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Since711AD  作者: 胡堂 瞬
3/13

七条油小路

 その地は、かつて豊かな水田地帯であった。山背大兄王の屯倉(直轄領)として多くの収穫量を誇ったのも昔のことで。今は屯倉に収められる物が農作物だけではなく様々な物資に変わり、その量も昔に比べて膨大になった。その倉庫ための建設資材、そして近江の地で盛んになってきた製鉄に使う大量の木炭製造がこの地域の森林をたちまち食い尽くしてしまった。

 かつて深い森に包まれていた深草の山、めぼしい木はどんどん伏見に運ばれ、残った建材に適さない樹は木炭に加工されて近江へと運ばれる。古城山と大岩山は完全なはげ山と化し、いま伐採の手は、現在では稲荷山と呼ばれている深草山にも入り始めている。

 山は半分近くすっかり地肌が剥き出しになり、麓からは峰の頂にある岩まで見える状態になってしまった。雨が降ればそのたびに大量の泥土が深草の平地に流れ出す。一族の者が伐採を止めるよう頼みに行ったが、鉈や斧で追い払われただけだった。

 その山は、いつのものとも知れない墳墓と、その後に秦一族も墳墓を築いた聖地であるはずだが。深草の秦一族はここを去って、いまは丹後のあたりで何かをやっているらしい。その、言ってみれば留守を任されたような状態で土地を耕しているのが荷田の一族だった。留守と言っても秦の一族が去ってから既に百年が過ぎ、ほどんどの者はそのような由来など忘れてしまっているし、山科や近江の者は知っていても気にしていないらしい。

 しかしそのしわ寄せはすべて深草側に押し寄せた。度重なる土石流に麓の神社は二度までも社を壊されてしまったので、半里ほど離れた平地に移したが、そこにも泥が流れてくるようになった。これではもっと山から離れた土地に移すしかないだろう。荷田一族の富は、この十年ほどで急速に失われていった。

「ひどい状態だな」

 再び泥の海と化してしまった田を為すすべもなく眺めていると、声を掛けてきた者がいた。荷田承は面倒そうに振り返り、その人物を上から下まで眺めた。この近辺の人間の格好ではない、明らかに都から来た雰囲気だ。狩衣の上に簑を纏っている。供と思える若者二人は、簑もなく濡れそぼっている。

「お役人かね」

「役所の依頼を受けて来たが役人ではない。秦良治という者だ」

「秦ところの人かい……。土地を取り戻しにでも来たのか?」

 平安京はようやく調い始めたばかりなのに、またぞろ遷都の話しが持ち上がっている。どこの土地がどう扱いを変えられるのか、全く見えない。

「都で、深草からの収穫量が減って困っているのでね。様子を見に来た」

「見ての通りさ……。米どころか何も作れやしない」

「あの山はどうした」

秦良治は、はげ山を見上げて言った。

「何であんなことになった」

「伏見港に倉を建て増すので、めぼしい樹は片っ端から持って行かれる。残った樹を、近江国の奴らが炭に焼いて持って行きやがる。山に登って向こう側を見てみなよ。淡海|(琵琶湖)まで見えるほど、山は丸裸よ」

「ひどいな。何も考えず切り出しているのか」

「困るから樹を売るのはやめて欲しいが。山にいる一族の者は何も言わん、多分はした金でも掴まされているのだと思う。なのでわしらは山のことには口を出せん」

「それでどうするのだ。あんたらは?」

「荷田承だ。見りゃわかるだろう、どうしようもない。それとも、秦の偉いお人ならこれをなんとかしてくれるのかね?」

 荷田承は苛立った様子で泥の海を指した。

「できるさ。そのために来た」

「何だと?」

 余りにも簡単なことのように答えたので、荷田承は言葉を失った。

「できるのか? 本当に?」

「五年。それで、元の通りとは言えないが。また作物は取れるようになる」

 乾いた笑い声を荷田承は上げた。

「何を言ってるんだあんたは。ここはもう五年どころじゃない、もう一〇年近くも収穫が上がってない土地だぞ。それをどうやって戻すというんだい! できるものならやってみろ! そしたらこの土地を全部くれてやる!」

 秦良治は傘の下でにんまりと笑った。

「私が貰ってしまったら、あんたの一族が食っていくのに困るだろう。私は荒れてしまったこの土地を、また収益が上がる土地にするために派遣されたのだよ。それが秦一族の仕事だ」

「役人は来たさ。何度も何度も、俺たちを叱りとばして用人を杖で打ちはするが、それだけで何もできやしない。あんたは何をしようって気だ?」

「そうだな。まず……」

 供の若者を振り返って言った。

「雨のあたらない場所に入れてくれないか?」

 今まで都から来る役人と言えば、威張り散らすか賄を要求してくるか、要するに来て欲しくなどない人間ばかりであったが。この人間は様子が違った。

「……俺の屋敷に来るといい、湯でも飲まないか」

「それはありがたいな」


 二ヶ月後のこと。荷田承の屋敷に使用人が色を失なって飛びこんできた。

「兵隊だと?」

 近くの高所に登って南の方を見ると。確かに騎乗した数人の武士と、その後に従う長い人の列がこちらに向かってくる。

「何事だ……」

 盗賊の征伐にしては人の数が多すぎる。何事かは判らないが、荷田承はとりあえず家人と使用人を全て屋敷に入れ、自分は用人一人を傍に置いて屋敷の前に立ちはだかった。

 間もなく、軍団は屋敷が見える場所で停止し、そこから騎馬が一騎だけこちらに向かってきた。乗っているのは武士ではなかった。

  騎乗の人間は屋敷の前で馬を降り、ゆっくりと馬を曳きながら歩いてきた。

「何だ、物々しいな。荷田承殿」

 秦良治が笑って言った。

「物々しいのはそっちだろう。秦殿!」

「炭を焼いている山の民に立ち退いてもらわなくてはならないからな。でも武士はたったの一〇人で、残りは全部人足だ」

「……本気で来たのか?」

「当たり前だろう? それが仕事なんだから。それに私はやると言ったことは必ずやる。約束通り山とあんたの土地を元の通り収穫が上がる土地に戻してやる。ただし山を自由にする許可が欲しい。山を何とかしなくてはとても無理だ」

「山を仕切っているのも我々の一族だ。ただ、今は柳頭太という者が頭で……。そいつが里の者を山に入らせない」

「柳頭太が山の物と取引をしているのか?」

「それは……。はっきりとはわからない」

「私が話しをしてみよう。もし近江の山の民と取引があるなら、手を切って私の仕事に協力するか、山を下りてあんた方の中に入るか。さもなければどこかへ行って貰わねばならんが。いいか?」

「任せる。このままでは、あと数年でここの一族は飢える」

「都から来た者が説得したところで聞き入れるとは思わんが、なるべく穏便に済ませるようにやってみるよ」

 荷田承は黙って頷いた。

 秦良治は兵を率いて山を巡り、炭焼き小屋を探し出しては立ち退き及び伐採の禁止を申し渡した。平地にいる荷田の一族には鉈を振り回した山の民も兵隊には抵抗を諦め、数日で炭焼き場を引き払って山の向こう側に戻って行った。里には牛車に何台もの杉の苗木が到着し、人足もさらにやってきた。

 山の頂上は既に土が洗い流され、岩盤まで露出している場所もあった。こうなるともう手の施しようがない。深草を拓いた秦の先祖が眠る墳墓は、盗掘に遭うか埋もれるかして山に同化してしまっている。その跡に修験者が祀ったのであろう祠は荒れ、傾いで、今にも山から転がり落ちそうなものもあった。

『稲荷神か……』

 秦の一族は、自ら信じる特定の神をひたすら奉ることはしなかった。拓いた地に神が奉られていれば、秦もそれを奉じた。秦一族の考え方は『使えそうなものは何でも使え、結果が第一』である。産物が上がる土地になるのであれば、そこで何を奉っていようが好きにすれば良いのだ。

「近江には抗議の使者を出してあるから、山の民が何か言ってくることはないはずだ」

 秦良治は毎日のように荷田の屋敷を訪れ、工事の進捗状況や山の話しなどを交わしていった。山の祠についても承に聞いた。

「山の上に祠があるが、あれはあんたの一族が奉ったのか?」

「いや。いつからか知らんが、元からあった」

「あれが稲荷だと言うことは、知っているか?」

「知っているが……。それがどうした?」

「そちらで奉っているものなら勝手にさわることはできないが。そうでないなら普請のついでにで修繕して祀りなおしたい」

「構わんよ。たぶんどこかの行者が勝手に置いた物だ」

 山の、土が露出して植物も失われた斜面には(むしろ)を敷いて竹杭を打ち込んで固定し、それ以上の土が流出することを防いだ。そしてそこに杉の苗を植えていった。膨大な量の筵が必要になったので、空いている小屋を作業場にして荷田の一族が昼夜兼行で筵を織り始めた。

 深草中の藁と筵折りの道具がかき集められ、それでも不足なので鳥羽や伏見からも筵と藁が集められた。噂を聞きつけて、もっと遠くの農民が藁や筵を担いでやって来る状態になり。稲荷山と深草の復旧は一大公共事業の様相を帯びてきた。

 植林の現場が騒がしくなったのは、資材の調達が上手く行き始めた頃だった。知らせを受けて秦良治が山に登ると、人足達が作業小屋の前にひと固まりにされていた。それを山刀を持った一団が取り囲んでいる。命令通りに一切抵抗はしなかったようだ。

「あんたが柳頭太か。ようやく現れたな」

 ひときわ大柄の男に向かって秦良治は声をかけた。

「荷田頭太だ。お前が秦って野郎か」

「秦良治だ。これは山のためにも麓の土地のためにもなる工事だぞ。何故邪魔をする?」

「ここは俺たちの山だからよ。勝手なことは俺が許さんぞ」

 荷田頭太は髭を揺らして言った。下の大人しい荷田の一族と、とても血縁とは思えない。

「そりゃぁ、ここは荷田一族の土地と山だろうが、こんなに片っ端から木を切り出したのでは山が保つまい。ここから流れ出した土で下の田がどうなったか、あんたも見て知っていただろう?」

「もちろん知っている」

「山を荒らして、田を使い物にならなくして。何か得することがあるのか?」

「おい。まるで俺が田を荒らしているような言い方じゃないか」

「山はあんたの領分だろう。きちんと管理できずに麓に害が及んだら、それはあんたの責任だ」

「理屈っぽい奴だな」

「理屈じゃなく事実だ。あんたが山の管理をしないなら、こっちでやる」

「それはだめだと言っている」

「なぜだ?」

 荷田頭太は首を傾げ、指の先で髭の中を掻いた。

「都の人間には関係ねぇよ。ここでの物事の理ってものだ」

「山賊並みの人間かと思ったが、案外とまともな言葉を使うな。あんたの理とは何だ? 教えてくれ」

「都から来たやつらには関係ないって言ってんだ。こいつらを連れてとっとと帰れ!」

「そう言われてもなぁ……、もう関わってしまったことだ。ところで山の頂にある祠だが、あんたは何か関係があるのか?」

 荷田頭太が、髭の下でわずかに表情を変えた。

「あれは……。俺のところで祀っていたものだ」

「そのわりには、ずいぶんぞんざいに扱われているな」

「……近江の奴らだ。奴ら木さえ伐れれば他はどうでもいいんだ」

「それはお前が魂まで売ったからだろう」

「何だと!」

「お前……。柳と名乗っているが、元は違う字ではないのか? たぶん大陸系の名だろう。どこかから流れて荷田の一族に入り込もうとしたが、馴染めずに山に追われてしまったのではないのか?」

「やかましい!」

「これは里への意趣返しか?」

「好き勝手なことを言いやがるな。その首たたき落とすぞ!」

 荷田頭太が山刀に手をかけた瞬間、人足の一人が何気ない素振りで荷田頭太に近寄った。全くの素手であり、腰を屈めた姿勢でもあったので頭太の手下も別に警戒しなかった。次の瞬間、頭太の巨体が空中を回転して地面で地響きを立てた。

「何だこのやろう!」

 頭太はわめいて立ち上がろうとしたが、さっきの人足が脇腹に拳を突き入れると、白目を剥いて倒れた。その時になってようやく手下が山刀を振り回したが、数人の人足が棒で次々と叩き伏せて行った。兵と秦良治自身の用心棒を人足に紛れ込ませていたのだ。

 手下どもは追い払い、荷田頭太は縛り上げられた姿で荷田承の屋敷に連れて来られた。

「秦殿……。頭太をどうする気だ?」

「それを相談したくて連れてきたのさ。追い払っただけではすぐにまた来るだろうし。それより……。何で頭太があれほど里を憎んでいるのか、承殿には心当たりがあるだろう。それを教えてくれないか」




     二


 夜。荷田頭太を閉じこめてある小屋に、秦良治は自分で食事を運んで行った。

「飯を食わないか」

 頭太は食い付きそうな表情で良治を睨みつけたが、一撃で自分を倒した男が付いているので縄を解かれても大人しくしていた。

「そいつ……」

 悪びれることもなく強飯を食べながら、頭太は言った。

「妙な技を使うな」

「新羅の僧が使う武術だ。ちなみにこの男はこの国の言葉は解らない」

「……それが何だってんだ?」

「ここの話しは私とあんたの間だけということだ」

 頭太は飯を平らげ、椀の水を飲み干した。

「俺とお前だけで、何の話しをするんだ?」

「お前……、山に追い払われたのではなく。山守りの一族だったのか?」

「そうだ。……承の親爺に聞いたな?」

「事情もよく解らないまま、元から住んでいた人間を追い出すこともできないからな」

「殊勝なことを言いやがる」

「山では……。思い込みで失礼なことを言った。済まん」

「元の姓のことならその通りだ。竜だ」

「それもあるが。あんたが言っていたここの事情だ」

「承がそれも話したのか?」

「里の人間が山の墓を暴いて中を荒らしたと言うが……。それだけではないな。問題は墓のもっと奥だろう」

 荷田頭太の目が光った。

「てめえ……。何を知ってやがる」

 山で会った時以上の、殺気までこもった声であった。

「推測に過ぎないし、私は山の『中』のことに興味はない。私が興味のあることは表面の土と木だけだ。私が木を植えることを邪魔しなければ、あんたら一族のもめ事に首を突っ込むこともない。突っ込みたくもない」

「それを信じろと言うのか?」

「おい。私がやっていることを見ただろう? 山の表面を治しているんだぞ。あのまま放っておいたら山はどんどん崩れて、埋まっている墓まで出てくるぞ。それでもいいのか?」

 荷田頭太の顔が歪んだのは、松明の加減だろうか。

「私は深草一帯の田を回復させるために来た。必要なので山に手を入れはするが、荷田の一族のどこにも肩入れする気はない」

「当たり前だ。お前らが放り出して行った山と土地を、俺たちが護っているんだぞ」

「確かに。それは間違いない」

 秦良治は竹筒に入れた物をひと口飲み、竜頭太に渡した。飲んでみると甘く、とろりとした液体であった。

「何だこれは? 粥か?」

「米から作るが粥じゃない。うちの本家筋があっちこっちでで造り始めたものだ、普請(ふしん)をやってる現場には少し分けてくれるんだ。体に良いらしい」

「さっぱり解らん。変わった味だが、美味いな。これは」

「もっと飲んで良いぞ。それは伏見で醸したものだが、俺はちょっと甘すぎて好みじゃない。あまり量を飲むと目が回るかも知れないぞ」

「もしかすると、これが酒ってものか?」

「そうだ。これを造るのに、どれだけかかったか知っているか?」

「……いや。全然解らない」

「一滴の酒を醸すなら、季節が良ければ三月だ。ただし、米はそのままじゃ酒にはならない。醸すための麹という物をやはり米から造らなくてはならん。その麹をとっておくための倉なんかを建てて、最初の酒を醸し出すまでには五年以上かかったんだ」

「これに、そんな時間がかかるのか?」

「出来上がるまでに米を大量に腐らせたと、伯父の一人がそう言っていた。腐っても白くなれば良いのだが、黒くなったらだめだそうだ。だから、毎日箸で米をひと粒づつより分けて白く保ったそうだ」

「馬鹿か、お前らの一族ってのは?」

「確かに馬鹿な一族だな。自分たちの得にはならんことに血道を上げる。困難であればあるほど、難しければ難しいほど、むきになって取り組む。知っているか? 今の都だが、あそこは半分がた湿地だったんだぞ。秦で五年かけて水を抜く普請をやって、何とか建物は建てられる土地にはしたが。摂関家の馬鹿連中はそんなこと知りもしないから、普請はもう良いから出て行けと言い出したんだ」

 頭太が返した竹筒から、ひと口飲んで良治は続けた。

「水を抜き続けなければ、いずれ都の半分は湿地に戻るな。建物を建て並べた後なって騒いでも、もう何もできないし頼まれたってやるものか。酒を醸すのと同じで、全て計画しておかなくちゃ、上手くいかないんだ」

「お前、そうやってあっちこっちで普請をやっているのか」

「あっちに行かされ川を直せ、こっちに呼ばれて港を作れ。今度は壊された山に埋まった田んぼだ、俺は何でも屋だと思われているらしい」

 また何度か竹筒が行き来した。

「秦と言えば金持ちで貴族みたいな人間かと思っていたが、苦労の方が多いらしいな」

「これが貴族の手に見えるか?」

 差し出した秦良治の手は、骨ばって、傷だらけで、入り込んだ土の汚れで爪は褐色に染まっていた。

「なあ。そっちの一族の間で、長くわだかまっているいろいろな事情があることはわかる。秦の中でだってそんなことがないわけじゃないからな。どっちの得にもならないようなら諍いはやめて、山を治させてくれないか。話しというのはそれだけだ」

 まだ少し中身が残っている竹筒を置き、頭太の知らない言葉で供に声をかけると、秦良治は再び頭太を縛るでもなく、小屋の戸も開け放ったまま去っていった。翌朝小屋を覗いてみると、頭太の姿は消えていた。

 秦良治は人海戦術で工事を行った。まる三年近く、一日たりとも休むことなく深草一帯を飛び回り。植林と山肌整備、水流の調整、水田の復旧を同時に指揮した。山中にある池の拡大と浚渫を行い、山の治水能力を大きくした。昔の墓が露出しているものを発見すると、丁寧な供養を行った後で厳重に埋め戻した。荷田頭太はその後作業を妨害することはなかったが、その姿らしいものを時折目にすることはあった。


 ある日、秦良治が荷田承を山に誘った。半分近く山肌が露出していた深草の山は、植林によって緑を取り戻しつつあった。何筋もの山道が整備され、山へ登るのは非常に楽になっていた。

 山頂一箇所に台がしつらえられて、作業の人足が集まっているのが見えた。

「何かあったのか?」

 荷田承が聞いた。

「あったのではなく、あるのさ」

「何がだ?」

「行けばわかる」

 荷田承がそこへたどり着くと、人足が一斉に頭を下げた。杉の苗木が手渡された。

「木が伐られた場所には新しい杉の木を植えた。それが最後の一本だ。荷田殿の手で終わらせてくれ」

 促されるまま掘られた穴に杉の苗木を挿し、手で土をすくい入れ。根本を固めた。しゃがんだまま顔を上げると秦良治と目があった。立ち上がると、人足達の間から歓声が上がった。

 秦と荷田の手に杯が手渡され、壺から酒が注がれた。

「祝だ、荷田殿」

 荷田承が杯に口を付けようとすると、良治が止めた。

「先に、土地の神に感謝だ」

 そう言って杯の酒を土にこぼした。

「オンダキニバサラダドバン、オンダキニアビラウンケン、オンキリカクソワカ」

「何だね、それは」

「真言だ。神様に供える最新の経だ。よく効くぞ」

 良治は杯に新しい酒を注がせ、承と一緒に飲み干した。

「承殿、見ろあれを」

 杯を持った良治の手の先には、長い間荷田一族が暮らして来た深草の地。数年前までは度々泥に覆われて何も採れない不毛の地になっていた。今そこは新たな耕地として規則正しく区切られ、美しい土が撒かれる種子を待っていた。

「承殿、もういつでも畑を使えるぞ。もう少し経てば稲を植えられるぞ」

 酒が、人足達にも振る舞われ始めたらしい。歓声がひとしきり上がる。荷田承は瞬きも忘れて土地に見入っていた。

「すごい……」

 秦良治が、承の肩に手を置いた。

「ここからはあんたたち一族の仕事だ。耕して、作物を植えて、草を取って。私にはそれはできんよ」

「我々は……。どれだけあんたに納めたら良いんだ?」

「要らんよ。それじゃあんたらは税を二重に納めることになる」

「しかし……」

「言っただろう。あんたらが納めた税のうち、何割かが手数料として向こう一〇年間私に支払われることになっている。あんたが直接私に支払う必要はないのさ。人を使いすぎたから、それでもさっぱり儲からないがね」

 秦良治は声高に笑った。つられて荷田承も笑った。

「どっさり米を作って、少しは回収させてくれ。それから……」

 秦良治は深草の地に向かって杯を投げた、夕日を受けてそれは少しの間光り、森の中に消えていった。

「里の荷田一族は、二度とこの山に手を出さないでほしい」

 荷田承の手から杯が落ちた。秦良治の笑い声が稲荷の峰にこだました。




    三


 その女性は、新幹線高崎駅の改札から『あさま』の車内までJRの女性駅員によるエスコートを受けた。全盲であるのだが、ガイドなしで新幹線を乗り継いで京都までの旅行とのことだった。女性のバッグを持った駅員は、ふとその白い杖が気になった。時折目にする白い誘導杖は細身で、上から下までほとんど同じ太さであるのだが、この女性が持っている杖はグリップから三分の一あたりまでが奇妙に太かった。

 高崎を出た『あさま』は一時間ほどで東京駅に着き、女性は東京駅駅員の誘導で東海道新幹線に乗り換えた。コンコースを移動しているうちに、駅員はただでさえ白い女性の顔色が青白くなってしまったことに気がついた。

「大丈夫ですか?」

「はい……。すごく、たくさん。人がいるのですね」

 東海道新幹線のホームに上がった頃には、女性はエスカレーターではなく階段を駆け上がったような息切れを起こしていた。

「済みません……。田舎者なんで、人が多い場所に慣れてないんです」

 『のぞみ』のシートに座ると、布施美夜子は大きなため息をついた。周囲にまだ他の乗客がいないので、座席で携帯をかけてみた。三回目のコール音で相手が出た。

「おたま稲荷の京都出張所です。救急ですか消防ですかぁー?」

 山本由加里の声が応えた。

「たぶん救急です。もうダメです……」

「いまどこよ?」

「東京駅で別の新幹線に乗り換えました。これから、高崎からここまでの三倍乗ってなくちゃいけないんですか?」

「酔い止め液丸ごと一本飲んじゃいな。気絶できるから」

「そしたら、きっと京都に着いても意識戻りません」

「こっちの童子さんが車貸してくれるらしいから、意識なくても宿舎まで運んであげる」

「宿舎?」

「まだ中見てないから何とも言えないけど、もしかして高崎より古いかも」

「京都で古いって言ったら、千年以上前ってことですよ……。あ、人が乗ってきたみたいですから、切りますね。そっち着くの一時四十一分ですから」

 電話を切ってもう一度ため息をつき、右の耳にラジオのイヤホンを押し込んで白杖をしっかり引き寄せた。話し相手もいない三時間は非常に辛いだろう。

 由加里は電話を切ると時間を確認し、駅の地下にあったユニクロでウォッシャブルウールのテーラードジャケットとパンツを2揃い、その他必要なものをまとめて買っておいた。仕事にかかると由加里は汚れ役で、必ず一着は着ているものをダメにする。靴もヒールの低いパンプスと、安めのスニーカーを一足ずつ買って、まとめて駅のコインロッカーに放り込んでおいた。

 ちょうどその時に携帯が鳴った。

「山本由加里さんですか?」

 知らない女性の声だった。

「はい」

「愛染稲荷さんから頼まれて来ましたんですけど。いまどちらにいはります?」

 京都タワーホテルの前に行くと、前に停車していたパジェロミニの窓が開いた。

「由加里さんどすかぁ? 電話した奥寺ですぅ。遠いとこお疲れさんでしたなぁ」

 後部座席に乗せられると、すぐにパジェロは走り出した。

「これはうちの息子です」

 奥寺と名乗った女性はハンドルを握っている青年を指した。もうどこかに勤めているのだろうか、社会人といった雰囲気だった。左の薬指にリングがあったことに、由加里はほんの微かな失望を感じた。

「うちは大徳寺のあたりで不動産屋やってましてなぁ。五年前にお父ちゃん亡くならはりましてな。それからは息子が継いでくれましてん」

 なぜか自分の家庭事情を蕩々と聞かされてしまい、由加里はどう返事をしていいのか困惑しっぱなしであった。自分にも子供達にも女の子が産まれないと嘆く婦人の自分史は、車が止まってもまだ続いていたが。

「母さん。着いたで」

 と息子が言ってくれなければ、際限がなかっただろう。幸い走っていた時間は短かった。

「あー。ここやここや。ほな、降りや」

京都の土地勘がないことと、奥寺家の自分史に困惑させられていたので。着いたところがどこなのか全く判らなかった。奥寺夫人は、十字路にある床屋に由加里を案内した。

「おおきに。ごめんやすー」

 そう言って床屋のドアを開ける。ここが『宿舎』なのだろうか。

「こちらはんなぁ。群馬の愛染稲荷ゆうとこから来はった山本由加里はん。しばらく本光寺使わはることになりましたさかい。よろしゅうお願いしなますな」

 どうやら、ここで宿舎を管理しているか何からしい。

「あ……、よろしくお願いいたします」

「あー。はいはい、おチヌはんとこのお人でんな。何やあったら遠慮しぃひんと、すぐ相談したってな」

 高崎の、神社の賄いの婆さんが京都でも名を知られている。何とも謎すぎることではあるが、由加里はこんな謎には慣れっこになってしまっていた。床屋を出ると婦人は、はす向かいにある小さな門構えに由加里を案内した。

「ここが本光寺どす」

と言われても、どこが寺なのか全く判らない。民家の間にある小ぶりな門だが、それとて隣の民家の一階の軒よりも低い。

「こことな、ここ鍵やさかい。こないして開けてぇな」

 門の脇にある引き戸をごとごとと開けると、門の全巾より狭い、通路としか思えない空間が目に入った。奥はブロック塀で行き止まりになっている。

「これ……。お寺なんですか?」

「今はもう住職さんもおらんと、ほとんど廃寺やけど。ちょい、いろいろ使わしてもろてますぅ」

 巾一メートルあるいかないかの、行き止まりの手前。左手にガラスの引き戸が二箇所あった。

「そっちが玄関ですけど。狭もうて狭もうてどないにもなりまへんから、皆こっちから入らはいります」

 引き戸を開けると、正面に仏壇があった。と言うことはこれが本堂なのだ。

「こちらさんはなぁ。葬式やったことはない言うてはりましたから、何も恐いことありまへんで」

 由加里の、当然の不安を見越して奥田婦人が言った。

「どうぞどうぞ、入らはってください」

 まるでアパートの下見客を案内するような雰囲気で、奥田夫人は中に入って由加里を手招いた。

「こっちの四畳半で寝られます。布団は後で届けさせますけど、若いお人やから羽のがええですか? 何人さん来はりますのん?」

「私と、もう一人です」

 八畳の本堂と四畳半の部屋に、台所とトイレと浴室。全てが最小限のサイズだ。機能的と言えば聞こえは良いが、要は限られたスペースに詰め込んだらそうなったのだ。

「ほな。あてらが乗ってきた車も使こてください。駐車場はな、駅ビルが一番間違いありまへん。そこ停めてもここまで歩いて五分ですから」

 メールで指示が届いてから、まだ二十四時間経っていなかった。関われば関わるだけ、愛染稲荷神社の謎は増えていくばかりだ。


 そしてその本光寺で、京都で三日目の朝食だった。今日もインスタントコーヒーと牛乳のカフェオレと、ピーナツバターとママレードのサンドイッチだけだった。本光寺の台所にある調理器具と言えば、大昔のガスコンロがひとつだけなのだ。生活する場所ではなかったので仕方ない。しかしヤカンでお湯を沸かすのも面倒なので、由加里はティファールの湯沸かしポットを買ってきた。

 なぜか液晶の大型テレビが最初からここには置かれていて。多分住職さんの唯一の楽しみだったのではないかと思っているが。それが見慣れたニュースワイドを映している。

 何かなじみのある風景だと思っていたら、美夜子が高崎で暮らしていた神社の建物もこんな感じだったことを思い出した。その本人は昨夜寝落ちした姿にパーカーの上だけをはおったひどい格好でマグカップを抱えている。

「今日はどうするの?」

 美夜子はしばらく考えて、マグカップから顔を上げた。

「伏見まで下りて、そこからもう一度探してみます」

「言っていい?」

「はい?」

「無理。半日で倒れるよ」

「大丈夫です」

「マネージャーの言うこと聞きなさい。今日は仕事休み。髪洗ってあげる」

「……済みません」

「私に謝ることないでしょ」

 高崎に、美夜子の具合が悪いので今日は活動を休むことを伝えるメールを送った。まだ京都での活動を始めてたった三日目なので怒られるかも知れないが、美夜子の体力のなさは向こうだって承知しているだろう。高崎から京都まで一気に移動してぶっ倒れなかっただけでも奇跡的だと、由加里は思っている。

 由加里がメールを送った先は高崎市街の外れにある稲荷神社だ、愛染稲荷神社という。しかしそっちの名前より『おたま稲荷』の愛称の方が知られている。

 昔の殿様が飼っていた猫を祀った塚があるからなのだが、愛染稲荷がそこに移ってきたのが江戸時代の終わりだと言うから、塚のあった場所に後から神社が引っ越してきたのだろう。それで神社の方が『おたま稲荷』と看板を出して、元の名前を忘れられてしまっているのだから情けない話しではある。

 小さな神社ではあるが、神主と常勤の巫女が一人いる。それが再び布団に潜ってしまった美夜子だ。山本由加里は巫女ではない、それどころかカトリックのクリスチャンだ。最初は教会から派遣された、本の読み聞かせなどのボランティアだったのが、いつの間にか神社のパート職員みたいな状態になってしまっている。

 現在は短大を卒業して就職活動を行うためにボランティア活動は休んでいることになっているので、教会に知れたらちょっと面倒ではある。あくまでも全盲である女の子の面倒を見るために、彼女が住んでいる神社に来ていることになっているのだから、由加里が神社の仕事をするなど当然許されるはずがない。

 しかし実際には美夜子が行う仕事の補助までしている。その仕事に内容が、極めつけにヤバいものだった。美夜子はただの巫女さんではなく『狐祓い』までやるのだ。これが教会に知れたらどんなことになるのか考えたくもないが、そうかと言ってやめる気もない。自分を姉のように慕って、頼ってくれている美夜子を今さら放り出したくないし、もう普通の生活が退屈でたまらないからだ。

 外を鈴の音が通った。由加里は昨夜の稲荷御旅所での一件を思い出して体が冷たくなった。しかし引き戸のガラスに映った猫の姿は真っ黒ではなく白色だった。ほっとして、立ち上がって引き戸を開けてみた。

 近所の飼い猫なのか、当然といった雰囲気で本堂の中に入ってきてあたりを見回した。住職さんが許していたのだろう。長い尻尾をぴんと立てて四畳半へ入っていき、また寝てしまった美夜子を不審そうに眺めて、においを嗅いでいた。

「起こさないでね」

 愛染稲荷は猫供養を看板にしているので、猫を捨てていく不心得者も少なくない。そのため境内には十匹では済まない猫が寄宿している。自然と由加里も、猫が居た方が落ち着くようになってしまった。

 気がつくと引き戸の間から、もう一匹三毛猫が中の様子を伺っている。どうやらここでは退屈することはなさそうだった。





     四


 明朝は氷点下にまで気温が下がる恐れがあると、気象予報士が不吉な予言をしていた。予言されなくても赤穂天満宮の古い社務所はひどく冷えている。観名は部屋があまりにも寒いので、居間のソファで本を開いていた。もう学校の勉強をする必要はない、開く本は全て巫女の勉強である。

 眠気と戦いながら筆文字の解読を行っていると、授与所で何か面倒な電話を取っていたらしい祖父が戻ってきた。表情は普通を装っているが、眉に剣がある。

「雅恵……。観名もちょっと来てくれ」

 そう言って食堂の椅子に座った。観名は本をどうしたらいいのか悩んだあげく、そのまま持って行って膝の上に載せた。

「例の府中の人だ。やはりあっちに何か残っていたらしい」

「……何か起こったのですね」

 雅恵が深刻な表情になった。

「そこの、一番下の娘さんが……。観名くらいの年なんだが、急におかしくなったそうだ」

 叔母が本気で困惑している様子を、観名はここへ来て初めて目にした。

「眷属が……。はぐれて、憑いたとか?」

「恐らくはな」

 『眷属』が稲荷に付きものの狐を指すことは、観名でも知っていた。しかし突然様子がおかしくなったと言うことは、狐憑きになったのだろうか。今の時代本当にそんなことがあるのだろうか。

「眷属は……、祓えませんよ」

「ああ……。大人しく御霊符に戻ってくれれば有り難いのだが。あそこまで放っておかれた後ではなぁ……」

「祓うのではなくて、お願いすることになりますが」

「とすると、やはりアコ様にお頼みするしかないのか」

「済みません。宮司……、眷属が相手では。私、自信がありません」

 これは叔母が言っていた『特別なお祓い』のことだろうか。観名は手に冷たい汗が浮かぶのを感じた。

「しかし……。暴れ始めると鎮静剤でも効果がなくて、本人も周囲も危険らしい。無理は承知で、やってみてくれないか」

 雅恵はしばらく俯いて、言った。

「仕方ありませんね。……いつ?」

「早いほうが良い。できるならすぐにでも連れてくると言っている」

「わかりました」

 雅恵は時計を見上げた。

「三時間で準備します。何が起こるか解りませんから、神楽殿の下で良いですか?」

「頼む」

 宮司が巫女に頭を下げた。

「観名」

「はい」

「禊ぎするから、水を汲んできて」

「はいっ!」

 年に二回、神社の全職員が正式な禊ぎを行う。その時に使う水は神殿の裏手にある湧き水を使う。一年中全く涸れることのない水で、その清浄さは深さ二メートル以上もある池の透明さでよく知られている。知らない人はその池の深さを知って驚く。

 装束に着替えた観名は、池の中央にある厳島神社に礼拝を行った後で池の外をぐるりと周り、裏手の笹藪に隠された配管から木の手桶に水を汲む。両手に手桶を提げて池と社務所を三往復、気をつけてはいたが足袋を濡らしてしまった。

 その水を、浴室で祓祝詞を唱えながら肩から勢いよくかぶる。湧き水なので氷のようではないが、やはり冷たいことは変わりない。普通であれば白衣を来たまま水をかぶるのだが、時間がないので何も着ないで禊ぎを行い、それぞれの部屋に戻って今度は正絹の儀式用装束に着替えた。

 観名が携帯で時間を見ていると、メールが来た。観名は仕事柄メールの返信率が非常に悪いので、送られてくるメールは多くない。友人からのメールに「巫女残業ちう」とだけ急いで打って送った。

 慌てて部屋を出たので、外に出てから携帯を持ったままであったことに気がついた。部屋に戻っている余裕はないので、仕方なく胸元に押し込んだ。巫女が着る白衣の袖には物が入れられない。前後が開いているのだ。

 二人並んで赤穂稲荷に礼拝を行った。濡れた髪が凍り付くのではないかと心配する余裕もない、体の震えが止まらないのだ。夜遅くに巫女が祠に向かって真剣に何かを唱えている姿を、境内を通っていく人たちが奇異の目で見ていく。巫女が唱えているのが実はお経だと知ったら、もっと奇妙に思っただろう。

 神楽殿の下には既に明かりが入り、電気のファンヒーターが辛うじて外の冷気を押しのけていた。そこには二人分の黒い装束が用意されていた。手触りからして、これも正絹だ。

「私も……、これ着るんですか?」

「これは神様に対するご奉仕じゃないからね。普通の巫女がやらない仕事だから」

 雅恵の言ったことの意味がわからず、観名は数秒固まってしまったが恐らく黙って着替えろと言う意味だろうと取った。強くパラゾールが臭うそれは、全く普通の巫女装束であった。全てが真っ黒であることを除けばの話しだが。

 巫女装束からまた巫女装束への着替えというのも奇妙な感じだった。叔母と一緒に着替えることはそう滅多にあることではなく、また隠し持ってしまった携帯のこともあってひどく落ち着かなかった。下着は普通の色で良いのか、途中で非常に気になったが、叔母の方がそれどころではない雰囲気であった。

 装束を全て身につけてから、これでは制服を着ているのとあまり変わらないことに気がついた。観名のセーラー服は襟のラインまで黒で、冬服でタイツをはいてしまうと白い部分がどこにもなくなるのだ。

 着替えが済むと儀式に使う場所を清め、部屋の真ん中の四箇所に台石を置き、竹を立て注連縄を張った。燭台に蝋燭が灯され、蛍光灯が消された。着替えている間に携帯の電源を切っておけば良かったと思ったが、もう後の祭りだ。マナーモードになっているのは間違いないが、あまり静かな時に着信すれば判ってしまうだろう。いっそ普通の装束の中に隠しておけばよかったと、後の祭りの二段重ねを思いついた。

「観名」

「……はい」

「さっき宮司に説明したことだけど……。そこらをふらふらしている霊は『野狐』と言って、それはたまたまくっついたものだから祓うのは難しくないの。霊能者さんでもできる」

 ファンヒーターの風に、二人の影が揺らいだ。

「でも稲荷様にお仕えしている眷属の狐が、観名が見たように粗末にされて。神様から離れてしまったら、その力は野狐の比じゃないし。一度取り憑いたらなかなか離れてくれない。相当の法力があるお坊さんか、神様の意を受けたサニハじゃないと」

 床板の冷たさが観名の体温を奪い始めた。他の何かも観名を中から冷やし始めた。

「だから私がやるしかないの。ただね……、取り憑いた人から離れなかったのならまだ良いけど。儀式に怒って、何か良くないことを起こすこともあるかも知れない」

「……たとえば?」

 雅恵はわずかに視線を動かして観名を見た。

「儀式を行った者に祟る……。傷つける。何が起こるか、そうなってみないと解らないわ」

「それでも……」

「それでも、求められたらやらなくてはいけない『サニハ』だから」

 雅恵は俯いていた顔を上げ、深呼吸をした。

「泣きそうな顔になってるわよ、しっかりしなさい。アコ様を信じて。……狐落としは、お経をひとつと、ご神歌と、真言を2種使うからね。稲荷勧請を逆順にやるの」

 雅恵が黒い袋から何かを取り出して観名に渡した。二本の黒い棒を、黒い紐で繋いである。まるで小さなヌンチャクのように見える。

「何ですか、これ?」

「稲荷神歌の後にダキニ本尊真言を唱えるから。『おんぎやくそわかだきにぎやていぎやかねいえいそわか』っていうのを。それはもの凄く何回もくり返すからね。その間ずっとそれを打っていてほしいの」

「……リハーサルお願いします」

「適当でいいから。その音で脅すのが目的なの。でも棒を交叉させて打つのじゃなくて、揃えるみたいにして打ち合わせるの。やってごらん」

 澄んだ、かん高い音が、耳の奥でしばらく反響しているような気がした。




     五


 水田の整備が終わり、田植えが終わって三ヶ月が経とうとしていた。秦良治が久しぶりに荷田承の屋敷を訪ねると、様子がおかしかった。

「来てくれたか秦殿、待っていたんだ」

「……何かあったのか?」

「ちょっと、一緒に田を見てくれ」

 畦を歩き、水田が続く場所に来ると、荷田承は稲を指した。

「これだ。解るか?」

 秦良治は眉をひそめて並ぶ稲の株を見た。

「勢いがないな。株別れが遅れているのか?」

 荷田承は首を振った。

「それだけじゃない。色が悪くて伸びも悪い、こんな時は稲の疫病が流行る」

 今年の天気は悪くない、雨もそこそこ降っていて水の量も充分にある。秦良治は水田の泥の中に踏み込み、土を手ですくい上げた。掌の上で土をこね回し、土を口に含んだ。

「おい。何をしている」

 秦良治は土を吐き出した。

「いかん。土が苦い、地味が荒れている。山の土が入りすぎたんだ」

「土の味が、わかるのか?」

「芋や菜を作るならこの地味でも良いが、米を作る土はもっと丸い味でなければならない。そうでなければこんな風に稲は勢いをなくす」

「どうしたらいい?」

 秦良治は腕を組んで考えこんだ。

「荷田殿、これは思ったより大変なことになったぞ」

 秦良治は畦を行ったり来たりしながら独り言のように喋った。

「問題は水ではなくて土なんだ。今さら入れ替えることもできないし……」

「土の味が悪いなら……。何か足してみたらどうなんだ?」

 秦良治の足がぴたりと止まった。

「何か、そんな方法を持っているのか?」

「いや……。ただ思ってみたことを言っただけだ」

「驚いたな」

秦良治は烏帽子の隙間に人差し指を差し入れ、頭を掻いた。

「私が思いつかなかったことをあんたは思いついたんだぞ。土に生きている一族の知恵だな」

 秦良治は供の者を呼んだ。

「父上の所へ行って、どこかから硫黄を一俵都合してもらってくれ。急いでだ、馬を使って良いぞ」

「硫黄を……。どうするのだ?」

「荷田殿が言ったとおりのことをするのさ、あれが戻って来るのは明日になるだろう。今日は荷田殿のところに世話になるしかないぞ」

 荷田承はここ数日の悩みが、もう解決したような気になった。

「しかし……。困ったことになったな……」

 出された白湯をひと口飲んで、秦良治は言った。

「そんなに面倒なことなのか?」

「まだ取りかかってもいないから、大丈夫とは言えないが。今年は何とかなったとしてもまた来年は同じことが起こる。恐らく再来年も」

「それは……困る。蓄えがつきる」

「困るのはお互い様だ、ここの収穫が減ったら私への支払いも減るからな」

「どうしたらいい?」

「何か起こればすぐに手を打てるようにしておく必要がある。稲作に詳しい者と、使用人を何人かここに置きたいが。いいか?」

「もちろん、構わないとも」

「済まん。住処は自分たちで建てさせる。土地だけ貸してほしい」

「空いている小屋がいくつもあるから、いくらでも使ってくれ」

 荷田承は手を打って使用人を呼び、食事の準備を始めさせた。


 翌日の午後になって硫黄が届けられた。貴重な輸出品であるが、秦の一族ならどこかで調達するのも難しくはないのだろう。秦良治はあらかじめ下見してあった田の畦に笊でいくつもの土を運ばせた。自分で設計したのでよく知っている。

「荷田殿。ここは川から一番最初に水が入る田だ」

「そうだ。水が冷たいからこの田は稲の伸びが悪い」

「そこでだ。済まんがこの田は諦めてほしい」

「何をするのだ?」

「これだ」

 秦良治は硫黄が入った小型の俵を指した。

「硫黄を砕いて土と混ぜ、この田の中に混ぜ込む。硫黄はすぐには水に溶けないが、少しずつ土に溶けていく、そうすると水にも溶ける。この田の稲は土が酸くなってしまうので枯れてしまうが、丁度良い丸さになった水が他の田に流れて行って地味を直してくれる」

「ずいぶん……。簡単に聞こえるのだが」

「簡単なのはそこだけさ。それから先十日ほどは、全部の田で水と土の味を毎日毎日見て回らなくてはならないから、寝る間もないぞ」

 まさに秦良治の言ったとおりで、二人と良治が呼び寄せた使用人は。短い睡眠時間を除いて深草中の田を歩き回り、水が酸くなりすぎている田には灰汁を流し、回復がはかばかしくない田には、硫黄を混ぜて熟させたひどい臭いのする土を足した。飯は歩きながら強飯を食べた。

 それから九日経っての後、最も下にある田の水と土を調べた秦良治は満足そうに頷いた。

「よし。これでもう大丈夫だぞ」

 言うなり畦の草の上に寝ころんだ。他の者もてんでに転がったり座り込んだ。ややしばらくして、荷田承が言った。

「しかし……。秦殿、あんたは凄いよ。何でも知っている」

「これで喰って行くしかないのさ……。土地がないからな。うちの一族は、今の都を作るのに摂関家に何もかも取り上げられた」

「拓けばいい……。ここの西側はまだ湿地で手つかずのところがたくさんある。あんたなら、立派な田にできるだろう」

 返事はなく、そのうちにいびきが聞こえた。荷田承も苦笑いしながら、何だか空が遠くなっていくような気がした。

 この時代、深草の先はほとんど何もなく、はるか先にぽつんと真幡寸神社、後の城南宮が見えるだけであった。後に秦一族が、荷田承が言った通りにその一帯を開発し、上皇方の離宮が建ち並ぶ平安京のリゾート地のような場所となったのだが、それはまだ百年近く後のことだ。


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