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Since711AD  作者: 胡堂 瞬
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西九条池ノ内午後九時

     一


 車を降りた瞬間、あるかなしの微かな風に何かが臭った。冷えて湿った京都の風が、何か不吉な気配をも含んでいるように感じた。以前は霊感など限りなくゼロに近かったが、こんな仕事を2年も続けていれば、何とはなしに得体の知れない何かを感じることはできるようになった。なったような気がする。

「当たり?」

 山本由加里(やまもとゆかり)はパジェロミニの中を覗き込むようにして訊いた。

「はい、たぶん」

 助手席では布施美夜子(ふせみやこ)が難しい表情をしていた。

「左側、何があります?」

 由加里はシートに肘をついてカーナビを覗いた。降りる前に確認しておくべきことであった。

「伏見稲荷大社……の……『おりょじょ』?」

「『おたびしょ』です。そう言えば、ここ初めて来ますね」

 美夜子はシートベルトを外し、自分でドアを開けた。由加里は慌てて反対側にまわり手を貸した。貸したと言うよりは歩道を突進してくるかも知れない自転車に、美夜子が吹っ飛ばされるのを防ぎに回ったのだ。美夜子は由加里が見えない物だけは見えるが、由加里が見えるものについては全く見えない。

「由加里さん、お鎮め(しず)出してください」

「え? ちょっとやめてよ。こんな町中で」

 交差点を隔てた向こうには、イオンの大きなショッピングモールがある。付近を歩いている人はいないものの、大きな通りを車はひっきりなしに走っていく。

「いま。中にいますよ」

「でも。あれ持ってて不審尋問されたら間違いなくタイホよ」

「向こうの力が解らないから、杖じゃちょっと心配なの」

 何となく噛み合わない押し問答をしても時間の無駄なので、由加里はハザードライトを点滅させ、駐車禁止除外車のカードがダッシュボードに出ていることを確かめた。

「あれ持って歩いたら明らかにヤバいからね。私がバッグに入れて持っていく。それでいいでしょ?」

「鳥居をくぐったら渡してください。袋ごとでいいですから」

 最低限の譲歩は引き出せたので、由加里は美夜子の手を引いて参道を進み鳥居をくぐった。そこで足を止め、白い杖を受け取って代わりに古い着物の帯だった布で包まれた細長い物を美夜子に渡した。

美夜子は無言でその紐を解き、普通なら出してはいけない中の物を平然と取り出した。白木でできた短い杖のようなものだが、中身は刃の部分だけで四十センチはある小型の日本刀だ。

「……それ、抜かないよね?」

「もちろん抜きますよ。必要があったら」

 今日の美夜子は、黒いブレザーとグレーのスカートなのでほとんど真っ黒だ。なので白い刀の鞘がオレンジ色の水銀灯に照らされて異様に目立つ。

 由加里はこのまま何事もなくここを出ることができるように祈った。しかし最近何に祈ったらいいのか解らなくなってきた。そしてほとんどの場合、祈っても悪い方に転がる。開き直って祈ることなどやめた方が良いということだろうか。

 やはりここでもジンクスは破れなかった。由加里でもそれとわかる、物が燃えたような臭いが感じられたのだ。水をぶっかけて、まだ燻っているたき火の跡のような臭い。

「このニオイ……」

「何か焦げてますね……。悪さをしていなければいいのだけど」

「放火とか?」

「あれはそんな気ないのでしょうけど、結果としてそうなってしまうのでしょう」

「ちょっと勘弁してよ。銃刀法違反の上に放火の容疑者なんていやよ」

「だったら車で待っててください」

 美夜子が機嫌を損ねた。ほとんど様子は変わらないが、声の微妙な変化でそれとわかってしまう。

「一人で行ってきますから」

「ムチャ言わないでよ、この状態で放り出せるわけないでしょ」

「恐いなら後ろから付いてきてください」

「明るいからあんま恐くはないわよ、警察が……」

「静かに!」

 美夜子は動きを止め、ゆっくりと見回すように頭を回した。

「由香利さん。私が見ている方、何があります?」

「何だかよく解らないけど、横に長い倉庫みたいなもの。あと……、古い小屋みたいなもの……。社務所……じゃないね。神楽殿かな?」

 仕事上神社や寺に行く機会が多いので、神社仏閣に少々詳しくなってしまった。見物や参拝とはかなり目的が違う訪問ばかりだが。

「私の後ろ、反対側は?」

「木がいっぱいあって、小さい社みたいなのがある」

「そこの前に行きましょう、ゆっくり……。向こうに背中見せないで」

「ヤバそう?」

「ええ。ヤバそうです……。何かに憑いたみたいですね」

 そろりそろりと石畳の上を後じさって、由加里は美夜子を赤い社の柵に相方の背中が付くところまで誘導した。社の後ろは石垣で、その先はもう道路である。

「もう良いですよ。離れていてくださいね」

 錦の刀袋を受け取り、由加里は少し離れた地面が露出した場所に立った。つま先で小砂利を掻いて自分の周囲に円を描き、その真ん中にしゃがみ込んだ。バッグの中から平たい箱を取り出す、中には竹を編んだ護符が入っている。

「こっちはいいよ」

 声を掛けると美夜子は小さく頷き、少し空を仰ぐようにして深呼吸した。

「なう……まくさんまんだぼだなんおんだきにさんたりあらしゃなう……」

 その呪文が消えないうちに。地を這うようにして真っ黒い、塊のようなものが襲い掛かってきた。あれでは刀は届かない。

「美夜子! 下!」

 由加里は思わずそれに向かって護符を投げつけてしまった。護符はそれと美夜子の間に落ち、『それ』は護符につまづいたような格好になった。

 瞬間、黒い塊から灰色の湯気のようなものが吹き出し、美夜子に襲い掛かったように見えた。

 由加里は悲鳴を上げそうになって思わず口を押さえたが、その時には湯気のようなものは消え、美夜子は顔の前で刀を半分抜きかけた姿勢のまま止まっていた。その足元には一匹の大きな黒猫。

「……逃げました」

 音もなく刀を鞘に戻しながら美夜子が言った。

「……ごめん。余計なことした?」

「いえ……。威嚇するだけで、最初から逃げる気だったと思います。まるっきり手応えありませんでした。……もしかしたら、途中から違うの追ってきたのかも知れません」

 由加里は地面の円から出て、恐る恐る猫の様子を伺った。お腹がひくひく動いているので、たぶん生きているのだろう。

「……何ですか?」

「猫」

「あいつ、猫に憑いてたのね。それで何か変な気配だったのね」

「良いの? キツネが猫に憑くのって?」

「……さあ? 解りません」

 どうしたら良いのか解らずに、とりあえず猫にマッサージのまねごとをしていると、すぐに起きあがって体を震わせた。頭を撫でようとすると由加里を睨みつけ、威嚇して逃げていった。首輪についた鈴の音が、しばらくの間聞こえていた。

「終わり?」

 美夜子を見上げて由加里は言った。

「はい。今日はもう見つからないでしょうから。……何時ですか?」

「もう九時過ぎてる」

 油小路を北に、京都ではこれを「上がる」と表現するらしいが、JRの線路をくぐって京都駅ビルの駐車場に車を入れた。途中のコンビニで買った袋を提げ、美夜子の手を引いて油小路の路地を歩いた。

「美夜子、高崎が恋しくない?」

「まだたった三日ですよ。由香里さんは帰りたいですか?」

「別にぃー。向こうじゃ仕事ないし、家にいたって邪魔にされるだけだし」

「この間、何か電話のオペレーターみたいなことするって言ってませんでしたか?」

「ああ……あれね……。まあお給料そこそこだったけど、精神的にキツかったんでねー」

「そんなに?」

「一日中、自分のせいでもないことで知らない人に怒られてみな。死にたくなるよ」

「この出張って、どうなるんですか?」

「一ヶ月、臨時職員扱いだって。前払いで給料くれたよ」

 まとまったお金を手にしたのは久しぶりのことだった。さらに京都で必要になる当分の経費も一緒に振り込まれたので、現在由加里の財布は非常に分厚いことになっている。高崎にいてパートで美夜子のヘルパーをしたところで、月に一〇万円にもならない。

「それじゃ由香里さんがもう一ヶ月稼げるように、ゆっくりやります」

「いいわよ、変に気を遣わないで。二ヶ月も家に帰らなかったら、さすがに怒られるわ」

「いい機会だから、職員になっちゃったらどうです?」

 美夜子の声に力がなくなっていた。体力が尽きてきたのだろう。

 宿舎が近づくと、近くに観光客がいないかどうか様子を伺うことになる。知らない人が見たら全く気がつかないが、その小さな門構えの建物は寺であり、何でも新撰組のメンバーが死んだ場所として地味に人気があるスポットなのだ。数年前に住職さんが亡くなって、現在は無住寺と言うかほぼ廃寺である。

 お寺の正面は、観光客が記念に迷惑な行いをするのを防ぐために現在は門の外に頑丈な柵が設けてある。その鍵を開けて、さらに門の横にあるくぐり戸を開けて。出入りには結構時間がかかってしまう。

 門の中は隣のビルの窓明かりがなければ真っ暗で、ささやかなどという形容詞では間に合わない狭い境内を歩くのも大変だ。しかし美夜子は暗くても明るくても関係ない、あちこちひっかかったり躓くのは由加里の方だ。

 たてつけの悪い引き戸を開けると、美夜子は靴を脱いで転がしたままさっさと中に入ってしまった。

 何十年前のものだか解らない蛍光灯が、隣の四畳半に転がっている美夜子の姿を浮かび上がらせた。考えてみれば朝の七時くらいから今の時間まで京都中を車で走って。あるいは歩いて姿の見えない相手を探し回っていたのだ。

 由加里も並んで転がりたい気持ちを抑えて。まず四畳半のホットカーペットの電源を入れ、狭い廊下を抜けて狭い浴室に行き、小さな給湯器から小さな浴槽にお湯を入れた。

それからトイレに行き、和式のトイレ用ウォシュレットがないことに何度目になるのかわからない呪いを吐いた。本堂に戻る前に台所に寄り、これも何十年前のだか解らない冷蔵庫にコンビニで買ってきた缶ビールを入れた。

 仕事の前にやっておかなくてはならないことがあった。美夜子をあのまま転がしておくと間違いなく風邪をひく。

「美夜子。そのまま寝るの?」

 ゆすって見たが全く反応しない、完全に討ち死に状態だ。仕方ないので横に羊毛パッドを敷き、その上に転がした。その前に髪をまとめて縛っておく。これが結構手間だ。ぐにゃぐにゃの美夜子の上着とスカートとタイツを脱がせて羽毛布団で埋めた。長い髪はまとめて、布団の外に出してやる。髪が体の下敷きになってしまうと、身動きができなくなるのだ。終わった頃には由加里も意識が薄れてきた。

 それから由加里は仏壇の前に座卓を出して、レシートを並べて電卓を叩き、今日までの簡単な報告を添えて携帯メールで送った。これでようやく今日の仕事は終わりだ。

ステンレスの小さな湯船で膝を抱えて、意識を失わない程度に体を温めた。時々缶ビールを顔にあて、少しだけ飲む。黒ずんだ木の天井をぼんやりと見上げながら、一昨年までは高崎の、何の取り柄もない短大生だった自分が、なぜ京都でこんな事をしているのか。とりとめもなく考えていた。

 しかしすぐに考えは明日のことに飛んでしまう。あの様子では、美夜子は明日使い物にならないだろうから、早めに外に出て食料その他を買出ししておく必要がある。ここの滞在がまだ続くようなら、食器なども少し買っておかなくてはならないし。洗濯物も何とかしなくてはならない。

 近隣の住民たちの注意を惹くことは極力避けなくてはならないのだが、こんな住職がいなくなった寺にある日突然若い女性が二人出入りするようになったのだから目立たない方がおかしい。

もう少しまともな宿舎に移ったらどうかと考えたが、活動時間が深夜から明け方になることもあるだろうから、ホテルは無理だろう。ウイークリーマンションでも借りることができたら一番良いのだが、それでは手続きなどがいろいろ面倒なことになるだろう。

 寝床につく前に、夜中に起き出すかも知れない美夜子がすぐに食べられるように、のり巻きのパックを一度開けて軽く蓋をかぶせておく。お茶のペットボトルはキャップの封を切っておく。

 それだけやって、由加里も寝床をしつらえて横になった。もう零時を過ぎている。遠くで鈴の音が聞こえたような気がした。





     二


 話しは前年の夏に遡る。その夏は、いつにも増して暑かった。五山の送り火を見に船岡山に詰めかけた人たちも、等しくそれを念じていただろう。彼岸が過ぎて早く気温が下がることを。

 気温のためか、今年の近畿一帯は水不足がひどく、賀茂川にはほとんど水がなかった。上賀茂あたりの農地が乏しい水をみな吸い込んでしまうからだった。鞍馬川も水量が激減し、関電洛北発電所は発電が不能になってしまった。

上賀茂神社のあたりではほとんど水が干上がって、全く靴底を濡らさずに川を渡れる有り様だった。下鴨神社で合流する高野川も状況は大して変わらず、取水制限を厳しくしても川底が露出するほど水量は少なかった。琵琶湖疎水からの水で二条から下流は何とか川の格好は保っているが、それすらこの暑さでは蒸発してしまいそうな心細さであった。

 大文字に火が入り、次いで妙法に火が入り始めた頃。人で身動きも取れない船岡山公園から、南面に少し下った展望台に一人の女性がやって来た。ここからでは送り火は全く見えないが、京都の夜景は見ることができる。もっともこの時期に限ってはあまり治安の良い状態とは言えなくなるので、女性が一人で来るのは珍しいことであった。

 その付近にはデート中の数組の男女がいて、中の数人は一部始終を目撃していた。その証言によると、女性はまっすぐに磐座(いわくら)と呼ばれる大きな自然石に向かって行き、それによじ登ろうとでもするように両手をついたらしい。女性は一人だけだったという証言もあれば、誰かが一緒だったという声もあった。あまり明るい場所ではないとは言え、そのような見間違いが起こるのだろうか。

 女性はしばらくそのままの姿勢で止まっていた。酔って気分でも悪くなったのかと思った人もいたと言うから、ずいぶんそのままの姿勢でいたのだ。そして、突然女性は悲鳴を上げた。上の公園にいた大勢も聞いたというから、さぞかし凄い声だったのだ。

 そして女性は磐座に二箇所の血痕を残したまま、船岡山から逃げた。北大路側に降りて、奇跡的にタクシーを拾い「四条大宮まで」と言ったところで気を失ったそうだ。運転手は無線で緊急を知らせて、救急病院に女性を運び込んだ。

 女性は両手の平に鋭い物で貫かれたような傷を負っていたが。幸い骨も大きな血管も外れており命には別状なかった。しかし一夜が明けても錯乱していた。

「狐が命令した」

「男が一緒だったが飛んで行った」

 薬物による幻覚症状を疑ったが、女性には何の前歴もなく。所持品にも疑わしい物はなかった。ひとつだけ、アクセサリーや携帯ストラップにしては妙な竹製の筒があったが、女性は知らないと言い張った。

 それと同じ夜。伏見区深草にある伏見稲荷大社では、化粧直し中の楼門や境内にある祠、峯にある茶店、あちこちでぼやが発生した。いずれも、シートが燃えたり祭具の一部が焦げたりした程度で被害はないに等しいものだったが、こうも同時に発生するとは異常であった。翌朝消防署が調査に来たが、原因は不明であり放火の疑いが強いとされた。

 信者を連れて一の峯上社に詣でていた稲荷巫覡(いなりふげき)が、普段は立ち寄りもしない社務所にやって来た。本来の社務所は工事中で儀式殿を仮社務所として使っているのだが、折悪しく窓口には助勤(アルバイト)の巫女しか詰めていなかった。

 稲荷巫覡は「一の峯の周辺で良くない気が立っている」と告げて行ったのだが、助勤巫女では何のことであるか解らなかった。その内に他の業務に気を取られて、「変なお婆さんが苦情を言ってきた」ことなど忘れてしまった。

 それからちょうど一ヶ月たった夜、また同時に火災が発生した。今度はぼやでは済まなかった。御幸道沿いの食堂と、楼門近くの仏具屋が焼けたのだ。仏具屋には火の気がなく、火元の位置から放火の疑いが強いとされた。しかし、なぜわざわざ、しかもどうやって文字通りの軒先に火を付けたのかは謎だった。

 そしてさらに一ヶ月後、夜参りの参拝者が怪異を目撃した。楼門付近で白い綿毛のような光る球がふわふわと漂い、それが触れた場所に焦げと煙が立ちのぼったのを。気丈なその人は手水舎の柄杓で水をぶっかけて火災を未然に防いだが、翌日から高熱を出して寝込んでしまう災難に陥った。

 噂はたちまちネットの掲示板やツイッターで広まり、夜になると伏見稲荷には若い男女を中心とした見物人が押しかけるようになった。それで別の事件が発生してはたまらないので、大社では緊急に照明を増設した。しかし喧嘩だの石段で転んだだの、小さなトラブルはやはり頻発した。

 十月の講務本庁講員大祭に万一のことがあってはと警備を増強し、自警団による巡回も行ったのが良かったのか、新嘗祭、暮れの大祓式と何事もなくその年は終わった。開けて大山祭、奉射祭、そして二月の初午大祭が終わったところで再び不審火騒ぎが始まった。

今度はJR稲荷駅並びにあるコンビニのゴミ置き場から始まって、二晩かけて御幸道を上ってくるように、ぼやが発生した。最後は工事中の楼門脇にある案内の大きな立て看板が燃え上がった。

 もはや、ただのイタズラによる放火だの漏電だのではあり得なかった。明白に伏見稲荷大社に害を及ぼそうとする意志を持った、何かの仕業と考えるのが自然だった。しかも監視カメラを何度検証しても、立て看板は全体から煙が出たか後に一気に燃え上がっているのだ。まともな原因による出火ではあり得なかった。

 その火災は京阪神のローカルニュースとして報道され、多くの人が目にすることになった。数ヶ月前に社務所を訪れた稲荷巫覡の信者がそれを目にして、巫覡の老女に電話をかけた。

 翌日、老女はタクシーで伏見稲荷大社にやって来て、窓口で宮司に合わせろと粘った。幸か不幸か宮司は出張で夕方まで不在であり、禰宜が話しを聞くことになった。

「先々月や。一の峯で祈祷しとったら、上社のお塚の中おかしなもんがウロウロしとってな」

「何や、おかしなもんって?」

 禰宜は既に二十年も勤めているため、その巫覡老女とも顔なじみであった。

「灰色のケツネやった。灰色言うか、良くないもんぎょーさん背負って。黒うなっとるんや」

「何や、煤けとるんか?」

「暢気なこと言うとる場合やない。あれほっておいたら、ろくなことせんで」

「ほんまか?」

「ワシが今までこんな事言いにわざわざ来たことあったか?」

「いや……。ない。あんた、祓ってくれるか?」

 老女は勢いよく首を振った。

「あかんあかん。あれはただのケツネやない。あれに半端に係わると、命取られる」

「そんな悪いもんか、どうしたらいいんや?」

「あれ祓うなら、それ専門の人間連れてこなあかん」

「専門の……、ってどこにおるん?」

「ここにあったやろ。愛染寺や」

「あいぜん寺?」

「明治になる時まで、前の社務所のあたりにあったんや。廃仏毀釈はいぶつきしゃくん時に大社はんが追い出はさった寺や」

「……いや。聞いたことない」

「なっちょらんな、最近は。この間お守り売っとった巫女が、『奉ってるのはケツネさんですー』言うとったぞ。あれじゃ神さん怒るで」

「いや、すまんすまん。で、愛染寺のことを教えてくれんか?」

「愛染寺はお東はん(東寺)の末寺で、ダキニさんを奉っとったんや。頼まれて稲荷サゲもやったしケツネ落としもやっとった。それやる巫女が、八島が池の外にぎょーさんおったと、ワシのお師匠さんが言うとったわ」

「それで、愛染寺は今どこにあるん?」

「そこまで知らんわ、自分で調べてみい」

 翌日、参集殿に氏子の代表が何人か呼ばれ、内密にある依頼が行われた。その後、氏子達は御幸道日野屋の離れ座敷に場所を移して相談を始めた。

「あそこもスズメ焼き止めたね」

「捕らはる人減って、スズメ全然入らへんらしいで」

 お銚子とビール瓶がひと周りすると、困惑を含んだ沈黙がしばらく漂った。

「いや……。まさか稲荷さんからケツネ落とし探せ言われるとは思わんかったわ」

「ようしまへんなぁ。ここ何十年も聞いたこともあらへん」

「何や『あいぜん寺』? どこや、それ」

「待ってや。調べてみるわ」

「おお。アイホン使うてはるのかいな。すごいな」

 しばらく操作して、その氏子は言った。

「福島と、金沢にあるけど。ここ電話して『すんまへんケツネ落としやってますか?』言うたら、えっらい怒らはるやろなー」

「まともなお寺はんなら。そうやろなー」

 料理が運ばれて来て、しばらくその話は中断した。

「あ、そや。思い出した」

 箸を置いて、ふいに一人が声を上げた。

「うっとこの爺が、何や次男の嫁に悪いケツネ憑いた言うて。あちこちに頼んでみたけど全然ダメで、親父が一日電話かけて探さはってな。ようけ遠くから、二日かかって巫女さん来はったわ。あれ確か、新幹線通る前の年や」

「巫女かいな!」

「あれ確かに、愛染寺はんでっかー言うてはったわ。子供の頃やから、恐いもん見たさで巫女はん覗いたんやけど。落としする時は真っ黒い装束着て、刀使わはるんやな」

「あ? ほんまか?」

「ほんまや。恐ろしゅうて小便ちびりそうになったわ」

「親御はんまだ生きてはんのか?」

「両方ともピンピンして、迷惑しとるわ。ちょっと待ってや」

 電話して、ようやく思い出させた電話番号は高崎のものだった。まだ存在しているのかどうか、かなり不安を感じながらも番号を押してみた。NTTの機械応答が電話番号の変更を告げた。その番号にかけてみると、若い女性の明るい声が応えた。

「おたま稲荷の、愛染稲荷神社でございますー」

 一瞬、意表を突かれて声が出なくなってしまった。寺ではなく神社であった。

「もしもーし?」

「あ……、ずいぶん昔に……。確か、そちらさんで狐落としを頼んだ家の者やけど。おたくさん、今でも狐のお祓いやってはりますか?」

 何か、重々しい回答が来るのではないかと考えていたが。その女性は至って普通に、事務応対のように答えた。

「はい、承っております。ただしですねー。素行や言動がおかしいという程度の狐憑きはお受けできません」

「……どの程度のことなら、受けていただけますのやろか?」

「えーと、そうですね。人命にかかわるとかー、多くの人が迷惑するとか。個人レベルでは済まなくなっているものですね」

「まさにそのレベルですわ。放っておくとよーけ人に迷惑かかりますし、火事まで起こっとります」

「では、お引き受けはできると思います。関西のお方ですか?」

「京都なんですわ」

「えーと……。お電話で打ち合わせということでも、大丈夫でしょうか?」

「かなり厄介で、ちょい名前が出ては困らはるとこも噛んどります。できたら直接お話しできるとありがたいのですが」

「それでは……。ちょっとお待ちください」

 女性は誰かと相談しているらしかった。

「明日、こちらから伺いますけど。そちらからおいでになるのは大変だと思いますので」

「えろうすんまへんなぁ」




     三


 翌日。氏子が社長を務めている会社の受付にやってきた女性の声と、約束の時間ぴったりであったことで、それが電話に出た女性だとわかった。すぐに応接室ではなく会議室に案内してもらった。応接室では事務所の中に会話が丸聞こえになる。それと前後して他の氏子代表もやって来た。

 名刺交換をしていると学生の会社訪問でも受けているような気になった。女性はどう見てもそのあたりの年齢であり。長老格の氏子からすれば孫ぐらいの齢だろう。黒いスーツに、髪をひっ詰めにしているせいもある。少々短めの気がするタイトスカートと黒い柄ストッキング、それに飾りのあるハイヒールが就活中の学生ではないことを表しているように思えた。

何となく、プリンターで急いで作った雰囲気がある名刺には『猫供養おたま稲荷 愛染稲荷神社 山本由加里』と素っ気なく書かれている。肩書きは何もない。

「失礼ですが、山本さんが巫女さんでいらっしゃる?」

「いえ。私は事務方の者です。巫女には通常のご奉仕がありますので」

「何や、もっと恐い人来はるか思うてましたけど。こないな別嬪さん来るとは思わんかったわ」

 由加里は事務的ではなさそうな笑顔を浮かべた。遅れて来た氏子が部屋に入ってきて、全員が揃った。

「愛染……、稲荷神社ですか。寺と聞かされておりましたが」

「由来では、江戸時代の終わりに廃仏毀釈で伏見稲荷様から分離されて高崎に移りまして、新たに稲荷を勧請したことになっています。社殿の一部は、愛染寺のものが使用されているそうです」

「ほおー。わざわざ高崎まで引っ越さはったんですかー」

「こないな……。こんな、依頼は今でもけっこう来ますのやろか?」

 事務員がお茶を持ってきて下がると、長老格の氏子が言った。

「幸い……。と言った方が良いと思いますけど、半年に一回あるかどうかです。電話でも申し上げましたけど。私どもがお請けするお祓いは、非常に危険な場合に限られます」

「今まで、どないなものを……」

「申し訳ありませんが、それはお話しできません」

「まあ……。そうやろなぁ……」

「それでですな……」

 長老格の氏子がたばこに火を付けようとして、灰皿がないことに気がついて慌てて戻した。

「私らは、ある神社の氏子でしてな。どこの神社かは申し上げられません。話していればすぐ『ああ、あっこや』と解らはると思いますけど、それでも言えまへん」

「結構です」

「あれは……、去年の五山の送り火の日でしたが……」

「あ、済みません。メモは取ってもよろしいですか?」

「どうぞ」

 謎の連続不審火についての説明を聞くと、山本由加里は難しい顔をしてメモを睨んでいた。

「すると……。これは狐憑きではなく、悪い狐には実体が? ない? と言うことですか?」

「うっとこの神主は、そう言うてます」

 山本は両手を口の前で合わせて、しばらく考えていた。

「これは今までなかった依頼です」

 やがて顔を上げると言った。

「人に取り憑いているから祓えますが。実体がないのでは、祓って落とすことができません」

「そらわかります。そやけど、ある日突然出て来て悪さする言うのはおかしいとも言うてはりましてな。これは絶対誰か、人が絡んどるとも言うてますのや」

「……つまり。その人間を捜し出して祓ってほしいと、おっしゃるのですね」

 『無理だ』と由加里は思った。人捜しをやるような能力などはない。

「難しいことや言うのはわかってます。それでも、たぶん愛染寺はんとこやないとできへんと、うっとこの神主言うてはりますのや。どうか、お願いします」

 父親や祖父のような男性五人に頭を下げられて、山本由加里は困惑した。しかし自分一人で決定ができるわけでもなかった。

「お話しはすぐに社に伝えて、なるべくお役に立てるような手段を考えてみます」

「よろしくたのんます。それで……。このお代は、なんぼ要りますやろか?」

「狐落としそのものの費用はいただいておりません。でも、巫女がこちらに来て行うことになりますと、交通費や宿泊などの実費はご負担いただくことになります。狐落としが終わりましたら、お気持ちを寄付という形でお納めください」

 打ち合わせが終わると山本由加里は京都駅まで戻り、駅中のカフェに入って先ほどの経緯を説明する長いメールを打った。四条河原町あたりで何か買って帰ろうかと考えていると、キャラメルオレが残っているうちに返信が来た。

「……うそ」

 メールを読んで思わずつぶやいた。祓いを請けるというのだ。

「ちょっと待ってよ!」

 思わず大きな声が出て、山本は首をすくめた。明日巫女が京都に向かうので、駅で迎えるようにと書いてあった。すぐに愛染稲荷神社に電話を入れた。

「あの、山本ですぅー。大丈夫なんですか、これ?」

「頼んできたのは氏子だけど、伏見稲荷が起こりとしか考えられないだろ。断れやしないよ」

 愛染稲荷神社を仕切る、神主より恐い賄いの婆さんが答えた。

「それはわかりますけどー。私と美夜子だけですかー? で、私はこっちにいろと?」

「そっちにも、いろいろやってくれる人がいるから。待ってな」

「あのー。それからこれは出張扱いですよねー。私、家には留守にすること言ってないんですけどー」

「なに言ってんだい。どうせ普段からロクに帰ってないだろ。今日から一ヶ月パートじゃなくて臨時職員扱いにするからね。給料は先払いで今日中に口座に振り込んでおくよ。経費の仮払いも別口で入れておくから、使い込むんじゃないよ。キャッシュカード持って行ってるだろうね」

「あ、それはどうもー。ちゃんと持ってます」

 婆さんとの会話が終わると、由加里は携帯に電話をかけた。

「何か聞こえてたわよ。大変なことなの?」

 細い、少女のような声が聞こえた。

「正直言って途方に暮れてるとこ」

「私も京都に飛ばされるのね?」

「気楽に言ってる場合じゃないよー。超大変だよ」

「私は由加里さんと一緒ならどこでも平気ですよ」

「信頼してもらって嬉しいわ。あー、私の部屋にあるもの。テキトーに全部カバンに入れて持ってきてくれる? たいした量ないから」

「はい。あ、チヌさんが呼んでる。それじゃまた後で」

 通話が終わると、由加里はキャラメルオレの残りを飲み干し、髪を留めていたヘアゴムを外した。頭を振って髪を直し、指で梳いた。ふと、もう少し短めにしておこうかという気になった。これは何かの予感だろうか。

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