夕暮れの巫女
一
気がつくと、観名は黒ずんだ天井板を見上げていた。自分がどこにいて何をやっていたのか、思い出すのにややしばらくかかった。右側には美夜子が寝ていて、微かに布団が上下しているのがわかった。
襖が閉じられているが、隣の部屋には人の気配があった。布団から起きあがるのに稲荷山に登る時と同じ程の時間がかかったような気がした。そうしてまで起きなければならない理由があったのだが、幸いなことに気力が尽きる前に襖が開いた。
「無理して起きるんじゃないよ」
チヌが顔を見せた。
「すみません……。トイレ、行きたいんです……」
チヌの肩にすがって何とかトイレまで往復したが、今日ばかりはトイレは洋式に限ると思った。布団には戻らず仏壇前に置かれた座卓の前に座った。
ふいに、またチヌに抱かれた。
「よくやったね、観名……。ほとんど何も知らないのに、よく逃げ出さないで美夜子を助けてくれたねぇ。ありがとう。ありがとう。ありがとう」
チヌも涙声になっていた。
「あ……。お……、叔母に、教わったこと、役に立ちました……」
薬がまだ効いているのだろうか、頭の芯が痺れるような感じがして、うまく物を考えることができない。チヌが淹れてくれたお茶を少しだけ飲んだ。
「何かほしいものあるかい? ジュースとか。お腹は?」
「あ、お茶でいいです……。今は。……由加里さんたちは?」
「並河さんが泉沸寺に車置きっぱなしにしてるって。取りに行ったよ」
車を運転できるのだから、二人はそれほどひどい状態ではないのだろう。
「あの……。大行事さんって……、どうなったのでしょう?」
「たぶん消えちまった。全てのものから縁を絶たれて。たとえ存在していたとしても、誰にも知られることはない物になってしまったんだよ」
「……『空』に?」
「そうなったとも言えるね。悟りではなく。『空に墜ちた』って言えるかも知れないね」
その場合、魂は彼岸ではなくどこへ行くのだろう。そんなことを考え続けていられるほど、観名の脳は働かなかった。気がついた時にはチヌに抱えられるようにして四畳半に戻されるところだった。
次に目が覚めたのは、引き戸が開け閉めされる音だった。この狭い本光寺ではどこの音もよく聞こえる。
「並河さんはどうしたの?」
チヌの声が聞こえた。帰ってきたのは由加里なのだろう。
「とりあえず、藤森神社に行ってくるそうです」
「あの人も、えらい目に遭わせてしまったねぇ。何かしてやらないと」
「何か、本人全然欲がない人みたいですよ。外車乗ってるから何かでお金儲けてるのかと思っていたんですけど、全部懸賞であたった物だそうです。何出しても全部当たっちゃうって」
「まあ、巫女だからねぇ。やっぱり欲がないから管に食われずに済んだんだね。それで、伏見さんはどんな様子だった?」
「正面からちらっと見ただけですけど、特に変わった様子なかったですね」
美夜子達はボロボロにされてしまったが、目に見える被害は船岡山の磐座にヒビが入ったのと、大岩大神の奉拝所が少し壊れた程度で済んだのだ。
「一週間は無理でも、二・三日は様子見ておきたいところだね」
「広まっちゃった管狐のこともありますし……。あ、善能寺の祠。見てきましたけど。気配消えてます。並河さんも、何も感じなくなったって言ってました」
「そんならいい。もう大丈夫だろ、管は放っておけばいずれいなくなるから」
「管狐って、寿命あるんですか?」
「並河さんみたいに家に伝わってきちんとお祀りしているなら、それこそ代々働いてくれるけど。何も知らない人間が打ち出の小槌みたいな気持ちで使ったら、その人間一代で終わるね。しかも途中で」
「並河さんの管狐は、まだいるって言ってました。そう言えば、あれはもともとあそこの家に伝わってたのに、何で入れ替わったんですか?」
「たまたまあの人が管持って近くに来たもんだから、元からいたのを追い出したか喰っちまったかしたんだろ。御利益あったり祟ったりがひどかったって言ってたから、位の低いあまり良くない管だったんだろね」
観名は、美夜子が身動きする気配を感じた。左手を伸ばして美夜子のいるあたりを探ってみた。冷たい指に触れて、それが観名の手を握ってきた。たぶん頬だと思われる柔らかいものが押しあてられた。それも冷たい。
「美夜子さん」
「はい」
二人とも、声が弱々しい。
「子烏……。手から外してくれたの、誰だったんでしょう?」
「観名、お姿見なかったの?」
「手だけは……。見ようとしたら、由加里さんが来ちゃったんです」
弱々しい笑いの波が伝わってきた。
「三の峯の白菊様よ。阿古女様のお願い聞いてくださったのね」
「女の人……、じゃなくて神様なんですか?」
「白菊姫とも言うらしいわ」
なるべく早くお礼をしに、稲荷山に登らなくてはならないだろう。
「巫女さんズは、どんな具合です?」
由加里の声がこちらに近づいてきた。
「よく寝てるよ。観名はお昼に自分で起きてきた。美夜子も無理やり起こしてトイレに行かせたよ。まだ何も食べてないから。そろそろどうかね……」
襖が開く前に、観名は手を引いた。
二月の二十日。観名が京都に着いてから五日目に、本光寺は再び人気のない静かな寺になった。日帰りのはずが五日経ってしまっていた。観名自身はもう一ヶ月もいたような気がしていたのだが。
京都を去る四人を見送りに、結構な人数がホームにまでやって来た。その中にはもちろん並河貴子もいる。
「また休んで、大丈夫なの? 神社」
「大丈夫なことあらへんけど、どうせ身内ばっかやから」
「やっぱそうなんだ」
「ありがとうございました。とても、お礼の言いようがありません」
まだ左手を吊っている美夜子が、貴子の手を取った。
「うちも、ええ経験させてもらったわ。ありがと。それで、ちょい頼みあるんやけど」
「はい?」
貴子は美夜子を両手で抱き寄せて、思い切り抱きしめた。
「あ!」
「堪忍してや。どうしても我慢できひんかった」
「あ……。はい」
美夜子の頬に、貴子のルージュが薄く付いていた。
「観名はん」
「はいっ!」
観名は思わず逃げ腰になった。
「あんた……。ええ顔になったわぁ」
「そ……。そうですか?」
「何で逃げはんの?」
「い、いえ……。逃げてなんか……、ああっ!」
「良い巫女はんになってや……」
「あ……、りがとうございます」
自分の両手をどうしたらいいのか解らなくなって、妙な形で硬直してしまった。由加里がそれを見て笑っている。幸い観名にはルージュのオマケは付かなかった。
東京行き『のぞみ』が動き始めると。見送りの人たちが何と一斉に柏手を打ち、頭を下げた。並河貴子が困惑しきった表情で立ちつくしている。
「……何だったんですか。さっきの?」
五分ほどして硬直が解けた由加里が、チヌに聞いた。
「マレビトか、マロウドか。どっちにしろ神様扱いになっちまったようだね。もしかすると単に巫女に感謝しただけかも知れないけどね」
新幹線からでは稲荷山は全く見えない。観名は異常なことにな慣れっこになってしまったのか、見送りの人たちの柏手には驚かなかった。京都では普通こうするのかと思ってしまったのだ。
それよりも、どうやって美夜子と一緒に稲荷山にお参りをしたら良いのかを考え続けていた。しかし二人だけではかなり困難なことになるだろう。
「観名……。返さなくちゃいけない物があったわ」
隣の席で、眠ってしまったと思っていた美夜子が突然言った。
「え?」
「携帯貸して」
訳がわからないまま美夜子に携帯を渡した。美夜子は手に持った携帯を口元にあてて、何かを唱えた。
「はい。返した。稲荷山のあそこから、狐借りてたの」
「え? え?」
そう言えば携帯狐のことをすっかり忘れていた。
「私の中に大行事則正が入ってきたとき、中で押さえつけてくれたのが観名の狐だったのよ。助けてくれたのが白菊様だって教えてくれたのも」
「……そんなこと、してたんですか?」
ではあの恐い笑みは、間違いなく笑っていたのだ。
「騙したんですか? あれを」
「そうも言えるかも」
「あの、白い玉……」
観名が言いかけると、美夜子が唇の前に指を一本あてた。観名の耳に口を寄せて囁いた。
「あれ大行事と合体していた狐なの。チヌさんにバレたら取り上げられちゃうから、秘密」
「ええー? いいんですか?」
「しー!」
美夜子がそれをどうやって使うのか、何に使うのか。非常に気になったが、今聞いても答えてはくれないだろう。
「それからね。そっちの狐は当分の間観名に預けるって。阿古女さんが言ってたって」
「え?」
「その狐の名はハハシロ。……観名、これどう言うことか解る?」
「……えーと。わかりません」
「名前を教えて、それが付いているってことは。観名はハハシロを使っていいってこと」
「えっ?」
「今までは危ない時だけ助けてくれたけど、もう今からはそれ以外のことでもやってくれるわよ」
「……それ以外って、どんな?」
「それはハハシロに聞きなさいよ。観名の力によって、できることとできないことがあるでしょうし。お作法とかは貴子さんに聞いてごらんなさい」
お弁当はカツサンドで、ひと箱を二人で分けろと渡された。若干心配になったが、箱を開けてみて納得した。凄い厚さのカツが挟まったものが六切れも入っていたのだ。体調が戻りきっていない美夜子は、ひと切れで音を上げた。
お腹が一杯になると、また猛烈に眠くなってしまった。まだ名古屋も通過していない。これで眠ると、来るときに見損なった富士山を見ることができない。
「美夜子さん……」
「なに?」
「いつから巫女、なさってますか?」
「五年かしら。でも中学の時から学校行きながら巫女やってたから……。七年?」
観名はそれから美夜子の年齢を計算した、外見と実年齢が全く合っていない。
「巫女を始めたばかりの頃って……、神様信じてました?」
しばらく、眠ってしまったのかと思うほど返事がなかった。
「チヌさんのところに来るまで、辛いことばっかりだったから。信じてなかった」
まずい部分に踏み込んでしまったと、観名は質問したことを後悔した。
「私……」
美夜子がそれ以上自分のことを話し出さないうちに、観名の方から話した。
「親が勝手に。お爺さんの神社で巫女になれって決められて。それで、家は狭いし、妹たちもいるし、仕方ないなーって思って。何も考えないで巫女やってました」
膝の上、自然とそうなってしまう叉手。そこに美夜子の冷たい手が重ねられた。
「このまま……、何の取り柄もない女の子で。巫女さんだったって。それだけで、いつかどこかにお嫁に行くのかなーって。ほんとに何にも考えてなかったんです」
「でも。観名は真面目だし、頭もいいからちゃんと巫女さんになっていたじゃない」
「……形が、そうなっていただけです。中はからっぽだったんです。今まで」
「入った? 中」
「入りました。……思いっきり。これで私、本当の巫女になれたんだと思います」
中身が詰まったことが、果たしてこれから観名の人生にとって良いことなのかどうか。後ろの二人の会話をそれとなく聞きながら、由加里はデジタルメモで書き物をしているチヌに聞いてみた。
「これからどうなると思います? 観名ちゃん」
チヌは小さなキーボードを打つ手を停め、眼鏡を外した。
「観名にとっちゃ、今までの世界がひっくり返ってしまったようなものだからね。いろいろ苦労は多いだろうけど、あの子は苦労を苦労と思わないで乗り越えてしまうよ」
「何も知らないところから、いきなり美夜子のレベルまで来ちゃったみたいですけど。チヌさん、観名を使う気じゃないんですか?」
「まだ高校卒業したばかりで、世の中のことなんてほとんど知らないからね。どうなるのか、なってみなくちゃわからないよ。まあ私が使わなくたって、いずれ観名の力は世の中に知れるようになるだろね。そしたら周囲がほっといてくれないさ。あんた観名のマネージャーもやってやりなよ」
「えー? 高崎と東京行ったり来たりはキツいですよー」
「サニハのマネージャーできる人間なんて、世の中にあんた一人なんだからさ。考えときなよ」
「体がもちませーん。……でも観名の力って、そんな凄いんですか?」
「あんた実際に見たんだろ? 話しを聞いたら、最後のところは完全に観名の力だけで封滅してるじゃないか。美夜子は力使い果たしてたんだからね」
いつのまにか後ろの話し声は聞こえなくなっている。観名はまた富士山を見損なってしまった。
東京駅ではそのまま東北新幹線で高崎まで帰る由加里と美夜子と別れた。美夜子がどうしても観名の手を離したがらず、延々時間を取られた。
「今生の別れじゃないんだから、早く行きな!」
改札機のところで見送っていると。美夜子が何度もこちら振り返った。
「齢が近い友達が、今まで由加里だけだったからね。嬉しいんだよ、すごく」
チヌは、観名の滞在を長引かせてしまったこと、そして非常に危険な目に遭わせてしまったことを詫びに、谷保まで来てくれるのだ。
「高崎に……。お姉さんが、二人……」
観名も涙を拭いながら言った。
「それと、お祖母ちゃんがひとり。できました」
「おや、娘とあんまり歳が変わらない孫かい。といってもそれが普通だね」
なぜ美夜子がチヌの養女になったのか。その経緯が非常に気にはなっているのだが、とても聞けることではなかった。
中央線の中では、チヌは五十年も昔に京都へお祓いに行った時の話しを聞かせてくれた。
「上野に着いてから半日待ってね。そうしないと切符が買えなかったんだよ。それから夜行で京都までだから、京都まで二日かかったんだよ。でお式なんかたった一時間で終わって。また二日かけて高崎に帰ったの」
観名には理解不能な時間スケールの旅行だった。
「お金なんて汽車賃しかなかったからね。だから神社でお握り作ってもらってね、京都までそのお握り六つと水筒のお茶だけ。それも中に何も入ってなくてねぇ。海苔も巻いてなくて、塩ゴマまぶしたのにタクアンだけ。で、帰りにお式やったところでお握りとお茶もらって、それがね。具が入った色御飯で、卵焼きを入れてくれたんだけど。それがねー、今考えるとだし巻き卵だったんだね。こんな美味しいものが京都にはあるんだって、京都は凄いところだなーって思っちゃったよ。本当、涙が出たくらい美味しかったんだよ……」
それもある意味壮絶な巫女の仕事だ。
国立駅からはタクシーで赤穂天満宮に向かう。お菓子屋に寄ることができなかったのが残念だが、それはいつか自分で高崎へ持っていけばいい。
観名の祖父と叔母と、チヌの話しは一時間ほどで終わった。双方が恐縮し合って、観名自身は蚊帳の外状態だった。叔母が緊張してまくっている姿を、観名は始めて見たような気がした。
宮司と巫女が直々に付き添って、四人で天満宮本殿と赤穂稲荷社を礼拝した。小さな『アコ様』の前で稲荷心経と御神歌を捧げると。チヌは聞きそびれていたことを口にした。
「失礼とは存じますが、大西家は秦の家筋でいらっしゃいますか?」
「そう……、聞かされております。観名にも、正式な巫女になってから伝えようと思っておりました」
大西宮司が答えた。
「やはりそうでしたか」
「観名から……、何か?」
「いえ……。うちの巫女と電話で話されたことを聞きまして、秦の家筋ではないのかと思いました。ただ……、サニハは本来愛染寺に所属していた巫女ですので、なぜ秦の血筋の巫女がサニハを兼ねているのか、それが不思議だったのです」
無意識のうちに声が大きくなってしまったのか、チヌは小さく咳払いしてから続けた。
「ご存じと思いますが、もうサニハ巫女を伝えるところはほとんど残っておりません。作法も技も、あとこの先どれだけ伝えていけるか、非常に心細い状態です。私は稲荷の研究と共に、現在残っているサニハについて文書を作って後世に残して行きたいと思っております。こちら様に何か文書などが伝わっておられましたら、拝見させて頂ければ非常に有り難いのですが」
由加里が『歩く稲荷の生き字引』と言っていたことを、観名は思い出した。美夜子も叔母も、そして観名自身も、消えつつある存在だったのか。
「文書の方は、残念ながらあまり数は伝わっておりません。ほとんどが口伝ですので。雅恵に聞いていただければ、何かお役に立つこともお聞かせできるかと思います」
赤穂天満宮の梅林は、日当たりの良い場所の蕾が少し色を付け始めたかどうかという程度だった。観名の卒業式には気の早い紅梅がいくつか咲いているかも知れない。ふいに観名は思いつき、急いで部屋に戻って未だかつてない速さで巫女装束に着替えた。
息を切らせて境内に出ると、ちょうどチヌと宮司が梅林から参道に向かう所だった。敷石の上を足早に歩く。正中を横切らなくてはならないのでそこだけ三歩、少しだけ上体を屈めて歩く。京都で練習した訳でもないのに、草履で歩くことがいつの間にか平気になっていた。
その時に気がついた、つま先で地面を摺るような歩き方。これは禹歩だ。美夜子は、術の時にはわざとよろよろとした歩き方だったが、刀を構えて移動する時は上体を全く動かさずに、ほとんど膝から下だけを動かして摺り足で素早く歩いた。
意識してそうやって歩いてみると、袂が風をはらむほど早く、それなのに静かに歩けた。数日前までばたばたと草履を鳴らしてしまったのだが。今はほとんど音を立てずに歩けるようになっていた。
参道の真ん中あたりでチヌたちに追いつくことができた。叔母が観名がやってくる姿を見て立ちすくんでいる。
「観名。今の歩き方……」
「美夜子さんの、歩き方です」
チヌが頷いた。
「美夜子の技を、見て覚えたんだね。やっぱり観名は凄く素質がありますよ」
「ええ……」
雅恵は目をつぶってひとつ息をついた。
「もう……私が知っている観名ではありません」
「ひと月でいいから、愛染稲荷に研修に来させてみませんか? 観名ならきっとそれだけで全部覚えられますよ」
観名にとって、それはとても魅力的な話しだった。しかし今簡単に決まるはずもなかった。
「それでは、また近いうちに連絡させていただきますので。できたら今度は観名のお式を着たところも見せてください」
「はい!」
雅恵が訝しげに観名を見やった。赤穂稲荷では『サニハの』とか『黒の装束』と呼んでいるのだ。
甲州街道に面した鳥居まで、チヌを見送った。
「ここは、甲府と半蔵門を繋ぐ甲州街道ですね。昔……、阿古女さんは京から東海道を通って鎌倉へ。鎌倉街道中ノ道で府中まで来て、ここも歩いたのかも知れませんね。あのアコ様の詳しい由来をぜひ知りたいものです」
すでに日は落ちかかり、大樹に覆われた参道はかなり薄暗くなっていた。その中で観名と雅恵の巫女装束が浮かび上がっている。雅恵はミズノのサーモ機能のある下着を着ているので平気だったが、観名はユニクロのヒートテックなのでかなり寒かった。
鳥居の下で頭を下げ、チヌが乗ったタクシー見えなくなるまで見送った。通る人たちが皆観名をしげしげと見ていく。そんな風に見られることが、この間まではひどく苦痛だった。
今も苦痛でないことはないのだが。人が自分を見ることの、その意味を考えることができるようになった。巫女がいる。それはすなわち、そこに神がいることを示しているのだ。だから巫女を見ることは神を見ていることに等しいのだ。
「……あと十年」
参道を戻っていく祖父と叔母の後姿を見ながら、ふと観名はつぶやいた。
両腕を持ち上げ、自分の白衣をつけた腕を見た。
「私……あと、たった十年しか巫女でいられないんだ……」
その間に何をしたら良いのか、そもそも何ができるのか。考えれば考えるほど激しい焦りに襲われたが、今すぐ何かができるはずもなかった。
参道脇のアコ様の祠に立ち寄り、もう一度手を合わせた。この世に遺した心配の種が消えて、千年のお勤めを果たした阿古女様は。次はどこへ行くのだろう。
「千年かぁ……」
来年のことすらはっきり決められない観名にとって、それは無限に等しい時間としか思えなかった。
『……違う』
ふいに観名は気付いた。自分自身に流れている血が、遺伝子が、千年どころかもっと昔から続いていることを。その端っこに、たまたま自分は立っているに過ぎないことを。そして自分の十年は、その先の千年の一部であることを。
今から千年経っても。その時でも、きっとこの神社も、伏見稲荷も、愛染稲荷も変わらずに在り続けているだろう。そしてきっと、自分の遺伝子を継いだ少女が巫女としてご奉仕を続けているだろう。
観名はもう一度アコ様に向って頭を下げた。きっと千年前に、どこかの神社で現在の自分に繋がる巫女が同じ事を考えたに違いない。だから自分はこうしているのだろう。
何となくそんな気がした。
-終-




