怒れる聖女
梢は怒り狂っていた。
ある夜いつもどおり就寝して目を覚ますと自宅ではありえない見知らぬ場所に横たわっていて見知らぬ外国人たちが騒いでいておかしな奇術をかけられてなぜか言葉が通じるようになったところで告げられたのは、梢は太陽の消失により滅亡の危機に瀕したキャルレ星を救うべく遣わされた伝説の聖女だかなんだかで、庇護権を勝ち取ったここライナ皇国の皇帝陛下と結婚して可及的速やかに世界を救えということだった。
意味わからん。
少なくとも現在地が地球でないことは飲み込まざるをえなかったのでこの悪夢から一刻も早く目覚めたいと願ったものの何度寝直しても何日経っても一向に生まれ育った我が家に戻れない。家に帰せとわめいたが周りはまったく聞く耳を持たずなんとかのひとつ覚えのごとく世界を救えと繰り返す。
ふざけるなと。
男ばかりの兄弟からかなり年を隔てて最後に生まれたひとり娘の梢は祖父母親兄弟すべてから甘やかされて育ったため我慢がきかない。人に命令されることを忌み嫌い、意に染まない行動を強いられようものなら命をかけてでも反抗し続けねば気が済まないわがままな頑固者だった。さらには家族に愛される以上に家族を愛しているため家族から引き離されている状態にも耐えられない。
あがめ奉れとまでは言わないまでもライナの誘拐犯らが梢の意思と権利を尊重しそれなりの礼を尽くすのであればまだ考える余地もあったろう。けれど所詮は無理矢理人を攫ってきて理不尽な要求を突き付けるような連中なので誠意などというものは望むべくもない。
梢のなぶり殺しにしたい愚者リストには日々罪状が追加されていく。
非科学的な召喚術とやらを指揮した愚者その一つまり誘拐実行犯は魔術師のゲなんちゃらと名乗った。フルネームを覚えていないわけではないが口にするのも腹立たしいので梢は内心でゲゲゲと呼んでいる。これは思い上がった変態だった。ごく一般的な日本人である梢の何がそれに当たるのか知らないが、キャルレにおいて権力と権威と武力のすべてになりうる魔力なるものを梢は信じがたいほど豊富に持ち合わせているという。ならば敬えと思ったがゲゲゲは図々しくも召喚主の当然の権利だとでも言わんばかりに梢の所有権を主張した。主人気取りで魔力を行使するよう命令してくる。爆死してほしい。
この国の宰相が愚者その二だ。これは狂信的な変態だった。気色悪いまでの忠誠と敬愛を皇帝に捧げその役に立つことだけを生きがいにしている。聞けば史実かどうかも定かでない埃を被った伝承に従って今回の聖女召喚を提案したのがこの男だという。つまり計画犯だ。それもこれも偉大なる皇帝陛下の御代に輝かしき功績を残していただくためであり、この崇高な役目を仰せつかった異世界人は身に余る栄誉に涙して身を粉にして尽力せよとのことだった。轢死してほしい。
梢の周りにはそのほかにも有象無象がいるがなべて大差ない愚者だった。見当違いの尊敬の眼差しや異物を監視する目ならまだしも多くは愚者その二と同様の妄信者だ。家庭では蝶よ花よと育てられたうえ四民平等の国から来た梢に、皇族や貴族への平伏を強要してくる。どいつもこいつも溺死してほしい。
リスト不動の一位は皇帝だった。妻になれなどと脅している立場であることもわきまえずさも被害者であるかのような不機嫌顔で梢を一瞥したのが初対面のときで、聖女など信じないやら調子に乗るなやら不審な振る舞いに及べば即座に殺すやらさんざっぱら罵られて以来ほとんど顔も合わせていない。それでいて梢の一挙手一投足を監視させているようだ。ありとあらゆる拷問ののち死ぬ一歩手前の苦痛を味わいながら一生狂うことも許されず這いつくばっていくべきだと思う。
そして梢の鬱憤の最大の原因は殺意を押し隠して屈辱に耐えつつ今もこの国で過ごしていることにある。
梢にとっての最善は平穏無事に家族の元へ帰ることであり、どうしても方法がないのであれば次善策として命を絶ち心だけでも帰還を果たすつもりだが、それは最後の手段というか要するに単なる死でしかないのでまだ諦められずにいた。そのためにはいかに忍耐の苦手な梢といえど考えなしに不興を買って斬り捨てられるわけにもいかない。
己の精神状態が危うい自覚はあった。こんな状況で正気でいられるはずがない。むしろ頭がおかしくなって妄想の世界に入り込んでしまった可能性も高い。なればせめて、冷静な狂気を貫こう。梢は生還と復讐を決意した。
梢はお世辞にも善人とはいえない。
係累もいないというか憎悪の対象しかいないこんな世界が滅亡しようが消滅しようがなんら痛痒を感じないと言いたいところだ。
それでも梢でなければできないことがあってそれをなさねば大勢の人間が命を失うのだとすれば、己の快い寝覚めのために助力してやらないでもない、と思っている。総じて善良でなくとも良心は心の片隅にたぶんある。結果的に大量虐殺の責めを負うべきは明らかにこの世界の不甲斐ない統治者らであって梢でないと信ずる一方、まったくの無関心を貫けるほど強靱な精神は持っていないのだった。
「書庫?」
「はい。現状打破のための手がかりが得られればと思いまして」
王城内の地下書庫へ立ち入る許可を求めた梢に愚者その二はしかつめらしく頷いた。
「よろしいでしょう。世界を救う手立てを持ち合わせていない時点でとんだ期待はずれでしたし、陛下もただ城に居座るだけのゴミをそろそろ目障りとお感じになっているようです。その足りなそうな脳でせいぜい死ぬほど努力しなさい。穀潰しを養う余裕はそうそうありませんから我々が優しくしてやっているうちにさっさと済ませてくださいよ」
そもそも右も左もわからない異邦者相手にすべてを丸投げにする神経が信じられない。梢は愚者その二を頭の中で千回ほど滅多斬りしながら微笑んだ。短気なのですでに血管が切れそうだった。
「誠心誠意務めます」
書庫にこもってまず取りかかったのは召喚術に関する技術の把握だ。ここに拉致された手順を理解することでその逆も実現できるのではないかと考えた。愚者その一には完全に思案の外であったようだが。片手間に太陽消失現象についても調べている梢は己の親切さに感動した。へそで茶が沸く。
「おい聖女、この石に魔力を宿らせておけ」
「かしこまりました」
そんな日々の中でも愚者その一が押しかけてきては梢から魔力を搾り取ろうとする。魔力を貯める石に見立てて毎回ゲゲゲをこそ圧死させたい衝動にかられた。
たまに愚者その三が現れる。
「よお聖女さん。元気か」
「おかげさまで大過なくやっております」
これは騎士団長らしい。友好的な仮面の下に狡猾な本性を隠していて、必要とあれば次の瞬間にでも梢の息の根を止める気でいる要注意人物だった。お互いさまながら信用など皆無に等しい。また強い野心を抱いており下克上の機会を虎視眈々と狙っているため梢の利用価値を探っているふしもある。こういう輩が梢は大嫌いだ。不本意ながら苦手といってよい。ふつう二十一世紀の女子高校生は荒事に縁がないものだ。
過去の聖女に関する文献も入念に探った。不都合な記録は梢の目に触れないよう隠蔽されていそうだったので魔力の自己研究を積み重ねながら他者の記憶を気づかれないよう読み取る術を身につけ、綱渡り同然の危険を冒しながらも禁書と呼ばれるたぐいの書物にも目を通した。
やがて聖女の小部屋と呼ばれる秘された独房を発見した。そこはかつての聖女たちが用済みになったのち閉じ込められやがて秘密裏に非業の死を遂げるに至った場所であるようだった。壁には梢の身近な言語から見たこともない外国語までさまざまな文字が残されている。中には血で書かれたものもあり梢の心胆を寒からしめた。日本語もあった。『身はたとひ異境の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂』とある。どこかで聞いたことがある気もする。おそらくは歴史上の人物の残した辞世の句あたりをもじったものかと思われた。この忌まわしい部屋の存在は梢の絶望をいっそう深めると同時に繰り返される蛮行への憎悪をいや滾らせた。いかにしても帰還を果たそうと梢は誓った。
ある夜、形だけは賓客の扱いで与えられた個室の寝台で梢は飛び起きた。寸前まで見ていた夢で感じていた恐怖と恐慌と怨嗟と屈辱と激昂が体中を暴れ回っていた。それは夢というより決して忘れることのできない記憶だった。この世界に引きずり込まれて日の浅い時分の事件だった。そして誰かを呪い殺したいと心から願った最初の体験だった。
数ヶ月が経った今なお思い出すたび怒りと羞恥で爆発しそうになる。こういう夜は決まって誰もいない庭園の片隅で朝までうずくまることにしていた。
家族の夢は見ない。夢で見るまでもなく常に思い焦がれているからだ。いつもは耐えている涙が堰をきって流れ出す。泣いてしまうと不幸を認めてしまうようで、大切な人たちに会えない事実に屈してしまうようで、嫌だった。しかし限界はしばしば訪れた。寂しくてしかたがなかった。
昼夜気を張っている梢が唯一自暴自棄なほど無防備になるのがこのときだった。危険は承知しながらも敵の巣窟たる城の中になどいられなかった。
「何をしている」
他者の存在に気づいたときにはすでに身動きが取れない状態で剣先を突き付けられていた。愚者その三だった。梢の涙など微塵も意に介さずただ許可なく城外へ抜け出した行為を追及する。
無防備であるということは普段押し隠している殺意や敵意や害意をさらけ出しているということでもある。梢は自制心を失っていた。豺狼と化した心のまま目前の闖入者へと飛びかかる。
この世界に来てからの梢は身体能力が飛躍的に向上していた。それこそ国内屈指の強者たる騎士団長さえ赤子の手をひねる感覚で屈服させることが可能だと知ったのはこのときだった。最高潮に達していた梢の憤りは取り返しのつかない破壊を求めた。夜陰に乗じてひとりくらい殺しても疑われない程度には非力な少女としての印象の植え付けに成功しているはずだった。
明確な殺意をもって騎士団長の首元に回した指に力を込める。すべての抵抗を封じられた男は燃えさかる焔を宿した梢の瞳に魅入られたように瞬きひとつしない。陶然とした表情に悪寒を感じた梢はそれをきっかけに戦意を失い、男を解放した。なにもかもが億劫に思えた。ここで殺されるならそれも運命だと受け入れる気になった。
すかさず騎士団長は反撃に出て梢を押し倒したかと思いきや、ただ顔を覗き込んでくる。わけのわからない見つめ合いが続いた。やがて梢を抱き起こした男にそのまま両手を捧げ持たれた。男の行動になどなんら関心がなくどうでもよかった梢はされるがままに任せた。
「名前を聞いてもいいだろうか」
殊勝な態度で尋ねられたが梢は無視した。
「ならばラウラディーテと俺だけの呼び名で呼ぼう。美しき戦女神の名だ」
丁重に梢の手の甲に左右それぞれ口づけを落とし、部屋まで抱きかかえたまま送り届けると騎士団長は去った。
梢はこの出来事を愚者その三の名前もろとも忘れることにした。
世界情勢の把握にも労力を割いた。怪しまれぬ程度に周囲に探りを入れ諸外国の実態を頭に入れる。そして梢はおそらく最悪の場所へ呼び出されたらしいと悟った。
一国による聖女の独占にはほぼすべての国が批判的であるようだった。伝説上の存在に対して懐疑的であったり部外者に全責任を押しつける横暴さを潔しとしなかったり事情は様々らしいが、どの国もライナ皇国の危険思想と暴走を警戒している。その情報は己の常識が通じそうな文化もあるようだと梢にわずかな安堵をもたらした。
そのころから亡命を目論み始めた。行き先の有力候補は海を隔てた隣国ノリム公国で、信仰と学問の聖地なのだという。段階を踏んで密かに交渉し亡命を打診したところ快諾が得られた。比較的とんとん拍子にことが進んだ背景には、かの国の高名な学者にして神官たる老婦人が危険を顧みず梢に接触を図ってきたことがあった。彼女は衷心から梢を心配してくれた。この世界に来て初めて人の真心に触れ、もはや騙されているのでも構わないと梢は彼女の厚意を受け入れた。亡命は彼女の提案だった。
決行の日、梢の行く手を阻んだのは愚者その一だった。いつからか梢に歪んだ執着と異常な征服欲を見せるようになったこの変態は梢の逃亡を知るや襲いかかってきた。己のものにならないのならいっそ死ねと罵声を浴びた。理解に苦しんだ。梢が手を下す前に愚者その一は頽れた。その三のしわざだった。とっさに応戦しようと身構えた梢に騎士団長は跪き同行を申し出た。梢は拒んだが結局は強引についてきた。真意がわからず不審がる梢に男はノリムに向かう船の上で愛を告げた。梢は答えた。
「虫酸が走る」
本音を言えば彼に向けた言葉ではなかった。どこか故郷の兄を思い出させる赤の他人に心を許しそうな自身に向けた戒めだった。執念深い梢は基本的に人間の改心というものを信じていない。
ノリムはライナに比べると天国だった。人間の尊厳といったものに対する考えようや理想のありかたが梢の母国と似通っている。梢を出迎えたノリムの人々はライナの非礼を詫び、梢の返還にできる限りの協力を惜しまないと約束した。何より異邦人の人権を人並みに保証したいという嘘偽りない思いと行動が梢の傷を急速に癒した。
ノリムでの生活が梢の心境にもたらした影響は計り知れないが、中でも周りを見る余裕が生まれたことが大きかった。親切にされれば親切を返したくなる。誰かを恨めば別の誰かに恨まれるという自明の理は、逆もまた真なのだと思い出した。気づけばキャルレでの生活は一年に及ぼうとしていた。
「あなたをお返しする目処が立ちました」
そう伝えられたとき梢は純粋に歓喜した。それでいてこの世界が直面している問題を解決する意思が揺るぎないものになった。
梢はノリムで多くを学んだ。知れば知るほど自分が『救世主』でなくてはならないことを痛切に実感させられた。けれどそれが苦痛ではなかった。いかなる天の配剤か、恨み辛みは払拭できないまでも来てしまった事実はかわらない以上、なすべきことをなすだけだと今では思える。存在理由や行動意義は梢が決めればいい。
世界は歪んでいる。それが天変地異の元凶だった。歪みの根本を見つけ出す目をこの世界にとっての異物たる梢だけが有している。つまりはそういうことだ。
驚くべきことに歪みの発生源はライナ王城だった。中心にいてはわからなかった。明らかに人為的なものだった。ちょうどよい口実が見つかったので復讐がてら殴り込みに向かおうかとも考えたが、せっかく得た心の平穏をまた荒廃させるのが確実だろう場所へわざわざ赴くのもばかばかしい。爆弾を送りつける程度のささやかな腹いせにとどめることにした。
「どうか命じてくれ、俺のラウラディーテ」
しかし騎士団長がそう言うので委ねることにした。各国の支援も充分なものだった。
こうして世界は滅亡の危機を回避した。
懐かしい太陽とはどことなく違う異界の太陽に見守られつつ梢が帰還するときが来た。
「お元気で」
「聖女さま、あなたさまの素晴らしきご恩義ご厚情を賜ったことを我々は未来永劫忘れません」
このとき、感動的な別れの場面に水を差す最悪の愚者が乱入してきた。
「よくやった。褒美としておまえを我が国の妃とする」
梢が広い心で水に流してやろうとしていたリストの筆頭皇帝だった。騎士団長が王城を全壊させる前に逃げ出したらしい。とるものもとりあえず自国を出奔してきた姿はもはや滑稽だった。しかし笑えない。未だ梢という生き餌を解放しようとしない例の悪夢は折に触れて梢を蝕み苦しめていた。とめどない殺意が全身から噴き出すのを自覚する。思い出すのは一年前のおぞましい出来事だった。
皇帝みずから聖女をないがしろにする国では当然ながら国民も梢を軽んじた。無視ならよかった。しかし賤民どもは下卑た興味を梢にぶつけようとしたのだった。
梢は恐怖に捕らわれていた。大の大人に数人がかりでのし掛かられて敵うわけがないという元の世界での先入観に縛られていた。そこにたまたま皇帝は居合わせた。
「あのとき、あんたは襲われているわたしを見た」
皇帝は少しの心の動きも見せずすぐに目を逸らしてその場を去った。あとのことは思い出したくない。ただふと我に返るとその場で生きているのは梢ひとりだった。もの言わぬ肉塊と化した醜悪な物体に囲まれていた。梢が己の力の一端を思い知った瞬間だった。
「わたしはあんたにとって道端の石だった」
思いつく限りでもっとも惨たらしい殺害方法を検討する梢は、しかし何をするより早く標的が血を流しておもむろに絶命していくのを仰天して眺めた。
「俗物のためにあんたが手を汚す必要はない、俺の女神よ」
長剣を濡らす血を振り落としながら、目を疑うほど清々しげに騎士団長が笑った。
「上司を手に掛けちまったとなると俺もさすがに居場所がない。一緒に連れて行ってくれないか」
彼に対する疑念はノリムでの日々の中ですでに霧散していた。毎日献身的な愛情を言葉と行動で示し続ける相手に悪意を抱き続けることは難しい。
呆気にとられながらも梢の腕は動いていた。
「なんの保証もできない。それでもいいというのなら」
「ラウラディーテ、俺はあんたの傍にいられさえすればいいんだ」
差し出した手はいささかの逡巡もなく取られた。まっとうに考えると愛だのなんだのという下らないものに殉じて職務を放り出すわ母国の皇帝を殺害するわで控えめに表現しても最悪極まりない危険人物なのだがなぜか受け入れてしまった。この先なにが起ころうとこの男が何をしでかそうとそれは梢自身の責任でありほかの誰かを恨むことはできない。
「梢、と」
この世界で初めて梢は名乗った。騎士団長グリファスは破顔した。
キャルレ星はかつて未曾有の存亡の危機に瀕したことがある。
当時の記録によれば、滅亡寸前のまさにそのとき異界より現れたる伝説の聖女が巨悪をくじき恒久の平和をもたらしたという。救世の乙女のその後の行方は杳として知れない。
すべては遙か遠き時代の物語だ。