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Since711AD  作者: 胡堂 瞬
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都詣で

 深夜になって。武藏の国、国立谷保では祓いの儀式が始まっていた。馬が倒れるほどの鎮静剤を飲まされていながら、観名とそれほど変わらないように見える少女は意識も失ってはいなかった。よくあるように意味のわからない言葉を吐き散らすことも、暴れることもなかった。連れてこられて、注連縄の中心に座らされる時にだけ少し嫌がる素振りを見せたが、その後は気味が悪いほどの行儀良さだった。しかし。

「これは……」

 雅恵が呻いた。異様なのはその眼だった。眼だけが人間のものではなかった。

「間違いなく眷属ですね。これは……」

「篤司は……。神主は?」

「これは神職の仕事ではありません。このための特別な巫女が行います」

 怪異の目と睨み合いながら、雅恵が言った。観名はすでにこの雰囲気に呑まれてしまって、身動きもできないでいる。

 付き添ってきた家族を授与所に下がらせた。神楽殿の周囲には万一に備えて氏子が数人控えているが、中は狐に憑かれた少女と雅恵たち三人だけである。

澄んだ金属音が響いて、観名は自分を取り戻した。雅恵が小さな鐘を鳴らしたのだ。

「本体眞如住空理寂静安楽無為者……」

 稲荷心経である。覚えたての観名も経に唱和した。

その観名に向かって怪異がちらりと視線を送った。それだけで観名の背中に冷たい汗が噴き出した。叔母はこんな怪物をどうするつもりなのか。

 稲荷心経が終わると、雅恵は合掌したまま怪異に向かって話しかけた。

「ウカノミタマノカミトヨウメノオオカミに仕える眷属とお見受けしましたが。いかに?」

 少女の唇が開きかけたが、その間から舌先が覗いただけで言葉は発せられなかった。またちらりと観名を見た。それが何となく自分を嘲笑っているような感じがして、観名はひどく不愉快になった。

「眷属であろうと人に害をなすのであれば、畏れ多くも稲荷神の名にかけて、沙庭の者がお鎮め申し上げます。おそれながら御霊符にお戻り願えませでしょうか。私どもが伏見稲荷までお還りのお供を仕ります」

 少女がほんの微かに笑みを浮かべた。かすかに唇を開いたまま、その両端が吊り上がったのだ。雅恵は睨み会ったまま、深く息を吸い込んだ。

「ちぃーはやぶるーいーなーりーのーみぃーやーのーしるしにはー……」

 観名が思わずたじろいだほど、低くて太い声だった。稲荷の神歌である。注連縄の中で正座していた少女が、やや居心地の悪さを感じたらしい。さっきの邪悪な笑顔が消えていた。

 神歌が終わると、雅恵は観名にしか判らない目配せを送った。観名は黒い拍子木を取り上げて、一度打った。また耳の中に痺れるような余韻が残った。

「おんーー、ぎやーくーそーわーか。だきーにーぎやてーぎやかーねいえいそーわーか」

 雅恵の声に合わせるように、一定のリズムを刻むことをこころがけて、ひたすら拍子木を打った。耳の中がじんじんと痺れるような拍子木の音と、何度も何度も繰り返される単調な真言。観名は次第に意識が薄れて、体が自分から離れて勝手に動いているような錯覚に陥っていた。

 そのまま十分も経っただろうか、注連縄の中にいる少女が何か熱にでも耐えかねたように体を反らし、顔を観名に向けた。怪異の目をまともに覗き込むことになって観名は一瞬たじろぎ、すぐに腹に力をこめて睨み返した。

 観名を脅すように少女が「かっ!」と息を吐くのと、雅恵が『お鎮め』を取り上げて抜き放つのと、観名のみぞおちあたりで携帯が振動したのと。それがほぼ同時だった。ぎちぎちに着こんだ装束の下で震えた携帯は、観名の集中力を絶ち切った。

「おんだきにばさらだどばん七難即滅おんだきにあびらうんけん七福即生!」

 雅恵はそう叫んでお鎮めを少女の脳天に向けて振り下ろした。


 翌朝、観名が立川駅で乗り換えた青梅特快東京行きは、既に通勤タイムに突入しているためにひどい混み方だった。さらに国分寺で荷物挟まりと中野で車両点検があったために三〇分以上も遅れ、ようやく東京駅に着いた時には観名は立っているのもようやくの状態だった。

 お祓いは成功した。お鎮めは少女の脳天から一センチにも満たないところで止まり、少女は白目を剥いて仰向けに倒れた。しばらくして意識を取り戻した時、少女の眼は人間のものになっていた。そこに居た他の誰にも変わった様子はないので。眷属は多分めでたく御霊符に戻ったのだろうと言うことになった。しかし観名はひとつ気にかかることがあった。儀式の最中に、確かに着信のバイブレーションがあったのだが、メールも通話も着信した記録が残っていないのだ。

 と言っても、そんなことを気にしている余裕などありはしなかった。お祓いを受けた一家が帰ってからも儀式が続き、全てが終わったのが午前四時。巫女超過勤務から解放されてシャワーを浴びて、眠ることができたのはわずか一時間ほどで、またすぐに巫女の通常業務が待っていた。

「死ぬ……。もう死ぬ……」

 巫女としての禁句を呟きながら何とか境内の掃除をこなして授与所に戻ると、厳重に封印された和紙の封筒が入った風呂敷包みを渡された。

「これって……。もしかして」

「その『もしか』よ。伏見稲荷に持って行って、供養してもらってきて」

 観名は頭が働かず、数秒ぼんやりとそれを眺め。ふいに気がついた。

「私がですか?」

「体が空いているのは観名だけなの。伏見さんには連絡しておくからね。今から行けば夜には帰ってこられるはずよ。はいこれ新幹線代」

「……新幹線って、どこで切符買うんですか?」

「駅に決まってるでしょ」

 働かない頭が完全にパニックを起こしていた。

「何着て行ったらいいんですか?」

「そんなこと……。制服着て行きなさい、一番無難だから」

 自分で考えろなどと言ってしまったら、今の観名の場合そのまま巫女装束で行ってしまう恐れがあった。

 そのような事情で、往復の旅費とお弁当代と非常に大ざっぱな行き方のメモを渡されて、観名は東京駅の中央線ホームで既に限界を迎えていた。

 自動販売機で水を買ってひと口飲み。少しでも気分が回復してくれるように願った。少し頭がはっきりしてくると、この理不尽な状態に対して腹が立ってきた。休みに入ったばかりで、友人達は開放感に浸っているだろう。自分は開放どころか介抱が必要な体調で、京都までの日帰り出張だ。

 せめて誰かに愚痴を聞いて欲しいと思って携帯を取り出した時、何かが着信した。画面を見て観名は不審そうに眉をひそめた。電話の着信らしいのだが、画面には何も表示されていない。『番号非通知』の文字すら。昨夜から携帯の調子が何か変だ。

「……もしもし?」

「これ!」

 聞き覚えのない声にいきなり怒られた。

「…………誰?」

 誰かの悪ふざけかと思った。

「ようも儂をたばかったな」

 聞き取りにくい声であった。

「……たば?」

「これ。聞いておるか」

「聞いてる。誰よ?」

 意味もなく周囲を見回してしまった。当然誰も観名に注意を払う人などいない。

「主に取り憑こうと思ったのに、これは何としたことぞ。ええ口惜し!」

「ちょっと。何わけわかんないこと言ってるの?間違い?」

「まだ解らぬようだの?」

「いい加減にして。忙しいんだから」

 切ってショルダーバッグにしまい込んだ。

 中央線ホームからコンコースに降りて、人密度のすごさにまた目眩がした。突き飛ばされたりあらぬ方向に押し流されたりしながら、ようやく新幹線乗り場にたどり着いた。付いたは良いが、どうしたら良いのか解らなくて途方に暮れた。

 ようやく切符を買わなくてはいけないことに気がついて窓口列に並んだ。今度こそ誰かに愚痴を聞いて貰いたくて、友人の番号を呼び出して携帯を耳に当てた。

「これ!」

「ひ!」

 またさっきの声だった。思わず小さな悲鳴が出て、前に並んでいた男性が観名を振り返った。

「ちょっと。やめてよ!」

「話しを聞け」

「うるさい」

「京に行ってはならぬ」

 観名は固まってしまった。

「……何で知ってるのよ。って言うか、……あなた誰?」

「やっと話しを聞く気になったか」

「聞いてあげるからもう二度とかけて来ないで。着拒するわよ」

「チャッキョが何か知らぬが。その札を社に持っていったところで、何にもならぬぞ」

 観名はまたしばらく固まり、前が空いたところでようやく我に返った。

「どうして?」

「その中には、もう何も入っておらぬ」

 そこで発券のカウンターが空いた。

「京都……。あります?」

 頭が混乱して意味不明なことを口走ってしまったが、京都はまだ存在していたらしく無事に三十分後の指定席を取ることができた。

 ホームの待合所で椅子に座ると、また目眩プラス眠気と戦わなくてはならなかった。気力がやや回復すると、深呼吸をひとつして携帯を耳に当てた。

「あなた……。狐さん?」

「いかにも」

 別の目眩がして片手で顔を覆った。夢であれば良いのだが、どう考えてもこれは夢ではない。

「あの……。お願いがあるんですけど」

「何じゃ?」

「私の携帯返してください」

 他の人に聞こえないように、極めて小さな声で話した。

「ケイタイとは何じゃ?」

「あなたがいま話しをしている、これです」

「返すも何も、今主が手に持っておろ?」

「いや、そんな意味じゃなくて。……だいたい何で携帯に入っているんですか?」

「好きでこんな得体の知れない物に入るものか。主らがたばかりおったのじゃ」

「あー。やっとわかった」

「何がじゃ?」

「『たばかる』って、時代劇とかで使うセリフだ」

「主が話しておる言葉も意味が解らぬの」

「ですから……。あの……。済みませんけど。携帯から出て、お札の方に移っていただけませんか?」

「できぬ」

「お願いします。あぶらげお供えしますから」

「たわけ! そんなことではないわ」

「じゃぁ何ですか?」

「主は自分で加持を行っておいて、そんなことも解らぬのか! 儂がどこかへ移るには作法が要るに決まっておろうが!」

「……そうだったんですか?」

「……主はとことん儂をたばかっておるのか? それとも極めつけの馬鹿者なのか?」

「いえ。普通です」

 答えながら、自分がひどく間抜けになったような気がしてきた。さっきから待合所にいる人の何人かが観名の方をちらちら見ている。

「あの……。どうしたら良いんですか?」

「ようやく話しが通じるようになったの」

「友達と話しができないと、もの凄く困るんですけど……」

「話しを聞くか? たわけ者」

 稲荷神社にとっては大事な眷属とはいえ、狐に馬鹿にされるのはひどく心外だったが、ここは黙って聞くしか方法はなさそうだった。

「……聞きます。でもあの……」

「何じゃ」

「狐さん……。お名前……」

「たわけ!」

 怒られるのは一体何度目だろうか。

「お主のような痴れ者に名前を知られてたまるか」

「何でですか?」

「……お主本当に巫女か?」

 他の人たちの視線が非常に気になってきたので、待合所から出てホームの端まで移動した。

「済みません……。見習いです」

「何年見習いをやっておる」

「……四年、かな?」

「それでまだ見習いか?」

「だって……。学生ですから」

「よく解らぬが。お主巫女には向いておらぬな」

「……何となく自分でもそう思っていました」

 自分が乗る新幹線がホームに入ってきたので、観名はしばらく考えて、乗る車両のドア付近まで移動した。狐さんには怒られているばかりで話しは全く進展していない。

「あの……、それで。お話しって何でしょうか?」

「もうよい。お主と話しても甲斐なきことじゃ」

「かい?」

「これだけは言っておくが、京へは行くな。よからぬことが起こる」

「え? どんな……」

 聞き返したときには音声が途切れていた。腹立たしいのと困惑でしばらく携帯を睨んでいた。画面はいつもの待ち受けに戻っている。このことを叔母に報告した方がいいのかどうか迷ったが、どうせ事実を話しても信じて貰えないと考えてやめた。自分でもまだどこかで信用していない。

 機能が復活した携帯でメールを打っている間に発車のアラームが鳴ったので、観名は慌てて乗り込み座席を探した。三列シートの通路側だったが贅沢は言っていられない。バッグをシート下に押し入れ、風呂敷包みは膝に乗せた。眠ったら京都で降り損なうのではないかと心配になったが、その時点で観名はすでに眠っていた。

 



     二


 鳶が、目の下をゆっくりと舞っていた。昨日は三羽だった、その前は五羽だった。今日はまだ一羽きりだ。

 荷田頭太、柳頭太はただ独り山の中を放浪していた。今はもう昔の手下も散り散りになってしまい、藤森の山を支配する力も失われた。実際には何かをする必要などなくなってしまった。荷田承が山に来て詫びたのだ。今度二度と山に手を出すことはないと。近江側の山の民もやって来ることはもうない。

 要するに柳頭太がすることは何もなくなってしまった。数少ない山の荷田一族は、特に何をしなくても山の物で充分に暮らして行ける。しかしただそれだけのことだった。以前は面白くないことがあれば里に押しかけて暴れたものだが、今はそれすらできなくなってしまった。 


 僧に気がついたのは、もう五日も前のことになるだろうか。山の中腹に突き出た大きな岩の上に座っているのを見かけたのだ。修験者が同じようにして何日も座り続けているのを見たことがある。

 何もすることがないので、僧が何をするのか一日見ていた。岩の近くにさしかけ程度の粗末な小屋が造られていて、そこに若い僧が一人だけ詰めているらしい。僧は日の出とともに岩に出て座り、日が落ちると小屋に戻って眠る。食べるものはどうやら粥だけらしい。

 ある日、座っている僧の後ろに立ってみた。気配は消していたので小屋にいる僧には気付かれることはなかった。そのまま僧の後ろに座ってみた。

「おい、坊さん」

 我慢できなくなって声をかけてみた。下にいる若い僧がようやく気がついて声を上げた。

「いいのだ最明。この御人は私に用があって、もう何日もここに来ていたのだ」

 本当に自分の気配を察知していたのなら、この僧はただ者ではなかった。

「坊さん。ここで何をしているのだ」

「何もしておらん、……と言っても解らないだろうから。解るように言ってやると、修行をしておる」

「何もしていないじゃないか」

「だから言ったであろう。何もしておらんと」

 馬鹿にされているのかと思ったが、僧の様子はそんな雰囲気ではなかった。

「なぜ俺の気配がわかった。動物にだって気付かれることはないのに」

「それはお前が人だからだ。お前は私に興味を持った、それで何日も私を見にやってきた。そこに私とお前の繋がりが産まれた。だから私にはお前がわかる」

「坊さんの言うことはわけが判らんな」

「これ!そのお方は……」

「うるせえ! お前に用はない! 引っ込んでろ」

 尻餅をついた若い僧を無視して、荷田頭太は山刀を抜き峰の方を僧の肩に軽く乗せてみた。何の反応もない、切り株にでもあてたような感じだった。

「俺は……。竜頭太という」

 秦良治に見抜かれた、本当の名を言ってみる気になった。

「『りゅう』はどの字を充てる、頭太とやら」

「神様のお使いの竜だ」

「では漢の国の血筋の者だな。今では唐の国だが」

「何でそんなことを知っている?」

 頭太は山刀を収めた、ひどくつまらないことをしてしまった気がした。

「唐の国に行って、帰ってきたのでな」

 騙そうとしているのではないかと考えたが、そんな嘘を言ったところで何の意味もない。たぶん本当のことなのだろう。鳶はいつのまにか増えて三羽になっていた。

「そんな偉い坊さんが、何でこんな場所で修行なんかしている」

「寺にいれば詰まらん用事で人が会いにやってくる。雑多な仕事もこなさねばならん、馬鹿な弟子に教えも垂れなければならん。おちおち物を考える時すら持てぬのでな。逃げて来るのだ。ここなら誰も来はしない」

「そうか。それは邪魔したな」

「お前が私のところに来たのには意味がある。それを考えてみよ竜頭太。私はもうしばらくここにはいるだろうから」

「坊さん、あんたの名は?」

「誰でも良い、しかしそれでは呼ぶのに困るだろうな。空海という」

 竜頭太は岩から飛び降り、木立の中を走った。

「まだ俺が生きていることに意味があるだと?」

竜頭太は、山を放浪するのをやめた。未練たらしく山や田の修繕を覗きに行くのもやめにした。森の奥に、どこからも見られることのない岩を見つけ、その上に座った。何をしようと言うのでもない。空海を真似て、ただそうしてみた。

 何をするのも無駄に思えてきたのだ、しかし空海が言った『意味』が常に頭から離れなかった。

座したまま日が暮れた。見える物は葉の間からの月と星の光だけだ。鹿が通り、頭太に気がついて逃げていく。狐か狸が密かに草の陰から様子を伺い、静かに去っていった。

「俺はどうしたらいい?」

 眠ったのかどうかも解らないまま、夜が明けた。暗い朝だった。食べる物はなにもない。空腹だったが岩を降りなかった。雨が降り出した。空を向いて口で雨を受けた。空海も雨に濡れながら座っているのだろうか。それとも小屋の中で座っているのだろうか。

 小便はそのままそこで垂れ流した。足腰の苦痛はとっくに通り越し、感覚すらなくなっていた。人間どんなことにも慣れるものだと頭のどこかで感心していた。

 雨が上がり、わずかに夕焼けの光りが射して。夜になった。

「俺はどうしたらいい?」

 言葉にしたつもりだったが、口は動いていなかった。夜が明け、何かを採りにやって来た里の者がすぐ近くまでやってきた。岩を見上げて初めて頭太に気がついた。腰を抜かして、這って遠ざかり。ようやく悲鳴を上げて転げるように山を降りていった。どうでも良いことだった。

 鹿が、すぐ近くを歩いていった。今度は頭太に気づきもしなかった。猪が通り、狐が通った。どれも頭太のことは目に入らないらしい。もしかして自分は既に死んで、岩の一部になってしまったのではないのか。そんな気もした。

 しかし、それも既にどうでも良い気がした。死んでしまったのなら、ただそれだけのことだ。また日が暮れ、夜が明けた。

 背後で軋む音が起こり、枯れた木が倒れてきた。それは頭太の岩をかすめて、轟音と木片と土埃を巻き起こした。不思議なことに、自分はそれを見ていた。

 木が自分に倒れかかってくる様を見て、下敷きになって死ぬならそれまで。しかし多分死なないとだろうと思っていたのだ。

 辺りを白く煙らせた土埃が収まると、相変わらず頭太は岩の上にいた。その膝の上を、倒木から落ちてきたらしい虫が這っていた。頭太の手が、腕が数日ぶりに動き、ゆっくりと虫を追って動き。それをつまみ上げた。

 その虫が珍しい貴重な物でもあるように目の前に持ち上げて眺め、それから下の草むらに落とした。顔を擦ると、倒木の小さな破片が刺さっていた。黒く、垢で汚れた掌に血が付いた。

「やま……を……」

 唇も舌も、はりついたように動きにくかった。

「山を……、下りよう……」

 それから、時間をかけて頭太は岩から降りようとした。身動きするたびに全身から土塊と砂埃と、木の葉がこぼれ落ちた。最後には岩から転がり落ちた。全身の関節が硬直していたのだ。もがくように這って動き、しばらくして膝で進み、木の枝を持ってようやく何とか人の歩みになった。日が落ちる寸前に空海の岩にたどり着いた。

 今度は、若い僧も竜頭太を止めなかった。山の妖怪のような頭太の姿に腰を抜かしたのだ。空海はまだそこにいた。

「坊……さん……。空……海……さん……」

 頭太の声は、人の声というより風の音だった。

「ほぉ……、良い顔になったな。竜頭太」

「俺……、は……。山を……、お、りる」

「そうか」

「この山が……、あるから。この山が……、俺を縛っていた」

「全てを捨てるか、まあそれも良い」

「空……海……さん」

「竜頭太。水を飲め。これ、水を持ってこい」

 自分が倒れたことは判った。いま自分の眼に何が見えているのだろうと思った。空なのだろうか、地なのだろうか。


 藤森の地には、今は荷田の屋敷と並んで秦良治の屋敷が建っていた。正確に言えば住居緒部分はほとんどなく、現場事務所と倉庫と作業場なのだが。扱う人足の数と物資の量が膨大なので、規模は荷田の屋敷よりも大きくなっていた。

 今は大岩山の森林回復工事が始まっていて、荷田一族は秦良治の下で現場を統括する集団になり始めていた。

 秦良治が書類の仕事に忙殺されていると、何か人のざわめきが近づいてきた。そして駆け込んできたのは荷田承の息子で隆盛だった。

「良治さん。大変です。頭太が……」

 良治は筆を放り出して外に出た。今しも、荷田承が僧と話しをしているところだった。その僧の後ろには若い僧が付いていて、若い僧はなにやらひどい状態の人間を背負っているらしかった。

「承殿。何があった?」

「いや……。こちらの坊様が頭太を送り届けてくれたのだが……、頭太から稲荷山を寄進されたとおっしゃっているのだ」

「何……、ですと?」

 考えてもいなかった事態に戸惑いつつ、秦良治は僧の前に進み出て合掌し頭を下げた。

「深草の、土地の整備を任されております。秦良治と申します」

「私は空海と申すものです」

 秦良治の顎が、がくんと落ちた。慌てて膝を折って地面に平伏した。それを見てその場の全員が倣った。

 荷田承の客間に最も上等のしとねが出され、荷田承も秦良治も板の上に控えた。

「紀州から船でこちらに参りましてな」

 湯を上品にすすりながらも、希代の高僧は意外なほどの早口で話した。

「伏見から見て。以前はこの深草、ひどい状態だと思っておりました。それが太宰府に行っている間に見事に整備されている。感心しました」

 秦良治と荷田承が深々と頭を下げた。

「工事を取り仕切ったのはあなたですか」

 秦良治はまた頭を下げた。

「ついでに少し山の工事を見せていただきましたが、考えてありますな。最小限の資材を有効に使ってある。工事の手順はどのように?」

 空海は土木工事についてこと細かに質問し、秦良治はひとつひとつ答えた。

「なるほど……。いくつかに区切って、そこを短時間で一気に仕上げまで行ってしまうので、途中で雨が降ってもそれまでの作業が無駄になることがないということか。これは良いことを聞いた」

 全員が二杯目の湯を飲んだ。

「ところで……。あの竜頭太と申すもの。いろいろ複雑な事情を持って山にいたらしいが、あの者は稲荷山の頭領ということは確かですか?」

 荷田承と秦良治は顔を見合わせた。邪魔をするなとは言ったが、頭太を追放した訳でも山を取り上げたわけでもない。

「間違いございません」

 荷田承が答えた。

「ではあの者が申し出た山の寄進は有効と言うわけだ。お二人は証人と言うことにしてよろしいかな?」

 拒否できるはずもなかった。

「ではありがたく寄進を受けるとしよう」

 空海は合掌した。

「これから羅生門の近くの東寺を整備しなくてはなりませんのでな。木材はいくらあっても足りないところだった。あの山には良い具合の木がまだ充分残っているし、何より近いので助かる」

「……え?」

 秦良治と荷田承が同時に呻いた。

「その前に私は讃岐に行って、普請をひとつ片づけなくてはならない。それが終わったらまたこちらに寄らせてもらおう。世話になった」

 驚くほどの早さで歩き去っていく空海を見送ると、秦良治は荷田頭太が寝かされている部屋に駆け込んだ。

「おい! お前何てことをした」

「……ああ?」

「空海さん、稲荷山の木で東寺の建て増しをやるつもりらしいぞ。どれだけの木を持って行かれるかわかったものじゃない」

 力が抜けて頭太の横に座り込んだ。

「あの坊さん……、そんなに偉い人だったのか……。済まんな、……あんたがせっかく植え直してくれたのに……」

「馬鹿、そうじゃない。木はまた植えれば良いが、切り出した木を下ろすために山をあちこち削られるぞ。都合が悪いのはお前だろう」

 荷田頭太はしばらく天井を見つめ、やがてにやりと笑った。

「何だ……。あんたそんなことの心配をしていたのか」

「あたりまえだ」

「それなら大丈夫だ。俺が……。二年も山の中で何をやっていたと思う?」

「……移したのか?」

「ああ……。全部一人でやったから、大変だったぜ」

 秦良治はため息をついて座り直した。

「これも……、考えてやったことか?」

「いや……。何となく、気がついたらそう言ってた……。あれは空海さんに化けた狐だったかも知れないな」

 頭太は、がさがさした声で笑った。

「それで、これからどうするのだ?」

「それよ……。あんたに頼みたいことがある、あんたなら何でもないことだろう」




     三


 灯明が揺れる部屋で、観名は黒い巫女姿の叔母と向かい合っていた。観名の方はなぜか袴のない白衣姿だった。

「難儀なことにのぉ……」

 黒巫女が言った。叔母の声であるのかどうか、自信が持てなかった。顔がよく見えないのだ。しかし黒い巫女など、叔母と自分自身しか見たことがない。

「いかさま」

 電話狐との会話で、変な言葉遣いがうつってしまったのだろうか。自分の言葉とは思えなかった。

「どうしてよいのやら。まこと困り果てておりまする」

 自分は何を言っているのだろう。

「石の中で手も足も出ぬよりも、まだよろしかろう?」

「言葉だけではもどかしゅうございます。加えてひどく愚かな娘にございまして……」

「あれはまだ何も知らぬだけ。童も同様じゃ」

 笑いを含んだ声で黒い巫女が答え、観名はため息をついた。

「やつがれは……。どうしたらよろしゅうございましょうかの。あこめ殿」

 ここでようやく気がついた。自分は白い巫女と黒い巫女を見下ろすように立っているのだった。と言うことは、白い方は自分ではない。もうひとつ気がついた、黒い巫女は手を膝の上に揃えているが、手はひとつしか見えない。片方の袖は肩のところから垂れている。左の腕がないらしい。

「今ごろ難儀するくらいなら、さっさと祓われてしまえば良かったのじゃ」

「それは殺生にございます、満足に勤めも果たせぬままにございますれば」

「それは奉りを怠った家の者が責めを受けることじゃ。まこと受けてしまったな」

「心苦しゅうございましたが、致し方もなく……」

「そなた……、京に行ってはならぬと言っておったな。なんぞ見たのか」

「西方に鬼難の気が見えまする」

 黒い巫女が笑った。

「鬼難ならばすでに主が憑いておるではないか」

「お戯れを。京の鬼どもはたちが悪うございますぞ」

「都も早や千年を過ぎておるからの。悪しき物が溜まりに溜まっておるのじゃろ」

「やつがれが都を立ちました頃も、すでに都は地獄の有り様にございました。あの時から、いろいろと引きずって来てしまったのやも知れませぬ」

「ではあの見習い巫女を護ってはくれぬか。あれも私に仕えてくれている者故」

「あこめ殿に頼まれて、否とは申せませぬなぁ」

「よろしく頼むぞ」

 黒い巫女が蝋燭を消し、部屋の中は闇に包まれた。

 観名は喉の渇きで目が覚めた。膝から落ちそうになっていた風呂敷包みを乗せ直し、バッグからミネラルウォーターを出してひと口飲んだ。飲みながらふと窓の外を見て、新幹線がやけにのろのろ走っていること、窓の外が何か薄暗いことに気がついた。腕時計を見ると、何と三時半を指している。

 血の気が引いた。京都を通り越してはるか先まで来てしまったと思ったのだ。

「すみません……、いま……。どのあたりですか?」

 通路を挟んだ向かい席の男性に、少しビブラートがかかった声で聴いてみた。

「さっき岐阜羽島を通ったところだから、もうすぐ米原だね」

「すみません……。米原って、京都の前ですか? 後ですか?」

「米原の次が京都だよ」

 安堵のあまり一気に力が抜けた。しかし予定が大幅に狂ってしまっていることには違いがない。とりあえず叔母に連絡しようと携帯を取り出して、電話の着信が五件もあるので焦った。着信記録が見られるということは、電話は普通に使えるはずだ。デッキに出て慎重に、一度耳に当てて狐の声が聞こえないことを確かめてから着信履歴にかけ直した。

「観名? 何やってたの! 心配したじゃない」

 やはり怒られた。今日はよく怒られる日だ。

「ごめんなさい……。爆眠してました」

「まあそれは仕方ないけど。今どこ?」

「あの……。新幹線トラブってるみたいで、まだ京都着いてません」

「ええ?」

「さっき、次は米原だって……。あ、いま米原って駅通ってます」

「ちょっと……。今、三時……、四〇分でしょ。何時に京都着くの?」

「わかりません」

「車内アナウンスで案内してるでしょ」

「すみません、さっき起きたばっかりで。聴いてません」

「ちょっと待ってね」

 恐らく、京都に着いても伏見稲荷の社務所が開いている時間には間に合わないのだろう。どうするのか、宮司と相談しているのかも知れない。ゆっくり通り過ぎる田んぼや瓦屋根を眺めながら、かなり待たされた。

「ごめんね観名。あのね。伏見さんにお願いして、そっちに泊めてくれるようにしてもらうから、京都駅に着いたらタクシーで伏見稲荷さんに行って。電車は使わないで」

「え?」

 観名は日帰りのつもりでいたので、着替えも何も持って来てはいない。

「伏見さんに着いたら、何が何でもあの御札を向こうの人に渡しちゃうのよ。文句言われてもなんでも。いい?」

「は……、はい……」

 何かただ事でない何かが起こっているのは、叔母の声で解った。狐の『京へ行くな』の意味が激しく気になった。

「京都駅と伏見さんと、着いた時点で必ず電話入れるのよ。絶対よ。いい?」

「はいっ」

 電話が切れると、観名はそのまま携帯に話しかけてみた。

「……狐さん?」

「なんじゃ?」

 やはり夢ではなかった。

「あの……。ゆ、夢の中で……。さっき。狐さんと、あこめさんが。話しているの……。何って言うのか……、あの……。聞きました」

「聞かせるために話しておったからのぉ」

「そうなんですか……。それで、あの。京都に行っちゃいけないって……。具体的に何が起こるんですか?」

「それは。あれが起こるこれが起こると、一つずつ教えてほしいということか?」

「はい……。それがわかったらすごく助かるんですけど」

「……まあ、そう言い出すとは思っておったが。無理じゃな」

「たぶんそうだと思いました、聞いてみただけです。でも『きなん』って何ですか?」

「ほぉ、覚えておったか。文字で書けば『鬼の難』じゃ。坊主が使う言葉でな、霊やら魑魅魍魎、得体の知れない悪いものに憑かれたり祟られたりすることじゃ」

「私、京都行ったら憑かれちゃうんですか?」

「そう見えた。だから行くなと申した」

「何かちょっと話し方雰囲気違うのは、あこめさんに頼まれたから?」

「うるさい。気易くあのお方の名を呼ぶでない」

 正直なところ観名も京都に行くのは気が進まなかったが、もう目の前まで来てしまっている。それにどちらかと言えば魑魅魍魎より叔母の方が恐い。それで重要なことを思い出した。

「私が鬼難に遭うのは……。狐さんの御札を持っているからですか?」

「巫女なら『御霊符』と呼べ。それを持っているのも理由のひとつじゃ。しかし霊符が全てというわけでもなさそうじゃな」

「もう少し……。何て言うか、役に立つこと教えてくれませんか?」

「お主の能力が低すぎるから、無理じゃ」

「そんな……。露骨に言わなくても……」

「お主の能力では、使えたとしても野狐どもがいいところじゃの」

「狐さんは? 何狐ですか?」

「細かく分けると面倒だが、一番下が『野狐』悪さばかりしてほとんど役には立たぬ連中じゃ。それが悪行をせず霊に目覚めて修行善行を始めると『白狐・赤狐』と次第に力を蓄えていくが、この辺の連中をまとめて『気狐』とも呼ぶ。坊さんや巫女、修験者に仕えて働くのがこのあたりの狐じゃな。さらに得を詰んで霊格が上がると『天狐・空狐』となって、これは人ではなく神様にお仕えすることになる」

「えーと……。すると狐さんは?」

「そんなことは訊くでない。それから、儂に命令はできぬぞ」

「わかってますぅ。どーせ見習い巫女ですから。ところで狐さん、新幹線が遅れたのって、偶然ですか?」

「この、ケータイと申すものから出ようといろいろやってみたら、何かおかしくなったようだったが。迷惑だったかのぉ」

「ええ……。ちょっと。迷惑だったかも知れません」


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