと秦良治に言われました。山から下りて河原者では、あまりにも甲斐のうございます」

「知恵とは生きるために使うもの、それでよい」

「これで空海様の後ろ盾があれば、大きな顔をして京を歩けます」

「こやつめ、悪知恵まで付きおったな。私を利用するつもりか」

「寄進も充分させていただきます」

「その銭はどうした?」

「山より出たものを換えました」

「ふーむ」

 空海は腕を組んで少し考えた。

「私は今、お上から二万貫も銭を頂戴したので懐は暖かい。その銭は、お主たちの身が立つような使い方を私が考えてやろう」

 柴守長者こと竜頭太こと荷田頭太とその一族は、空海に向かって平伏した。

「その代わり、お主たちは稲荷の一族だ。そう名乗ってしまったからな」

「……はあ」

 稲荷山から来たとは言ったが、稲荷であると言った覚えはない。柴守長者こと竜頭太も、そこまであつかましく語る気はなかった。

「とりあえず。二、三日すれば物見高い民も散るだろうから、それまで東寺の中におれ。実恵はおるか!」

 弟子がすっ飛んできた。

「近くに十人ほど入れる堂はないか?」

「八条猪熊にある観音堂が広いですが、あそこには房がございません」

「房などいらん。そこで寝泊まりするわけではない。観音堂の横に、そこそこの大きさの稲荷社を建てろ。職人が足りなければどんどんこっちから回していい」

「は」

 合掌して頭を下げると。足音もなくもの凄い速さで去っていった。

「あの堂は、二階堂の観音だったな。明王様なら都合が良かったが、まあ無難なところではあるな……」

 頭太たちは何のことだか分からず、顔を見合わせるばかりだった。

「二階堂に稲荷社ができたら、お主たちはまた見せ物をやりながらそちらへ移れ。ちょっと芝居をやってもらうことになる」

「……はあ」

 深草では、空き地になってしまった空海の資材置き場を農地に戻す作業が始まっていた。もうひとつ、稲荷山山麓の空き地はさらに拡げられることになった。秦本家から指示があったのだ。

「稲荷社を、山麓に移すのですか……」

 それも空海が設置した山道を利用して山麓一帯にいくつもの社殿を建てるという、かつて見たこともない神社だった。本家から届けられた図面、その社殿を建てる場所を見れば何が目的であるのか、秦良治には一目瞭然だった。

「これでは……。墓を全部潰すことになりますが」

「うむ……。これはひどい。何でわざわざこんなことを」

 伏見で増えた丹に気がついた者が、伯父の他にもいるかも知れないということだ。

「これは……。私にはとてもできません」

「私も正直なところ、逃げ出したいよ。どんな祟りがあることか……」

 しかし、都合の良いこともないわけではなかった。良治たちが深草南部と大岩山一帯の整備に忙殺されているために、ここ一年ほどは稲荷山に構っている余裕がなかったのだ。と言うことは、荷田の息子たちが好き勝手に掘り返してしまった可能性がある。

 果たして、現地を調べに行くと予想通りのことが起こっていた。墓も祠も全て掘り返され、稲荷山は再び半分方荒れ山となりかかっていたのだ。

「救いようがありませんね、荷田の馬鹿息子たちは……」

 秦良治はうんざりした口調で山を見上げた。また山肌整備と植樹のやりなおしである。いっそ、やならい方が良いかも知れない。

「しかしこれなら、心おきなく普請ができるぞ」

 時間の無駄でしかないが、一応荷田の息子たちには抗議に行かなくてはならなかった。予想していた通りの罵詈雑言を浴びせられ、泥棒呼ばわりをされた。泥棒は墓を掘った連中であるはずなのだが。

 荷田の、里の一族とはそろそろ決別すべき時だった。

「伯父上……。普請は手伝いますが、荷田の一族が既に墓を荒らしてしまったこと。良く本家に伝えておかないと後で大変ですよ」

「そうだな……。誰か、本家の執事にでも来てもらおう」

 二人は本家から来た図面の写しに、現地の山道と樹木の状態を書き加えていった。図面の端には「藤森稲荷宮」と計画名を書き入れた。

 その頃、都の南八条房門猪熊ではまたもや馬鹿げた大騒ぎが行われていた。東寺にやってきた稲荷神の一行が、空海の薦めに応じて二階堂観音堂に移ると言うのだ。ひと目見に集まった民と貴族の牛車が通りを埋め尽くし、稲荷神と空海を乗せた輿の列は半里ほどの道を進むのに一刻を要した。

 二階堂観音は二階堂稲荷社と改められ、そこでは二日に亘る法要が営まれた。見物と参拝に訪れる人は一日中途切れることもなく、寄進の品物は堂に収まりきらなかった。

 その噂は当然深草にももたらされた。

「聞いたか良治。東寺に稲荷神がおいでになったそうだが」

「どうしてわざわざ空海殿のところに行くのか、妙なことですね」

「何がおかしい?」

「いえ……。その稲荷神、私が知っている誰かである気がして仕方がないのですよ」

「なに? すると、偽物か?」

「いえいえ。もう空海さんの手で法要までされてしまったから、誰が何と言っても本物です」

「するとここの稲荷宮はどうしたらいい?」

「大丈夫です。私の勘が当たっていれば、そのうち東寺から何か言ってくるはずです。ここの本殿は早く格好を付けておいた方が、都合が良いでしょう」

「なぜそこまで自信があるのだ?」

「そりゃぁ……。私は空海さんと直接会いましたから。あの人は誰かと出会ったことを絶対に無駄にしません」

 良治の言葉通りに。半月もしないうちに、東寺から使者か来た。この稲荷宮を東寺鎮守と定めたいとのことだった。程なく普請の入り費として五千貫の銭が届けられたが、これは二階堂稲荷社へ納められた賽銭だった。

「言ったでしょう伯父上。空海さんは誰でも味方にして、上手に使ってしまう名人なんですよ。さあ、空海さんのために大急ぎでやりましょう」

 こんな愉快な気分になったのは、何年ぶりだろうと秦良治は思った。


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