武蔵國闇稲荷
一
中央高速の国立府中インター入口を過ぎて立川に向かって少し走ると、右手に突然林が出現する。あまりスピードを出していなければ、その中に石の鳥居と大きな灯籠が鎮座しているのに気が付くはずだ。
車窓から通りすがりに見ただけでは、おそらく木立の中に薄暗い参道が見えるだけで、とりたてて変わったものは見えない。
実は『見えない』のがこの神社の変わっているところだった。参道の突き当たりには手水舎と石段があり、それを下って境内に至る。非常に珍しいレイアウトなのだ。
この神社『赤穂天満宮《あこうてんまんぐう》』は当然主神として道真公を奉っているため、新年の三が日は参道いっぱいに受験生とその家族がひしめくが、観光名所になるほどの神社ではない。付近には普通の民家が立ち並んでいる位なので、夜ともなればあたりの人気は全く絶えてしまう。
午前二時を過ぎると、甲州街道と呼ばれる国道二〇号線も車はまばらになる。高速道路を使わずに経費を浮かせようとするトラックと、タクシーが時折走りすぎていくだけである。
その、丑三つ時の鳥居の下に、提灯がふたつ並んでいた。周囲を見れば、他にもあちらこちらで提灯がぼんやりと光っている。神社と、消防団の法被を着た人たちが神社の紋が描かれた提灯と錫杖を手に、参道を塞いでいるのだ。
今日は旧暦の大晦日にあたり、この神社のもう一つの呼び名である『赤穂稲荷』のお祭りがある。
と言っても、こちらの祭りは九月の例大祭と違って非公開の奇祭である。午前二時に真っ暗闇の中でひっそりと行われるのだ。しかも氏子と消防団が出動して境内の出入り口を封鎖してしまうので、関係者以外誰も見たことがない。
午前一時になると、境内の照明が一斉に消える。近所の住宅も外灯を消し、まだ起きている家でも光が漏れないようにカーテンをしっかり閉める。森も梅林も闇に沈んで、提灯の明かりだけが所々に浮かぶだけになる。
以前は午前零時に暗闇になっていたのだが、南武線の最終電車で帰ってくる人のためにいつのまにか一時間遅くなった。
午前二時ちょうど、小さな提灯と香炉を持った巫女が現れる。神殿でも社務所でもなく、神楽殿からだ。
「かーけーまーくーもー。かーしーこーきーいーなーりーの。おーおーがーみーのー」
ゆっくりとした足取りで稲荷祝詞を奉じながら、参道を鳥居の方に向かって進む。祝詞と共に吐き出される息と香炉の煙が、ぼんやりとした蝋燭の明かりで白く尾を曳く。
巫女が石段を登り、参道の途中にある赤穂稲荷の祠に着く。香炉を供え、提灯の火を祠の灯明に移す。その巫女が二礼二柏手の礼拝を行うのを合図に、澄んだ金属的な音が起こった。神楽殿の前で拍子木がただ一回だけ打たれたのだ。もう一人の巫女が出る合図だった。
次の巫女は明かりも持たず祝詞を奉じることもなく、音もなくやってきた。四方は黒い幕を持った氏子が取り囲み、巫女の姿は誰も見ることができない。
異様なその一団が祠の前に到着すると、先に着いていた巫女は深々と頭を下げた。そこへ氏子の一人が近寄ってきて、儀式に使う神具を渡しながら囁いた。
「観名ちゃん。雅恵さんがね、今回は見ていろって言ってた」
去年までは頭を下げっぱなしで、見ることは許されなかったのだ。つまり、今回からは見て作法を覚えろと言うことなのだろう。
「……まだ覚えることあるんだ」
先に来ていた巫女、観名は口の中でつぶやいた。大祓えといろいろな祭文の暗記に今度は舞の振り付けを覚えるのでいっぱいいっぱいなのに、これ以上何かを覚えられる気がしない。ましてや目を開けているのもしんどい時間である。
「もお、やだ……」
そう胸の中で呟いた時、稲荷社の背後に白っぽい人影が見えたような気がした。視線を向けた時には、そこには何も見えない。もっと良く見ようと顔を上げた時、巫女の周りで幕を持っていた氏子たちが一斉に祠の前から離れた。中にいる巫女は、観名にとって叔母でもある先輩だ。その姿を見て、観名は眠気が吹っ飛んだ。
「……え?」
自分の眼がおかしくなったのかと疑い、神具を捧げ持ったまま観名は固まってしまった。叔母は、真っ黒い巫女の装束を纏っていたのだ。
「なに……? あれ」
思わず声に出てしまい、真っ黒い巫女に横目で睨まれて観名は竦み上がった。思わず頭を下げてしまい、慌ててまた顔を上げた。鋭い柏手の音が響く。柏手の音一つ、観名と雅恵では違う。
「それかみはー、ゆいいつにしてみかたーなしー」
まだ観名が正式には伝えられていない稲荷大神秘文であった。いつ任されるのか知らないが、これも覚えなくてはいけない。立ち位置手指の動き息のつきかた、全て意味があり決まりがある。ぼんやり見ているわけにはいかなかった。
あまりにも見ることに集中しすぎて、神具を渡すタイミングを誤った。黒い巫女が手を伸ばしてから慌てて前に出て神具を差し出す。だが睨まれることはなかった。その神具は、半端な長さのやたらと重い黒檀の杖のようなもので、観名は以前から刀ではないかと疑っていた。
黒い巫女がそれを捧げ持って、前には聞こえないほどの小さな声で唱えていた言葉を、初めて観名に聞こえるように唱えた。
「おんだきにばさらだどばん七難即滅おんだきにあびらうんけん七福即生」
微かな金属音と共に、灯明の光がいくつにも分裂して空中で光の輪となってきらめいた。観名が渡した杖が本当に刀であり、それを抜いたのだと解ったのは刃が鞘に収めた後のことだった。
黒い巫女が刀を捧げ持ったまま数歩後じさると、また黒い幕が周囲を囲った。そして来たときと同じく音もなくそろそろと参道を去っていった。
異様な一団が石段を降りて見えなくなると、観名は詰めていた呼吸をようやく取り戻した。この寒いのに体のあちこちに汗が滲んでいた。ようやく自分の勤めを思い出した。柏手を打って灯明を消し、香炉と提灯を持って再び真っ暗な参道に戻った。何時の間にかいくつもの提灯が観名を取り囲み、周囲を照らしていた。
「はい観名ちゃんお疲れさん」
「寒いから、早く風呂入って暖まりなよ」
観名が右も左も解らない、超見習い巫女の時からいろいろと面倒を見てくれていた氏子の人たちだった。さっきまでの張りつめるような緊張感はどこへやら、これから境内の隅にある控え所で直来だ。明け方まで飲むのだろう。
最初に出て来た神楽殿に戻ると、そこには道具の片づけをしている氏子と、観名のお世話役の老女が残っているだけだった。雅恵がいて怒られるのではないかと思っていたが、お小言があるにしても明日、ではなく今日学校から帰ってきてからだろう。
あまりにも疲れてごちゃごちゃ考えたり悩む気力もなくなっていた。部屋で装束を解き、延ばして袋物に納めた。汚れがあるかどうか確かめる気も起こらなかった。そこまでが限界で、携帯のアラームと目覚ましをセットすると顔も洗わず下着のまま延べておいた布団にもぐり込み、数秒で眠った。
二
神社に勤めている人の中で、一番忙しいのは巫女である。神事や窓口業務に加えて経理や雑用まで全て任されるからだ。もちろん来客へお茶を出すのも巫女の仕事で、しかも普通の会社のように適当なお茶の淹れかたなど神社では絶対に許されない。つまり観名には無理と言うことで、お茶は全て雅恵が淹れている。何しろ狭山茶の特選を使っているので、無駄にされたくはないのだ。
今日の来客は宮司の高校時代の同級生だと言うことで、珍しく遠慮のない口調で話しが弾んでいた。それが途中で静かになり、深刻そうな低い声での会話に変わった。
客が帰っていくと、宮司は何か考え込んでいる様子だった。
「何かありましたか?」
「うん……、いや……」
「三時半に、初宮のご祈祷申し込みが入ってますけど……」
「うーん、それは……。芳賀君にやってもらおう。ちょっと面倒な相談があってね」
ため息混じりのその声に、湯呑みを下げようとしていた雅恵の手が止まった。
「面倒と言いますと?」
「面倒と言って良いのか……、よく事情が判らないんだよ」
宮司は湯呑みの底に残った茶を飲み干し、雅恵が持った盆に乗せた。
「今のは八王子に住んでいる人でね……。実家が府中の駅の近くなのだが、再開発もあるんでそこを立ち退くそうだ。ただ、その敷地に古い屋敷稲荷があってね、その扱いに困って相談に来たんだ」
よくある話しである。
「もう子供は皆独立してマンションとかに住んでいるものだから。稲荷を引き取ることができないので、それでお還りいただこうと思って東伏見さんに相談したら『うちじゃ扱えない』と言われたしい」
「なぜまた……」
東伏見稲荷社は、京都にある伏見稲荷の言ってみれば東京本店である。昭和四年にできた新しい神社ではあるが、伏見稲荷からの正しい分霊である。関東の地元にいる狐は王子稲荷が総元と言われているが、どちらであっても普通引き取りを断ることはあり得ない。
「そのお屋敷稲荷は愛染寺から勧請されているらしくてね。どうもそれが理由らしい」
「愛染寺……。では?」
「もしかすると、中はダキニさんだったかも知れないな」
稲荷には神社に奉られている稲荷と、お寺に奉られている仏教稲荷がある。狐の像が並んでいるのは同じだが、祭壇の中にあるのが幣帛なのか白い狐に乗った神様の姿絵であるのかが違う。
「でも、それで断りますか?」
「普通なら断ることはないのだがねぇ……。東伏見から来た人が祠を開けて御霊符を見て、これはウチで預かるのは無理だと言ったらしい」
「豊川さんにでも相談してくれればよかったのに。……何か近くだから押しつけられちゃった感じですね」
「まあ仕方ない。府中の、一丁目なんだが。車を出してくれるか?」
住所を書いたメモを受け取ると、雅恵が言った。
「ここ、たぶん駅のすぐ近くですよ。祠を丸ごと持ってくるのでは……。ないですよね」
「いや。できたら御霊符だけ預かってこようと思っている」
「それなら恐れ入りますが、電車を使って、観名を連れて行ってください。もうすぐ帰ってきますから。私は初宮の方をやります。ご遷座のお道具は用意しておきます。あ、夕御饌も芳賀さんにお願いしておきましょうか?」
ため息が、湯呑から立ちのぼる湯気を揺らせた。観名はつい前屈みになる背中を伸ばし、湯呑みを取り上げて静かに一口お茶を飲んだ。谷保の駅前にある和菓子の老舗で、天満宮でも御用達にしている店でもある。
今まで知りもしなかった儀式のこと。それ以上にあまりにも奇怪な叔母の装束を見て、観名は今まで以上に本職の巫女になろうとする気がなくなっていた。しかし神社から逃げ出すわけにも行かない。行くあてはないのだ。
と言っても別に観名は身寄りがなくてここにいるのではなく、電車で一時間とかからないところに両親のいる実家がある。だがその両親が観名を神社に押し込んだのだ。
年に三回ほど連休が貰えるが、ここ二年ほど実家には帰ったことはない。なぜなら実家には高一と中三の妹二人がいるので、帰っても家に中には観名の居場所がないのだ。
「観名ちゃん、試験終わったの?」
顔なじみの店員が声をかけてくる。
「はい。もう終わっています」
「じゃ、あとは卒業式まで遊んでいられるねぇ」
「だと良いんですけど……。たぶんウチでこき使われます」
観名は卒業したその日に助勤巫女から正式な巫女になる。フルタイムで神様にご奉仕する乙女になるわけだ。受験も就職も無縁だ。
だから観名はセンター試験も受けていない。三年生になってから進路ガイダンスも三者面談も学校見学会も関係なく、何か自分一人が学校から浮いた存在になってしまった気がして仕方がなかった。クラスメイトには羨ましがられているのだが、観名本人はもうここで人生が詰んでしまったような気分である。
なぜなら何かよほどのことがない限り、叔母と同じ年齢になるまで神社に閉じこめられたも同然の人生が見えているからだ。
今後約十年間ピアスは開けられない、マニキュアは塗れないし髪を切ることはできない。髪については物心付いて以来、一度も切った記憶がないのだ。中学校に入る時、背中にかかるようになった髪が邪魔で少し切りたいと親に頼んだのだが、両親共に首を縦に振らなかったのだ。
今その髪は腰に届く長さになっていて、とても重い。しかも巫女装束でいる時には思い切り後ろに引っ詰める髪型にするので、何となく生え際が薄くなってきているような気がする。もう十年経ったら平安時代の女性のように髪を引きずることになるのかも知れないが、そんなうざい状態は考えたくもなかった。
観名は静かに小皿ごと粟大福を取り上げ、楊枝で切り分けた。本当のところは面倒だからそのまま持って食べてしまいたいのだが、それはできない。巫女だから。
立川の街中で、学校帰りに寄り道をすることは校則で禁じられている。ほとんどの生徒はその規則を守っているが、立川を離れた地元では自由である。しかし観名にはその自由がない。コンビニで漫画を立ち読みすることさえも許されない。巫女だから。
朝の五時に起きて家の中と神社の掃除とお勤めをこなして、八時半から三時半まで模範的な生徒として学校生活を送る。帰ってくればまた神社の仕事を手伝って、夕食も入浴も最短時間で済ませて勉強の時間を作る。何かあれば睡眠の時間はどんどん削られていく。巫女とは毎日キロ単位でストレスを溜める仕事だと、観名は感じてしまっている。
「でも今度から普通にお給料出るんでしょ?」
熱いお茶を注ぎ足してくれるおばさんは、観名が天満宮に来て以来の顔なじみだ。実家から天満宮に移って来たのが中二の時だから、もう五年になる。
「今よりは増えると思いますけど……。今度は保険とか年金とか引かれちゃいます」
「でも偉いよねー。中学生の時から親元離れてずっとでしょ」
と言っても観名が自分で望んで巫女になったわけではない。しかもこの話題は最低月に一回はくり返されているのだ。観名がどう返事をしようか迷ってると、カバンの中で携帯が震える音がした。
観名が明らかに慌てた動きでカバンを開け携帯を取り出す。表示された番号を見て表情がこわばった。しかし店員に視線で非礼を詫びることは忘れていなかった。
「はいっ」
「観名。いまどこ?」
何より恐い叔母の声が聞こえた。
「駅……。降りたところです」
嘘は言っていない。それにまだ、普段より十五分早い。
「宮司さんのお手伝いで一緒に行ってほしいところがあるから、寄り道しないで帰ってきてね」
「はいっ」
観名は改めて背中を伸ばし、顔をやや上向かせて深呼吸を行った。女子高生から巫女へ、モードを切り替えなくてはならない。
その住宅は、見た目に昔は藁葺きの屋根であったことが見て取れる、もし藁葺きのままであれば市の文化財に指定されたかも知れない。現在は色合いこそ藁屋根に似てはいるが、昔の建物に金属の屋根が載っている。
そこに暮らしていた老人は、三年ほど特養施設で暮らした後に亡くなり。住人が長く留守にした家は、もうかなり廃墟の臭いを漂わせていた。
裏手に案内されると、何やらがらくたや伐られた樹木が積み上がった場所に出た。かつては大きな庭であったと思われるが、今では格好のごみの不法投棄場所でしかない。その一角に、不似合いに大きな祠があった。祠の木材は長年の風雨にさらされて灰色になっているが、造った大工の技はそれを物ともしていない。鳥居が原型を留めていないのとは対照的である。
「うわぁ……」
観名が思わず小さく声を出した。着替える時間もなかったので、セーラー服のままである。たぶん稲荷がこのような状態だと知っていたら、雅恵は観名には行かせなかったかも知れない。
祠の横には古くなった流し台が放置され、背後にまるで卒塔婆のように見えるものはスキーの板だ。
神職姿の篤司が唸って息を吐いた。
「何年こんな状態だった?」
「俺は大学行った時にここを出たから、その後のことは知らないなぁ。その時は駅の近くまでウチの土地だったんだが……」
面倒な依頼を持ち込んできた篤司の同級生がため息をついた。
「今はどうなってるんだ?」
「何にもないよ。オヤジが知り合いの保証人になって、そいつが1億だか借金作って逃げた。老人ホームの入居の金だって俺の懐から出したんだ」
「ここは残ったんだろ?」
「いやいや……。今ごろ親戚が文句を言い始めてよ。よくあるヤツだ」
「こんな立派な稲荷さんをほったらかしたら、そりゃおかしくもなるよ……」
篤司は木の枝で、あるかも知れない蜘蛛の巣を祓いながら祠に向かった。
「東伏見さん、神職が来たのか」
篤司は、祠を睨むように見つめながら聞いた。
「名刺貰ったけど、権何とかセンって肩書きだったよ」
「それは『権禰宜』と読むんだ。それも神職だよ」
篤司は白布で簡単に祠を清め、柏手を打って頭を下げ、祠の扉を開いた。供物と、ご遷座の道具一式を捧げ持って後ろに控えていた観名は、その瞬間風に打たれたような気がした。
祖父の肩越しに祠の中が見える。黒ずんで、ようやく形をとどめているような御幣と、何か箱のようなものが見える。
「観名」
名を呼ばれて観名は道具の箱を取り落としそうになった。
「はいっ」
「ちょっと、それを箱ごとこっちに持ってきてくれ。これを置くところがない」
枯れ草や得体の知れない物体に制服のスカートが触れないように、そろそろと進んで祖父の横に立った。
「風呂敷を解いて」
緊張のあまり道具を包んだままであった。
「慌てなくて良いからな」
「お孫さんかい?」
「巫女の見習い中だ。高校を卒業したら正式に勤めてもらう」
「へぇ……。高卒でそのまんま巫女さんか」
観名の手が一瞬止まった。
篤司は、それは聞こえなかったように白い手袋をはめ、慎重に御幣をずらし、奥にある箱に手をかけた。
「まあ巫女さんなら嫁に欲しがる人は多いかも知らんな」
「……ちょっと静かにしていてくれ」
長さ三十センチ程の細長い木箱を取り出し、観名が捧げ持つ箱の上に慎重に置いた。独特の古びた木の臭いが鼻をつき、観名は顔をそむけたくなる衝動と戦わなくてはならなかった。
「東伏見さんは、当然これも開けただろうな」
「今みたいに後ろで見ていたからよく解らないけど。開けて、すぐ閉めたみたいに見えた」
男性はタバコを取り出し火を点けようとした。
「タバコはやめてくれないか」
「……そんな危ないものなのか?」
篤司の口調の厳しさに、男性は慌ててタバコを戻した。
「ごみだらけの場所でこのカラカラ陽気だ、火事にでもなったらたまらん」
そう言うと篤司はマスクをつけた。自分もマスクがほしいところではあったが、観名は大人しく箱を捧げ持った。
微かに木の擦れる音がして、観名はあわてて祖父の頭越しに暮れ始めた冬の空を見上げた。何が出てくるにしろ、見ない方が良さそうだった。
何やら折りたたんだ紙を開く音、祖父の唸るような息が聞こえた。温厚な祖父には滅多にないことだ。
やがて、箱が閉じられ。静かに祠に戻された。
「やっぱりダメか?」
「いや。ウチで引き取るしかなさそうだ」
男性は見るからに安堵の表情を浮かべた。
「いやー、助かるよ。ヘタなことやって祟られちゃたまらんし。本当に困ってたんだ」
「あるのはこれだけか? 金襴で包んだ白木の柱みたいな物とか、どっかにあるんじゃないのか?」
「いや……、そんなのは、見たことがないな」
篤司は唸るように息をついた。祠をあちこちから見直してみたが、他に何かが納まるような空間はないようだった。
「そっちもこれと同じくらい大事な物なのだが、見つからないなら仕方ないな」
「こっちだけでも頼むよ。この祠は本当に処置に困る」
「これをどける時に何か変わった物がみつかったら、絶対に触るなよ。そのままにしてすぐに電話を寄こすんだぞ。それから、これは費用がかかるぞ」
「いいよ。幾らだ?」
「五万」
「……少しまからないか?」
「二万は神事の手数料で、残りは京都までの交通費だ。これでも大サービスだぞ」
篤司は祠の縁に用意してきた米や塩の皿を並べ、遷座儀式の準備を始めた。
「何で京都まで行く必要があるんだ?」
「これはウチでも置いてはおけない。伏見稲荷に戻さねばならん。それから今までこんなに放ったらかしていたから、眷属が怒っているかも知れないぞ。どこでも良いからお稲荷さんに詣でて、親爺さんの代わりに非礼を詫びておいた方がいいぞ」
「お前の所じゃだめなのか?」
「ウチの神様は道真公だからな。ちょっと筋が違う」
「でも……。それは引き取ってくれるんだろ?」
「これはうちの摂社のアコ様と繋がりが深いものだからだ。そうしたけりゃアコ様に詣でても良いぞ。それなら玉串料もいらないし」
「それで……。もう大丈夫なのか?」
「そんな保証はできんよ、警備会社じゃないんだ。拝む人間の心がけしだいさ」
「おいおい、頼むよ……」
篤司はわずかな間、目を閉じて考えていた。
「脅す訳じゃないのだが……」
「何だ?」
「ここの稲荷さん、伏見稲荷の愛染寺というところから来たんだが」
「それは聞いた」
「この……。御霊符が入っていた箱だが、いつからここにあったか知っているか?」
「いや……」
篤司はしばらく手を停めて、考え込んでいる様子だった。
「箱の中に入っていたのは。やはりダキニさんの御霊符と、間違いなく正一位だと認める愛染寺が出した書類なんだ。それが文久三年の日付入りだ」
「ちょっと待て。お寺がお稲荷さんの保証を出すってのは、良いのか?」
「明治になるまでは神社も寺もごちゃ混ぜだったんだ。それより面倒なのは、もう一枚書類があってな。そっちに『藤森稲荷別当愛染寺』と書いてあるんだ」
陽が落ちかけ、寒気がセーラー服を透して観名の肌を冷やし始めた。あとどれくらいまともに立っていられるか、観名は心細くなってきた。
「伏見稲荷じゃなくてかい?」
「……まあ話すとやっかいだし長い。後は来たときに話してやる」
観名は胸の内で大きな息をついた。
帰りは府中の駅からタクシーを使ったので、観名はほっとした。行きの車内では他の乗客から遠慮なく視線を注がれて、非常に心地が悪かったのだ。白衣に差袴の上にコートを着た神職と、何やら大きな風呂敷包みを捧げ持った真っ黒いセーラー服の少女の組み合わせは確かに異様だ。
「宮司さん」
「ん?」
『公用』である場合、たとえ巫女の装束を着ていなくても観名は祖父をそう呼ぶ。叔母がそうしているからだ。
「藤森稲荷さんって……、どこにあるのですか?」
「藤森さんは……」
そう言いかけて、少し運転手の様子を伺った。
「空海さんは知っているな、弘法大師だ」
「はい」
「昔……。と言っても、千二百年も前だ」
いきなり話しがとんでもなく時間をさかのぼったので、観名は何時代になるのか頭の中で日本史の年表を検索した。西暦八〇〇年頃だから「鳴くよウグイス」の平安京遷都で桓武天皇の時代だ。数学は苦手だが覚えることは得意だった。
「今、伏見稲荷さんの本殿が建ってるあたりは。元々藤森神社さんの土地だったそうだ。それが、空海さんが京都の東寺を建てるために、この辺に鎮守の稲荷を祀りたいから少し土地を貸してくれ、藁のひと束分でいいからと頼んだと言うんだな」
平日夕刻の甲州街道上りはひどい渋滞で、話しを聞く時間は充分にあった。
「空海さんと言ったら、その時はもうとんでもなく偉い人だったから、藤森さんだってダメとは言えなかっただろうな。それくらいでしたらどうぞと言ったら。空海さん持ってきた藁の束をほどいて、こう一本一本並べて行って今の稲荷山のあたりをぐるーっと囲んでしまったんだそうだ」
「それって……。サギじゃないですか?」
つい弘法大師に対して失礼なことを言ってしまった。
「もちろん伝説だけど。藤森さんは千年たった今でも、毎年祭りのたびに神輿を伏見さんに押し込んで、土地を返せって言っているんだ」
偉い坊さんでお金だって持っているのだろうから。千年後までもめるようないい加減な土地収用などしないで、どうしてきちんと買い取らなかったのか。そのあたりが女子高校生には不思議だった。
「お祭りまでわざわざ同じ日にやるくらい、藤森さんは伏見稲荷を恨んでいるんだな。そこへ持ってきて『藤森稲荷別当愛染寺』と書いた手紙まで入っているから、これは東伏見さんが困るのも無理はないかも知れない」
「べっとうって……、何ですか?」
「うーん、ややこしい話しなんだが……。昔は大きな神社の中に必ずお寺があってだな、そこが神社の事務や経理なんかを任されていることがあったんだ。檀家は持っていないし、当然葬式もやらない。別当寺とか呼ばれることもあるんだが、そこにいる事務専門の坊さんを別当と呼んだんだ」
観名はしばらく考えた。
「伏見稲荷の中に……。藤森神社の事務所をやってる、お寺があったのですか?」
「これがまた、ややこしい話しでな……。伏見稲荷が正式にそう呼ばれるようになったのは明治の四年で、それまでは特に決まった呼び方がなかったらしいんだな。ただ『稲荷』と呼べば、もう伏見の稲荷を意味する位有名だったからね。だから『藤森の土地にある稲荷』と言う意味で自らを『藤森稲荷』と呼んだのかも知れない」
「藤森神社が、自分の土地に建ってるから自分のところの稲荷だって主張したとか……」
「そんなことも、もしかするとあったかもしれないなぁ」
納得のいく回答が得られないうちに、タクシーは赤穂神社に到着した。観名が運んできた古い御幣とお札一式は禰宜たちがどこかへ持っていき、おかしな時間に手が空いてしまった観名は、とりあえず着替えをするために自分の部屋へ戻った。
辛うじて障子と襖で仕切られているだけの四畳半、何はともあれ携帯を充電器に繋いだ。本屋に寄る時間の余裕もないし部屋にパソコンもないので、観名の情報源はテレビと携帯だけである。ここに来るときに持ってきた物と言えば、大げさに言えば制服と教科書類と携帯だけだ。
机から椅子を引き出し、腰掛けたところで意識が途切れそうになった。眠気覚まし手が携帯に伸びたが、メールなどは見ず時間だけを確認した。さぼってはいられない、まだ授与所の片づけや掃除があるのだ。気力が尽きかけていたが、巫女の姿になれば少しの間は気合いで持つだろう。
三
夕食が済んでしばらくすると、障子越しに雅恵が声を掛けてきた。ある程度予期していたのと、衣擦れの音がしたので不意をつかれることはなかった。
「観名」
「はいっ」
「神楽殿まで来なさい。ちゃんと装束つけて」
「はい!」
雅恵の部屋ではなく、しかも巫女の装束で来るように言われたので、これはお小言だけではない。
「来たぁー」
観名は急いで準備をしながらつぶやいた。どれだけの時間がかかるのか解らないので、取り急ぎトイレには行っておかなくてはならない。トイレに行った後で装束を着るには身を清めなくてはならない。とてつもなく面倒なことだった。
何とか一五分ほどで準備を済ませ、念のために腰にカイロを貼った。早足で境内を横切る、ばたばたと音が立ってしまう。草履で歩くのはいつまで経っても上手くならない。
神楽殿の舞台下には道具類を納めておく倉庫のほかに、衣装替えなどのための六畳分の畳敷きがある。そこで観名は雅恵と向き合って座った。背を延ばし、手は叉手。膝の上で指を伸ばした右手の上に左手を置く、左手の親指は右手で軽く握るように交叉させる。それが神職や巫女のデフォルト姿勢だ。
「今朝、観名が知らない祝詞と、祭文を奏上したけど、覚えてる?」
「あまり自信ありません」
それは当然のことだが、雅恵は聞かなかったように言った。
「覚えているだけ唱えてみなさい」
観名は目を閉じ、今朝方見た光景を頭の中で再現した。唇が開いた。
「そーれーかーみーはー。ゆいいつにしてー、みーかーたーなーしー。きょーにーしてれいありー」
一度聞いただけでほぼ覚えてしまう、観名の特技だ。ただし音で記憶しているだけなので、意味は全く理解できていない。音楽も口でなら再現できるが、楽器は何も使えない。観名は一度もつっかえることなく、たった一度だけ聞いた稲荷大神秘文を再生した。
「三箇所間違っていたけど、よく一回聞いただけで覚えたわね。もうひとつ、短い方は?」
「おんだきにばさらだどばんしちなんそくめつ、おんだきにあびらうんけんしちふくそくしょう」
巫女がこんな呪文じみた言葉を唱えることに、観名はひどい違和感を感じた。
「それは完璧ね。本当ははその後に『オンキリクギャクウンソワカ、オンダキニキャチキヤカエイネイソワカ』という真言が続くけど、ここに伝わる作法では、なぜか省略されているの」
「これ……、何ですか?」
「ダキニ天真言よ。豊川稲荷さんみたいなお寺の稲荷なら変じゃないけど、稲荷神社で真言を使うところはあまりないわね。でもまるっきりないわけでもないのよ」
「愛染寺と関係あるのですか?」
「宮司様に聞いた? まあ……、もう聞いちゃったなら仕方ないわ。整理するとね、『赤穂稲荷』という名前は『アコ稲荷』がいつの間にか変化しちゃった呼び方なの。だから私達は今でもあちらを『アコ様』って呼ぶでしょ?」
確かに天満宮で稲荷社を指す時には皆『アコ様』と呼んでいる。観名も自然とそう呼んでいたが、今まで何の疑問も感じなかった。
「アコ様はね。元は九〇〇年くらい昔に巫女さんを葬ったお塚だったの。その巫女さんは伏見稲荷にあった愛染寺から来た人で『あこめ』って名前だったことまで伝わっているの」
九〇〇年前に歴史上どんな出来事があったか考えそうになったが、今はそれどころではなかった。
「私が着ていた黒い装束ね、あれはあこめさんが着ていた装束が真っ黒だったって話しが残っていて、それを真似ているのだけど……」
「あこめさんはお寺の巫女だったから……、黒い装束だったのですか?」
観名は尼僧の衣を思い出して言った。
「……今ではもう理由はわからない。あこめさんは、悪い狐と戦って相打ちになってしまったと言うのだけど。『あこ』って呼び方が、この阿に……」
雅恵は畳の表面に指先で漢字をなぞった。
「古いと書いて、すごく昔の狐の呼び方だったの。それから……、『悪狐』と書いても『あこ』って読んだの、今ちょっと思い出した」
と言うことは、稲荷社に祀られているのは悪い狐の方である可能性もあるのだろうか。
「まあ、関係ないからこれは忘れて」
もう遅い。観名は一度聞いたことはまず忘れない。
「あのお祭りは、アコ様に毎年私達の力をお分けしているの」
「刀は……」
「あれは『お鎮め』と呼ぶのよ。もう今はやっていないけど野狐の加持祈祷とか、特別なお祓いの時に使っていたものよ」
それを使ってアコ様にパワーを分ける儀式をするのなら、塚の中には巫女と悪狐が両方祀られている。あるいは両方があの下に埋まっているのではないのだろうか。観名は背中のあたりが冷たくなるのを感じた。
「遅くても私、再来年には巫女やめて事務方にまわるから。あとは観名がやるのよ」
一番聞きたくなかった言葉だった。
「意味はそのうち教えるから、全部覚えておくのよ」
祝詞と、何故かお経が書かれた和綴じの本を渡された。読むのにかなり苦労しそうな筆文字で書かれている。
「それには書かれていないけど、野狐加持作法の真言を覚えておきなさい。『ナウマクサンマンダボダナンオンダキニサンタリアラシャナウ』」
「なうまくさんまんだぼだなんおんだきにさんたりあらしゃなう」
「それからね。黒い装束を着けたら、巫女じゃなくて別の呼び方をするのよ。滅多に口にすることはないでしょうけど『サニハ』と呼ぶの」
体がひどく冷たいのは、たぶん背中に貼ったカイロが安物だからだろう。